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023 森に雨の降るごとく

 

「……≪サンダースピア≫っ!」


 長の掌から放たれた紫電の槍が、空を走る。

 破城槌めいた太い光条。込められた魔力は、そして威力はいかばかりか。

 その速度は文字通り稲妻のそれ。風さえ遅いと嘲笑う一撃が、躱す間も与えず標的を打つ。


「ガガ……!」


 全身に流れる電撃にフェムの身体は、奇妙な呻きを漏らして一瞬痙攣した。

 だが、それを力尽くで振り切るようにして長へと接近。再びあの破滅的な拳が繰り出される。


「攻撃、しマス!」


 大気が爆ぜた。

 落ち葉が舞い散り、木の葉が千切れ飛ぶ。たかが拳の拳圧が、手甲に覆われたとはいえ女の細腕が、森を薙ぐような暴風を生み出して迫る。


「≪ブリンクムーブ≫……っ!」


 森の風景が歪むと同時に長の身体は消え、一瞬後にフェムの背後に再び現れる。

 異なる空間へ渡る転移ではなく、空間を曲げて短距離を疾駆する高速移動。こちらは転移と違って妨害が難しい。故に突発回避に用いることは出来るが……消費が大きい。元々空間への干渉は大魔法の域だ。それを何度も連発すれば、当然魔力もあっという間に削れていく。≪ブリンクムーブ≫は本来、発揮される効果に対し、習得難度と消費魔力が見合わぬと敬遠される術だ。何世紀も前に師匠であるばば様から「どんな魔法も覚えておけば役に立つ時はある」と言われて身に付けたが、お陰で辛うじて命を拾えている。

 もっとも……どこまで持つかは分からないのであるが。


「……化け物め」


 人が暦を一にするより古くから生きるエルフの長が、慄然と呟く。

 見れば、拳撃の威力の余波で、地面が捲れて木が倒れている。あんなものが一撃でも、いや掠めでもすれば、そこから肉をもがれ骨を砕かれて戦闘不能だ。対して相手は何度もこちらの魔法を受けながら、さしたる損傷無しと見えた。

 何たる不条理か。だが、その不条理を凌がねば長は死ぬのだ。里も救えぬのだ。


「改めて聞く、貴様は何者だ?」


 長はフェムに問うた。

 先程からこちらの魔法は全て直撃。つまり、魔法を弾く防御礼装の類に守られている訳でも無し。あくまで自前の堅牢さだけで、長の攻撃に耐えている。そんな女がヒトであるはずもなく、ましてや自分と同じエルフとも思えぬ。考えたくはないが、まさか魔族か。それとも或いは悪竜の化身した姿か。

 フェムは答えず、再び拳を構える。


「データ、検証。偏差、修正。パターン、変更。……学習成果の反映、を、試験しマス!」


「聞く耳持たず、か!?」


 そして始まる猛攻。

 フェムの姿がぶれたかと思うと、すかさず飛来する拳、拳、拳。

 右。左。右。左。右。左。長は大きく右へ避け、そこへフェムが左、左、左――!

 強烈だが荒削りであった先程と打って変わり、軽いが鋭い連続攻撃。一撃の重みを減じたとはいえ、元が巨人を思わせる剛力である。雨霰と打ちこまれる拳は、忽ちの内に避ける長の身体を掠め、鳥葬めいて肉を削いでいく。


「ぐ、が……!?」


 堪らずに≪ブリンクムーブ≫。背後に回――振り向かれた。踊るような回転軌道。残酷なまでに優美。攻撃再開、その前にもう一度、大きく移動。予測したように吶喊してくるフェム。長は法外な三連続の瞬間移動行使――にフェムが追従。読まれている? 四度目は間に合わない。防げ、防げ、防げ!


「でぃ、≪ディフェンダー≫っ!!」


 咄嗟に張った防壁魔法に、拳の弾幕が殺到する。魔力の壁と金属の手甲の衝突に、花火めいて火花が飛び散った。


「が、あ、ああああっ!」


 長の足元の地面は、ごりごりと抉れて後ろへと轍を刻む。衝撃を殺し切れない。防壁が悲鳴を上げる。このままではいずれ防御を破砕され、その背後の長は殴り殺されるだろう。

 だが、それには数秒の猶予がある。そこに長は勝機を見た。


「≪応えよ! 天の雷精、地の電霊! 今ここに集いて、我が矛を為せ!≫」


 この戦闘が始まって初めてとなる正規詠唱。

 今まではフェムの猛攻に圧され、無詠唱で使える術のみでの戦いを強いられて来た。

 だが、フェムが重たい一撃ではなく速い連撃を選択し、防壁に対して僅かな拮抗を生じさせた今は、数秒とはいえ詠唱の機会がある。


「≪顕現せよ、八十なる雷統べる大神の威光! 其は矛先に宿りて我が敵を討て!≫」


「! させま、セン!」


 荒れ狂う魔力、迸る電光。

 それに長の意図を悟ってか、フェムが大きく拳を引く。

 再び一撃狙いのスタイルに切り替え、あの馬鹿力で罅入った防壁ごと長を撃ち貫く算段だろう。

 長は笑った。どちらにせよ、同じ事だ。重い一発には溜めが要る。威力を十全に発揮する為の、一瞬の溜めが。

 その一瞬で、詠唱の完成には十分。


「≪我、今ここに、神威を以って破邪を為す! ――ケラヴノス≫っ!!」


 拳が防壁を粉砕し、硝子状の光の欠片が乱舞する。

 同時に、長の魔法が放たれた。

 彼が修めた中でも、最強の術が。


(森よ……斯様な儀を以たねば敵を討てぬ我を、努々許すなかれ)


 生と死が交錯し、無限と思える程に引き伸ばされる一瞬。

 その中で長は懺悔していた。

 この術の威力は、守るべき森をも脅かす。だが、それを使わねば守れぬのだ。

 敵は無詠唱とはいえ中位の魔法をものともしない怪物。ならば最上位の魔法を用いねば、滅ぼすこと能わぬ。そしてこの敵を滅ぼさねば、里の者と森とを護ることが出来ぬ。


(責めは我が負おうぞ。故にどうか、汝が加護を受けし民を護り給え――!)


 放たれた雷撃の威力。先程の≪サンダースピア≫が破城槌としたら、これはまるで土石流だ。放電の磁気で空間すら捻じ曲げかねぬそれは、閃光の奔流となってフェムを飲み込み、長の視界を焼いた。




  ※ ※ ※




「最上位の電撃魔法だと? 森の中で? ……白エルフの長も、存外に分別の無いことだ」


 里の上空で月を背に、彼女は呟いた。

 身隠しの礼装を身に纏ったその姿は、例えエルフの狩人といえど目に映すことは能うまい。

 その眼下では、電撃の轍が森を盛大に焼き、あちこちで火を吹いていた。山火事である。


「まあ、何しろ相手がアレであるからな。私でもそれくらいせんと、対抗は出来ぬか。とはいえ、締まらない話には違いないが」


 くつくつ、と女は笑う。

 森の加護を受けしエルフが、それもよりにもよって長たる身が、窮した末に自ら森を焼く。彼女はそれが皮肉で、滑稽で、どうにも笑いを堪え切れなかったのだ。

 しかし笑ってばかりもいられない。彼女たちの目的からしても、火事の発生は好ましくなかった。慎重に選別した獲物が、火に巻かれて死んでしまっては元も子も無い。また如何に深い森の奥とはいえ派手に燃え広がれば、森の外にいる毛の無い猿どもにも、勘付かれる可能性があった。

 早急に何らかの手を打つ必要がある。

 女は少し考えると、名案が浮かんだと言わんばかりに微笑む。


「よし、そうだ。文字通りの水入りといこう――」




  ※ ※ ※




 その光を、ばば様は見た。

 地上より生じた、目が眩むような不吉な稲光。その正体を直感し、彼女は目を瞠る。


「坊や……あれを使うたか!」


 彼女の胸中は複雑だった。

 長きに渡り木々を慈しみ生きてきた男が、自らそれ諸共に敵を焼くことへの同情。

 そのような真似をさせるに至るまで助けに入れなかった、己の無力への悔悟。

 そして、あれを使ったからには彼が勝ったはずだ、という確信。


「うっわァ……アレって雷撃系の最上位魔法? 流石はエルフの長だ、凄いものを覚えているじゃん! でも良いのかなァ? 森の中であんなのぶっ放しちゃって。ほらほら、木が燃えて山火事になってるよ?」


 吸血鬼の男は、そう言って囃し立てる。

 彼の靴が踏んでいるのは森の土だ。では、先程まで二人とのいた長の屋敷は? そんな場所は既に無い。高位のエルフとロード級ヴァンパイアの戦場である。魔法の撃ち合いの余波で、跡形も無く消えているに決まっている。

 ばば様は、吸血鬼をキッと睨んだ。


「おぬしが……おぬしらがそれを言うか!?」


「わァ、怖ァい!」


 顔の横で両手の指を組みながら、イヤイヤと大袈裟に怖がってみせる。吸血鬼は完膚無きまでにふざけていた。

 だが、この吸血鬼がふざけているから、戯れているからこそ、ばば様は長らえている。エルフは生まれつき魔力に秀でているが、吸血鬼はそれに加えて身体能力も兼ね備えているのだ。尋常の一対一ならば、既に敗北しているはずの勝負である。

 相手もそう思ったのだろう。ヴァンパイアは、おどけた素振りを止めると肩を竦めた。


「――で、さァ。お姉さん、いつまで続ける訳ェ? もしかして、このまま夜明けまで待てば、僕が朝日で灰になるとでも思ってる?」


 残念ながら、そうとは思えない。

 ヴァンパイアロードの自己再生能力は並外れている。たとえ弱点となる日の光を受けても、そのダメージを受けた端から回復していくだけの芸当は出来るだろう。そして何より、それまでヴァンパイアと魔法合戦を続けて、魔力が尽きないままでいるなどという自信は無かった。

 ばば様は不安を押し殺して強気に笑う。


「ふんっ。それほど待たずとも良いわ。≪ケラヴノス≫を放ったという事は、即ち長の勝利よ。あやつは里を救いに行く。そして、その余勢を駆ってここにも来ようぞ。長くはなろうが、夜明けまでなどと悠長なことにはならぬさ」


「へぇ~? ふぅ~ん? ほぉ~?」


 ヴァンパイアはニタニタと笑った。


「そうなのかなァ? 本当にそうなのかな~ァ? だとしたらさァ、僕らの方にも動きが無いのはおかしいと思うけどねェ?」


「くっ……」


 その通りではある。白樺の森の結界を抜け、大規模な召喚術で里を襲撃する程の勢力だ。それだけ魔法に長けているなら、念話くらいは出来るだろうし、通信用の礼装も所持していてもおかしくない。緊急事態が起これば、それで連絡を取り合うはずだった。


「それじゃ、お望み通り付き合ってあげよっかァ? ホントに助けなんて来るか、確かめるのも一興じゃないの! ……≪シャドウランス≫っ!」


 嘲笑を込めた叫びと共に、質量を持った影が槍を為して飛び出し、ばば様に迫る。闇魔法に仮想上の存在を操る空属性を加えた多属性魔法。希少属性に希少属性を重ねた高等術技だ。それを詠唱省略で苦も無く操るとは、流石は闇の貴族たるヴァンパイアロードといったところか。

 無論、ばば様もそんな物を甘んじて甘んじて受けるつもりは無い。


「≪ライトレイ≫……!」


 掌より迸ったのは、太く束ねられた光。それが≪シャドウランス≫を貫通し、その先に立つ吸血鬼を諸共に貫こうとする。

 影は光によって消えるのが道理。であれば、両者が撃ち合えば光が優る。そして吸血鬼は闇の眷族だ。人のよくする神聖魔法ほどではないが、痛打が期待出来る……と、思われた。

 光条が吸血鬼の胸に吸い込まれ、


「ぐわーっ!! ……なんっちゃってェーっ! 効いたと思ったァ? あははははっ!」


 何の効果も表わさずに消える。

 着衣が魔法防御に長けた礼装なのか、高い魔力から素のままの魔法耐性にも秀でているのか……考えたくはないが、その両方か。


(化け物めっ……!)


 ばば様は臍を噛む思いで数メートル先に立つ怪物を睨む。

 地水火風の四大精霊に属さない光は、エルフにとっても不得手な部類に入る魔法。彼女は里でも随一の使い手であったが、それでも詠唱抜きでヴァンパイアに有効なダメージを通せるほどではない。

 この怪物を倒すにはもう一手何かが要る。吸血鬼の弱点を突いて一撃で殺せるだけの、何かが。


「さァて、どうしよっかなァ? 魔法の威力をもう一段階上げ――ん?」


 ヴァンパイアの余裕の笑みが、一瞬呆けた。

 彼は頬に指を這わせて、何かを掬い取る。


「あれ? 雨?」


 その言葉を合図にか、ポツポツと空から水滴が滴り出す。

 雨が降ってきた。


(雨、じゃと?)


 ばば様は目を瞬く。

 今日は満月。先程まで、雲すら掛かっていなかった。なのに、雨?

 見れば、黒い雲が急激に夜空に広がり、月をも覆い隠そうとしていた。

 その不可解さを、ばば様は敢えて無視した。


 ――普段の彼女であれば、何処かで誰かが大規模な天候操作を行ったことくらい、気づけたはずなのに。


 天佑だ。この雨が戦闘の余波の山火事を鎮火してくれる。

 いや、それより今はこの吸血鬼を何とかするのが先決。そう思い定めてばば様は詠唱を始める。


「≪天より滴る雫、地を渡る流れ。あまねく水の精に命ず!≫」


「! そ、その呪文は!?」


 吸血鬼は露骨に慌てて見せる。

 それはそうだろう。

 今、彼女が唱えているのは水の精霊に呼び掛ける呪文だ。雨が降り出し、俄かに活気づいている精霊に呼応すれば、ここに巨大な水流を作るのも不可能ではない。

 そして……吸血鬼は流れる水に弱い。


「≪我が声に応え、あらゆる不浄を洗い清め給え!≫」


「や、やめろォ! やめてくれェ!!」


 弱点を突かれそうになった途端、無様に哀願しだす吸血鬼を、ばば様は笑う。

 そんな事をする暇があれば、飛び掛かって詠唱を妨害すればよかろうに。

 ――動く死体め、脳味噌まで腐っておったか。


「≪ハイドロ・ストリーム≫っ!!」


 結印の先から、激流が迸る。闇夜にも白く泡立つ流水が、眼前の全てに殺到する。


「ぢぐじょう゛ぉぉぉっ!! あ、雨さえ降らなければァ!! が、がぼぼぼっ!?」


 吸血鬼の姿も、呪詛の籠った叫びも、全ては水の中に沈んでいった。


「くっ、くははっ! 不死者といえど、儂ほどの年月は、経ておらんかった、ようじゃな……」


 術を放つ構えを解き、肩で息をするばば様。

 急激に身体の力が衰えるのを感じた。魔力の欠乏である。

 相手は吸血鬼。万に一つも弱点である流水から逃さぬよう、かなりの広域を薙ぎ払うように術を放ったのだ。その代償が、この急激な魔力の枯渇だった。


「ぜぇ……ぜぇ……。と、年は、取りたくないものじゃな……ま、まったく」


 それに。

 実を言えば、彼女にはもう一つ、この疲れの原因があったのだが、


「ぐ……いかん、術が――」


 魔法が、解ける。

 高位の魔法を無理に使った反動、そして魔力の欠乏を受けて、最初から発動していた術式が消える。

 雨は化粧を洗い落とすかのように降り続けていた。




  ※ ※ ※




「――ふむ。そろそろ頃合いか?」




  ※ ※ ※




 ズズン、と巨人の足音が響いた。


 急激に降りだした雨の中で、里での戦いは続いている。

 魔物たちは無理攻めしようとはせず、狡猾にエルフたちを取り巻きながら、一人また一人と狩り立てて行く。

 奇妙なことに、魔物の狙いは概ねが大人だった。若いエルフをわざと残すように、年経た者から順番に殺していく。


「こいつら……まさか、若い衆を生け捕りにしようってハラか!?」


 バーチェの父は、そう察して叫ぶ。

 確かにそのように考えれば、この状況も理解しやすい。扱いが難しい大人を間引いて、子どもや若者を浚う。

 その考えは、まるで――


「父上。この襲撃の裏に、ヒトの思惑があるとでも?」


 そう、エルフを奴隷として捕えるヒトの発想だった。

 娘の問いに、父は肯く。


「これだけの魔物を操る力量はヒトのものとは思えんが、動かし方はまさにそれだ。普通は弱い者から順番に仕留めて行くから、なっ!」


 言いながら、近寄って来たオーガを射殺する。そして舌打ちを一つ。


「おいっ! 矢が切れた! 誰ぞ、持っておらんか!?」


「こっちにも無い! 他を当たってくれ!」


「俺だって持ってないさ! 大体、どこに矢が残ってるって言うんだ!?」


 ここに来て、エルフたちも矢が尽き始めていた。

 バーチェも弓が無い分魔法で支援に務めていたが、それも限界。魔力はほとんど空っぽである。

 緒戦でサイクロプス相手に、弓も魔法も使い過ぎた。何者かの術に護られた単眼の巨人は、未だにその鉄壁を保持し続けている。アレを破れる魔導師は、長かばば様くらいだろう。それを悟って温存していれば、まだしも目はあったのだが。


「それより、長とばば様はどうされた!? 駆け付けてくれるのではなかったのか!?」


「さっきの稲光を見ただろう、長の魔法だ! あの方らも戦っているんだよ!」


 その二人も、何者かに足止めされてここへは来れていないようだ。

 そして、


 ――ズズン。


「ひいっ!?」


 サイクロプスがまた一歩、圧力を強めるようにこちらへと寄ってくる。

 上がった悲鳴は自分のものか、他の誰かのものか、バーチェには区別が付かなかった。


(お、怯えるな! 私は、私は森の狩人だろう!?)


 必死に自分へ言い聞かせるも、身体の芯から震えが止まらない。

 周りのエルフも似たようなものだ。


(ううう……っ!)


 圧倒的な戦力差。未だに現れない長らの来援。総じて絶望的な状況。

 エルフらの戦意は、折れかけていた。

 ……万事休すか。


(嫌だ……)


 ポロポロと目から涙が零れ落ちる。

 何たる無様、これがウィッテ族の狩人が人前に晒す姿か。

 だが、誰一人としてそれを咎め立てようとはしない。

 実際、彼女は生き残りの中でもよく持った方だった。


「いひひ……もう駄目だ……俺たちは死ぬんだ……」


 中には、とうの昔に限界を迎えて壊れた者もいる。

 それを思えば、小娘が一人泣き出すくらいは可愛いものだろう。

 声を立てずに涙だけで済ませる分、気丈な子だと褒めても良いかもしれない。


「バーチェ……」


 娘へと掛けられた父の声は、切ないものだった。

 彼の推測――敵の目的が若いエルフの身柄であること――が正しければ、バーチェは死なずに済むだろう。だが、エルフの女が囚われの身に落ちれば、それこそ死ぬより辛い目に遭ってもおかしくはない。推量が間違っていたとしても、やはりここで死ぬだけだ。

 それを考えれば、父親としての苦吟は如何ほどのものか。

 母の事もあった。連絡役の名目で逃がしたものの、今や里中が魔物たちの狩り場だ。おそらく生きてはいまい。それを思うと、バーチェも胸が潰れる思いがした。父もそうだろう。


 ズズン――


 巨人が近づいてくる。

 それに合わせて、魔物たちも包囲の輪を狭めてくる。

 いよいよトドメを見舞いに来たか。


(嫌だ……!)


 弓矢も無く、魔力も尽きた。

 このまま魔物たちの爪牙に掛かるか、それとも父の考え通り、裏で糸を引く者の虜囚と落ちるか。

 どちらも嫌だった。


(だって、まだチャーガにも会えていない……!)


 半月前に喧嘩別れしたきりの、彼の事が気に掛かった。

 あれが最後の会話だなんて悲し過ぎる。

 もう一度会って、仲直りしたかった。せめて、顔が見たかった。


(チャーガ……!)


 じりじりと近づいてくる怪物たち。

 初めに飛びかかってくるのは、どれか。

 マンティコアか、ダイアウルフか、オーガか、トロルか。

 近づいてくる魔の気配に、バーチェは身を固くした。

 その時、


「……バーチェ!」


 背後の家の壁が魔法で突き破られる。

 そして、半月ぶりの懐かしい顔が飛んで来た。


「チャー、ガ?」


 不格好に自分の傍に着地した相手の名を、信じられない思いで唱える。


「へ、へへ……。魔物の図体じゃ屋内には入れないと思って、家の中を突っ切ったけど、正解だったみたいだね」


 あまつさえ、そんな強がりすら吐いてみせる。

 作り笑いは引き攣っていたし、声も手足も震えていたが、それでもどこか勇気づけられる何かを感じた。


「どうして――」


「おい、小僧! 今まで何していた!?」


 どうしてここに、という言葉を遮って、父が叫ぶ。

 チャーガはそれに対して、通り抜けて来た家屋の穴を指して見せた。


「……貴方!」


「母さん、お前!?」


 出て来たのは、里の外れの方へ駆けていたバーチェの母だ。

 生きていて、くれたのだ……!


「小母さんが血相を変えて外を走り回ってて、何かと思って出てみら、あのデカブツがいたんだ。何とか駆け付けようと思ったんだけど、里中魔物だらけだったから……」


「ひとまず、逃げ回りながらチャーガくんとありったけ矢を集めて来たのよ」


 そう言って抱えて来た矢束を差し出す。

 おお、と生き残りのエルフたちが声を上げる。


「矢だ! まだ戦えるぞ!」


「……ひとまず、魔物が通り難い家の中を伝って、少しずつ里の外へ向かいましょう! 白樺の森の中なら大型の魔物には狭いはずだし、精霊の加護で魔力の回復も早まりますから」


「待て、チャーガ。それだと家を抜ける時に先回りされる恐れが無いか?」


「その為に……コイツの鼻がありますから」


 チャーガの足元に、あの狼の使い魔が駆け付ける。

 バーチェとしてはその姿には複雑な思いを禁じ得ないが、場合が場合である。父も難しい顔をしながら聞いた。


「……使えるのか?」


「その子のお陰で、私たち無事にここまで来れたのよ?」


 母は使い魔の狼を労うように撫でる。信じても、良いのだろう。

 そしてチャーガはバーチェの方を向く。


「バーチェ、君にもこれを」


 そう言って手渡すしてきたのは、彼女の弓と矢だ。


「ちゃ、チャーガ? これ、どうし――」


「矢を取りに武器庫に行ったら、一緒に置いてあったからさ。君もこれが無くて困ってるって思って」


 彼はそう言い、照れくさそうに頬を掻く。

 ……久しぶりに手に取った弓は、やはりしっくりとバーチェの手に馴染んだ。

 萎れていた耳に、ピンと活力が戻る。

 手には弓矢がある。傍には長年共に過ごした相棒も。

 半月前から今日まで、彼女に欠けていたピースが埋まっていく。

 狩人の自覚が……戦う気持ちが、帰ってきた。


「チャーガ……ありがとう」


「良いってば。僕は弱いから……強い君の助けが出来れば、それでいいよ」


「それと、ごめん。この前は、酷い事を言った」


「こっちこそ、ごめん。バーチェの力になる事ばかり考えて、肝心の気持ちを酌めてなかった」


 それだけの言葉を交わしただけで、嘘のように蟠りが溶けていくのを感じる。

 こんな簡単な事も出来ずに、半月も悩んでいたのか。思わず馬鹿馬鹿しく思う程だ。


「おい、ぼさっとするなよお前たち! まだ戦いは続いているんだからな!」


「「は、はいっ!」」


 父の喝に、二人の声が揃った。

 その顔が苦笑めいた物を浮かべるのを見つつ、弓に矢を番え放つ。

 ――一矢。

 まずは、ダイアウルフ――形だけ狼に似せた冒涜的な魔物を一頭、喉笛を狙って射殺した。鈍っていない、半月ぶりでもこの弓は手足の延長として正確に作動する!

 そこに喜びを得ながら、継ぎの矢を放つ。

 狙いはオーガ。眼窩へ矢を突き立てると脳まで貫通して即死。エルフの弓は魔法の弓だ。加護を受けた使い手が矢を放てば、威力は弩弓をも凌駕する。

 おお、おお、と周りのエルフが活気づいた。

 ……やれる。流石にサイクロプスは辛いが、それ以外の有象無象なら切り抜ける事も難しくない。チャーガの提示した逃走ルートを抜け、まずは森へ。その後、長かばば様に合流し、その戦力を梃子として敵を討つ。出来なくは無い気がして来た。いや、やれる!


「やった、まだやれるぞ! 俺たちには、まだ希望が残っている!」


 仲間の一人が快哉を叫んだ。

 バーチェも同じ気持ちだ。

 そう、まだやれる!




 ――だが、それはやって来た。




「おいおい、それは少し気が早いんじゃないか?」


 上空から、声が降る。

 雨が止んだ。降り始めと同じく唐突に、雨雲も消えていく。

 月明かりが再び差し込み、辺りを照らし出した。

 そして、宙に浮かびながら里の者を睥睨する誰かをも。


「ダーク……エルフ?」


 夜目にも鮮烈な銀髪と、夜陰に溶け込む褐色のコントラスト。

 側頭から伸びるはエルフと同じ長い耳。

 確かにそれはダークエルフの女だった。

 そしてその女のことを、バーチェは知っていた。

 眼帯で左目を覆ったその女を。


「ドライ、さん?」


 二週間前、黒の森に迷い込んだバーチェを救った、冒険者の奴隷だというダークエルフ。

 それがどうして今ここに?

 いや、それはいい。バーチェは彼女が凄まじい使い手の魔導師だということを知っている。ドライの助力が成れば、この魔物の群れも駆逐できるだろう。


「バーチェ、あの人を知っているの?」


 チャーガが不思議そうに訊ねてくる。

 勿論、バーチェはすぐさまそれに答え、


「ああ、あの人は――」


 答え、


「……ぇ? ぁ……?」


 答え、


「……っ!? っ……! ……!!」


 答え、られない。

 急に息が詰まって、声が出せなくなった。

 唇だけがパクパク動いて、意味のある言葉が舌に乗せられない。


「ど、どうしたのバーチェ!? しっかりして!」


「何だ!? どうしたんだ一体!?」


 チャーガが肩を揺すってくる。

 両親は異常を呈した娘と突然の闖入者をと忙しなく見比べている。

 ドライは苦しむバーチェを愉快げに見下ろしていた。

 愉悦に歪む隻眼が、巨人の単眼と印象を一にする。


「くくくっ、単純な娘だな。私の事を話そうとして苦しいなら、それ以外のことを話せばよかろうに」


「――っ! ――っ!? ――っっっ!!」


 意味が分からなかった。

 ドライは一体、何を言っているのか?

 どうしてバーチェが苦しんでいるのを笑っているのか?


「貴女は……バーチェに何をしたんですか!?」


 怒りを込めて叫ぶチャーガに、ドライはますます笑みを深める。

 猫が捕えた鼠を甚振るような残酷さを感じる笑みだ。


「おやおや、何をムキに……ああ、そうか。貴様がチャーガとかいう小僧か?」


「ど、どうして僕の名前を……!?」


 その驚愕はバーチェも同じだった。

 あの時、ドライにはチャーガの事を話していない。いつも一緒にいる彼の事は格好の話題であったはずなのに、何故か照れ臭くて、話すのを避けていたのだ。

 それなのに何故、彼女はチャーガを知っているのか?


「フンっ。説明するのも面倒だ。今、術を解いてやるから、後はその娘の様子で勝手に察しろ」


 言って、ドライはパチンと指を鳴らした。

 同時に、バーチェの中で何かが弾ける。

 ――記憶が、あの夜の真実を再生し始めた。







「――すると、結界を通り抜けて里に入れるようになります……」


 頭がふわふわして考えが定まらない中、バーチェは聞かれたことについて素直に知っている限りを話す。

 里の規模、人口、目立った強者、そして結界の抜け方。

 そのほとんどは秘しておくべきことだったが、どうして隠さなければいけないのかが分からない。

 彼女の『左目』を見ていると、何でも命令された通りにしないといけない気がする。

 ドライはバーチェが洗いざらいを話すと、満足げに肯いた。


「成程な。聞きたい事は大体聞けた」


「……ありがとうございます」


「だが、少々気になる事がある。それについても聞かせて貰うぞ?」


「……はい、何でも聞いて下さい」


 了承すると、ドライは剣呑に目を眇めて聞いて来た。


「この『眼』を使う前の下らない話の途中、お前の言葉から隠し事の気配を感じた。おそらく大した事ではないだろうが、念の為だ。それについても話せ」


 バーチェの身体が、ビクリと震える。


「………………ごめん、なさい。言えない、です」


「何? どうしてだ、何故隠す? ……言え」


 ドライの『左目』が、紫色の光を放つ。

 それを目にしている内に、バーチェの感じていた抵抗心も、少しずつ溶けていく。


「……隠してたのは、チャーガの事です」


「何だ、それは?」


「……私の狩りの相棒」


「分からんな。何故、そんなことを隠した?」


「……恥ずか、しい、から」


 その答えにドライは怪訝そうな顔をする。

 理解出来ない、とでも言いたそうだった。

 だが抵抗を失ったバーチェは、ポツポツと勝手に言葉を続けてしまう。


「……彼の事、凄く大事なのに、上手く言えない、です。……でも、彼の事、変な風に言うの、怖い……恥ずかしい……」


「まるで理屈になっていないな。この小娘の内面でも未整理な事柄だったか……」


「……私、口下手だから……彼の良いところ、人に上手く説明できない……でも、それ……恥ずかしくて……悲しい……」


「要するに、餓鬼の色恋沙汰か。チッ、魔力を無駄に使った。……もういい」


 ドライの口振りは心底どうでもよさそうで。

 自分の中で大事に奥底へ秘めていた事が、そんな風に扱われて、バーチェは胸が痛んだ。

 目の前に立つ女は、それには頓着せず話を続けた。


「取りあえず、口封じだけはしておくか。……良いか? お前の里は排他的で、里の者が余所者に関してどういう感情を持つか分からん。お前は命の恩人が悪く思われると悲しいか?」


「……はい、悲しいです」


「よしよし、良い子だ。……だからバーチェ。私のことは、里の者には絶対に秘密だぞ? ああ、それとだ。この約束以外、私が『左目』を見せてからした話は忘れておけ。良いな?」







「……そう、だった」


 取り戻した記憶に、バーチェは愕然となる。

 自分が、全て自分が話した。里の場所も、入り方も、戦力の詳細も、この襲撃に纏わる全ては、自分が話してしまったのだ。


(全て、全てその所為で……?)


 包囲を掛ける魔物の放つ瘴気。戦って死んだエルフたちの骸が放つ臭気。

 それらが混然となって、胸の内を激しく攪拌する。


 ――お前の所為だ。


 と誰かが囁いた気がした。

 散らばる遺体の一つ、死んでいった仲間の一人の目が、此方を責めているように感じる。


 ――奴らが来たのも、我らが死んだのも、お前の所為だ。


 バーチェは自分の胃の腑が鷲掴みにされたように感じる。

 喉の奥からえぐい酸味が込み上げ、堪らずに戻した。


「う……!? げ、えぇぇぇ……」


「バーチェ!? 大丈夫なの!?」


 チャーガが優しく背中をさすってくれている。だけど、全然楽になれない。

 後から後から吐き出して、吐く物が無くなってもまだ胃が痙攣していた。

 上空からドライが見下している。


「おやおや。もう少し肝の太い娘かと思ったが、予想よりも大分脆いな?」


「貴様っ! 俺たちの娘に何をした!?」


 父の声に、元凶の女は深々と嘆息した。


「さっきも言っただろう? そこの娘の様子から勝手に察しろと。なのにわざわざ説明するのは、手間ではないか。無駄だ、無駄。……まったく、察しの悪い連中だ。これでは連れ帰っても碌な働きが出来るかどうか怪しいものだ」


「つまり、お前が――この件の元凶か」


「……本当に察しが悪い。何を今更。今まで見ていて分からなかったのか?」


 不出来な生徒を諭すようにドライは言う。

 その振る舞いに、周囲の生き残ったエルフたちも事態を飲み込み始める。


「あのダークエルフが、元凶?」


「これだけの魔物を操って? 馬鹿な、目的は何だ?」


「いや、それより――」


 一人が、険のある目でバーチェの方を見る。


「バーチェに術を掛けて、この里の事を聞きだしたってことか? つまり、原因は――」


「お前の所為かよ……バーチェ……!」


 何人もの視線が、彼女へと突き刺さった。

 父と母が信じられないと言った顔でこちらを見ている。

 背中に添えられたチャーガの手も震えていた。


(や、やめて……)


 そんな目で見られることには、耐えられない。


「わ、私を騙していたんですか……?」


 耐え切れなくて、思わず縋るような目でドライを呼ぶ。

 元凶が彼女である事が、まだ何処か信じられなかった。

 冗談だと言って欲しかった。この悪夢のような一夜が、全て嘘になって欲しかった。

 だが、ドライは酷薄に笑うばかりだ。


「騙した? 人聞きの悪い事を言うなよ。私は嘘など一度も言っていないぞ?」


「冒険者の仲間ではなかったのですか!? こ、こんなこと、普通の冒険者のすることではない!」


「おめでたいな、白エルフの娘。真っ当な冒険者と言った憶えは無い。一度魔物から救ってやったからって、お前が勝手に警戒を解いただけだ。くくくっ、それに普通の冒険者も里には十分有害だろう?」


「一度里を滅ぼされた事があったんでしょう! なのに、何故それを自ら繰り返すのですか!?」


「あの時言ったじゃあないか。私はもう気にしていない。だから、気兼ねの必要も無いな」


「な、仲間たちの事を大切だって……それなのに、何でこんなことを――」


「不思議では無かろう? これは仲間たちの利益に繋がる行動だからな。エルフには色々と使いでがある。お前らを纏まった数捕えられれば、私も仲間たちも嬉しいよ」


「森には、狩りに来た、って……」


「ああ、この魔物どもを生け捕りにな。私もこの数は流石に骨が折れた。特にサイクロプスなど、完全に支配するのは時間が掛かってな。その所為でお前には怖い目をさせたな。ああ、その点についてはすまないと思っているとも」


 ドライの言葉に、単眼の巨人が低く笑って応えた。

 あの時、黒の森に迷い出たバーチェが遭遇したサイクロプス。あれは既にこのダークエルフの使い魔だったという訳か。だから、あんなに簡単に引き下がったのか。


「全て……最初から仕組んで――」


「何を人聞きの悪い事を」


 ダークエルフの顔が、更なる悪意に歪んだ。


「ここにお前たちの里があることを知ったのは、全て偶然さ。あの日、猪を深追いして結界から出るような間抜けがいなければ、私も気づかぬままだったろうよ」


「……っ」


「ふふふっ、感謝しているよバーチェ? お陰で主に捧げる成果に、お前たちという格好の余禄まで付いたのだからな?」


「あ……」


 身体から、力が抜ける。


「バーチェ!?」


 倒れかけた彼女を、チャーガが咄嗟に支えた。

 それでも力が入らずに立っていられない。

 つまりは全部自分の所為なのだ、とバーチェは思った。


(何が……里を護る森の狩人だ……)


 ――あの日、自分がドライに出会ったから。

 ――勝手に一人で猪を仕留めに行って、黒の森に迷い込んだから。

 ――女の癖に、狩りなんかに入れ上げていたから。

 ――つまりは、自分なんてものがいたから、こうなった。


(自分がそんな大層なものだと思い上がるから、こんなことに……!)


 後悔と罪悪感と自己嫌悪が、止め処なく膨れ上がっていく。

 怖くて身体の震えが止まらなかった。

 死や苦痛への恐怖ではない。

 自分の生が無意味で無価値で、いや、それどころか有害でしかなかったと、そう認めるのが怖かった。そして、それを認めるしかないのが恐ろしかった。


(だって、皆……私が悪いって目で言ってる……)


 生き残った仲間たちは、最早敵を見るような目でバーチェを射竦めている。


 ――お前の所為だ。

 ――弓の腕が立つからと、粋がっていたのがこの様か。

 ――お前など狩人では……いや、誇りあるウィッテ族のエルフですらない。


 無言の裡にそんな意を込めた視線が、体中に突き刺さっていた。

 父も何も言えず、苦衷に満ちた表情に顔を歪めている。

 母はまだ意味が分からないと言いたげにおろおろしていた。

 肩に添えられたチャーガの手は、痛い程に彼女の身体を掴んでいる。

 今はただ、その温もりすら次の瞬間には失われそうで、それだけが怖かった。


「くくくっ。目の前の敵よりも、同族の恥晒しの方が憎いときたか? 度し難いな白エルフ。そんなだから、こんな簡単に攻め滅ぼされる」


 ダークエルフの女が、愉しそうに笑う。

 その手が、左目を覆う眼帯に掛かった。


「では、仕上げと行こうか」


 そして奥に秘された紫色の瞳が晒され――


「っ! 不味い、チャーガ!」


「ば、バーチェ!?」


 バーチェは、反射的に動いていた。

 チャーガの目を手で覆い、そのまま手を引いて後ろへ駆け出す。

 あの眼だ。あの怪しい左目が、ドライの異能の根源だ。一度術を掛けられたバーチェは、蘇った記憶を元にそれを見ないように努めた。


「……あのまま窒息死せぬよう、術を解いたのが仇となったか。まだそんな気力が残っていたとは」


 背中にドライの忌々しげな声が浴びせられる。

 父や母、生き残りのエルフたちは、ドライの紫色の眼光を見て立ち竦んでいた。


「あ、あの眼を見るな! 魔眼だ! 抵抗出来なくなる!」


「それがあの女の手なのか……!」


 必死になってチャーガの手を引き、その場から逃げ出す。

 両親たちを置いて行くことに気が咎めない訳ではないが、今はどうしようも無い。

 それにチャーガを……彼を失いたくなかった。彼を奪われたくなかった。

 自分に最後まで寄りそってくれている誰か。大切な相棒。或いはそれ以上に大事な何か。

 使命も誇りも何もかも無くしたバーチェには、もう彼しか残っていない。

 頭が混乱して、心は壊れかけているが、彼を失いたくない気持ちだけは残っていた。


(せ、せめて、チャーガだけは逃がさないと……!)


 ドライに捕まったらどうなるのか、それはバーチェには分からない。

 だが、忌むべき魔物たちを従え、多くのエルフを殺した連中の手に落ちるのだ。生半な奴隷より酷い目に遭うことは確実だった。

 もう、こんな自分はどうなっても良いから、彼だけは逃がさないと。

 それだけを胸に、彼を引っ張る。


「ちっ。……手間を掛けさせるなよ。さて、魔物に追わせても良いが、それだと事故が怖いか?」


 チャーガがここに来る為に空けた壁の穴へ、二人で飛び込む。

 その直前、


「ふむ。この魔法なら無傷で足止め出来るな――」


 何か、得体のしれない魔力が身を包むのをバーチェは感じた。

 

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