024 昔には戻れない
※今回は性的に際どい表現があります。苦手な方はご注意下さい。
逃げる。逃げる。逃げる――。
魔物に蹂躙された里を抜け出して、バーチェはチャーガを連れて走っていた。
父も母も置いて、敵に捕えられるだろう仲間を見捨てて、彼と二人で森へと逃げ込む。
「バー、チェ……待って……!」
苦しそうに息を荒げるチャーガの声が聞こえる。
ただでさえバーチェの足は彼よりも速い。
それとずっと並走しているのだ。疲れもするし、辛いだろう。
だが、止まる訳にはいかなかった。白樺の森のエルフたち、ウィッテ族の里は、あの恐ろしいダークエルフ率いる魔物たちに制圧されているのだ。追っ手もきっと放たれているだろう。立ち止まったら、捕まる。その強迫観念が、バーチェの足を動かしていた。
「駄目だ、チャーガ! 走れ!」
額を流れる汗とともに、頬を涙が伝う。
バーチェは泣きながら走っていた。
――どうしてこうなった?
自分がただ一度、狩りで深追いをして結界を出てしまった。それだけで里は滅びに瀕している。
禁を犯した自分が悪いのは、もう十分に解っている。だが、それにしてはあんまりな仕打ちだった。仲間の多くは殺され、生き残りも邪悪な何者かの虜へと落ちる。そこまでされる謂われは無い。森の精霊と自然の摂理は、どうして己一人に罰を下すに留めなかったのか。
世の不条理を、世界の残酷さを、彼女は心中ありったけの言葉で呪っていた。
「バーチェ、もう……無理だ……!」
「な、泣きごとを言うなァ! お願いだからっ、走って! 逃げてっ!」
そう言いながらも、泣いているのはバーチェの方だった。
弓を片手に彼の手を引いて、森を駆ける。どうしてだろう。かつて何度も繰り返した事が、今はこんなにも辛い。
――彼がこうして逃げているのが自分の所為だから?
――その為に両親も仲間も見捨てて来たから?
考えるだけで、足だけでなく心臓まで止まりそうになる。
それでも、繋いだ手から伝わる体温が、手を握り返してくる力の強さが、辛うじて足を進める気力を維持してくれていた。
「ごめん、バーチェ……っ!」
彼の切羽詰まった声に、胸が潰れそうになる。
だが、バーチェは必死で彼を連れて逃げた。
逃げようとして――
「もう、我慢できない……っ!」
「……えっ?」
ぐいっと、手を思いきり後ろへと引っ張られる。
バーチェの身体は急激に逆方向への力を加えられ、踏み出そうとしていた足が空を切って、無様に転んだ。
雨に泥濘んだ地面が、白い肌を忽ち穢す。
「い、いきなり何をするんだ!?」
身体を起こそうとしながら抗議の声を上げる。
今の引っ張り方は、決してつんのめっただとか、足を止めたからというものではない。明確にバーチェを転ばせてやろうという意図が感じられた。
何故?
どうしてそんなことを?
惑乱するバーチェの肩を、チャーガの両手が押さえ付ける。
「ちゃ、チャーガ……!?」
「ハァー……っ! ハァー……っ!」
荒く熱い吐息を漏らしながら、チャーガは彼女に圧し掛かる。
違う、とバーチェは思った。
チャーガのこの乱れた呼吸は、走り通しの疲労の所為ではない、と悟った。
彼女を見下ろす彼の目に、理性の色は無い。獰猛な肉食の獣めいた、飢えと渇きの貪婪な光があった。
「バー、チェ……!」
「ひっ!?」
訳も分からず竦み上がる彼女に、彼は覆い被さった。
唇に唇が押し付けられる。
口付けと呼ぶには無遠慮で、乱暴過ぎて、まるで貪るような行為だった。
獣の行いである。
「……っ! ~~~~っっ!!」
胸を叩いて押し退けようとしても、細身とはいえ男の体重を跳ね返すことは出来なかった。
手際良く顎を掴まれ、噛みつくことさえ封じられる。
そうこうする内に舌が差しこまれ、口内を舐られた。
ある時は唾液が注ぎ込まれ、またある時は逆に啜り取られる。
そして、どれほど経ったのか。
酸欠でバーチェの意識が遠のきかけた頃、ようやく唇が開放された。
「チャーガ……何を……こんなときに、なんで……?」
泣き濡れた問いかけへの答えは、獣じみた息遣いと衣ずれの音だった。
……バーチェは知らない。
今、自分たちの身に起こっている事態は、全てある魔法が原因であると言うことを。
里から逃げ出す直前、ドライが足止めを目論んでバーチェに掛けた魔法。
その名も≪エンチャント・テンプテーション≫。対象に異性を魅了し、煽り立てる力を付与する術だ。
この術が齎す魅了は、魔性の域にある。並の男であれば、あっという間に理性を蒸散させて、被術者を膝下へと組み敷きに掛かるところだ。それを思えば、森の中に逃げ込むまで耐えたチャーガは良く持った方だった。
だが、そんなことはバーチェに知る由も無い。
今はただ、初めての唇を奪われたことが悲しくて、それ以上に大切な物も奪われようとしているのが怖かった。
「バーチェ……バーチェっ!!」
雄叫びを上げて圧し掛かってくるチャーガ。
二人分の体重に、背中で何かが軋む音が聞こえた。
弓だ。
転んだ拍子に取り落とした弓が、彼女の背中の下敷きになっている。
狩人の誇りの証が、耐え切れない荷重にみしみしと悲鳴を上げていた。
「やめろ、チャーガ! お願い、やめてっ! ……いやあああぁぁぁっっっ!!」
月夜の森に、少女の悲鳴が響く。
同時に、ポキリ、と何かが折れてしまった音が聞こえた。
※ ※ ※
ポタリ、と顔に落ちる雫の冷たさに、里の長は目を覚ました。
顔の上には、張り出した白樺の木の枝。そこから雨水の名残が滴っている。
「ぐ、ぬ……っ!」
身を起こそうとすると、口から血泡が弾けた。
内臓の何処かをやられたらしい。
あの瞬間、フェムが拳で防壁を破るのに合わせて魔法を叩き込んだが、残念なことにこちらも無傷とはいかなかったようだ。
「ごふっ、かふっ……! つ、つくづく、化け物め……!」
差し当たってのダメージを魔法で治癒し、長は辛うじて身を起こす。傷を癒したとて、体力、魔力ともに消耗は大きい。最早里に駆け付けたとしても、どれほどの働きが出来るものか怪しかった。
だが、これで勝った。長が勝った筈だった。放った魔法は雷撃系統の最上位≪ケラヴノス≫。自陣営の拠点である里の中で使うには、余りの威力に差し障りがある程の一撃だ。例え魔法に対して桁外れの耐久力を見せていたフェムであろうと、あれを受けて生きてはいるまい。
魔法を炸裂させた爆心地を見やる。
……呆れたことに、あれだけの大魔法を受けてもなお、フェムは人がましい形を保っていた。だが、流石にもう動いてはいない。顔面の半分が消し飛び、攻撃を繰り出した右腕を喪失。脇腹にも大穴が空いている。死んでいる、はずだ。
なのに――
「……シすテム・リcoverりぃ」
罅割れ、歪んだ声を発しながら、その女はまた動き出した。
「馬、鹿な……!?」
驚愕する長に向けて、フェムはその半分になった顔面を晒す。
その奥、欠け落ちた右半分の空洞の奥。そこから得体の知れない輝きが漏れていた。
あれは、何だ?
凝視する内に、それは脳のようなものだと分かる。だが、それは生物の脳味噌にしては不気味な光沢を放っており、時折鼓動を打つように光の線を走らせる。
まるで金属だ。……金属?
「貴様、もしや……ゴーレムか!?」
長は戦慄して呻いた。
ゴーレム。生き物を象った無機物に術式を走らせ、それでもって駆動する使い魔の一種だ。この女も、それが正体であろう。ただし、恐ろしく高性能で、驚愕すべき精度で人体を模倣している、と但し書きが着くが。
フェムは応えずにぶつぶつと独り言を呟いている。
「機のう、ちぇっck。ライト・arむ、右腹bu、破soん。ガガ……発セイ機koうに異常。――修復。主要機構、演算装置『オレイカルコス・ブレイン』、主動力源『ヴリル・ジェネレーター』ともに問題無シ。戦闘続行、は、可能デス」
そうして、長を見る左目が光った。
「お待たせいたしました、と、謝罪しマス。なお、貴方の脅威度、は、上方修正されまシタ。捕獲を断念、し、確実に殲滅しマス」
言いながら、金属仕掛けの怪物はこちらに迫る。
長の身体は動かない。疲労と失意と絶望とが、全身から力を奪い去っていた。元より魔力も体力も底を尽いている。最早、対抗する手段は残されていなかった。
「貴様ら……何者だ」
「応答の必要を感じまセン。元より我々の正体は、厳重、に、守秘されていマス」
フェムは残された左拳を引く。それは冒涜的にもエルフの戦士が弓を引き絞る構えと似ていた。
「何故……我が里を襲う……」
「先程も回答しまシタ、と、確認しマス。ミッションターゲットは、領域内、の、エルフの身柄デス」
「我らの民を……どうするつもりだ……?」
「ご安心を、と、提言しマス」
半分だけになった顔で、フェムは初めて表情を変えた。
唇の端を軽く持ち上げるそれは、笑顔である。
「――エルフが有為な存在であれば、ご主人様、の、元で、永遠の繁栄に浴することでショウ」
そして、最後の一撃が繰り出される。
「――――っ」
断末魔は、無音であった。
音すら置き去りに繰り出された豪拳は、慈悲深く痛みを与えずに命を刈り取り、同時に無慈悲にその残骸を夜にぶち撒けた。
※ ※ ※
時間は少し遡る。
「ごぼっ! げほっ! ぐぺぇ! ……うぇー、気持ち悪い。せっかくのおめかしが台無しだよ。だからそれだけは止めろ、って言ったじゃないか。まったく……」
そう言いながら濡れそぼったクロークを摘まむのは、吸血鬼の男だ。
弱点であるはずの流水に呑まれ、濁流の中に消えたはずの、である。
だが、それは未だにばば様の眼前にいた。
泥だらけの無体な姿であったが、傷一つ負ってはいない。
「馬鹿な……吸血鬼は、流水に弱いはず――」
驚愕に声を上げるばば様を、吸血鬼は嗤う。
「並の吸血鬼なら、そうだったかもねェ? ところがどっこい! 僕は出来が違うんでしたア~ァ!! この程度の流水で、死んだりなんかしないんだよお~ォんっ! あ、そういえばアンデッドだから元から死んでるっけ? まあ、兎に角、残念無念また来世っ! あははははっ! ひはっ! ひゃはははははっ!!」
笑って嗤って哂って、手を叩きながら笑い飛ばして、
「……ふぅ」
急に醒めたように真顔になる。
その目にあったのは、落胆と蔑みだ。
魔力を使い切り、普段の姿を維持できなくなったばば様へと、足元の小虫を見るような視線をくれている。
「で、何それ? それが二千年以上若さを保つ術の正体? ……期待して損したなァ。どんな秘密があるかと思ったら、ただの若作りじゃん」
「ぐ……っ」
遠慮も容赦も無い罵倒に、ばば様は恥辱の声を漏らした。
その声は、先程までの艶を欠いてしゃがれている。
手足も痩せ衰え、顔はこけて深い皺が幾重にも刻まれていた。
老女、である。たとえ千年の青春を生きる長命種エルフであっても、老いからは逃げられぬという残酷な摂理、その証左がそこにはある。
今までの若い姿は、魔法で無理に保っていた偽りの物だったのだ。
「いわゆる女の意地ってヤツ? 『あたしィ、いくつになっても若く見られたいの~☆』って? それともあの長さんに、女として見られたていたかったのかなァ? はははっ、笑っちゃうね! ……くっそが、無駄に期待させやがって。あーあ、これならさっさと殺しゃ良かったね。もう血を吸う気も起きないや」
「……黙れェ!!」
容赦の無い嘲弄に怒鳴り返しながら、ばば様は自分が相手に抗しえないことを理解していた。エルフが得手とするのは、精霊の力を借りた属性魔法だ。ヒトの聖職者が使うような神聖魔法には疎い。エルフの賢者といえど手が届かず、仮に使えたとして、果たしてこの吸血鬼に有効打たり得るだろうか。
そして何より、もうこのヴァンパイアの目に遊びの色は無い。その気は完全に無くし、後は作業として目の前の標的を屠殺するだけという顔だ。
相手が遊んでいたからこそ、今まで持っていたのだ。
「黙るのは――」
吸血鬼は無造作に近寄り、
「――アンタだよ」
ゴミを蹴り飛ばすように、老女の細い首を吹き飛ばしていた。
ドサリ、と持ち主を無くした身体が倒れ込む。
それを見下ろしながら吸血鬼は深々と溜め息を吐いた。
「折角、久しぶりのお出かけなのに、オチがこれェ? 締まらないったらないよ、まったく。あー、やだやだ。さっさと帰って、うっすい培養物の血でも飲も。……先輩、エルフの処女の血、少しでいいから分けてくれないかなァ……。くれないんだろうなァ、きっと……。とほほ、僕ってばなんて不幸なんだ……」
ブツブツと呟きながら吸血鬼――またの名をオーパス04、シャール・フランツ・シュミットは、満月の夜に姿を消す。後に残るのは、老女の首無し死体と、繰り広げられた魔法戦の惨禍の痕だけであった。
※ ※ ※
身体をバラバラに引き裂かれそうな痛みの中で、バーチェは泣いていた。
恐ろしい現実を見ないようにと堅く閉じられた瞼の中で、視界は真っ暗だった。
萎れて力を失いきった耳には、チャーガの切ない喘ぎだけが絶えず聞こえてくる。
(痛いよ……痛いよチャーガ……何でこんなことをするの?)
「バーチェ! ああ、バーチェ! 君が、君がいけないんだ……!」
(いけないの? 私がいけないからなの?)
「君がっ、こんなだから、僕は……!」
(こんなだから……チャーガは怒ってて、苦しいの? 痛いことをするの?)
「……君が傍にいてくれれば、僕は他に何もいらないのに……っ!」
(そばにいるだけでいいの? そうすれば、ゆるしてくれるの?)
「バーチェ……ああ、可愛いよバーチェ! すごく女の子らしいよ!」
(うん、かわいくするよ。おんなのこらしくもする。……もう、かりなんかしないから)
「ほらっ! もっと力を抜いてっ! 僕を受け入れてよ!」
(こう? ……あ、すこしだけ、いたくなくなったよ? チャーガはかしこいね。さいしょっから、こうやってうけいれてればよかったんだね。わたし、ばかだからしらなかったよ)
「バーチェ! ああ、ずっと……ずっと昔から好きだったよ! 大好きだっ!」
(うん、うん、うんっ。バーチェもチャーガのこと、だいすきだよ……?)
折れて、壊れた心。
大事な物が幾つも抜け落ちた精神。
そこに彼の言葉を、新たな部品として受け容れる。
そうしてバーチェは少しずつ、新しい自分を組み立てていった。
※ ※ ※
「やれやれ。随分と遠くまで逃げてくれたものだ」
背後から掛かる声に、チャーガはビクリと動きを止めた。
声の主は、ドライとかいうダークエルフの女だ。今夜、自分たちの里を襲った連中の黒幕。魔眼を持った、恐ろしい魔導師。それがすぐ背後に迫って来たことに、チャーガは正気付く。
そして、目の前に現実が飛び込んできた。
「……………………………え?」
ぐったりとして、力無く泥濘の中に身を横たえたバーチェ。
驚いて身を起こそうとすると、白く細長い両足が地に落ち、泥を撥ねた。彼女の足だ。自分が今まで持ち上げていたのだ。
――何の為に?
気力が萎え、緊迫に縮こまると同時に、温かい何かが腰から離れた。
バーチェの瞳は、虚ろに自分を見返している。
――僕は何をしていた?
「一見するとウラナリだが、思ったよりもがっつくではないか。ん? それとも、思いの丈というものの為せる業かな?」
背後の女は、クスクスと無様な格好を晒す彼を笑った。
チャーガに、それに言い返す気力は無い。
今更、何を言い繕う? と。
目の前に投げ出された肢体が、彼をそう責めている。
「ともあれ、お前たちで最後だ。さあ、来い。それとも、腰が砕けて立てぬか?」
「何、で」
それでも、震えた声が勝手に喉から絞り出される。
「ん?」
「何で、こんなことを……」
声を掛けられるまで、正気を無くして彼女を貪っていたことに気づく。
そして、それを仕向けたのがドライであるということにも。
信じられなかった。平然と、同じ女性であるバーチェを、こんな目に遭わせられる感性が、理解できない。
だから、何故と問うた。
ドライは毛程も心を揺らさない声で答えた。
「何でって……効率的な足止めだろう? 何分、相手を拘束するような術は不得手でな。かといって、逃げる背中に攻撃魔法など叩き込んでは、折角の捕獲対象が死にかねん。それで娘には男を魅了する術を掛けた。効果の程はご覧の通りだ。お前も娘も傷一つないまま、私の掌中にある」
「そういう、問題じゃない……」
「どうした、何が気に食わん? ……ああ、娘の方は多少の血が出たか? それでは傷一つなく、と言う訳にはいかなったかな……。だが、まあ、誤差の範囲内だろうよ。それに好いた殿御が相手というなら、彼女の本望でもあろう?」
カッと、頭の奥が熱くなる。
この女だけは許せない。里を襲い、何人も同胞を殺し、生き残りは拐す。あまつさえ、自分にこの手でバーチェを穢させた。大事な、何より大事な女性をだ。
赤熱する怒りが、チャーガを動かした。
「……≪サモン・ファミリア≫っ!!」
振り向きざまに全魔力を動員して、無詠唱で術を行使する。逃げ出す際に置き去りにされた狼が、時空を超えてチャーガの傍まで飛んでくる。
憎悪の感情が一時的に彼に力を貸し、高等魔法の即時行使を可能とさせたのだ。
ドライは、愉快そうに口の端を吊り上げる。
「ほう、使い魔召喚の即時行使か。嬉しい誤算だよ。お前、思っていたより上等な素体となりそうだ」
「黙れっ! 我がしもべよ、その女を――」
殺せ、と命じるその直前、
「では、私も――≪サモン・ファミリア≫」
ズズン。
地響きを立てながら現れた巨体が、チャーガの使い魔を踏み潰していた。
「あ……」
声も出せない。
圧倒的過ぎる。
猛り狂わんばかりに燃え盛っていた戦意が、氷水を浴びせ掛けられたように消沈した。
『グ、グ、グ……』
呼び出されたのは、単眼の巨人。
里を襲って仲間らを絶望の淵に叩き込んだ、あのサイクロプスだ。
それの立てる笑い声に、チャーガは凍りついた。
「こらこら。それはお前の餌じゃない。……ったく、知性が低いからこそ簡単に使い魔に出来るとはいえ、こうも低脳だと嫌気が差すよ」
「ひ……」
「ん? もう諦めたのか? 存外、粘りの足りないことだ。まあ、理解が早いのは無駄が省けて良いがな」
せせら笑う女の声に、最早抗うことは出来なかった。
自分一人では勝ち目が見えなかった。仲間は死ぬか生け捕りになった。長やばば様は来なかった。バーチェは……他ならぬ自分が目茶目茶にしてしまった。
森の地面に膝を衝く。泥の撥ねるその音に、バーチェが微かに身じろぎした。
「チャーガ……?」
「ひぐっ……うぐっ……」
真っ先に自分を呼ぶその声に、堪らず嗚咽が漏れた。
いつも臆病な自分の手を引いてくれていたバーチェ。その彼女に、自分はとても酷いことをしてしまった。自分にそうさせた相手を、憎まなきゃいけないのに、命を捨ててでも戦わなきゃいけないのに。臆病な自分は、それさえ出来ずに震えている。
それが申し訳無くて、悲しかった。
「チャーガ? ないてるの? かなしいの?」
「ごめんっ、バーチェ……! 僕は、ぼくは……!」
バーチェはへたり込んだチャーガの傍までのろのろと這うと、優しくその身体を抱きしめた。
そしてドライに向かって言う。
「おねがい、します……チャーガには、ひどいこと、しないで……」
「ふぅん?」
ドライは珍しい物を見たように眉を軽く上げた。
「それは我が主の御意向次第だが……まあ、掛け合うくらいは試みてみよう。何せ、お前は今回の功労者だ。それくらいはしてやってもいい」
「ほんとうに……?」
「勿論だとも。私は嘘は言わない主義だ。相手が勝手に騙されるのを、訂正したりはしないがな――さて」
言い終えたドライは、再び眼帯に手を掛けた。
紫色の瞳が、バーチェとチャーガから意思を奪う。
「しばし眠るがいい。目を覚ましたら、その時はお前らも私たちの仲間だ。歓迎するぞ? 白い同胞らよ」
心が溶けていく。
甘い酒が齎す酩酊めいた感覚。
それに身を任せるように、チャーガは意識を手放した。
※ ※ ※
「あーあ、それにしても自信が無くなっちゃうなー。まさかフェムがここまで壊されて帰ってくるなんて」
アトリエで破損したフェムを修理しながら、僕は盛大にぼやいた。
外見上の損傷だけでも右腕に顔面に脇腹。電撃魔法でやられたと思しき内装系統の被害も深刻だ。中枢である演算装置とジェネレーターが無事だったのは、ほとんど奇跡だったと言っても良い。
自信を持って送り出した最新作が、まさかこんなにズタボロになって帰ってくるとは。僕も少しばかり過信が過ぎたのか、それとも件のエルフの長とやらは、それほどまでに強敵だったのか。
「逆にお考えください、ご主人様。一切の戦力喪失無しで、ご自身の過信に気付かれたのです。これは寧ろ僥倖でしょう」
ユニの慰めの言葉が辛い。
相手が魔法と弓矢主体のエルフと侮った結果がこれである。魔法耐性に定評のあるオリハルコン製のボディをここまで破壊できるとは、一体どんな大魔法を用いたことやら。たかが辺境の隠れ里にも、そんなことの出来る戦力が埋もれているのである。世界は広いと、改めて認識した。
「ピガガ……申し訳ありまセン、ご主人様。ワタシの不始末、で、ご主人様のお顔に、泥を塗ってしまいまシタ」
「いやいや、君は悪くないさ。どちらかというと、これは戦力評価試験をいきなり実戦でやった僕の責任かな。うっかりしてたよ、ホント」
そう言って頭を掻く。
せめて素の防御力を過信せず、フェムにも簡単な礼装を持たせておけば良かった。他にも量産型ゴーレムを護衛に随伴させるなど、損壊のリスクを避ける策はあったはず。
考えれば考えるほど、後から後から反省点ばかりが際立ってくる。
その辺りは是非とも今後に活かそう。リスクを抱えて博打を打ち続けるなど、僕のキャラじゃあない。
「にしても……本当にゴーレムだったんだな、これ。こうして身体の中を晒してなきゃ、マジで生身の人間と区別がつかないぜ」
と、口を挟むドゥーエ。
このアトリエには、オーパスシリーズを全員呼んでいる。時間の無駄を省く為に、フェムの修理がてら反省のミーティングも行おうという寸法だ。最近はただでさえ複数のプロジェクトを抱えていて忙しい。一度に済ませられることは、どんどんそうするべきだろう。
僕は組み上がったばかりの新しい右腕を本体に接続しながら答える。
「それもこの子のコンセプトの一つだからね。『人間的な機能を、人間を超えた能力でもって発揮するゴーレム』。その為に『オレイカルコス・ブレイン』なんて手の込んだものまで積んである」
「オリハルコン製の脳味噌ねェ……よくもまあ、そんな物を作ろうと思うよねオーブニルくんも」
そう言うのはシャールだ。彼からすれば、武器やゴーレムのボディならともかく、人間の頭脳の精巧なレプリカなど、オリハルコンで作る物とは思えないのだろう。
「僕からしたら、オリハルコンより人工頭脳に適した素材なんて、そうそう無いんだけどね。光に対して様々な作用を持つオリハルコンは、光信号を用いた小型演算装置の作成に極めて――」
「ご主人様。話がずれています」
「ああ、ごめんユニ。本題は今回のエルフ捕獲作戦のアフターブリーフィングだったね」
謝りながらも、新たに作成した頭部マスクをフェムに被せる。
「で、だ。結果だけ見れば、今回の件は大幅にプラスだ。脳改造を施されたエルフたちは、この山の表層部、そのダンジョン化に大きく貢献するだろう。なんたって彼らは森の専門家だ。その内、外の山は肥沃な森林に覆い尽くされる」
「建造中の採光施設への侵入を阻む、森林型ダンジョンですな。そこにモンスターどもを放てば、正に難攻不落でしょう」
今回最大の功労者であるドライが胸を張る。彼女のお陰で、本当に助かった。山の表層部を森林型ダンジョンとして改造する計画は、ドライがエルフを大量に捕まえて来てくれたため、大幅に進捗している。予定よりも、二、三倍は早い完成が見込めた。
それに完成した後の森のメンテナンスにも、頭を悩ませなくて済むのが良い。いちいち僕らが出張らなくても、現地に住まわせた彼らが勝手に木々を整えてくれる。それにエルフが里に張る結界は生半な冒険者には突破も感知も出来ないから、彼らが減らされるリスクも最小限だ。いざという時は、森林ゲリラとして運用出来る点も魅力的である。強力な外敵が現れた際には、エルフたちも住まいとする森を守る為、きっと身を粉にして戦ってくれるだろう。
「本当に素晴らしい成果だよ、ドライ。あれだけの数のエルフを揃えようとしたら、マルランの金蔵を空にしても足りやしない。それを実質ノーコストで手に入れたんだからね」
「はっ。お褒めに与り大変光栄であります、ご主人様」
僕の言葉に、きびきびとした返事で礼を述べるドライ。それに対して、何処か複雑そうな顔をするのはドゥーエだった。
「……それで良いのか、お前?」
「何がだ?」
きっと、彼女がエルフの里を襲った事でも気にしているのだろう。聞いた話じゃ、ドライのかつて暮らしていた里は、人間に襲われて滅んだらしい。それが打って変って、今度は彼女が実行犯な訳である。
だがまあ、それも今となっては昔の話だ。僕が昔の話にしたことだ。
「良いに決まっているだろう? 私のしたことでご主人様の目的に些少なりとも貢献でき、お褒めの言葉まで頂いたのだ。何を気に病むことがある?」
「……そうだよな。気に病む方がどうかしているんだよな、ここじゃ」
「そうそう! ドゥーエ先輩ってば、おっかしーっ!」
と、調子づいて口を挟むのはシャールである。
「そうだ! どうせならさ、次回があったらダークエルフの里でも探してみない? ダークエルフなら地下にも住めるからねェ。ここで暮らす僕としちゃ、そっちを生け捕りに出来た方が嬉し――」
「こ、こら馬鹿!?」
へらへらと言うシャールの口を、ドゥーエが慌てて押さえる。
ドライを慮っての発言だろうが、彼女は、
「ほう? 頭の軽いお前にしては名案だな」
ドライは然したる感慨も見せずにそう言った。
当然のことだ。彼女のかつての氏族へ向けていた感情、ダークエルフと言う種族への同属意識は、全て僕とその配下に向けるように調整されている。
今更、彼女がかつての同胞など気に掛けることは無い。多少の親近感くらいはあるかもしれないが。
「でしょうでしょう!? で、その中に可愛い子がいたらさァ、僕にも一人回して欲しいなー!」
「結局、それか。貴様もブレんな。……長命種は貴重なんだ、お前の玩具に回す余裕などあるか」
「そもそも、まだダークエルフの里すら発見していまセン、と注意しマス。またご主人様のご用命無しに、勝手に探索してはいけまセン」
修理の済んだフェムも会話に加わる。
「私としては、次に大量に手に入るのであればドワーフが良いですね。彼らの生産能力は大変に魅力的です」
「うわっ、ユニ先輩趣味悪っ!? ドワーフなんて、男は毛むくじゃらだし女はチンチクリンで、ちっともそそらないじゃん!」
「うーむ、確かにご主人様のお役に立ちそうな連中ではあるが……私もあの泥臭い雰囲気は好きではないな」
我が『作品』たちながら、賑やかなことだ。その中で、ドゥーエ一人がポツンと所在なさげにしていた。
ユニやフェムのように最初から僕以外を切り捨てている訳でもなく、ドライやシャールのように僕に従うように認識を摩り替えられている訳でもない。そんな彼には、彼なりの懊悩があるのだろう。
まあ、僕としてはドゥーエが役に立ってくれるのなら何も言わない。
「? どうしたのだ、ドゥーエ。何を居心地悪そうにしている?」
「……何でもねェよ」
「そう言うなよ、我々は仲間だろう? そんな顔をされていては、私としても――」
「だから何でもねェって!」
ドライの気に掛ける言葉を振り切って、彼はアトリエのドアに向かう。
「話は大体済んだろ? 俺は出る。……外で剣でも振ってくらァ」
「はいはい。どうぞどうぞ」
まあ、話が済んだのは確かであるし、僕に止める理由は無い。
理由がありそうなドライも、困ったような顔をして声を掛けるのを躊躇っていた。
そうこうする内に、ドゥーエは乱暴に扉を蹴立てて出て行ってしまう。
「……ドアはもっと丁寧に開け閉めしてくれませんと」
「そうだね。ドゥーエも大概馬鹿力だし、もし壊されたら困るね」
多分、魔法の使えないフェム以外はすぐ直せるだろうけど。
そんな会話を交わす僕らを後目にドライはドゥーエの出て行った方をじっと見ていた。
「……何故だ。何故アイツはあんなに機嫌を損ねる? 私はちゃんと手柄を立てたんだぞ? 少しくらいは褒めてくれても……」
「オーパス03に、質疑を要請しマス。ご主人様のお言葉だけでは、不足デスカ?」
「そういう問題ではない。……そうではなくてだな」
「あー、フェムちゃんフェムちゃん。下手すると藪蛇になるから。あんまりそこは突っつかない方向で。オーケー?」
早速後輩である『作品』に先輩風を吹かすシャール。いつもこれくらい冷静なら、僕としても助かるのだが。
と、そう言えばちょっとした用事を忘れていたことに気づく。
「話は変わるけどさ、ドライ。君が前に頼んでたことだけどさ」
ドライがエルフたちを捕らえて来た時に、僕にした頼みごと。確か、彼女がエルフの里を見つける切っ掛けになった子のことだったはずだ。
「ああ、バーチェのことですか。どうなりました?」
「うーん、そのことなんだけど――」
※ ※ ※
時系列上は、しばらく後の話になる。
チャーガは森の中で帰り道を急いでいた。
自分も他の生き残りも、このマルランという土地での新しい暮らしにも大分慣れてきている。
森の木々を手入れし、増え過ぎた獣を狩り、結界に護られた里で日々を過ごす、表面上は以前と変わらない毎日。
だが、決定的に違うことは幾つかある。
まずウィッテ族のエルフは大きく数を減らしていた。あの夜に潰えた命は、やはり帰ってくることは無かったのである。長も、ばば様も、チャーガの家族も、多くの大人たちも、あの間引きと称された虐殺の露と消えた。ただ単に、余りにも多くのエルフを連れ帰る余地は無いという、それだけの理由で殺されたのだ。
それに対して、チャーガの心には驚くほどに思うところが無い。この変化が二つ目だ。
ウィッテ族のエルフたちは、最早自然の循環と大いなる摂理に奉仕する存在ではなくなっていた。仕える対象は、この山の下に住む悪魔じみた錬金術師だ。精霊と結んで森を育むのも、同族を慈しみやがて子を為すのも、全てはあの怪物の為にすることだった。それに対して反感を持つ、そんな事さえ出来ないように、チャーガを始めとする生き残りのエルフは改造されていた。
そして三つ目の変化は、
「よう、今日も大猟だったなあ、チャーガ」
「ええ。大鹿のついでに、馬鹿な冒険者を三人もですからね」
チャーガの隣を行くのは、バーチェではなく彼女の父だ。数少ない大人の生き残りである彼は、改造によって力を更に増した上で、チャーガら若いエルフの指導役に収まっていた。
何を指導する? 無論、狩りをだ。糧となる野の獣、増え過ぎた魔物、そしてこの森を侵す冒険者ども。それらを効率的に狩り殺す術を、チャーガは彼から学んでいる。
「にしても、お前も一端の狩人になれたようで、俺としても鼻が高いぜ。あの弱虫が、こうも立派に育ってくれるとはよ」
「……どうも」
森を護り、同族を護る弓を、何も知らない哀れなヒトへと向ける。それに対する感慨も、やはり無い。エルフを自分たちと同じく魔物を敵とする勢力と、或いは捕まえて奴隷として売り飛ばす格好の獲物と信じ込む冒険者らは、呆気ない程に容易い相手だった。ちょっと甘い言葉を囁けば、簡単に此方を信じて隙を晒す。安全な場所を教えると嘯いて魔物の巣へ誘導すれば、後は無防備な背中に矢を射るだけだ。
冒険者を仕留めたら、護符型の通信礼装を使ってドライらを呼び、引き渡す。何でも実験に使う格好の素体らしい。死体でもそれなりに歓迎されるが、やはり生きたままの方が良いようである。腕の立つ者を生け捕りにでもしたら、報奨も弾んだ。特に外で手に入るという珍しい香辛料は、里に持ち帰ると皆に喜ばれる。肉に良く合うからだ。だから冒険者は森を侵す外敵であると同時に、美味しい獲物でもある。
バーチェの父の話は、まだ続いていた。
「やはり、アレか? 所帯を持つと変わるものなのかね、若い男ってのはさ」
「……かもしれません」
「おいおい、何だよその生返事は? 疲れるような狩りでもなかったろうに。それとも、家で待ってる女房が気になるか?」
「……そうですね」
彼の言う通りで、チャーガの頭の中はその伴侶のことで一杯だった。
早く会いたい気もするし、そうでない気もする。どちらにしろ、チャーガは今も昔も、変わらず彼女のことばかりを考えていた。
そうこうする内に、里にはすぐに帰り着く。
小さくて、暗くて、あの優しく温かな白樺の森に比べると、堪らなく陰気な新しい里。
それでもここは彼らの里である。大事な物は、全てここにある。
……チャーガとバーチェの父は、同じ道を行き、同じ家の扉をくぐった。
「おーい、ただいまァ!」
「お帰りなさい、貴方。チャーガも、お勤めご苦労様」
バーチェの母が、大きくなったお腹を抱えながら彼らを出迎えた。普通のエルフはあまり子を為さない。バーチェほど育った子を持つ親は、特にだ。これもあの錬金術師の指示である。子を為せる女エルフは全て子を為せ。エルフを増やすのだ、と。増やした後はどうするのだろう? 単に戦力を増強するのか、或いは何らかの実験に使うのだろう。チャーガとしては、実験台に選ばれるのが我が子でないことを祈るばかりだ。
思索に沈むチャーガを余所に、バーチェの母は家の奥に向かって声を張り上げる。
「ほらっ、バーチェ! 貴女もいらっしゃいな。愛しい旦那様のお帰りよ?」
すると、忽ちパタパタと足音を立てながら、彼女がやってくる。
「チャーガっ!? かえってきてたの!?」
バーチェは何処か舌っ足らずな声を出しながら、彼の胸に飛び込んできた。
「チャーガ、チャーガ、チャーガぁ……! さびしかったよぉ……」
子どものようにポロポロと涙を流して、胸に顔を擦りつけてくる彼女。
バーチェの両親は、そんな我が子の姿に苦笑する。
「まったく、そろそろ腹も大きくなってきたって言うのに、この娘は……」
「本当、いつまで経っても子どもなんだから。昔と全然変わらないで」
「…………」
チャーガは言葉も無い。
今日こそは、と抱いていた薄甘い期待は、やはり打ち砕かれた。
……あの後、彼の伴侶として再会させられた彼女は、すっかりと変わっていた。
『残念だけど、僕にも出来ることと出来ないことがあるんだよね』
あの錬金術師はかつて、彼女の変貌に喰ってかかった彼へそう言った。
『彼女の精神は、ここに来た時には既にこの有様だったよ。あの夜のことも健忘しちゃったみたいだから、記憶を消せば治るってものでもない。元々忘れているものを、更に忘れさせても意味が無いだろう? まあ、脳改造で無理やり健常な状態に戻しても良いんだけどね。でも僕は彼女の元々の脳の形を知らない訳で。そうなると改造後の彼女は、正常に働く精神は持っているけど彼女の姿をした別人、って言うことにもなりかねない』
つまりは、チャーガの知るバーチェは、あの惨劇の夜に既に壊れていたということ。
他ならぬチャーガ自身が、彼女を壊した。
『そのリスクを考えると、後はもう自然治癒を待つしか無いね。何せ、エルフの寿命は長い。平穏な日常を積み重ねて行けば、いつかは元に戻る日も来るかもしれない』
果たして、本当にそんな日が来るのだろうか?
そう聞くと、あの錬金術師は満面の笑みを浮かべたのだった。
『その可能性を高めるには、まず彼女に大事にされている君自身が無事であり続けることだね。決して、つまらない相手に不覚を取ったりなんかしないようにさ。まあ、安心しなよ。その為にも、僕が腕によりを掛けて君を強くしてあげよう。あの里で採れた素体も君の番で最後だし、じっくりと改造できるってもんさ。これもあの……バーチェって言ったっけ? あの子が僕に有用な手駒を提供してくれたことへの、見返りの内さ。遠慮せず受け取りなよ、E-31』
……そうしてチャーガは力を得た。
狩りの腕は以前と比べ物にならないし、魔法の力も強くなった。
今や里を守護する立派な戦士の一員という訳だ。
里。
護りたかった里は、もう無い。
あるのは、あの悪魔の為に存在する、使い魔どもの巣だ。
こんなもの、バーチェと肩を並べて護りたかった、あの白樺の森じゃあない。
「チャーガ? どうしたの? かなしそうなかお、してるよ?」
バーチェは、自分の方こそ悲しそうな顔をしながらそう言う。
……彼女は本当に変わってしまった。
言動は幼い子どものようで、ちょっとしたことですぐ泣き出す。チャーガが傍に付いていないと不安になるらしく、彼が狩りに出る日はいつも決まってぐずっていた。
昔は、彼女が自分を狩りに連れ出してくれていたのに。
「そんなことないよ、バーチェ……僕も、君のいる家に帰って来れて嬉しいよ」
「ほんとう!? わーいっ!」
「あはははっ! 本当に熱々だねえ、新婚さんは?」
「ええ、昔を思い出しますね」
そう言って笑う彼女の両親は、娘の変貌に気付いていない。
これもあの悪魔の手配りの内だ。
バーチェが壊れたことで周囲に及ぼす影響を、最小限度で留める為だと言っていた。記憶を弄って、昔からバーチェはこんな風だったと思い込ませたらしい。それでもこの家族は何ら支障も無く回っている。エルフの娘は、本来狩りなんてしない。貞淑に夫を支えられればそれで良い。精神が子ども帰りをした彼女だが、それでも母に教わって少しずつ家事も覚え出している。だから、何も問題は起きていないのだ。
この里に、あの誇り高い女狩人の居場所は無かった。あるとしたら、彼女の相棒だった男の記憶の中にだけだろう。
彼女が彼に酷い事はしないでと頼んだから、彼から彼女との思い出を奪うなんて、酷い事はしなかったという。
だが、チャーガにとってそれは何より残酷な仕打ちだった。
彼だけが、変わってしまった彼女を受け容れられずにいる。
そのことに、苦しみ続けてもいる。
「おお、そうだ! 今日はな、何と鹿を仕留めたんだぞ? ほら見ろ、上物の肉だ!」
「おにく? ……うぇ」
父親が差し出す肉を、バーチェは怖がるように避ける。
朧に残る、余りにも血が流れ過ぎたあの夜の記憶の所為だろうか? 彼女は肉を嫌うようになっていた。焼いた肉なら少量口にするが、生であったり臭みが強い物は極端に避ける。
きっと狼の肉なんて、もう食べやしないだろう。
「こらこら、お前の旦那が仕留めた肉なんだぞ? ちゃんと焼いて上げるから、残さずに食うんだ」
「チャーガが? う、うん。なら、がんばる。がんばってたべたら、ほめてくれる?」
「うん、バーチェが頑張ったら、僕も嬉しいよ」
そうやって励ますと、バーチェは嬉しそうに顔を綻ばせた。
満月のような笑みだ、とチャーガは不意に思った。
あの夜の月のように遠く朧で、ふとした拍子に雨雲が差すような、儚い笑み。
木漏れ日を浴びながら見上げた太陽のように、鋭いけれど強く輝いていた逞しい笑顔。彼の恋したその表情は、もう無い。
(こんな娘、バーチェじゃないよ……)
そう考えたことは、一度や二度ではなかった。
変わってしまった彼女は、いつか彼が術を掛けたあの狼を思い出させる。
姿形はそのままに、内面をそっくり入れ替えられてしまった、あの哀れな獣。
それを残酷だと指弾した彼女の言葉を、今になって正しいと思う。
敬意を抱いて殺す方がまだ優しかったと、ようやく理解出来た。
(これは罰だ。僕が摂理を歪めたことへの、罰なんだ……)
魔法の先生であるばば様も教えなかった、自然の摂理に背く術を用いた咎。
その罰が自らの手で最愛の人を壊させ、その残骸と寄り添わせることとして現れたのだ。
では、それを償う道は?
壊れた彼女を、いつの日か元の姿に戻すことだろうか?
そんな日は、いつ来るのだろう? 本当に来るのだろうか?
……エルフの寿命は長い。ヒトのそれと比して、永遠と感じる程に。
それは福音と言うより呪縛に似ていた。
自らそれを断つことは出来ない。あの悪魔は手駒を無為に失う不利益は好まないし、実際にその為の手配りは既に、彼の頭の中に仕込まれている。
チャーガは一生を、自らの罪の証と向き合って過ごすのだ。
長い、長い一生を。
「チャーガ? どうしたの? はやく、いっしょにごはん、たべよ?」
「うん。そうだね、バーチェ」
黙考に沈んでいたチャーガを、バーチェは強く引いて食卓にいざなった。
彼は辛い思考を止めて、自分の手を引く彼女に全てを委ねる。
その感触を、あの懐かしい初恋の記憶になぞらえながら。




