023 森に雨の降るごとく
「……≪サンダースピア≫っ!」
長の掌から放たれた紫電の槍が、空を走る。
破城槌めいた太い光条。込められた魔力は、そして威力はいかばかりか。
その速度は文字通り稲妻のそれ。風さえ遅いと嘲笑う一撃が、躱す間も与えず標的を打つ。
「ガガ……!」
全身に流れる電撃にフェムの身体は、奇妙な呻きを漏らして一瞬痙攣した。
だが、それを力尽くで振り切るようにして長へと接近。再びあの破滅的な拳が繰り出される。
「攻撃、しマス!」
大気が爆ぜた。
落ち葉が舞い散り、木の葉が千切れ飛ぶ。たかが拳の拳圧が、手甲に覆われたとはいえ女の細腕が、森を薙ぐような暴風を生み出して迫る。
「≪ブリンクムーブ≫……っ!」
森の風景が歪むと同時に長の身体は消え、一瞬後にフェムの背後に再び現れる。
異なる空間へ渡る転移ではなく、空間を曲げて短距離を疾駆する高速移動。こちらは転移と違って妨害が難しい。故に突発回避に用いることは出来るが……消費が大きい。元々空間への干渉は大魔法の域だ。それを何度も連発すれば、当然魔力もあっという間に削れていく。≪ブリンクムーブ≫は本来、発揮される効果に対し、習得難度と消費魔力が見合わぬと敬遠される術だ。何世紀も前に師匠であるばば様から「どんな魔法も覚えておけば役に立つ時はある」と言われて身に付けたが、お陰で辛うじて命を拾えている。
もっとも……どこまで持つかは分からないのであるが。
「……化け物め」
人が暦を一にするより古くから生きるエルフの長が、慄然と呟く。
見れば、拳撃の威力の余波で、地面が捲れて木が倒れている。あんなものが一撃でも、いや掠めでもすれば、そこから肉をもがれ骨を砕かれて戦闘不能だ。対して相手は何度もこちらの魔法を受けながら、さしたる損傷無しと見えた。
何たる不条理か。だが、その不条理を凌がねば長は死ぬのだ。里も救えぬのだ。
「改めて聞く、貴様は何者だ?」
長はフェムに問うた。
先程からこちらの魔法は全て直撃。つまり、魔法を弾く防御礼装の類に守られている訳でも無し。あくまで自前の堅牢さだけで、長の攻撃に耐えている。そんな女がヒトであるはずもなく、ましてや自分と同じエルフとも思えぬ。考えたくはないが、まさか魔族か。それとも或いは悪竜の化身した姿か。
フェムは答えず、再び拳を構える。
「データ、検証。偏差、修正。パターン、変更。……学習成果の反映、を、試験しマス!」
「聞く耳持たず、か!?」
そして始まる猛攻。
フェムの姿がぶれたかと思うと、すかさず飛来する拳、拳、拳。
右。左。右。左。右。左。長は大きく右へ避け、そこへフェムが左、左、左――!
強烈だが荒削りであった先程と打って変わり、軽いが鋭い連続攻撃。一撃の重みを減じたとはいえ、元が巨人を思わせる剛力である。雨霰と打ちこまれる拳は、忽ちの内に避ける長の身体を掠め、鳥葬めいて肉を削いでいく。
「ぐ、が……!?」
堪らずに≪ブリンクムーブ≫。背後に回――振り向かれた。踊るような回転軌道。残酷なまでに優美。攻撃再開、その前にもう一度、大きく移動。予測したように吶喊してくるフェム。長は法外な三連続の瞬間移動行使――にフェムが追従。読まれている? 四度目は間に合わない。防げ、防げ、防げ!
「でぃ、≪ディフェンダー≫っ!!」
咄嗟に張った防壁魔法に、拳の弾幕が殺到する。魔力の壁と金属の手甲の衝突に、花火めいて火花が飛び散った。
「が、あ、ああああっ!」
長の足元の地面は、ごりごりと抉れて後ろへと轍を刻む。衝撃を殺し切れない。防壁が悲鳴を上げる。このままではいずれ防御を破砕され、その背後の長は殴り殺されるだろう。
だが、それには数秒の猶予がある。そこに長は勝機を見た。
「≪応えよ! 天の雷精、地の電霊! 今ここに集いて、我が矛を為せ!≫」
この戦闘が始まって初めてとなる正規詠唱。
今まではフェムの猛攻に圧され、無詠唱で使える術のみでの戦いを強いられて来た。
だが、フェムが重たい一撃ではなく速い連撃を選択し、防壁に対して僅かな拮抗を生じさせた今は、数秒とはいえ詠唱の機会がある。
「≪顕現せよ、八十なる雷統べる大神の威光! 其は矛先に宿りて我が敵を討て!≫」
「! させま、セン!」
荒れ狂う魔力、迸る電光。
それに長の意図を悟ってか、フェムが大きく拳を引く。
再び一撃狙いのスタイルに切り替え、あの馬鹿力で罅入った防壁ごと長を撃ち貫く算段だろう。
長は笑った。どちらにせよ、同じ事だ。重い一発には溜めが要る。威力を十全に発揮する為の、一瞬の溜めが。
その一瞬で、詠唱の完成には十分。
「≪我、今ここに、神威を以って破邪を為す! ――ケラヴノス≫っ!!」
拳が防壁を粉砕し、硝子状の光の欠片が乱舞する。
同時に、長の魔法が放たれた。
彼が修めた中でも、最強の術が。
(森よ……斯様な儀を以たねば敵を討てぬ我を、努々許すなかれ)
生と死が交錯し、無限と思える程に引き伸ばされる一瞬。
その中で長は懺悔していた。
この術の威力は、守るべき森をも脅かす。だが、それを使わねば守れぬのだ。
敵は無詠唱とはいえ中位の魔法をものともしない怪物。ならば最上位の魔法を用いねば、滅ぼすこと能わぬ。そしてこの敵を滅ぼさねば、里の者と森とを護ることが出来ぬ。
(責めは我が負おうぞ。故にどうか、汝が加護を受けし民を護り給え――!)
放たれた雷撃の威力。先程の≪サンダースピア≫が破城槌としたら、これはまるで土石流だ。放電の磁気で空間すら捻じ曲げかねぬそれは、閃光の奔流となってフェムを飲み込み、長の視界を焼いた。
※ ※ ※
「最上位の電撃魔法だと? 森の中で? ……白エルフの長も、存外に分別の無いことだ」
里の上空で月を背に、彼女は呟いた。
身隠しの礼装を身に纏ったその姿は、例えエルフの狩人といえど目に映すことは能うまい。
その眼下では、電撃の轍が森を盛大に焼き、あちこちで火を吹いていた。山火事である。
「まあ、何しろ相手がアレであるからな。私でもそれくらいせんと、対抗は出来ぬか。とはいえ、締まらない話には違いないが」
くつくつ、と女は笑う。
森の加護を受けしエルフが、それもよりにもよって長たる身が、窮した末に自ら森を焼く。彼女はそれが皮肉で、滑稽で、どうにも笑いを堪え切れなかったのだ。
しかし笑ってばかりもいられない。彼女たちの目的からしても、火事の発生は好ましくなかった。慎重に選別した獲物が、火に巻かれて死んでしまっては元も子も無い。また如何に深い森の奥とはいえ派手に燃え広がれば、森の外にいる毛の無い猿どもにも、勘付かれる可能性があった。
早急に何らかの手を打つ必要がある。
女は少し考えると、名案が浮かんだと言わんばかりに微笑む。
「よし、そうだ。文字通りの水入りといこう――」
※ ※ ※
その光を、ばば様は見た。
地上より生じた、目が眩むような不吉な稲光。その正体を直感し、彼女は目を瞠る。
「坊や……あれを使うたか!」
彼女の胸中は複雑だった。
長きに渡り木々を慈しみ生きてきた男が、自らそれ諸共に敵を焼くことへの同情。
そのような真似をさせるに至るまで助けに入れなかった、己の無力への悔悟。
そして、あれを使ったからには彼が勝ったはずだ、という確信。
「うっわァ……アレって雷撃系の最上位魔法? 流石はエルフの長だ、凄いものを覚えているじゃん! でも良いのかなァ? 森の中であんなのぶっ放しちゃって。ほらほら、木が燃えて山火事になってるよ?」
吸血鬼の男は、そう言って囃し立てる。
彼の靴が踏んでいるのは森の土だ。では、先程まで二人とのいた長の屋敷は? そんな場所は既に無い。高位のエルフとロード級ヴァンパイアの戦場である。魔法の撃ち合いの余波で、跡形も無く消えているに決まっている。
ばば様は、吸血鬼をキッと睨んだ。
「おぬしが……おぬしらがそれを言うか!?」
「わァ、怖ァい!」
顔の横で両手の指を組みながら、イヤイヤと大袈裟に怖がってみせる。吸血鬼は完膚無きまでにふざけていた。
だが、この吸血鬼がふざけているから、戯れているからこそ、ばば様は長らえている。エルフは生まれつき魔力に秀でているが、吸血鬼はそれに加えて身体能力も兼ね備えているのだ。尋常の一対一ならば、既に敗北しているはずの勝負である。
相手もそう思ったのだろう。ヴァンパイアは、おどけた素振りを止めると肩を竦めた。
「――で、さァ。お姉さん、いつまで続ける訳ェ? もしかして、このまま夜明けまで待てば、僕が朝日で灰になるとでも思ってる?」
残念ながら、そうとは思えない。
ヴァンパイアロードの自己再生能力は並外れている。たとえ弱点となる日の光を受けても、そのダメージを受けた端から回復していくだけの芸当は出来るだろう。そして何より、それまでヴァンパイアと魔法合戦を続けて、魔力が尽きないままでいるなどという自信は無かった。
ばば様は不安を押し殺して強気に笑う。
「ふんっ。それほど待たずとも良いわ。≪ケラヴノス≫を放ったという事は、即ち長の勝利よ。あやつは里を救いに行く。そして、その余勢を駆ってここにも来ようぞ。長くはなろうが、夜明けまでなどと悠長なことにはならぬさ」
「へぇ~? ふぅ~ん? ほぉ~?」
ヴァンパイアはニタニタと笑った。
「そうなのかなァ? 本当にそうなのかな~ァ? だとしたらさァ、僕らの方にも動きが無いのはおかしいと思うけどねェ?」
「くっ……」
その通りではある。白樺の森の結界を抜け、大規模な召喚術で里を襲撃する程の勢力だ。それだけ魔法に長けているなら、念話くらいは出来るだろうし、通信用の礼装も所持していてもおかしくない。緊急事態が起これば、それで連絡を取り合うはずだった。
「それじゃ、お望み通り付き合ってあげよっかァ? ホントに助けなんて来るか、確かめるのも一興じゃないの! ……≪シャドウランス≫っ!」
嘲笑を込めた叫びと共に、質量を持った影が槍を為して飛び出し、ばば様に迫る。闇魔法に仮想上の存在を操る空属性を加えた多属性魔法。希少属性に希少属性を重ねた高等術技だ。それを詠唱省略で苦も無く操るとは、流石は闇の貴族たるヴァンパイアロードといったところか。
無論、ばば様もそんな物を甘んじて甘んじて受けるつもりは無い。
「≪ライトレイ≫……!」
掌より迸ったのは、太く束ねられた光。それが≪シャドウランス≫を貫通し、その先に立つ吸血鬼を諸共に貫こうとする。
影は光によって消えるのが道理。であれば、両者が撃ち合えば光が優る。そして吸血鬼は闇の眷族だ。人のよくする神聖魔法ほどではないが、痛打が期待出来る……と、思われた。
光条が吸血鬼の胸に吸い込まれ、
「ぐわーっ!! ……なんっちゃってェーっ! 効いたと思ったァ? あははははっ!」
何の効果も表わさずに消える。
着衣が魔法防御に長けた礼装なのか、高い魔力から素のままの魔法耐性にも秀でているのか……考えたくはないが、その両方か。
(化け物めっ……!)
ばば様は臍を噛む思いで数メートル先に立つ怪物を睨む。
地水火風の四大精霊に属さない光は、エルフにとっても不得手な部類に入る魔法。彼女は里でも随一の使い手であったが、それでも詠唱抜きでヴァンパイアに有効なダメージを通せるほどではない。
この怪物を倒すにはもう一手何かが要る。吸血鬼の弱点を突いて一撃で殺せるだけの、何かが。
「さァて、どうしよっかなァ? 魔法の威力をもう一段階上げ――ん?」
ヴァンパイアの余裕の笑みが、一瞬呆けた。
彼は頬に指を這わせて、何かを掬い取る。
「あれ? 雨?」
その言葉を合図にか、ポツポツと空から水滴が滴り出す。
雨が降ってきた。
(雨、じゃと?)
ばば様は目を瞬く。
今日は満月。先程まで、雲すら掛かっていなかった。なのに、雨?
見れば、黒い雲が急激に夜空に広がり、月をも覆い隠そうとしていた。
その不可解さを、ばば様は敢えて無視した。
――普段の彼女であれば、何処かで誰かが大規模な天候操作を行ったことくらい、気づけたはずなのに。
天佑だ。この雨が戦闘の余波の山火事を鎮火してくれる。
いや、それより今はこの吸血鬼を何とかするのが先決。そう思い定めてばば様は詠唱を始める。
「≪天より滴る雫、地を渡る流れ。あまねく水の精に命ず!≫」
「! そ、その呪文は!?」
吸血鬼は露骨に慌てて見せる。
それはそうだろう。
今、彼女が唱えているのは水の精霊に呼び掛ける呪文だ。雨が降り出し、俄かに活気づいている精霊に呼応すれば、ここに巨大な水流を作るのも不可能ではない。
そして……吸血鬼は流れる水に弱い。
「≪我が声に応え、あらゆる不浄を洗い清め給え!≫」
「や、やめろォ! やめてくれェ!!」
弱点を突かれそうになった途端、無様に哀願しだす吸血鬼を、ばば様は笑う。
そんな事をする暇があれば、飛び掛かって詠唱を妨害すればよかろうに。
――動く死体め、脳味噌まで腐っておったか。
「≪ハイドロ・ストリーム≫っ!!」
結印の先から、激流が迸る。闇夜にも白く泡立つ流水が、眼前の全てに殺到する。
「ぢぐじょう゛ぉぉぉっ!! あ、雨さえ降らなければァ!! が、がぼぼぼっ!?」
吸血鬼の姿も、呪詛の籠った叫びも、全ては水の中に沈んでいった。
「くっ、くははっ! 不死者といえど、儂ほどの年月は、経ておらんかった、ようじゃな……」
術を放つ構えを解き、肩で息をするばば様。
急激に身体の力が衰えるのを感じた。魔力の欠乏である。
相手は吸血鬼。万に一つも弱点である流水から逃さぬよう、かなりの広域を薙ぎ払うように術を放ったのだ。その代償が、この急激な魔力の枯渇だった。
「ぜぇ……ぜぇ……。と、年は、取りたくないものじゃな……ま、まったく」
それに。
実を言えば、彼女にはもう一つ、この疲れの原因があったのだが、
「ぐ……いかん、術が――」
魔法が、解ける。
高位の魔法を無理に使った反動、そして魔力の欠乏を受けて、最初から発動していた術式が消える。
雨は化粧を洗い落とすかのように降り続けていた。
※ ※ ※
「――ふむ。そろそろ頃合いか?」
※ ※ ※
ズズン、と巨人の足音が響いた。
急激に降りだした雨の中で、里での戦いは続いている。
魔物たちは無理攻めしようとはせず、狡猾にエルフたちを取り巻きながら、一人また一人と狩り立てて行く。
奇妙なことに、魔物の狙いは概ねが大人だった。若いエルフをわざと残すように、年経た者から順番に殺していく。
「こいつら……まさか、若い衆を生け捕りにしようってハラか!?」
バーチェの父は、そう察して叫ぶ。
確かにそのように考えれば、この状況も理解しやすい。扱いが難しい大人を間引いて、子どもや若者を浚う。
その考えは、まるで――
「父上。この襲撃の裏に、ヒトの思惑があるとでも?」
そう、エルフを奴隷として捕えるヒトの発想だった。
娘の問いに、父は肯く。
「これだけの魔物を操る力量はヒトのものとは思えんが、動かし方はまさにそれだ。普通は弱い者から順番に仕留めて行くから、なっ!」
言いながら、近寄って来たオーガを射殺する。そして舌打ちを一つ。
「おいっ! 矢が切れた! 誰ぞ、持っておらんか!?」
「こっちにも無い! 他を当たってくれ!」
「俺だって持ってないさ! 大体、どこに矢が残ってるって言うんだ!?」
ここに来て、エルフたちも矢が尽き始めていた。
バーチェも弓が無い分魔法で支援に務めていたが、それも限界。魔力はほとんど空っぽである。
緒戦でサイクロプス相手に、弓も魔法も使い過ぎた。何者かの術に護られた単眼の巨人は、未だにその鉄壁を保持し続けている。アレを破れる魔導師は、長かばば様くらいだろう。それを悟って温存していれば、まだしも目はあったのだが。
「それより、長とばば様はどうされた!? 駆け付けてくれるのではなかったのか!?」
「さっきの稲光を見ただろう、長の魔法だ! あの方らも戦っているんだよ!」
その二人も、何者かに足止めされてここへは来れていないようだ。
そして、
――ズズン。
「ひいっ!?」
サイクロプスがまた一歩、圧力を強めるようにこちらへと寄ってくる。
上がった悲鳴は自分のものか、他の誰かのものか、バーチェには区別が付かなかった。
(お、怯えるな! 私は、私は森の狩人だろう!?)
必死に自分へ言い聞かせるも、身体の芯から震えが止まらない。
周りのエルフも似たようなものだ。
(ううう……っ!)
圧倒的な戦力差。未だに現れない長らの来援。総じて絶望的な状況。
エルフらの戦意は、折れかけていた。
……万事休すか。
(嫌だ……)
ポロポロと目から涙が零れ落ちる。
何たる無様、これがウィッテ族の狩人が人前に晒す姿か。
だが、誰一人としてそれを咎め立てようとはしない。
実際、彼女は生き残りの中でもよく持った方だった。
「いひひ……もう駄目だ……俺たちは死ぬんだ……」
中には、とうの昔に限界を迎えて壊れた者もいる。
それを思えば、小娘が一人泣き出すくらいは可愛いものだろう。
声を立てずに涙だけで済ませる分、気丈な子だと褒めても良いかもしれない。
「バーチェ……」
娘へと掛けられた父の声は、切ないものだった。
彼の推測――敵の目的が若いエルフの身柄であること――が正しければ、バーチェは死なずに済むだろう。だが、エルフの女が囚われの身に落ちれば、それこそ死ぬより辛い目に遭ってもおかしくはない。推量が間違っていたとしても、やはりここで死ぬだけだ。
それを考えれば、父親としての苦吟は如何ほどのものか。
母の事もあった。連絡役の名目で逃がしたものの、今や里中が魔物たちの狩り場だ。おそらく生きてはいまい。それを思うと、バーチェも胸が潰れる思いがした。父もそうだろう。
ズズン――
巨人が近づいてくる。
それに合わせて、魔物たちも包囲の輪を狭めてくる。
いよいよトドメを見舞いに来たか。
(嫌だ……!)
弓矢も無く、魔力も尽きた。
このまま魔物たちの爪牙に掛かるか、それとも父の考え通り、裏で糸を引く者の虜囚と落ちるか。
どちらも嫌だった。
(だって、まだチャーガにも会えていない……!)
半月前に喧嘩別れしたきりの、彼の事が気に掛かった。
あれが最後の会話だなんて悲し過ぎる。
もう一度会って、仲直りしたかった。せめて、顔が見たかった。
(チャーガ……!)
じりじりと近づいてくる怪物たち。
初めに飛びかかってくるのは、どれか。
マンティコアか、ダイアウルフか、オーガか、トロルか。
近づいてくる魔の気配に、バーチェは身を固くした。
その時、
「……バーチェ!」
背後の家の壁が魔法で突き破られる。
そして、半月ぶりの懐かしい顔が飛んで来た。
「チャー、ガ?」
不格好に自分の傍に着地した相手の名を、信じられない思いで唱える。
「へ、へへ……。魔物の図体じゃ屋内には入れないと思って、家の中を突っ切ったけど、正解だったみたいだね」
あまつさえ、そんな強がりすら吐いてみせる。
作り笑いは引き攣っていたし、声も手足も震えていたが、それでもどこか勇気づけられる何かを感じた。
「どうして――」
「おい、小僧! 今まで何していた!?」
どうしてここに、という言葉を遮って、父が叫ぶ。
チャーガはそれに対して、通り抜けて来た家屋の穴を指して見せた。
「……貴方!」
「母さん、お前!?」
出て来たのは、里の外れの方へ駆けていたバーチェの母だ。
生きていて、くれたのだ……!
「小母さんが血相を変えて外を走り回ってて、何かと思って出てみら、あのデカブツがいたんだ。何とか駆け付けようと思ったんだけど、里中魔物だらけだったから……」
「ひとまず、逃げ回りながらチャーガくんとありったけ矢を集めて来たのよ」
そう言って抱えて来た矢束を差し出す。
おお、と生き残りのエルフたちが声を上げる。
「矢だ! まだ戦えるぞ!」
「……ひとまず、魔物が通り難い家の中を伝って、少しずつ里の外へ向かいましょう! 白樺の森の中なら大型の魔物には狭いはずだし、精霊の加護で魔力の回復も早まりますから」
「待て、チャーガ。それだと家を抜ける時に先回りされる恐れが無いか?」
「その為に……コイツの鼻がありますから」
チャーガの足元に、あの狼の使い魔が駆け付ける。
バーチェとしてはその姿には複雑な思いを禁じ得ないが、場合が場合である。父も難しい顔をしながら聞いた。
「……使えるのか?」
「その子のお陰で、私たち無事にここまで来れたのよ?」
母は使い魔の狼を労うように撫でる。信じても、良いのだろう。
そしてチャーガはバーチェの方を向く。
「バーチェ、君にもこれを」
そう言って手渡すしてきたのは、彼女の弓と矢だ。
「ちゃ、チャーガ? これ、どうし――」
「矢を取りに武器庫に行ったら、一緒に置いてあったからさ。君もこれが無くて困ってるって思って」
彼はそう言い、照れくさそうに頬を掻く。
……久しぶりに手に取った弓は、やはりしっくりとバーチェの手に馴染んだ。
萎れていた耳に、ピンと活力が戻る。
手には弓矢がある。傍には長年共に過ごした相棒も。
半月前から今日まで、彼女に欠けていたピースが埋まっていく。
狩人の自覚が……戦う気持ちが、帰ってきた。
「チャーガ……ありがとう」
「良いってば。僕は弱いから……強い君の助けが出来れば、それでいいよ」
「それと、ごめん。この前は、酷い事を言った」
「こっちこそ、ごめん。バーチェの力になる事ばかり考えて、肝心の気持ちを酌めてなかった」
それだけの言葉を交わしただけで、嘘のように蟠りが溶けていくのを感じる。
こんな簡単な事も出来ずに、半月も悩んでいたのか。思わず馬鹿馬鹿しく思う程だ。
「おい、ぼさっとするなよお前たち! まだ戦いは続いているんだからな!」
「「は、はいっ!」」
父の喝に、二人の声が揃った。
その顔が苦笑めいた物を浮かべるのを見つつ、弓に矢を番え放つ。
――一矢。
まずは、ダイアウルフ――形だけ狼に似せた冒涜的な魔物を一頭、喉笛を狙って射殺した。鈍っていない、半月ぶりでもこの弓は手足の延長として正確に作動する!
そこに喜びを得ながら、継ぎの矢を放つ。
狙いはオーガ。眼窩へ矢を突き立てると脳まで貫通して即死。エルフの弓は魔法の弓だ。加護を受けた使い手が矢を放てば、威力は弩弓をも凌駕する。
おお、おお、と周りのエルフが活気づいた。
……やれる。流石にサイクロプスは辛いが、それ以外の有象無象なら切り抜ける事も難しくない。チャーガの提示した逃走ルートを抜け、まずは森へ。その後、長かばば様に合流し、その戦力を梃子として敵を討つ。出来なくは無い気がして来た。いや、やれる!
「やった、まだやれるぞ! 俺たちには、まだ希望が残っている!」
仲間の一人が快哉を叫んだ。
バーチェも同じ気持ちだ。
そう、まだやれる!
――だが、それはやって来た。
「おいおい、それは少し気が早いんじゃないか?」
上空から、声が降る。
雨が止んだ。降り始めと同じく唐突に、雨雲も消えていく。
月明かりが再び差し込み、辺りを照らし出した。
そして、宙に浮かびながら里の者を睥睨する誰かをも。
「ダーク……エルフ?」
夜目にも鮮烈な銀髪と、夜陰に溶け込む褐色のコントラスト。
側頭から伸びるはエルフと同じ長い耳。
確かにそれはダークエルフの女だった。
そしてその女のことを、バーチェは知っていた。
眼帯で左目を覆ったその女を。
「ドライ、さん?」
二週間前、黒の森に迷い込んだバーチェを救った、冒険者の奴隷だというダークエルフ。
それがどうして今ここに?
いや、それはいい。バーチェは彼女が凄まじい使い手の魔導師だということを知っている。ドライの助力が成れば、この魔物の群れも駆逐できるだろう。
「バーチェ、あの人を知っているの?」
チャーガが不思議そうに訊ねてくる。
勿論、バーチェはすぐさまそれに答え、
「ああ、あの人は――」
答え、
「……ぇ? ぁ……?」
答え、
「……っ!? っ……! ……!!」
答え、られない。
急に息が詰まって、声が出せなくなった。
唇だけがパクパク動いて、意味のある言葉が舌に乗せられない。
「ど、どうしたのバーチェ!? しっかりして!」
「何だ!? どうしたんだ一体!?」
チャーガが肩を揺すってくる。
両親は異常を呈した娘と突然の闖入者をと忙しなく見比べている。
ドライは苦しむバーチェを愉快げに見下ろしていた。
愉悦に歪む隻眼が、巨人の単眼と印象を一にする。
「くくくっ、単純な娘だな。私の事を話そうとして苦しいなら、それ以外のことを話せばよかろうに」
「――っ! ――っ!? ――っっっ!!」
意味が分からなかった。
ドライは一体、何を言っているのか?
どうしてバーチェが苦しんでいるのを笑っているのか?
「貴女は……バーチェに何をしたんですか!?」
怒りを込めて叫ぶチャーガに、ドライはますます笑みを深める。
猫が捕えた鼠を甚振るような残酷さを感じる笑みだ。
「おやおや、何をムキに……ああ、そうか。貴様がチャーガとかいう小僧か?」
「ど、どうして僕の名前を……!?」
その驚愕はバーチェも同じだった。
あの時、ドライにはチャーガの事を話していない。いつも一緒にいる彼の事は格好の話題であったはずなのに、何故か照れ臭くて、話すのを避けていたのだ。
それなのに何故、彼女はチャーガを知っているのか?
「フンっ。説明するのも面倒だ。今、術を解いてやるから、後はその娘の様子で勝手に察しろ」
言って、ドライはパチンと指を鳴らした。
同時に、バーチェの中で何かが弾ける。
――記憶が、あの夜の真実を再生し始めた。
「――すると、結界を通り抜けて里に入れるようになります……」
頭がふわふわして考えが定まらない中、バーチェは聞かれたことについて素直に知っている限りを話す。
里の規模、人口、目立った強者、そして結界の抜け方。
そのほとんどは秘しておくべきことだったが、どうして隠さなければいけないのかが分からない。
彼女の『左目』を見ていると、何でも命令された通りにしないといけない気がする。
ドライはバーチェが洗いざらいを話すと、満足げに肯いた。
「成程な。聞きたい事は大体聞けた」
「……ありがとうございます」
「だが、少々気になる事がある。それについても聞かせて貰うぞ?」
「……はい、何でも聞いて下さい」
了承すると、ドライは剣呑に目を眇めて聞いて来た。
「この『眼』を使う前の下らない話の途中、お前の言葉から隠し事の気配を感じた。おそらく大した事ではないだろうが、念の為だ。それについても話せ」
バーチェの身体が、ビクリと震える。
「………………ごめん、なさい。言えない、です」
「何? どうしてだ、何故隠す? ……言え」
ドライの『左目』が、紫色の光を放つ。
それを目にしている内に、バーチェの感じていた抵抗心も、少しずつ溶けていく。
「……隠してたのは、チャーガの事です」
「何だ、それは?」
「……私の狩りの相棒」
「分からんな。何故、そんなことを隠した?」
「……恥ずか、しい、から」
その答えにドライは怪訝そうな顔をする。
理解出来ない、とでも言いたそうだった。
だが抵抗を失ったバーチェは、ポツポツと勝手に言葉を続けてしまう。
「……彼の事、凄く大事なのに、上手く言えない、です。……でも、彼の事、変な風に言うの、怖い……恥ずかしい……」
「まるで理屈になっていないな。この小娘の内面でも未整理な事柄だったか……」
「……私、口下手だから……彼の良いところ、人に上手く説明できない……でも、それ……恥ずかしくて……悲しい……」
「要するに、餓鬼の色恋沙汰か。チッ、魔力を無駄に使った。……もういい」
ドライの口振りは心底どうでもよさそうで。
自分の中で大事に奥底へ秘めていた事が、そんな風に扱われて、バーチェは胸が痛んだ。
目の前に立つ女は、それには頓着せず話を続けた。
「取りあえず、口封じだけはしておくか。……良いか? お前の里は排他的で、里の者が余所者に関してどういう感情を持つか分からん。お前は命の恩人が悪く思われると悲しいか?」
「……はい、悲しいです」
「よしよし、良い子だ。……だからバーチェ。私のことは、里の者には絶対に秘密だぞ? ああ、それとだ。この約束以外、私が『左目』を見せてからした話は忘れておけ。良いな?」
「……そう、だった」
取り戻した記憶に、バーチェは愕然となる。
自分が、全て自分が話した。里の場所も、入り方も、戦力の詳細も、この襲撃に纏わる全ては、自分が話してしまったのだ。
(全て、全てその所為で……?)
包囲を掛ける魔物の放つ瘴気。戦って死んだエルフたちの骸が放つ臭気。
それらが混然となって、胸の内を激しく攪拌する。
――お前の所為だ。
と誰かが囁いた気がした。
散らばる遺体の一つ、死んでいった仲間の一人の目が、此方を責めているように感じる。
――奴らが来たのも、我らが死んだのも、お前の所為だ。
バーチェは自分の胃の腑が鷲掴みにされたように感じる。
喉の奥からえぐい酸味が込み上げ、堪らずに戻した。
「う……!? げ、えぇぇぇ……」
「バーチェ!? 大丈夫なの!?」
チャーガが優しく背中をさすってくれている。だけど、全然楽になれない。
後から後から吐き出して、吐く物が無くなってもまだ胃が痙攣していた。
上空からドライが見下している。
「おやおや。もう少し肝の太い娘かと思ったが、予想よりも大分脆いな?」
「貴様っ! 俺たちの娘に何をした!?」
父の声に、元凶の女は深々と嘆息した。
「さっきも言っただろう? そこの娘の様子から勝手に察しろと。なのにわざわざ説明するのは、手間ではないか。無駄だ、無駄。……まったく、察しの悪い連中だ。これでは連れ帰っても碌な働きが出来るかどうか怪しいものだ」
「つまり、お前が――この件の元凶か」
「……本当に察しが悪い。何を今更。今まで見ていて分からなかったのか?」
不出来な生徒を諭すようにドライは言う。
その振る舞いに、周囲の生き残ったエルフたちも事態を飲み込み始める。
「あのダークエルフが、元凶?」
「これだけの魔物を操って? 馬鹿な、目的は何だ?」
「いや、それより――」
一人が、険のある目でバーチェの方を見る。
「バーチェに術を掛けて、この里の事を聞きだしたってことか? つまり、原因は――」
「お前の所為かよ……バーチェ……!」
何人もの視線が、彼女へと突き刺さった。
父と母が信じられないと言った顔でこちらを見ている。
背中に添えられたチャーガの手も震えていた。
(や、やめて……)
そんな目で見られることには、耐えられない。
「わ、私を騙していたんですか……?」
耐え切れなくて、思わず縋るような目でドライを呼ぶ。
元凶が彼女である事が、まだ何処か信じられなかった。
冗談だと言って欲しかった。この悪夢のような一夜が、全て嘘になって欲しかった。
だが、ドライは酷薄に笑うばかりだ。
「騙した? 人聞きの悪い事を言うなよ。私は嘘など一度も言っていないぞ?」
「冒険者の仲間ではなかったのですか!? こ、こんなこと、普通の冒険者のすることではない!」
「おめでたいな、白エルフの娘。真っ当な冒険者と言った憶えは無い。一度魔物から救ってやったからって、お前が勝手に警戒を解いただけだ。くくくっ、それに普通の冒険者も里には十分有害だろう?」
「一度里を滅ぼされた事があったんでしょう! なのに、何故それを自ら繰り返すのですか!?」
「あの時言ったじゃあないか。私はもう気にしていない。だから、気兼ねの必要も無いな」
「な、仲間たちの事を大切だって……それなのに、何でこんなことを――」
「不思議では無かろう? これは仲間たちの利益に繋がる行動だからな。エルフには色々と使いでがある。お前らを纏まった数捕えられれば、私も仲間たちも嬉しいよ」
「森には、狩りに来た、って……」
「ああ、この魔物どもを生け捕りにな。私もこの数は流石に骨が折れた。特にサイクロプスなど、完全に支配するのは時間が掛かってな。その所為でお前には怖い目をさせたな。ああ、その点についてはすまないと思っているとも」
ドライの言葉に、単眼の巨人が低く笑って応えた。
あの時、黒の森に迷い出たバーチェが遭遇したサイクロプス。あれは既にこのダークエルフの使い魔だったという訳か。だから、あんなに簡単に引き下がったのか。
「全て……最初から仕組んで――」
「何を人聞きの悪い事を」
ダークエルフの顔が、更なる悪意に歪んだ。
「ここにお前たちの里があることを知ったのは、全て偶然さ。あの日、猪を深追いして結界から出るような間抜けがいなければ、私も気づかぬままだったろうよ」
「……っ」
「ふふふっ、感謝しているよバーチェ? お陰で主に捧げる成果に、お前たちという格好の余禄まで付いたのだからな?」
「あ……」
身体から、力が抜ける。
「バーチェ!?」
倒れかけた彼女を、チャーガが咄嗟に支えた。
それでも力が入らずに立っていられない。
つまりは全部自分の所為なのだ、とバーチェは思った。
(何が……里を護る森の狩人だ……)
――あの日、自分がドライに出会ったから。
――勝手に一人で猪を仕留めに行って、黒の森に迷い込んだから。
――女の癖に、狩りなんかに入れ上げていたから。
――つまりは、自分なんてものがいたから、こうなった。
(自分がそんな大層なものだと思い上がるから、こんなことに……!)
後悔と罪悪感と自己嫌悪が、止め処なく膨れ上がっていく。
怖くて身体の震えが止まらなかった。
死や苦痛への恐怖ではない。
自分の生が無意味で無価値で、いや、それどころか有害でしかなかったと、そう認めるのが怖かった。そして、それを認めるしかないのが恐ろしかった。
(だって、皆……私が悪いって目で言ってる……)
生き残った仲間たちは、最早敵を見るような目でバーチェを射竦めている。
――お前の所為だ。
――弓の腕が立つからと、粋がっていたのがこの様か。
――お前など狩人では……いや、誇りあるウィッテ族のエルフですらない。
無言の裡にそんな意を込めた視線が、体中に突き刺さっていた。
父も何も言えず、苦衷に満ちた表情に顔を歪めている。
母はまだ意味が分からないと言いたげにおろおろしていた。
肩に添えられたチャーガの手は、痛い程に彼女の身体を掴んでいる。
今はただ、その温もりすら次の瞬間には失われそうで、それだけが怖かった。
「くくくっ。目の前の敵よりも、同族の恥晒しの方が憎いときたか? 度し難いな白エルフ。そんなだから、こんな簡単に攻め滅ぼされる」
ダークエルフの女が、愉しそうに笑う。
その手が、左目を覆う眼帯に掛かった。
「では、仕上げと行こうか」
そして奥に秘された紫色の瞳が晒され――
「っ! 不味い、チャーガ!」
「ば、バーチェ!?」
バーチェは、反射的に動いていた。
チャーガの目を手で覆い、そのまま手を引いて後ろへ駆け出す。
あの眼だ。あの怪しい左目が、ドライの異能の根源だ。一度術を掛けられたバーチェは、蘇った記憶を元にそれを見ないように努めた。
「……あのまま窒息死せぬよう、術を解いたのが仇となったか。まだそんな気力が残っていたとは」
背中にドライの忌々しげな声が浴びせられる。
父や母、生き残りのエルフたちは、ドライの紫色の眼光を見て立ち竦んでいた。
「あ、あの眼を見るな! 魔眼だ! 抵抗出来なくなる!」
「それがあの女の手なのか……!」
必死になってチャーガの手を引き、その場から逃げ出す。
両親たちを置いて行くことに気が咎めない訳ではないが、今はどうしようも無い。
それにチャーガを……彼を失いたくなかった。彼を奪われたくなかった。
自分に最後まで寄りそってくれている誰か。大切な相棒。或いはそれ以上に大事な何か。
使命も誇りも何もかも無くしたバーチェには、もう彼しか残っていない。
頭が混乱して、心は壊れかけているが、彼を失いたくない気持ちだけは残っていた。
(せ、せめて、チャーガだけは逃がさないと……!)
ドライに捕まったらどうなるのか、それはバーチェには分からない。
だが、忌むべき魔物たちを従え、多くのエルフを殺した連中の手に落ちるのだ。生半な奴隷より酷い目に遭うことは確実だった。
もう、こんな自分はどうなっても良いから、彼だけは逃がさないと。
それだけを胸に、彼を引っ張る。
「ちっ。……手間を掛けさせるなよ。さて、魔物に追わせても良いが、それだと事故が怖いか?」
チャーガがここに来る為に空けた壁の穴へ、二人で飛び込む。
その直前、
「ふむ。この魔法なら無傷で足止め出来るな――」
何か、得体のしれない魔力が身を包むのをバーチェは感じた。




