001 マイ・ファーストレディ<前篇>
※主人公がどんどんゲスくなっていきますので、ご注意を。
僕の初めての奴隷兼将来の助手候補・一号ちゃん(仮)を家に連れ帰ると、案の定ちょっとした騒ぎになった。
父は頭を抱え込むは、兄は化け物を見るような目で見てくるわ、使用人たちは騒然とするわで、散々である。まあ、予想通りの反応だった。
で、父の説教やなんやを聞き流して、屋敷の地下に構えたラボに戻った。一号ちゃん(仮)は、僕の仮眠用ベッドに寝かしつけてある。彼女にはまだ息があるのだ。いつ息の根が止まるか分かったものではないが。
にわか錬金術師であり、現代日本からの転生者として、聞きかじりとはいえそれなりの医学知識がある程度の僕であるが、そんな素人が診察しても分かることがある。どうやら一号ちゃん(仮)に加えられた暴行は、想像以上に陰惨で悲惨であることが、だ。
ここでは書くことが憚られるような無体に遭わされているのは、まあ基本だ。特筆すべきは顔面の骨格をメッタメタに砕き、その上で回復魔法を掛けられていることだろう。これは延命の処置なんていう温情に満ちた代物ではない。もっと底意地の悪いものだ。
簡単に言うと、折れた骨をわざと歪な形で繋ぎ、元の形に戻さないようにしているのである。おまけに歪んだ骨格が顔の肉を食い破り、あちこちが内側から膿んでいるという悲惨さだ。これでは仮に命を拾っても、残りの生涯はずっと顔面が崩れた状態で過ごすことになる。教会の神官でも治せるだけの力量を持つ者は稀有だろう。そして、その為には喜捨という名目の治療費が、とんでもなく掛かる。つまり奴隷なんていうお金と無縁の存在には、一生かかっても治せない。
これはどう考えても、年齢が一桁の小児にする行いではない。というか、大人にだってやっちゃいけないだろう。
こうも執拗に容姿を破壊する意図が見え隠れする行為からは、どうも女性の同性に対する深甚な嫉妬だの粘着質な憎悪だのなんだのを、感じずにはいられない。中国の呂后や則天武后なんかが夫の愛人にやったアレと似た所業だ。
「ひょっとして、奴隷として売ったのもそういう意図なのかな」
いわゆる人豚、という悪名高い逸話。その亜種。この世界で最低の身分である奴隷に落とし、更には奴隷としても買い手が着かない状態にして貶める。惨い話である。
まあ、どうでもいい話だ。僕は彼女を買ったのであって、弁護士として雇われた訳ではない。年端の行かない少女をこんな目に遭わせるような性情の持ち主とは、関わり合う気など毛頭無いのだ。
僕が彼女にすることはもっと別のことである。
――チチチ、とラボの隅に置かれた籠の中で鼠が鳴いた。
そういえばそろそろ餌の時間だ。僕はそいつに向けてヒマワリの種を放ってやる。
鼠は檻の中に投げ込まれたそれを、『両手』で拾って齧り出した。
全身麻酔。
増血剤投与。
化膿部の切除。
歪められた骨格の整形。
顔面部への人工筋肉・人工皮膚の移植。
エトセトラエトセトラ……。
とにかく色々やってみた。初めての本格的な人体実験ということもあって、張り切ってやってみた。今までは使用人相手に『子どもの悪戯』で済む程度の小規模なヤツしかできなかったからなあ……。
勿論、僕がいくらこの年にして大人並の知能を持っている転生者とはいえ、錬金術師としては駆け出しであり、前世で医者だったわけでもない。初めての手術は色々と失敗が多かった。途中で切っちゃいけないところを切っちゃったり、麻酔が切れちゃったりとか。特に顔の皮を外して膿を取っている時に麻酔が切れた時は大変だった。何か一号ちゃん(仮)が震えているなー、と思ったら目が覚めていたのだ。それなら声くらい出しても良かったのに。危うく気付かずに執刀を続けて、痛みでショック死させかねないところだった。
そうした諸々の失敗を乗り越えて、僕が一通りの施術を終えることが出来たのも、全て魔法のお陰だろう。僕が使えるのは初歩も初歩、RPGでいうところのレベル一〇程度で覚えられる範囲に過ぎないが、それでも血管の損傷程度は塞げる回復魔法など、有用な物が揃っている。これらを駆使することで、未熟な腕前をかなりカバーできたのだ。ファンタジーって凄い。こんなに魔法が便利なら、そりゃ科学なんて発達しそうにないな。
特に物質の構造を把握する為の探査魔法なんて、とんでもない代物だ。アレのお陰で、僕は一号ちゃん(仮)の悪意を以って歪められた顔面、その元の骨格の形を知ることが出来たのである。いや、練習した甲斐があったものだ。物の構造を知るのは、錬金術の基礎だしね。
……にしても、かなり血腥いことをしているのに、まるで平気であるとは、僕の精神はどうしてしまったのだろうか?
医療行為の為とはいえ、他人の身体に刃物を入れるなど、前世の僕では考えられない。繰り返すが、前世は医者ではなかったし、更に言えば注射も大嫌いだった。刃物を人に向けたことなんてありはしないし、喧嘩すらしたことは無かったのに。
というか、物凄くナチュラルに奴隷だの人体実験だのを受け入れている辺り、相当にアレだ。
ううむ、この世界に生まれてからまだ十年未満とはいえ、既に貴族社会に精神を毒されているのだろうか。貴族にあらずんば人にあらず。みたいな。人間、特殊な役割を振られるとそれに流されてしまうという、前世の世界じゃ映画の題材にもなった心理学上の学説があるが、それと似たようなものだろうか。
ひょっとしたら、僕の素の性格がかなり壊れてるだけなのかもしれないが。
まあ、一回死んでいる身だ。人生観も人間観も、多少は変わっても仕方ないだろう。
閑話休題。
というわけで、一号ちゃん(仮)の治療はひとまず成功裏に終わっている。
悪意ある形に捻じ曲げられた顔立ちも綺麗に復元したし、手荒い扱いで切れていた部分も治しておいた。
感染症に罹った気配も無いし、身の回りも清潔を保っている。
後は顔を覆っている包帯が取れるのを待つばかりである。
が、それで済んだのは身体面の治療のみだ。メンタルケアの方は、ほとんど手つかずである。
正確な経緯は知らないが、それなりの身分のご息女が、ある日突然にケダモノどもの欲望のはけ口にされ、更にその容色を完膚なきまでに破壊されたのだ。しかも年齢一桁で。これがトラウマにならないはずがない。というか、ならなかったらその方がどうかしている。
その証拠に、既に会話に支障は無いはずなのに、僕と彼女から一度として意味のある言葉を聞いたことが無い。彼女の名前さえもだ。お陰で彼女の事は、未だに一号ちゃん(仮)と呼ぶ羽目になっている。や、勿論(仮)まで口に出している訳ではないけれど。
とはいえ、そちらの方は僕には専門外だ。え? 前世知識でカウンセリング出来ないか、って? またまたご冗談を。生まれ変わってこの方、ほとんど屋敷から出たことのない、良く言ってインドア派、悪く言って引き籠りの僕に、そんなこと出来る訳が無い。前世の知識も聞きかじりの心理学知識が多少ある程度――ネットで読んだ、って程度の雑学レベル――だ。夢診断を頼まれても、フロイトよろしく全て性欲の所為、で片付けるのが手一杯である。身体の方の治療だって、学生時代の生物の授業を思い出しながら、この世界の魔法の力でなんとかやり遂げたのだ。これ以上を期待されても、その、なんだ、困る。
駄目押しをすれば、一号ちゃん(仮)は僕の事を、彼女に無体を働いた連中と同程度か、下手をしたらそれ以上に恐れている可能性だってある。彼女からすれば、死に掛けて朦朧としているところを、訳も分からないまま連れ去られて、得体のしれない薬を投与され、意識の無い内に身体のあちこちを弄られ、とされているのである。医学の進んだ前世でも、大手術を前に外科医に身を任せて恬然としていられる患者はそういない。歯医者の待合室でさえ、死刑執行を待つ囚人のような顔をする人は多いだろう。子どもなら尚更だ。その上、僕はまだ八歳児だし当然無免許である。そもそも、この世界に医師免許は無いけれど。そりゃ、不信感と恐怖心は鰻登りだろう。僕だったら、絶対にそうなる。
困ったことだ。彼女には身体が治ったら僕の助手として働いてもらいたいというのに。敵意や不信があっては、教育に差し障る。
勿論、奴隷には服従の魔法がデフォルトで掛けられているのだから、それでゴリ押せばいいのだが、やはり本人が積極的に協力してくれた方が余程捗るのは、言うまでも無いことだ。
僕は彼女がこちらに抱いている不信感が、なるべく小さいことを祈っていた。
数日後。いつもの地下室にて。
「やあ、一号ちゃん(仮)。今日はいよいよ包帯を取る日だよ!」
「……?」
僕が柄にもなくテンションを上げて言うと、一号ちゃん(仮)は無言で包帯だらけの顔を上げた。
結局、今日にいたるまで彼女との会話は成立しないままである。何度も会話を試みているのだが、一号ちゃん(仮)は常に無言を守ってきた。声帯に瑕疵は無いし、殴られた際に噛んだらしい舌も治療したのだが。なのに彼女は、苦痛に悲鳴を上げることさえしない。まるでこの世の全てを拒絶しているようですらある。
うーむ、出来ればこれを機に、少しは心を開いてくれれば良いのだけれど。まあ、僕だったら、本人の同意に基づかない医療行為を施した相手なんて、信用も信頼もしないだろうが。
そんな考えを弄びながら、人形めいて無抵抗な彼女を椅子に座らせ、壁に設えられた姿見へと向けさせる。何だか美容師にでもなった気分だ。というか、実際髪もカットしたというか刈ったんだけど。だって手術の邪魔だったし。なに、そのうち生えてくるさ。
「それじゃ、外すからね。じっとしているんだよ?」
結び目をハサミで切り取り、切れ端からゆっくりと包帯を巻き取っていく。布と皮膚が微かに磨れる音を立てるが、懸念していた異物との癒合などは起こっておらず、実にスムーズに剥がれて行った。
果たして露わとなった彼女の顔は、施術を行った僕としても瞠目に足るものだった。
つるりと自然なラインを描く輪郭に、瑞々しい生気に富んだ肌。目鼻立ちは子どもらしく未成熟であるが、その造形には一点の歪みらしきものも無い。
一体どこの誰が、この顔を見て、あの完膚なきまでの無惨な破壊から再生した姿であると想像が付くだろうか?
完璧だ。
完璧な、成功だ。
「――素晴らしい」
ぶるりと背筋が歓喜に震える。これ程の達成感は、前世の経験を合わせてみても類を見ない。本当に素晴らしい。僕は、僕の手は、ここまで精緻な技巧を凝らすこと出来たのか。そして錬金術という業は、これ程までの奇跡を齎してくれるのか!
「……」
僕の言葉に反応してか、彼女もゆっくりと瞼を持ち上げる。
ぱっちりとした緑色の瞳が見開かれ、鏡の中のそれと目を合わせた。
「……っ!?」
彼女の顔は、鏡越しにも目まぐるしく変化した。驚き、戸惑い、そして恐らく喜び。白い肌がサッと赤らみ目を潤ませる表情は、けしてマイナスのものではありえないだろう。
「どうだい、一号ちゃん(仮)! 見事なものだろう? 正直言って僕もここまでのものになるとは思ってなかったよ!」
「うぇ……ぐすっ……」
僕が寿ぐのに合わせて、一号ちゃん(仮)は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。先程から表情の変化にもまるで淀みが無い。表情筋の機能も正常である。
「ぁ、ありがと、ございます……!」
掠れた声で、彼女がそう漏らすのが聞こえた。思えばこれが、彼女から聞いた初めての言葉だった。今まで好き勝手し放題だった僕に、素直にお礼まで言えるとは。まったく、本当に出来た子だ。親御さんの躾が良かったのだろう。
「なに、僕の方こそ君にお礼を言いたいくらいだ! 本当によくここまで頑張ってくれた! 有意義な実験だったよ!」
感極まって抱きつくと、彼女の方も小さな手で抱き返してきた。
涙と鼻水で服が汚れるが、構うものか。散々手術で取り出して来た血膿に比べれば、どうということはない。
薄暗い地下室の中で、幼い僕らは二人で掴んだ初めての成功の歓喜に浸り続けた。
「トゥリウス……その子は誰だ?」
地下室から連れ出した彼女を見て、父が面喰らったような顔をして聞いて来た。
勿論、疾しいことなど一切無い僕は胸を張って答えた。
「何を仰いますか、父上。僕の奴隷ですよ」
「はっ……?」
が、僕の答えはますます父を混乱させたようだった。盛んに目を瞬かせている。
「……もう二人目を買ったのか?」
「違いますよ。今まで怪我が酷くて表に出せなかったのですが、ようやくここまで回復して来ましたので。それで連れ出したのです。ほら、父上にご挨拶を」
「……はじめまして、わたしは、ユニ、です」
僕の服の袖を掴みながら、ぎこちなく一礼して見せる、元一号ちゃん(仮)。
ユニというのは流石に人前で一号ちゃん(仮)はまずいだろうということで、急遽付けた名だ。うろ憶えだが『単一の』、だとか確かそんな意味であったはずある。一号だから一に関わる名前を、って安直過ぎて今までのものと大差無い気もするが。
ちなみに本名は僕も知らない。僕に買われる以前の事を聞いてもみたのだが、感触は芳しくなかった。答えたがらないというか、答えることが出来ないというか。僕が治せたのは、あくまで彼女の外見だけだ。内面の方は、未だに混乱しているのだろう。自分でも自分が分からないくらいに。彼女の前歴に興味はあるが、まあ、落ち着いてから聞けば良いだろう。
「はっ?」
あんぐりと大口を開ける父。
あの顔中を腫れ上がらせた半死人が、短期間でこうも綺麗に回復するとは、思ってもみなかったらしい。それもそうだろう。僕としても、生き長らえれば儲けもの、死ななかったとしてももう少し傷は残るのではと予想していたのに、彼女はそれを覆して傷一つない顔を晒している。
これ程の治療を、十歳にもならない子どもがやってのけたというのだ。信じられないのも当然だろう。僕だって他人から聞かされたら鼻で笑うと思う。
父はこの状況を咀嚼するのに、たっぷり一分は掛けたようで、やや口ごもりながら言った。
「う、うむ……み、見事な手際だ、トゥリウスよ。よもや傷物の奴隷を手ずから治癒してみせるとは……お前の才幹にはほとほと感嘆させてもらったぞ!」
「いえいえ、これも彼女の生命力の賜物でしょう。僕としてもここまでの回復を見せるとは思ってもみなかったので」
「は、ははは……謙遜も過ぎれば嫌味にしかならぬぞ?」
どうやら、僕の手腕を褒め上げることで頭の中の整合性を取ることにしたらしかった。
父はゴホンと咳払いをする。
「だが、だ。当初の目的を忘れるなよ? 私はお前に、従者を躾ける術を学ばせるために奴隷を買わせたのだ。治癒の練習が上手くいったからといって本分を疎かにはせぬようにな」
「ええ、勿論です」
当然である。元々、ユニを拾ったきっかけは彼女の魔力を見出したからだ。これからこの子を、僕の忠実な従者として、そして有為な助手として十全に教育していかねばなるまい。
「それでなのですが、父上。差し当たって彼女に簡単な作法などを学ばせたく思いまして、出来れば屋敷の侍女で手隙の者に助力願いたいのですが、よろしいでしょうか?」
とりあえずまずは形から入る。
面従腹背、という言葉もあるが、面と腹を完全に切り離すことは意外と難しい。ましてやユニは僕のような転生者という訳でもなさそうだ。正真正銘の子どもである。ならば幼児期に人に従って生きるやり方を身に染みさせていけば、大人になる頃には従順な人格に育っていることだろう。
僕がそんな不埒なことを考えているとも知らず、父は億劫そうに肯いた。
「好きにせい。その程度のことは許そう」
「ありがとうございます」
会話を終えると、彼は足早にこの場を去る。
「よし、父上からの許可は取り付けた。さっそく今日から頑張ってもらう。いいね?」
「はい、ごしゅじんさま」
感情の窺えない平坦な声でそう言うユニ。治療という恩義もあってか、僕の命令には今のところ忠実に振舞っている。が、それで満足するわけにはいかない。人間とは成長するにすれ自立していく生き物だ。今は恩と奴隷契約で縛る事が出来ているが、この関係が終生続くという保証はどこにもないのである。
第一、彼女は魔力だけなら相当良質だ。僕の助手として錬金術、魔導に関する知識を溜めこんでいけば、自力で服従魔法を解呪する恐れすらある。この主従関係を維持するためには、普段の振る舞いや礼法からみっちりと仕込んで、反復による学習からより確固とした形で忠誠心を刷り込んでいくべきだろう。将来的にはより高度な洗脳魔法――或いは脳改造をも施すことを視野に入れている。
臆病に過ぎるかもしれない。でも、僕は転生者だ。一度は死んだことのある人間だ。二度も死ぬのは、ごめんだ。だから僕に従い、手足となって動く存在には、絶対に裏切られる訳にはいかない。
僕は努めて優しい顔を作って彼女に笑い掛けた。
ユニの教育が始まってから一週間、彼女は従者として最低限それらしく振舞えるようになってきた。やはりボロボロにされて奴隷市場に売られる前は、貴族かそれに準ずる階層の家に生まれ育ったのだろう。礼儀作法の基本は、イロハのイぐらいは出来ているし、学習効率も悪くない。
で、身体が空く時間帯も出来始めたところで、僕の助手兼護衛としての教育だ。
まず手始めに行うのは、体力づくりである。
「ほらほら、足が止まっているよ! 動いた動いた! いち、にっ! いち、にっ!」
「は、はいっ! ごしゅじんさまっ」
晴れた日に、護衛の従者も連れて町の郊外に繰り出した僕は、とにかくユニを走らせた。奴隷になる前は(多分だが)どこぞのご令嬢、奴隷になってからは治療のために地下のラボ暮らし。そんな彼女は走り始めて五分も経たずに息が上がり始めていた。まあ、ここは前世にあるような公園や運動場のように整備された場所ではなく、草が生い茂りその影に小石だのなんだのが転がる野生の原野である。たとえ体力自慢であっても辛いだろう。
「坊っちゃん……一体、こりゃあどういう趣旨で?」
僕を訝るように言う従者。ユニを買いに行った時も付いて来た人だ。今回も護衛兼馬車の御者として同行している。
「見て分からないかい? 体力づくりだよ。偶には屋敷から出して運動もさせてあげないとね」
何事をするにも、大事なのは体力である。この魔法飛び交うファンタジー世界に転生して、僕がまず学んだのはそれだ。攻撃魔法や回復魔法、果ては錬金術における物質の変換などなど、ありとあらゆる魔法は使用者の魔力を消耗することによって行われる。この辺りは前世に存在したコンピューターゲームと同じだ。が、違う点が一つ。魔力が枯渇した際の、身体への影響だ。それは多くの場合、動機や息切れ、目眩や意識の混濁といった症状で表れる。ぶっちゃけた話だが、魔力を使い切ると物凄く疲れてしまうのだ。
僕も魔法を覚えたてで自分の限界を把握していなかった頃、何度から倒れた経験がある。一度など、劇薬の調合中に意識が遠のいて、危うく地下室から失火してしまうところだった。
で、その経験から考案した対策が、これ。魔力切れ時の急性疲労に耐えるため、出来得る限り体力を付けること。単純だがこれに尽きる。
あくまで仮説段階ではあるが、かなり確度の高い仮説ではあると思う。その証拠に、周りの大人から聞いた話では、魔力切れで昏倒するのは大部分が体力に劣る子どもや老人、稀な例ではあるが著しく体力が低い者だという。が、この方法論を取るものはほとんどいないようだ。なんでも魔導師のほとんどは、研鑽のリソースの大半を、最大魔力や新たな魔法の習得、(僕のような錬金術師の場合は)実験や魔導礼装作成に充てる為、体力づくりのような余分なことをしている暇は無いかららしい。僕に魔法を教えた家庭教師――去年あたりから来なくなった――も、汗水を流すのは野蛮人のすることだだのと吹聴していた。
まあ、一理はある。時間は無限だが人生は有限だ。優先的な目標に注ぐ時間は最大限に、それ以外は最小限に、という発想は合理的ではある。魔力の最大量が増せば、自然と魔力切れのリスクも減るだろう。
だが僕がユニに望んでいるのは、魔法だけ唱えていればいい固定砲台ではない。僕に代わって冒険に出て、必要な物資を調達してくる助手であり、ひいては非戦闘員たる僕の護衛だ。それが肝心な時に魔力欠乏でへばられては堪らない。まだ子どものうちから持久力を鍛え、運動神経を養っておく必要もあるのだ。
「にしても、こいつァ酷だと思うんですがね。あのお嬢ちゃん、怪我から治って間もないんでしょ?」
「だから早いところ、体力を付けてやらないといけないんじゃないかな。その方が、後の教育も捗る」
少なくとも、屋敷を歩き回るくらいは問題無いほど回復しているのだ。ならば早急に鍛えるべし。丁度、現在の僕は彼女を買って懐が寂しく、錬金術の研究を一時中断している状態にある。ユニの為に時間を取れる内に、彼女の基礎能力を出来るだけ向上させたいと思うのは、当然の帰結だ。
それに彼女に施した治療の中には、人工皮膚の移植なんかも含まれている。長時間日光にさらされた場合のデータも取っておきたい。またこうした近場で取れる薬草や、人里周辺に現れるモンスターの対策――そう、いるんだよねモンスターが。大昔には魔王もいたとか――や、得られる素材についても、実地で教えることが出来る。一石三鳥だ。
「安心しなよ。僕としても、折角の逸材をみすみす壊すつもりは無いから」
言って、肩を竦めてみせる。ユニには野歩きのための靴も買ってやったし、肉刺が出来たりしないよう靴下も重ねて履くよう指示してある。給水だって折を見てちゃんとさせるつもりだ。転んだり毒虫に刺されたりしても、僕なら治療できる。
「あっしには、坊っちゃんが何を考えているのかよく分かりませんよ……」
従者の男は、苦い表情でガシガシと頭を掻いた。主家筋の人間に対する口の利き方ではないが、まあいい。大人として常識的な反応だ。僕だって自分にとって必要なことだと思わなければ、こんなことはしない。説得力は無いかもしれないが、僕に女の子を苛めて愉しむ趣味は無いのだ。ただ期待に応えようといじましく振舞うユニの姿には、感動に似た思いが胸を衝く気もするが。
「いっち、に……いっち、にっ……はァ、はァ……」
やがて僕も従者の人も押し黙り、町外れの野原にはユニの掛け声と荒い吐息だけが響くようになる。
……結局、ユニは三十分ほどで完全にへたばり、僕が手を貸さなければ馬車にも乗り込めないような有様になった。初日としては、よく頑張った方だろう。後で疲労回復の霊薬を奢ってやろうと思う。
一ヶ月が過ぎた。
「ユニ。今日から簡単な薬剤の調合を覚えてもらう。いいね?」
「はい、ごしゅじんさま」
まだまだ成長途上、というより本格的な成長期を迎えるより大分前の彼女だが、毎日の訓練により体力面はかなり改善されている。少なくとも薬草を乳棒ですり潰す程度では、音を上げたりはしないだろう。
体力作りに出掛ける原っぱで得られる、身近な薬草を原料とした最低級のポーション。まずはそれくらい作れるようになって貰わなければ。
「緊張しなくても良いよ。僕が三年も前からやっていることだし、難しくはないさ。いいかい、まずはだね――」
一ヶ月が過ぎた。
「ようやく、僕たちの薬も販路に乗り始めたな」
「おめでとうございます、ごしゅじんさま」
テーブルの上に無造作に積まれた革袋を前に、僕らは揃って感慨に耽っていた。中身はこの世界で流通する貨幣の中で、最も価値が低いとされる銅貨だ。安いとはいえこの量である。両替商に持って行けば、銀貨の数枚くらいにはなるはずだ。
自家製の薬を市場で売り捌くことに、父は大分難色を示していた。伯爵家の人間が卑しくも商人の真似ごとなどを、という理屈だ。説得には随分骨を折ったものだ。商人ギルドに売り物の品質が確かなことを認めさせるときより、ずっと苦労した気がする。
「だが、これで最低限度の収入源は得た」
それを思うと、唇が釣り上がっていくのを止められない。今までの僕の研究資金は、父からの小遣いに依存していたが、独自に商売が出来るようになれば、小なりといえど自活できる。たとえ父の堪忍袋の緒が切れて、錬金術の研究を止めさせようとしても問題無い。規模の縮小こそ免れ得ないだろうが、自力で継続していくことが可能になったという訳だ。
「もうちょっと蓄えが出来たら……研究を次の段階に進めるべきかな」
一ヶ月が過ぎた。
「ぎ……ご……」
「ごしゅじんさま、二号のたいおんが、じょうしょうしています。はっかんも、ぞうか中です」
「瞳孔の状態は?」
「……ちいさくなってます」
ユニからの報告を聞きとりながら、手元の紙にデータを書き連ねて行く。部屋の中央部に新たに設置された手術台では、両手足を拘束され猿轡を噛まされた男が、拘束具の金具をしきりに鳴らしている。
何をしているかって? 見ての通りの人体実験だ。
僕の最終目的である不老不死実現の為、人間の生体に関する処置とそのデータは必要不可欠だろう。薬一つとっても、自分に投与するにしろ他人に与えるにしろ、事前に誰かで試して効用の程を確かめておかなくてはならない。
この前ユニに施した手術は動物実験のデータで十分だったが、更に高度で微に入り細に入りといった医療行為には、やはり人体実験で得られる情報が必要だろう。
その為に新たに買ってきた奴隷二号(成人男性・元犯罪者)は、なかなかに有用な検体である。身体もそこそこ頑丈だし、これと言って有用な技能も持っていなかった分、安上がりだった。魔力もてんで無いから服従の魔法の効きも良いし、何より貴族嫌いで態度が悪いと言うのが最高だ。僕も劇薬の投与などの過激な実験をするのに、良心が痛まなくて済む。
それは兎も角、今回の実験はどうやら失敗のようだ。
「マンゲツハシリドコロから抽出した筋力増強剤……理論は合っているはずなんだけど。弱毒化が足りなかったかな?」
異常な興奮に陥り、判断力の低下、意識の混濁まで見られる。
古書肆から手に入れた調合のテキストを参考に作った薬だが、主成分を毒性の強い野草で代替したのがいけなかったのだろうか。
「こうかのきたい値より、ふくさようのリスクが高すぎます。ばっぽん的に見なおすべきでは?」
「けど、毒性が弱くて代替になりそうな素材は高いんだよねえ。いっそ冒険者でも雇って、採って来て貰おうか? そっちの方が買うよりは安く済みそうだ」
僕がぼやくと、ユニはしょげたように肩を落とした。
「……もうしわけありません、ごしゅじんさま」
「ん? 何が?」
「くんれんを続けていただいているのに、ユニはまだ、おつかいもろくに出来ません」
などと殊勝にも頭を下げる。可愛いところもあるじゃあないか。
「別に気にする必要は無いさ。訓練計画は年単位で練っている。君を実戦に出すまで、あと五、六年は掛かる見込みだしね」
「はい……」
口では肯定しているものの、その表情はまだ不安げだった。奴隷を用いた人体実験、という新たな段階が、彼女の想定する最悪の事態を連想させているのだろう。すなわち彼女自身を検体にしての人体実験だ。
だがしかし、ユニはそうそう見当たらない希少な逸材だ。奴隷市場全体で見ても、彼女ほどの魔力の持ち主に出会えることは稀である。それこそ小さな城やちょっとした爵位を買うくらいの値が付くような、エルフの奴隷でもなければ、の話だが。本当にあの値段でユニを買えたのは奇跡と言っていい程の僥倖だったのだ。
故に、
「安心しなよ、ユニ。君ほどの逸材を簡単に使い潰すような、愚かな真似はしない」
きっぱりと断言してやると、ようやく幾分か緊張が抜けたようだった。
「はい……はい、ごしゅじんさま……」
とはいえ、これは少し良くない兆候だ。小動物のような怯えと健気さを、呑気に愛でている場合ではない。
この彼女の心情の吐露は、つまるところ僕に恐怖故に従っていることを示唆していた。だから何らかの要因でそれが取り除かれた場合、それでもユニが僕への忠節に命を張る、なんて保証は無い訳だ。例えば、僕に代わって彼女を庇護する存在が現れた時とか。
……有り得る。何て言ったって、僕は彼女に錬金術に使う素材の探索など危険な仕事をも任せるつもりなのだから。というか、現在進行形で教育に訓練に助手にと扱き使っている訳で。いつかユニがそれらへの不満を押し殺せなくなったり、あるいはどこぞのお節介が彼女を不憫に思って手を差し伸べたり……考えれば可能性はいくらでもある。
勿論、服従の魔法は未だに機能しているのだが、何度も述べたように絶対的に信が置ける措置ではない。その為にも、もっと彼女の心を僕へと寄せておく必要がある。
洗脳の魔法や脳改造も検討しているが、今の僕では手が出せない代物だ。使える様になるまで、時間が要る。何か手を講じておかなくては。
「ごしゅじんさま、二号はどうしましょう」
思索に嵌り込んでいた僕を、彼女の声が現実に引き戻す。いけないいけない、考え込むとキリが無いのは、僕の悪い癖だ。
「ああ、とりあえず十四番の解毒剤を投与しておいてくれ。二号くんでやりたい実験も、まだまだたくさんあるからね。やり方は憶えている?」
「えっと、お水をまぜて、おはなからカテーテル入れて、ポンプでしょくどうに流しこむんですよね……?」
「そうそう。間違って気道に入れないように気を付けるんだよ」
「お注射じゃ、だめですか?」
「今やってる実験は筋力増強剤の治験だよ? この状態じゃ、盛り上がった筋肉が邪魔で針が通らない」
「……すみません」
「あははっ。そんなに縮こまらなくても良いよ。疑問を持って質問することが出来るのは、良い従者の素質がある証拠さ」
僕は彼女をより深く籠絡するための手管を考えながら、いかにも親切ごかして指導を続けた。
一ヶ月が過ぎた。
「悪魔よ! 貴方たちは悪魔だわっ!」
「あー、はいはい。うるさいから黙っていてね、三号さん。あ、いや、間違った。『黙れ』」
「――っ! ――――っっっ!!」
少し魔力を込めて命令すると、たちまち騒いでいた女奴隷は声を奪われた。服従魔法って、本当に便利だ。まったく、心の底からこれだけに頼る事が出来たら、僕の人生は薔薇色だったろうに。
ちなみにこの女性は、新たに買った奴隷だ。薬の効果や副作用には、男女差もある。男である二号くんだけでは、実験台としては不足なのだ。
「ユニ。君は二号くんをしまっておいて」
「はい、ごしゅじんさま……よいしょ」
意識の無い二号くんを、ユニが両腕で抱えて牢へ連れて行く。
幼児が大人の脇の下に手を入れながら、懸命に引き摺って行く姿は、何ともこう……シュールだ。ユニも訓練を重ねることで、随分と体力を付けて来たとはいえ、自重を上回る人間を移動させられるとは。前世の世界では、意識の無い人間を移動させるのは大人でも辛いものだったはず。ユニの発揮している筋力も、地味ではあるが立派なファンタジー要素だ。
「あ……う……」
微かに、二号くんが立てる呻き声が耳に届いた。
彼もここ最近、めっきりと弱ったものだ。買い上げた当初は、元犯罪者らしい威勢の良さで、悪態を吐くは唾を吐くは、挙句にユニにまで手を出そうとするはで、大変なものだったのに。お陰で服従魔法の術式に手を加えて、主人だけでなく同じ奴隷にも手を上げられないように禁則事項を増やす羽目になった。まあ、思い返せば良い経験をさせてもらったと思う。
だが、最近は言葉少な……というより、意味のある言葉を喋れなくなってきている。運動機能にも支障が出ているようで、人の手を借りなければ碌に歩けないようだ。それでいて筋力増強剤の実験の影響か、体つきだけは立派だというのが酷い違和感をもたらす。
そろそろ限界かな、これは。
遠からず彼は死ぬだろう。他ならぬ、僕とユニの実験によってだ。元犯罪者とはいえ、れっきとした生きた人間を殺すことになる。
いや、現状でも二号くんの精神と肉体はボロボロだ。たとえ実験から解放したとして、真っ当な生活も元の人格も、取り戻すことは叶うまい。さっき黙らせた三号さんも、程なくしてその轍を追うだろう。
だというのに、僕の心は不思議な程に動じなかった。こんなに酷いことをし、悪いことをしているのにだ。幾らこの国の法律では所有者が奴隷に何をしようと罰せられない、と知っているにしても、真っ当な人間であるならこんな所業には良心が咎める筈なのに。
そんな疑問を、心の奥底に居る何かが笑う。
――それがどうした、と。
僕の目的は不老不死だ。生まれ変わる前に感じた、あの自分が根こそぎに奪われて無くなっていく死の感触。あれを逃れる為ならなんだってやる。だからもっと錬金術を極めなくてはいけない。だからもっと実験を重ねなくてはならない。それで何人死のうが、僕が死なないで済むなら関係無いだろう?
腹の奥でとぐろを巻く蛇が、そう嘯くのだ。
「二号のしゅうよう、おわりました」
ユニの報告が、僕の思案を中断させる。
「お疲れ様、ユニ。それじゃあ今日もおやつにしようか」
「!」
僕がそう告げると、ユニは微かに目を輝かせる。表情の変化に乏しい子だが、感情が無いわけではない証左だ。そしてそれ故に、微小とはいえ背く可能性がある。
彼女を縛っているのは、服従魔法という枷と命を救ったという恩、そして僕への恐怖という鞭だ。故に、駄目押しとして飴を与える。文字通りの飴を。
砂糖は前世の世界においても、紀元前から作られている。この大陸においても存在はするのだが、産地が少なく高価だ。
が、僕は錬金術師である。ちょっとした設備と近所の林で手に入るカエデの樹液なんかがあれば、一家庭で消費する分くらいならいくらでも作れる。流石に流通ルートに安定して乗せるのはキツイが、小遣い稼ぎ程度には売れたりもする。
おまけにこの世界は時代的に中世、料理などの分野は未発達である。それを考えると、前世の知識があるだけで別に菓子職人でも何でも無い僕が、もっとも洗練された菓子を提供できる人間になる訳だ。何というインチキ。
そして子どもは甘い物に弱い。どうしようもなく弱い。そもそもストレスを紛らわす娯楽に乏しい時代、そして奴隷という最下層の身分である。そこへ王侯ですら口に出来るかどうかという贅沢なお菓子を与えればどうなるか? 当然夢中になる。
「今日は……そうだな、ドーナッツなんてどうだろう」
「……どんな食べものなのでしょう?」
「簡単に言うと、生地を揚げたものに砂糖をまぶしたお菓子でね。ああ、そういえばこの前、酵母の培養に成功していたんだっけ。これを入れると揚げた後もふっくらとしたりして――」
彼女の表情は動かないが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。素直な子だ。
人を忠実にするには、刃物を突きつけるよりも胃袋を握った方が手っ取り早い。併せて舌も満足させられたら言うこと無しである。
……が、それでもまだ足りない。もっともっと僕に依存させ、逆らうということを考えさせないように、きっちりと躾けていかなければならない。歴史を紐解けば、命を救っても恐怖で縛っても欲望を満たしても愛を捧げても、なおも裏切った人間は幾らでもいるのだから。
僕は死にたくない。
死ぬなんて経験は、一度きりで十分だ。
僕は苦しみたくない。
生きているんなら、可能な限り面白可笑しく生き抜いてみせる。
その為にも、この得難い手駒には、何があっても絶対に裏切られないようにしなくてはいけないのだ。