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020 白樺の森の少女

 

 大陸四大国の一つ、ザンクトガレン連邦王国は、またの名を『森と精兵の国』という。

 要所要所を黒い森に寸断され、周囲を木々に抱かれるように点在する平野部を諸侯が割拠するこの地方。それが仮初の統一を経たのは、僅かに二百年前、イトゥセラの歴史の中でも格段に若い国なのだ。

 東部の大平野にガレリンの都を築いたグランドンブルク大王国ハイデルレヒト王朝が盟主となり、連合する中小国、更にはその麾下の貴族たちの利害を調停する体制。その危うさは、集権派と分権派が争う隣国アルクェール王国と比べても、遥かに脆いと言わざるを得ない。

 にもかかわらず、ザンクトガレンが一定の安定を見、他の大国と伍する発言力を得ている。その源は何か?

 ――強さだ。

 魔物や亜人など、人類の脅威となる生物が未だに多く残るイトゥセラ大陸において、森というのはつまり魔の住まう場である。魔蟲、魔獣、不死者、果ては悪魔が跋扈する、文字通りの魔境。そんな森に抱かれた土地で、人間同士の戦争と、モンスターとの生存競争を同時に繰り広げて来たのが、東の大国ザンクトガレンの人々、その祖先だ。

 果てしない争いの歴史の中から生まれた、最も強き大王が、諸王を統治する尚武の国。他国から蛮土、辺土と蔑まれながらも、決して軽んじられることの無い力の強国。それがザンクトガレン連邦王国である。

 だが、そこに住まう人々の力が増したところで、それは魔物の弱体化を意味するものではない。

 ――弱肉強食、適者生存。

 酷烈な自然の掟に磨かれた生命は、熾烈な闘争の中でこそ輝くというものか。人が木々を倒し、森を拓くにつれ、残された樹海に住まう魔物たちは更に力を付けていった。時には森を侵す人を喰らい、時には同じ森で縄張りを争う同胞を喰らう。それはさながら、古代より伝わる蠱毒の呪詛にも似ていた。

 人間と人間が争い、人間と魔物が争い、魔物と魔物が争う。

 静かな森を広げながら、争乱の歴史に彩られた国、ザンクトガレン。

 未だに未踏の地を多く残すこの地には、多くの強大な怪物たちが生き続けている。







 弓を片手に矢筒を背負い、獲物を追って木立の間を駆ける。我が身が吹き抜ける風のように森を行こうと、木々の梢は決して音を立てようとしない。この颯爽たる狩りの時間が、バーチェの何よりの楽しみだった。

 里の大人たちが何と言おうと、これだけは止められない。

 それにこれは皆の為でもある。バーチェは胸に感じる高揚のスパイスじみた後ろめたさに、そう言い訳をする。森を荒らし、静謐を乱す獣を狩れば、調和と平穏は守られる。だとすると自分は立派に氏族の務めを果たしていると、そう言えるはずだ。

 思いながらも、迫る獲物の気配に長い耳がピクリと震える。彼女はエルフだった。ヒトとは明らかに異なる長耳に、抜けるように白い肌。弓矢を携え地を駆ける手足は細長く、かつカモシカめいてしなやかであった。円らな瞳に微熱の如き興奮の色を湛えている以外は、世の人が脳裏に描くエルフの娘そのものである。

 普通、エルフは血を好まない。争いは彼らのよくする森の秩序の維持を脅かすからだ。だが、そろそろ百に差し掛かる頃といった若いバーチェには、そうした型に嵌らないところがある。氏族の娘たちが細工や縫物を覚える間、彼女は若い男衆に混じって狩りに興じていた。のみならず、並の男の倍は獲物を仕留めてみせる。時には一人で熊を倒した事もあった。

 紛うことなき変わり種である。里の中でも口さがない者は「ヒトの血でも混じっているのではないか」と陰口を叩く。同じエルフと思えぬほど野蛮であるというのだ。しかし、生憎その耳は他の物と同じく長く、形の良さは彼女の自慢ですらあった。そして、そのような事を言う輩に対し、彼女はいつもこう反論する。

 これもエルフの一つのあり方である、と。

 エルフは自然の民である。その運行の正しきに倣い、悪しきを正す。それは時として嵐のように心猛ることもあり、仇為す者を雷霆のように打ち据えることもある。己には自然のそうした側面が表出している過ぎない、と。

 バーチェは決して、木を切り森を焼くヒトのような、無益な殺生はしていないつもりだった。ただ里の者が狩人を必要とする時にいち早く名乗りを上げ、獲物の中でも一際大物を狩っていくだけだ。そこには自らが生まれた森と、自らを育んだ里を護る者としての矜持がある。周囲にそれを理解されないのが、彼女の不満だった。


(……いたっ!)


 前方に獲物の影を捉えて、舌なめずりを一つ。そうした所作がまた、大人たちからはしたないと窘められるところなのだが、彼女は一向に直そうとはしない。

 今日の獲物は、近頃になってこの森に迷い込んだ、余所者の大猪だ。余程飢えていたのか、霊薬の材料となる野草の群れを、幾つか全滅させられている。ヒトの中でも『冒険者』と呼ばれる職業に就く者も、時折里の近くに来て希少な草を摘んでいくこともあった。だが、それでも次回以降の採集の為に、三割は残していくのが常である。これではヒトよりも性質が悪い。

 バーチェにとって、この猪は許すべからざる侵略者であった。里の方でも総出で山狩りを行い討つべしとの声が広まっている。まだ正式な沙汰は出ていないが、時間の問題だろう。彼女は弓の練習の名目で里を抜け出し、そして半ば期待していた通りに大猪を補足した。


(思ったより、勘が良いじゃないか)


 標的はバーチェの殺気を気取ったかのように、一目散に逃げ出していた。牛に迫る程の図体の割に臆病だが、その繊細さこそ森で生きる者に必要な感性でもある。


(……けど、甘い)


 この白樺の森はバーチェらウィッテ族の領域である。大猪は馬鹿げた健脚ぶりを見せているが、逃げ道を予測して先回りすれば容易に追いつける。猪という生き物は、思ったより細かいことを気にする性質の動物だ。未知を避ける気質と言っても良い。追い立てれば必ず常通りの経路で逃げる。知らない場所に迷い込むのを恐れるからだ。そしてバーチェは、事前の観察と周囲の地理から、既に目ぼしい逃走路を割り出している。大猪が通り難い木立の密集地などを駆け抜ければ、先回りもそう難しくない。

 進路を変えて木々の間を突っ切ったバーチェは、果たして木立の隙間に猪の横腹を見出した。計算通りである。いくら先回りが出来るからといって、この巨体が全力で突っ込んでくる前に身を置くことは出来ない。横合いから脇腹の柔らかいところを射抜くのが上策だった。

 すぐさま矢を取り出して弓に番え、放つ。エルフにとって幼時から親しんだ弓矢は手足の延長に等しい。ましてやバーチェは里の若者の中でも、一際弓を上手くする。常人が傍から見ていたら、まるで矢筒に手を伸ばした次の瞬間には、いつの間にか矢が射られていたように感じられただろう。

 ――猪の悲鳴が上がった。


「……しぶとい」


 矢を射ち込まれた獲物は、苦痛に頭を振りながらも走り続ける。エルフの弓は一種の礼装だ。森の中で放たれる一矢は、下手をすれば弩より深く刺さる。それを喰らって痛いで済むとは、あの猪も図体に相応のしぶとさを持っているらしい。

 バーチェは林から飛び出して獣道へ降り立つ。そして逃げる猪へ続けざまに矢を射込む。

 一矢、二矢、三矢――全て命中。だが浅い。致命には至らなかった。腿にも当たっているので速度は落ちたが、獲物はまだ逃げ続けている。バーチェの中に自分の未熟への苛立ちと、相手の生命力への感嘆が同時に湧いた。そして、狩人が狩りの相手に抱く敬意とは、常に殺意と欲望が伴う。全霊をもって仕留めることで、その強靭な生き様を己の血肉にしたくなるのだ。


「逃がさないよ――!」


 エルフの娘は、血を流しながら走る獲物をとことんまで追い駆けると決めた。







 猪はそれから半刻ほど逃げ回ってから斃れた。余人には、尻を振りながら無様に遁走した末、地に伏し泥に塗れた醜い死に様と見る輩もいるだろう。だが狩人は決してそうは思わない。別して森に生きるエルフは、だ。大いなる自然より与えられた命を全うせんと、死に物狂いで駆け抜けきった生の終わりである。そこには自然、首を垂れさせる尊厳と、痺れるような美が溢れていた。


「くふっ……。素晴らしい獲物だったぞ、お前」


 追跡の疲労と大物を仕留めた興奮とに顔を上気させながら、バーチェは陶然として呟く。横たわる大猪に対し、最早森を荒らされた憎しみも手古摺らされた口惜しさも霧消していた。汗で頬に張り付いた髪を直してから、猪の亡骸に跪いて祈る。

 その魂の安らかに大地へ還らんことをと、糧となる大いなる恵みを与え賜うた森への感謝だった。

 そう、糧だ。意外に思われるかもしれないが、エルフといえど獣肉は食う。ただ森のあるがままの姿を好む彼らは、それを壊しかねない牧畜という行為に手を染めていない。なので、肉を手にする機会が狩りくらいしか無いだけだ。そして肉をご馳走と感じる感性もまた持っている。それを表に出していいかどうかは、また別問題ではある。エルフは慎み深くあるのを美徳とするからだ。


「しかし、どうしようか」


 一頻りの祈りを終えると、耳の先を弄りながら思案した。里の者たちに、これをどう報告したものか。何しろ年配連中がいつ狩るかを相談している間に、勝手に仕留めてしまったのだ。叱りの言葉が小一日は続くと見て良いだろう。そうなると、折角仕留めた素晴らしい獲物の肉が、彼女の口に入らないかもしれない。

 何しろ里の大人も、霞を喰って生きている訳ではないのである。口唇から殺生を忌み質素を称える言葉を紡いではいても、その奥の舌は肉の滋味を求めているのだ。これが罰だなどと嘯きながら、バーチェから肉を取り上げてしまってもおかしくはない。それは嫌だった。第一、この大猪は彼女が仕留めたのだから。何とか自分の取り分を確保しなくてはならない。その為の考えを巡らせる。

 いっそのこと一人占めにでもしようか? いやいや、とバーチェは首を振る。いくらなんでも慎みが無さ過ぎる。欲深を恥じるだけのエルフらしさは彼女にも存在した。それに何より、一人でちまちま片付けていたら、この豪壮な肉をあたら腐らせてしまう。こんなに見事な獣を、腐らせる? 冗談ではない。狩人としては肉の全てを横取りにされるよりも耐えがたかった。


「チャーガのヤツでも抱き込むかな……」


 弓の腕に劣るくせに、何故かいつも彼女の狩りについてこようとする同世代の若者を思い浮かべる。チャーガは変わった男だった。気が弱くて、獲物の血抜きにすら顔を青くするほど肝が細い。腕力でさえ女の自分に劣る程だ。なのにバーチェが弓を手に出掛けると、必ずと言っていいほど付き合おうとする。足手纏いも良いところだし、いつもあまり狩りを楽しめていない様子だった。なのにどうして自分の狩りにくっ付いてくるのか。バーチェには理解できない思考である。

 だが、彼女の頼みは大概聞いてくれるし、それなりに男衆に顔も利く。肉をたらふく分けてやると言えば、チャーガもその友達もこの話に乗ってくるだろう。何しろ良い肉は、手に入った端から古老を中心とした大人たちが賞味していくのだから、若い連中は常にそれを味わう機会に飢えているのだ。

 名案だと思った。この際、大人どもを差し置いて若者だけで平らげてしまうのも悪くない。徳の高い古いエルフの血肉にしてやれないことは、獲物に大して申し訳なく思う。だが、後年里を支えるだろう有望な若手を育むと思って、我慢して貰うべきだろう。

 仕留められた猪からすれば何とも勝手なことを考えつつ、顔を上げる。

 その時である。


「え……?」


 獲物を仕留めることと、その後のことばかりに気を取られていた所為か、彼女は周囲の異変に今まで気付いていなかった。

 周りを囲う木々の幹は暗く、枝から茂る葉の色は黒と見紛う程に濃い。ここはあの白く、淡く、明るい、母なる白樺の森ではなかった。その周りを囲う、別の森だ。人間たちが『黒の森』と呼ぶ、ザンクトガレンの大樹林。猛獣と怪物たちのひしめく魔窟である。


「しまった! 深追いし過ぎていたんだ!」


 己の迂闊さに思わず顔を歪める。元より大猪は白樺の森の外から入り込んで来た異物。しばらくはそこに留まっていたが、本拠はこの黒の森だったのだろう。それをバーチェが弓で射かけて追い回したのだから、堪らず元の巣にまで引き返して来たのだ。彼女は狩りに熱中するあまり、そうとは気づかずに猪を追い続けた結果、エルフの結界の外にまで迷い出てしまっていたのだ。

 早く結界の中に戻らなければいけない。エルフの森の安寧は、ひとえに精霊の力による守護で外敵を遠ざけていることにある。獣程度は時折侵入してくるが、それでも魔を帯びた怪物は退けられて来た。だが今は違う。バーチェは加護無き身一つで、魔の森に立ち行ってしまった。結界を離れたエルフの小娘など、モンスターにとっては好餌だろう。何しろ嗅ぎ慣れない他の森の匂いと、高い魔力を放ちながら怪物たちの縄張りを歩いているのだから。


「まずい、早く離れないと……!」


 一転して狩る者から狩られる者に転落したことを悟ったバーチェは、素早く身を翻して駆け出す。大猪のことは惜しかったが、拘っている暇は無い。獲物を狩り立て、その傍で祈りを捧げ、のんびり思案までしていたのだ。黒の森に入ってから時間が経ち過ぎている。今の今まで襲撃を受けなかったのは、単なる幸運に過ぎない。

 無論、本来はこの森の住人である大猪を狩ったバーチェである。尋常に真っ向からの勝負なら生半な怪物に後れをとりはしないだろう。が、ここは強力なモンスターたちの縄張りだ。狩人とは本来、自分の狩り場で戦うものだが、今回はまるで逆。逆に自分がこの森で狩りを行う者たちに狙われているのである。勝算を鑑みると、不利という言葉でさえ生ぬるいだろう。ましてや今は大物を一頭仕留めて矢を大分使っているのだ。戦いとなれば早々に矢が尽きる。

 早く、早く自分たちの森へ帰らねば。

 だが、その思いを嘲笑うかのように、


「え……?」


 ――ズズン。


 地響きを伴う足音と共に、バーチェの周囲に翳りが差した。

 眼前に現れたのは、逆光を背負う小山の如き緑がかった肌の巨体。森の木々より高い無毛の頭からは円錐状の角が生え、不吉に光る単眼が哀れな獲物を見下す。

 サイクロプス。

 様々な属性の力を帯び超常の力を振るうギガースに対して、単純な腕力と強靭な生命力だけで巨人族の中でも双璧を為すという、暴力の化身じみたモンスターである。

 高位の冒険者でも単身での打倒は難しく、パーティで当たって漸く、という難敵だった。

 だが、この場にはバーチェ一人のみ。それも彼女は冒険者ではなく狩人だ。主たる相手は獣であり、魔物ではない。例え矢玉の備えが万全であろうとも、決して敵う相手ではないだろう。


「ひ、あっ……」


 巨人と目が合った瞬間に、バーチェは竦み上がっていた。

 生半な魔物には後れを取らないと、そう思っていた。

 だが、目の前に現れたのは何だ? 熊をも足先だけで蹴散らす破格の巨体。ミチミチと音を立てそうな程に膨れ上がった鋼の筋肉。どこをとっても凶悪強壮そのものである。森に数多ある魔物たちの中でも、間違いなく最高位の怪物だった。

 足が震える。弓矢を構えるべき手は、無意識に硬く拳を結んでいた。先程からカチカチとうるさいのは、自分の歯が立てる音だろうか?

 戦慄に身体を縛られながらも、精神は何処か冷静にその無様を見下ろしている。現実逃避である。発狂せんばかりの恐怖から逃れる為の防衛機制だった。しかしそれで守れるのは、あくまでも飽和を迎えつつある心だけ。数分と置かず肉体を襲うであろう暴威には、紙の盾ほども役に立ちはしまい。


 ――ズズン。


 敢えてか巨人はゆっくりと、バーチェの方に近寄って来た。


『グ、グ、グ……』


 籠った声を漏らしつつ、サイクロプスは歯を剥き出しにした。針山じみたギザギザの歯を、奇妙に赤い舌がべろりと舐める。

 笑っている。舌舐めずりまでした。


(食わ、れる?)


 その認識に、嫌悪の情が浮かんだ。

 殺して食うのは生き物の性だ。バーチェも狩人として多くの動物を仕留め、その肉を口にしてきた。だが、そこには森の秩序にならった一種の調和があったはずである。生体系の均衡を維持するという大義が、敬意をもって獲物を狩るという誇りが、己の糧となってくれる相手への感謝があったのだ。

 この魔物には、それが無い。食った獲物について記憶することなど、精々が仕留める術か味くらいのもの。相手が絶命の際を迎えるまで玩弄し、怯える様を楽しみながら食べる。それで得た活力ですることなど、力に任せて暴れるだけ。後に残るのは、破壊と混沌のみである。

 そんな化け物に殺されたくはなかった。どうせ殺されるなら、獣の爪牙に掛かる方が良い。鹿の角に貫かれ、熊の爪に裂かれて死んだ方が、望みに適う。あの大猪の牙でも良い。糧になるなら、森の調和の一部であるあの獣たちが良かった。それならば、エルフの大望である自然の摂理、その循環に還ることも出来るだろう。だが、魔物に殺されれば、その道は無い。魔物は瘴気に侵され、摂理を外れているからだ。それに喰われた者に死後の安息は無いと、エルフたちには信じられていた。


「いや、だ」


 青褪めた唇から、震え声が漏れる。

 それが切っ掛けか、肺に残っていた空気が爆発的に搾り出される。


「誰か、助けてえっ!!」


 奥地の森に、絶叫がこだまする。

 その時、バーチェの脳裏にあったのは誰の姿だったか。自分を生み育んできた両親か、抑えつけられ疎んじていたはずの大人たちか、それとも頼りにならないはずの男友達だったろうか。

 いずれにせよ、白樺の森から離れた地で上げた声が、彼らに届くことはなかった。

 だが、




「――動くな」




 聞き覚えの無い声に、竦み上がっていた身体がビクリと震える。


(だ、誰?)


 疑問を覚えるも、バーチェは身じろぎ一つ出来ずに固まってしまった。

 動くなと、そう告げた誰かに従うべきだと、狩りで磨いた本能が告げている。

 バーチェは自分が今まで培ってきたそれに全てを賭けた。

 果たして、声の主らしき気配が背後から近寄って来るのが感じられた。


「おい、この図体ばかりの木偶の坊が」


 バーチェのすぐ後ろにまで来たその人物は、あろうことか眼前に立つ巨体に対して暴言を吐く。

 声は耳に滲み通るような玲瓏な女性のもの。だというのに、言葉と語気は慎みをもって鳴らすエルフの里では聞いたことが無いほど荒い。バーチェも気が強い方ではあるが、ここまで痛烈な言葉遣いをした憶えは無かった。

 それにしてもこの女性らしき誰かは、状況が解っているのだろうか? 今、自分たちは見上げるような巨体の怪物と向き合っているのである。人数はバーチェ一人から二人に増えたが、絶体絶命であることに変わりは無い。なのに、あろうことか眼前の巨人を挑発しだしたのだ。


「あ、あの……」


 普段の強気が消し飛んだ、己の出した物とも思えない哀れっぽい声が漏れる。

 背後の女はそれに頓着した様子も無く、またサイクロプスに向かって言った。


「――ここから、立ち去れ」


 瞬間、バーチェの長耳が引き攣った。

 背中に感じる女の気配が、爆発的に膨れ上がったのだ。

 前に立つバーチェが怖気を振るうほど、強大な魔力の高まりである。

 まるで午睡にまどろんでいた獅子が、目を覚ました瞬間の如き威圧感。今まで無理に抑え込んでいた物を、一気に解き放った。そう感じられた。


(こ、この人……なんて魔力なの! こんなの、里の大人にだっていやしない。下手をすると長以上!?)


 信じ難い思いだった。だが、同時に納得を覚える。

 これ程の圧倒的な魔力の持ち主である。眼前に立つ巨人をすら、脅威と見なせないのは当然か、と。


『ギ、ガ、ガ……っ!?』


 単眼の巨人も、現れた女の力を感じたのだろうか?

 森の木々すら圧する巨体が、雷に撃たれたように跳ねる。

 一ツ目を大きく見開いて、狼狽も露わに一歩下がった。それだけでバーチェの身体が浮き上がる程の地響きを起こせるというのに、巨人は白い息を荒げて怯みを見せていた。

 そう、怯んでいる。バーチェには、邪悪な巨人が魔力だけで気圧され、あまつさえ怯えていた。


「重ねて言うぞ。――立ち去れっ!」


『オオォォォオンン……っ!!』


 駄目押しの怒鳴り声に雄叫びを――いや、悲鳴を上げて、サイクロプスは遁走する。

 ズズン、ズズンと近づいてきた足音が、その十倍以上のテンポで遠ざかっていった。

 背後から驕慢な響きで鼻を鳴らすのが聞こえる。

 現れた女は、干戈を交えることすら無く、見事に巨人を退けたのだった。


「助、かった……?」


 悪い夢から覚めたような気分でそう呟く。

 今まで一度も出たことの無かった森から迷い出て、今まで狩ってきた獣とは比べ物にならない魔物に遭って、……そして、今まで感じたことも無い巨大な魔力の持ち主に救われた。

 これが夢でなければ何だと言うのだろう?


「おい」


「は、ひゃい!?」


 背後の女に声を掛けられて、バーチェは咄嗟に振り向き――そして仰天した。

 女は彼女の様子に頓着せず続ける。


「一応、命は救ったのだ。謝辞を述べるくらいの礼は弁えているだろう?」


 そう言う女は、同性から見ても美しかった。

 銀色の髪に褐色の肌、切れ長の目に整った鼻梁。成熟した豊満さと若々しい引き締まりとを兼備した身体は、生来細身であるエルフの女には見られない類の見事な起伏を描く。

 過去に怪我をした事でもあるのか、左目を眼帯で覆っているのが気に掛かるが、それを差し引いても絶世の佳人である。

 だが、バーチェの驚きを誘った特徴はそこには無い。


「それとも、何か。お前の氏族の掟では、色違いとは口を利くのもご法度か? なあ、白エルフよ?」


 艶めく銀髪を押し退ける、エルフと同じ長く尖った耳。

 褐色の肌とそれとを兼ね備える種族は、大陸広しといえど一つしかない。


「ダーク、エルフ?」


 呆然としたその呟きへ、是と返すように女はくすりと笑った。







「ウィッテ族のバーチェ、といったか」


 ダークエルフの女は切り取った肉を火で炙りながら、思い出したように言う。

 周囲には小岩を並べて魔物除けの法陣が組まれている。その中心には、張り出した木々の枝を骨組みにした天幕が張られていた。信じられないことに、この奥深い魔の森の中でキャンプを行っているのだ。


「はい……それで、貴女は?」


 自分の仕留めた獲物が美味そうな匂いを立てて焼かれていくのを見つつ、バーチェも聞き返した。早急に白樺の森に帰りたかったのだが、魔物の跋扈する黒い森を単身で移動するには勇気が要る。それに生憎、日も傾き始める刻限だった。結局、狩りの成果を差し出すのを対価に、この女の傍で一晩を明かすことになったのである。

 バーチェがこうして女と連れ立っているように、エルフとダークエルフは別段敵対している訳ではない。むしろ縄張りにずかずかと踏み込み、財産を奪ったり時には奴隷に落としたりしていくヒト種の方が、よっぽど敵に近いだろう。エルフが光と闇に分かれて合い争っている、などというのは愚劣なヒトどもの勝手な思い込みである。太古に祖先が住処に選んだのが、結界に守られた森か他の勢力の寄りつかぬ荒野かで、分かたれたに過ぎないのだ。そもそも住む場所が離れ過ぎていて、出会うこと自体が稀なのであるから、それで両種族が戦うというのもナンセンスな話だった。

 女は猪肉の焼き加減から目を離して口を開く。


「そう言えば名乗っていなかったな。私はドライだ」


「? それだけですか?」


 女が名前だけ端的に名乗るのを、バーチェは不思議に思った。ダークエルフと会うのは初めてだが、元々はエルフと共通の先祖を持つ種である。彼らも自分たちと同じく誇り高く、氏族の名を誉れとすると聞いていた。誰何への応えには、氏族の名も併せて挙げるのが普通だろう。

 その事に付いて訊ねると、ドライと名乗ったダークエルフは言った。


「私の一族は、ヒトに攻められ既に滅んだ。お前の前に居るのが、その最後の生き残りという訳だ」


 そして、ふいっと肉を焼きに戻る。その声には、ぞっとするほど感情の色が無かった。仲間や家族へ向ける哀悼や、氏族を滅ぼした相手への憎悪も無い。そういった思いがあってしかるべきであるのに、ドライの応えにはそれらが全く欠けていた。

 ――心が、擦り切れてしまったのではないか。

 バーチェはそう直感した。

 想像したくもないことであるが、もしも自分の里が攻め滅ぼされ、己がただ一人の生き残りとなってしまったら? 悲しいだろう。手を下した者を憎みもするだろう。だが、いつまでもそんな感情を抱えて、生き続けられるだろうか。ただでさえ自分たちは長命だ。胸が張り裂けんばかりの悲憤を抱えて生きるには、その寿命は長過ぎる。生き長らえる間に、そんな思いが磨滅してしまったとしても、おかしくはない。


「すみません、何か、嫌な事を聞いちゃって……」


「なに、気にしていないさ」


 振り向きもせずに答える言葉には、やはり何の感慨も無かった。

 思いがけず相手の古傷に触れてしまった気分だった。痛みを訴えられなかったとしても、さらりと済ませるには落ち着かない。気まずい沈黙がしばらく流れる。

 耐え切れなくなったバーチェは、話題を変えようと、またぞろ口を開く。


「あの、この森には何をしに?」


「長耳が森ですることなど、一つきりだろう。狩りだよ、狩り。もっとも、お前よりも少しばかり大物を狙っているがな」


 くつくつと人の悪そうな笑みを漏らしつつ、冗談めかして答えるドライ。

 多少空気が緩むのを感じたバーチェは更に踏み込んだ。


「ドライさんは、冒険者なんですか?」


 冒険者。何年かに一度、白樺の森にも踏み入ってくる連中だ。種族は主にヒトだが、中にはあの土臭いドワーフや混ざり者のハーフエルフなどもいたりする。エルフの中にも、外に憧れを抱き里での暮らしを退屈に感じた者が、冒険者になろうと森を出る事もあるという。時には同胞の森をも荒らすような連中に与するなど、バーチェにとっては理解し難いところであるが。

 ともかく、獣ではなく魔物を狩る職業など、それくらいしか思いつかなかった。軍隊のような集団ではなく単身ともなれば、特にである。

 ドライは空いた手で首元を弄りつつ、


「まあ、似たようなものだ」


「似たようなものというと?」


「私を買った男が、冒険者だったんでね」


 などと、ぎょっとするような事を言う。


「か、買ったァ!?」


「おいおい、急に叫ぶなよ。折角焼いた肉を取り落とすところだったじゃないか」


 ほら、と焼き上がった肉を野草の葉に盛ってこちらに差し出してくる。バーチェはそれを神妙に受け取りつつ先を促した。


「そんなに驚く事は無かろう。氏族を滅ぼされた亜人種の行きつく先など、奴隷くらいしか無いだろうに。というか、私を見ていて気付かなかったのか?」


「むぐむぐ……見ていて、と言うと?」


 肉を喰いながら喋るなよ、と呆れ顔のドライ。そうは言うが、久しぶりの猪肉なのである。焼き立てを早いうちに食べないと、猪の霊にも申し訳が立たない。それにしても美味い肉である。塩加減も程良かった。臭み消しにと振り掛けられた香料は、外界で手に入れたものなのだろうか。初めて知る味と香りだったが、脂身が引き締まるようにも感じられて、中々気に入った。


「首輪だよ首輪」


 ドライはそう言って自身の首元を指差す。そこには言葉通り、銀色の首輪が嵌っている。バーチェの美的感覚からすれば、どうにもドライに似合っていない代物だった。女性の身を飾るには太くてゴツイし、細工も見れたものではない。何よりエルフとしては金物の類は下品に見えてしまう。装身具に用いるには貴金属よりも、専ら瑪瑙や翡翠などの宝石が重宝され、それを紐糸で首からさげたり、刺繍で服にあしらうのが粋とされた。

 金銀のごときは趣味の悪いヒトどもか、それを掘るのが趣味のドワーフなどにくれてやればよろしい。我らは生まれながらに、輝ける金糸の髪を備えている故に。……それがエルフの美意識だ。ダークエルフの場合は水晶などを好むと聞くが、貴金属の類はやはり遠ざけられるはずである。


「これはね、あの毛無しの猿どもが奴隷に着ける証なのだとさ。ついでにいえば、飼い主の言う事を聞かせる為の魔法も掛かっている」


 毛無しの猿とは、長命種が命短きを生きる種族を呼ぶ蔑称だった。口汚い言葉なので、余程腹に据えかねる事が無ければ言われない言葉でもある。バーチェはそこにドライの未だ尽きぬ怨恨を見出していた。いかに悲しみ怒り続けることに疲れ果てようと、消えない思いは確かにあったのである。バーチェは何故かそれが悲しかった。

 ドライは自分の分の肉を焼き始めながら続ける。


「そんな訳でな、猿どもがうようよいる街の市場で、それこそ物のように売られたのさ。聞いた話だと、相場より随分安く買われたらしい。何分、左目を始めとして、身体中至るところを手酷くやられていたのでな。今となっては傷も残っていないが」


「…………」


 言葉も無い。気まずさから逃れる為に逸らした話題で、また藪蛇を突いてしまった。

 幸いなのは、それを語る口振りにそれほど重みがともなっていないことくらいか。どうやら売った連中は兎も角として、買われた相手には然程憎しみを抱いていないらしい。

 それで気が楽になるかというと、そんな事は全く無いのだが。


「おいおい、泣きそうな顔をするんじゃあない。かつては兎も角、今となっては買われて良かったと思っているよ。アイツを喜ばせるのも癪だから、言ってやるつもりは無いがね」


「その人のことを、恨んだりはしないんですか? だってドライさん、奴隷だってことは無理やりこんな危ない所に来させられているんじゃあ――」


「それは侮辱か? ウィッテ族の」


 ドライは軽く鼻で笑った。


「この森のどこが、私にとって危ないと言うのか」


 そうだった。サイクロプスほどの魔物を、威圧一つで退ける程の魔導師である。あれだけの魔物はこの森でも生態系の頂点を争える大物だろう。それを簡単にあしらえるのだから、ドライにとって黒の森は文字通りの狩り場である。


「し、失礼しました」


「くくっ。冗談に本気になるなよ。白エルフは真面目だな」


「ダークエルフの冗談が際どいんですよ」


「ほう、中々言うじゃないか」


 言って、ドライは肉を裏返す。


「話は戻るがね。私もこれで結構楽しくやっているんだ。氏族の者は死に絶え、一人生き延びた身を呪った事もあったが、今は……仲間がいる」


「仲間、ですか」


 ドライを買ったのは冒険者だという。では、仲間とはそのパーティのことだろうか。バーチェはそう考えた。


「ああ。同じ目的の為に心を一つにし、力を合わせ、命を預けられる相手さ。……若干一名、どうしようもない阿呆もいるが」


「どんな人たちなのか、聞いても?」


「……まあ、構わんよ。こういう稼業だから突っ込んだことは教えられんが、それでもいいならな」


 戦う者の心がけ、というものだろうか。冒険者の中には探索の成果を争って殺し合う者たちもいると聞く。何とも浅ましい所業だと思うが、外の世にはそうした輩もいるのだろう。それを思えば、仲間の手の内はそうそう晒せるものではない、と考えれば理解できる。それでも、この女性が衒い無く仲間と言い切る人々がどんな人物かは興味があった。

 バーチェが肯くと、ドライはナイフに刺して焼いていた肉を一齧りしてから続ける。


「仲間は私を含めて四人。ちょうど男女が二人ずつだ。一人は、その、なんだ。今言ったどうしようもない阿呆でな。こいつが一番の新参だ。本当に碌でも無い男だ。お調子者で、うるさくて、そのくせちょっとしたことで落ち込むわで、本当にどうしようもない。だが腕だけは確かだな。得意となる分野では、私より上手く魔法を使う」


「ええっ!? ど、ドライさんよりですか!?」


「得意な分野だけなら、と言っただろう? 無論、それ以外なら私の方が格段に上だ」


 と、豊かな胸をフンっと突き出す。

 だとしても信じられない。ドライが卓越した魔導師である事は、魔力だけで分かる。それを相手に一つでも上回れる分野があるなど、バーチェから見ても恐ろしく腕の立つ魔導師だ。

 エルフの端くれである彼女から見ても及びのつかない位階の持ち主が二人。一体、普段は何と戦っているパーティなのか。


「次は女だ。これがまた凄まじくてな……なんと魔法と剣を同じくらい巧みに使う。勿論、どちらも一流だ」


「……冗談でしょう? 魔法と剣を、どちらも一流って」


 本当に冗談ごとだった。魔法とはそれほどまでに奥深い分野だ。生まれつき魔力に恵まれているバーチェとて、弓との二足の草鞋を履きながら魔法で一流まで達する事は出来ていない。他の道を修めながら極められるほど、魔導の研鑽は甘くは無いのである。さては相当長生きした長命種なのかと思ったが、


「有り得ないだろう? 私も初めて会ったときなど、本当にヒトかと疑った程だ。実際、人間離れした実力の持ち主だったしな」


 残念なことにヒトであるらしい。開いた口が塞がらない思いだ。

 確かにヒトは短命である分、数が多く、時には突然変異的に怪物的な素養の持ち主が現れる事もあると聞く。ドライの言う人物もそうした類なのだろう。


「はっきり言って、底が知れないな。私がどうしても勝てない相手を挙げるとしたら、アイツも確実にその範疇に入るだろうよ」


 それは勝てないだろう、と思った。魔法の打ち合いならばドライが有利だろうが、剣も一流と呼べるほど使えるというのだ。魔法勝負で防戦に徹され、凌ぎ切られて一度接近を許せば、魔導師としては斬られるしかない。下手なドラゴンを敵に回すよりも危険な相手だろう。


「まあ、その恐れは杞憂だがな。根が真面目であるし、味方を裏切ることなど出来ん女だ。堅苦しくて時折息が詰まらないでもないが、なるべく人にそう感じさせないよう気も払える。そうだな、同じ旗の下に居てこれほど心強い相手もおるまい」


「凄い褒めようですね?」


「なんだ、私が偉そうに見下してばかりの女とでも思ったか?」


「い、いえいえ、とんでもない! それで……最後のお一人は、どんな人なんです?」


 慌てて話を先に進める。

 最後の一人……これが恐らく、ドライを買ったという冒険者だろう。仲間は自分を入れて四人だと語り、そして今までに彼女を買ったらしき人物と思える話題が無かったからだ。一族を失ったダークエルフに、再び生きる喜びを教えた誰か。バーチェとしても、どんな人間なのか気に掛かる。

 果たして、ドライははたと言い淀んだ。


「アイツ、のことか……」


 そして中空に視線を彷徨わせる。手元では肉を刺していたナイフが、落ち着かない様子で弄ばれていた。


「何と言えば良いのだろうな……少し、よく分からないところのある男だ」


「よく分からない?」


「ああ。一体、何を考えているのか。いや、違うな。考えはすぐに顔に出る。そのくせ、どうしてそんな事を考えるのかが理解できん……」


 ブツブツと、こちらに語り聞かせると言うよりは、まるで整理できていない考えを纏めながら独り言を漏らしているような喋り方だった。勿論、そんな話をされても、


「は、はあ……」


 そんな風に生返事を返すことしか出来ない。


「アイツ、元はそんなに深く考えがあって私を買った訳じゃあなかったんだ。ただ単に傷ありのダークエルフが安く手に入るからって、それだけが理由みたいなものだったんだ。なのに、何なのだろうな? 私が役に立ってみせても、あんまり嬉しそうな顔をしないし。時折、『無茶はするな』だの『一人で大丈夫か?』だのと小言ばかりだし……本当に意味が分からん。普通は、もっと喜ぶべきだろう? お前が私を連れて来たんだぞ?」


「そ、そうですね……」


 何だか話の向かう方向がおかしくなってきた。

 バーチェは何だか何処かで似たような調子の話を聞いた覚えがある。あれは何だったか。確か、そう、あれだ。隣の家に住んでいた馴染みのあった女性が、嫁いでからしばらくして会った時に聞かされた愚痴だ。

 そんなことを思っている間にも、ドライの話は続く。


「二人きりになるのを露骨に避けるし、仲間内での話し合いじゃ軽口しかきかん。もう少し、真面目に深く話し合っても良いと思わないか? どうだ?」


 ついには膝を抱えて目を伏せてしまう。目元が赤らんで見えるが、それは焚き火の明かりの所為だろうか。

 バーチェは何だかくすぐったいような微笑ましいような気分になる。

 そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。ドライはこちらを見てムッとする。


「何だ、その顔は?」


「いえ、ドライさんはその人の事を随分大切に思っているんだな、って」


「当たり前だろう。仲間は大切だ。仲間は皆大切なんだ……そうだろう?」


 そう言って気まずそうに視線を逸らすが、口振りは何処となく不満げに見えた。

 その仕草がまた子どもじみていて、バーチェは思わずくすりと笑みを漏らす。

 里でも長くらいしか太刀打ちできないであろう魔導師で、また自分より少なくとも百は年上であろうに、目の前の女性はどこか可愛げが抜けていない。

 ドライは少し癪そうに鼻を鳴らす。


「それより、私はもう十分に話したぞ。今度はお前が何か聞かせろ」


「え、私からですか?」


「そうだ。何だっていい。暇潰しにはなる。話せ」


 そう言われても困る。バーチェは生まれてこの方、狩り一筋だ。同じ年頃の娘のように話題も多くは無い。それに狩りの話などされても、より大物を狩っている冒険者には退屈な話題ではないだろうか。


「ほらほら、話せ話せ。何なら舌が滑らかになる魔法でも掛けてやろうか?」


「や、止めて下さいよ。分かりました、話しますって!」


 急かすドライに、バーチェは仕方無く思いつくがままの事を語った。

 初めて弓を取った時のワクワクした気持ちだとか、最初に狩った獲物は何だったのかだとか、里の大人たちや同い年の女友達が狩りに無理解なことへの愚痴だとか、色々だ。

 そんな他愛も無い話題を、ドライはいちいち真面目くさった相槌を打って聞いてくれた。余程話相手に飢えていたのだろうか。

 気付けば、黒の森の夜は深々と更けていった。

 

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