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013 落ち穂拾い<後篇>

同時投稿の後篇です。先に前話をご覧下さい。

 

「こんにちは。僕がトゥリウス・シュルーナン・オーブニルです」


 面談の会場である執務室。そこでジャンを待ち受けていたトゥリウス・シュルーナン・オーブニルの印象は、思ったよりは平凡であった。

 年の頃はルベールより幾つか下。おそらくはまだ二十歳前。顔立ちは整ってはいる。が、美しい点があるというより醜い点が無いと言えば分かりやすいだろうか。当たり障り無い作りの素焼き人形めいた、どうも印象に残り辛い顔だった。

 美しい、という点でいえば、その傍に仕えるメイドの方が遥かに上回っている。こちらも同じ人形めいた顔立ちではあるが、名工が精魂を込めて鑿を振るい削り上げた彫像のような、一種の尊さを感じる造形だ。このメイドも奴隷の証である銀の首輪を嵌めている。

 そして何より異様な存在は、そのメイドと子爵を挟んで反対側に立っていた。厚手のローブに身を包み、フードを被って顔を隠した人物。胸の盛り上がりから女だとは思うが、どうしてまた素顔を見せぬ人間が貴族の傍に侍っているのだろう。

 疑問を押し隠しながら、取りあえずルベールは頭を下げた。


「子爵様にお目通り頂き、光栄であります。私は受験番号020番、ジャン・ジャック――」


「ああ、待った待った! そういうのは良いから。名札を見れば番号は書いてあるし、それと手元の書類を合わせれば名前くらい分かるよ。何せ今回は人数が多いからね、時間は節約しないと」


 と、口上を遮る子爵。

 信じられない。名とは貴族の顔であり、商売道具でもある。尊重してしかるべきものだ。それを一顧だにせず、あまつさえ手間だと言ってのけるとは!

 やはりというか、この男は貴族として欠けている点が目立つ。青年の持ちかけた話に乗って正解だった。そう思い、同時に部屋へと通された青年を見やる。彼も何処となく呆れたような顔をしていた。

 今、部屋に居る受験者は、自分を入れて六名。それが椅子に座らされて横一列に並んでいる。子爵の執務机までは少し間があって、おおよそ三メートルほど。広いが、爵位持ちの貴族の執務室としては妥当なところだろう。


「それじゃ、手早く済まそうか。起立」


「「はっ」」


 言われて受験生が一斉に席を立つ。


「三歩前に」


「「はっ?」」


「聞こえなかったかい? 三歩前に出て」


 奇妙な命令だった。何を意図しているのか、ルベールには量り切れなかった。歩き方を見たいのか? それで所作を見ようとでも? それを言うなら、こちらこそこの子爵がどれだけ所作を心得ているか知りたいところだ。

 とはいえ、この場での最上位者はこの若い子爵である。戸惑いながらも、全ての受験者が三歩前に出た。

 オーブニル子爵はにっこりと満足げに笑う。


「うん、ありがとう。それじゃあ、そのまま動かないで……やれ、ユニ」


「はい――≪アースバウンド≫」


 重圧。

 それが六人全員を一度に床へと叩き伏せた。


「なっ!?」


「こ、これは!」


「どういうことだ!?」


 巨大な掌に上から押さえ付けられているような感覚。

 ……重い。身体が重くて、立っていられない。

 身体を押し潰す何かに、非力なルベールなどは一溜まりも無かった。身動き一つ取れないまま、何が起こったのかも分からず混乱に陥る。


「ば、馬鹿な……ありえんっ!」


 件の青年が苦しげに漏らすのが聞こえた。

 その言葉に子爵はやれやれだと首を振る。


「その様子だと、やっぱり防護のアミュレットでも仕込んでいたのかな? それがあると洗脳の魔香も効き難いからね。先手を打って身動きを封じてから、それを奪うことにしたのさ」


「何……だって……?」


 床に突っ伏しながら、何とかそれだけを口にする。

 つまりは、最初から召抱えの希望者に何かを仕掛ける気でいたということか?

 青年は尚も困惑を抱えたまま言った。


「で、では……この魔法は、一体……? アミュレットが、反応、しないなど……!」


「うん、気になるよね、そこは。その質問をしたのは、君で二人目だ。さっきも一人いたんだよね」


 くつくつと、オーブニル子爵は笑う。


「それじゃあ、簡単な講義と行こうか。たとえば炎の魔法だ。魔力の低い使い手が行使した≪ファイアボール≫。これをアミュレットで防ごうとしたら、どうなるか? 当然、命中する直前にアミュレットが結界を展開し、弾かれてしまう。だけど――」


 と、言って指を鳴らす子爵。直後、青年が先程まで座っていた椅子が燃え上が――いや、爆発した。無詠唱の炎魔法だ。突如として背後から生じた熱波が青年を襲う。無論、その威力はアミュレットの力で防がれていくが、


「ぐっ!?」


 魔法で砕けた椅子の破片が、彼の額に当たる。


「――こんな具合に、魔法で動かした物は防ぐことが出来ないって訳さ。……ああ、ごめんよ。痛かった? すぐ治すから許してくれないかな」


 再度指を鳴らすと、青年の額に出来た傷はすぐさま消え去る。だが、受験生たちを拘束する圧力は維持されたままだ。


「攻撃魔法は通さないのに回復魔法は素通し、ってのも不思議なもんだね。……話を戻そうか。で、それでこの魔法≪アースバウンド≫はね、≪ファイアボール≫が直接火の球を生み出すみたいに、直に君たちを拘束する力を作っているんじゃあない。元から存在し、君たちを地上に定着させている重力に働き掛け、倍加させているに過ぎないんだよ。だから単純な耐魔力礼装じゃ防げない。既に存在し、ずっと君たちに働き掛けていたものを、魔力で強化してやっただけなんだからだからね。……理解出来たかな?」


 ……理解出来る訳が無い。ジュウリョク? 何だそれは。錬金術の専門用語か? そんな物を並べ立てて、誰が理解しようというのか。他の者も同様だろう。混乱し、あるいは憎悪の色を見せるものはいれど、目に理解の光を浮かべる者は誰もいなかった。

 解ることは一つ。この狂った錬金術師は、確実に害意を持っていることくらいだ。


「さあ、ユニ。彼らの武装を解除するんだ」


「畏まりましたご主人様。……失礼します」


 主の命を受けて、この魔法を放った奴隷メイドが近づいてくる。自分たちの身体をまさぐり、礼装の類を取り上げようというのだ。


「ならば! ……がっ!?」


 何事かを試みた青年が、目にも留まらぬ速度で接近したメイドに取り押さえられる。


「……アミュレットの自壊を目論んだようです」


「成程。もし生きて帰った時にそれが壊されていたら、ここで何らかの処置を受けたと、彼の上の人が判断する訳だね。やられたかい?」


「いいえ、無事です」


 言いながら、青年の胸元からロザリオめいた護符を取り出す。


「まあ、いざとなったら僕が修理してやればいいんだけどね。手間と資源が掛からない分、こっちの方が良い。よくやったユニ」


「お褒め頂き光栄です」


 と、恭しく一礼するメイド。

 信じられない。ジャンが見たところ、この得体の知れない圧力は、六人の受験生全員を収める範囲に生じている。周囲の絨毯にくっきりとへこみがあることから、おそらくこの効果は無差別に作用しているはずだ。だというのに、このメイドは苦も無く動き回り、瞬く間に自分たちから全ての礼装を没収してしまった。


「おや、通信用の礼装がありますね」


「はっ! 馬鹿め、その程度の、備えを……していなかったと、……思ったか!?」


 受験生の一人、ジャンとはあまり面識の無い男が、重圧に喘ぎながらも得意げに言った。


「伯爵様から、……貴様の怪しい手管は、聞いている! この部屋での会話は……既に――」


「ああ、それはもう妨害しているから」


 オーブニルは事も無げにそう宣告する。


「…………はっ?」


「ここを何処だと思っているんだい? 僕の本拠地だよ? 通信妨害に防音、衝撃の無効化、転移魔法の遮断、エトセトラエトセトラ。その程度の備えくらい、しているに決まっているじゃないか」


 言いながら、手渡された通信礼装を弄ぶ。


「……ふむ。このサイズ、これくらいの素材だと、有効な通信距離は精々この屋敷の敷地内。他の受験生の中に君のお友達がいるのかな? 通信が途絶えた時の動き方も決めているんだろうけど、そっちにはドゥーエが配置してある。彼から逃げ切れる人間は、一流の冒険者にもそう多くはない。残念だったね。着眼点は良かったんだけど」


 ――もし王都まで通じたり、そうでなくても付近に別の協力者がいたら、危なかったかもね。

 と評価を結ぶ。もっとも始めからそんな事は出来るはずが無いと思っているのだろう。ルベールは礼装の種類についてそんなに詳しい訳ではないが、それでも長距離の通信には大掛かりな代物が要る程度には理解している。そんな物を、見咎められず持ち込むのは不可能だ。

 果たしてその受験生は一転、顔から色を無くす。


「は、ハッタリだ……そんなこと、ある訳無い……」


「別に信じなくても良いさ。僕に不都合がある訳じゃないし。……さて、ドライ。待たせたね、君の仕事だ」


「はっ、ご主人様」


 短く返事をして、子爵の傍に立っていた女がローブを脱いだ。

 露わになったのは、長い銀髪に褐色の肌、人間離れした美貌に――尖った長い耳。

 そんな特徴に符合するものなど、ジャンたちの知識には一つしか無い。


「だ、ダークエルフ……!?」


 受験生の誰かが、驚愕に声を上げた。

 ダークエルフ、またの名を闇妖精。教会によって魔族と結んだ人類の敵と公認され、発見時は生死を問わず無力化せよと通達されている。人の生活圏で辛うじて生かされている個体は、全て奴隷に落とされているという、呪われた種族。

 だが、その身に宿る魔力と術の腕前は、森の白エルフと遜色無いとされる。


「こんなものまで……抱えていたのか……!」


 無詠唱でこの規模の拘束魔法を放つメイドに加え、文字通り人外の魔法使いであるダークエルフの登場だ。絶望感に身をよじるジャンたちに、ドライと呼ばれた女は暗い笑みを漏らす。


「くくくっ……この身をかつての同胞どものような、凡百のものと思われては困るな」


 言いながら、顔の左上を覆う眼帯へと手を掛けた。

 眼帯。そう、その女は左目を隠している。

 何故、隠す? そして何故、今露わにしようというのだ?

 その答えは、黒の眼帯が外された傷一つない顔を見れば、すぐに分かった。

 右目とは明らかに瞳の色が異なる、紫瞳の左目。魔導師でもないジャンですら感じ取れる程の、危険な魔力がそこには渦巻いていた。


「ま、魔眼……!?」


 いつか図書館で手慰みに読んだ図鑑に、それは記されていた。

 ゴルゴン、カトブレパス、バジリスク、ゲイザー……多くの危険な怪物たちが生来備えているという、目を合わせただけで術を掛ける魔性の目。

 ドライと名乗った女は、鼻を鳴らす。


「フン。下賤な猿にも、少しは物を知るヤツがいたか。いかにも、この瞳はご主人様から賜った魔の瞳よ。効果の程は――身をもって知るがいい」


 駄目だ、と思う暇も無かった。

 魔性の瞳はジャンの知るそれそのままに、見ただけで効果を発揮する。

 常人並の耐魔力しか持たないジャンに、抵抗の術は無かった。


「あ、が……!?」


 意識が、紫色に染まっていく。

 思考が薄らぎ、悪い酒に酔ったかのように理性が溶けて行く。

 そんな中で、トゥリウス・オーブニルが満足げに微笑んでいた。


「昔、ユニがダンジョンで拾ってきたゲイザー幼体の素体。保存していたそれから移植したんだ。ゲイザーという魔物は亜種が多くてね、その魔眼の効果も千差万別さ」


「ぁ……ぅ……」


「ぃ……げ……」


 頭がふらふらする。

 あらゆる声が遠い。

 ここはどこ?

 自分は誰だ?


「で、ドライに移植したのは洗脳に特化した種の物さ。何でも操った相手を利用して狩りを行い、それで餌を得るんだって。世の中には変わった生き物がいるものだね?」


「何度見ても、素晴らしい即効性です。これでは彼女さえいれば、洗脳の香は要りませんね」


「いや、それは短絡的だよユニ。目を瞑って戦える戦士は稀にいるけれど、呼吸を止め続けられる人間はいない。それに魔眼の効果が及ぶのはドライと視線を合わせているものだけだ。より大人数を一気に洗脳するなら、香の方が向いている」


 滔々と講釈を垂れる声が聞こえる。

 それで?

 それで自分はどうすればいいのだろうか?

 早く、早く誰か教えて下さい。

 でないと、気が狂う。


「他にも威力が強く即効性が高い分、魔力も馬鹿食いするから眼帯での封印が要るし、強力過ぎて今回みたいにアミュレットの破壊などが起こりうるケースもある。要は適材適所ってことさ」


「確かに、少し疲労を感じますな。ですが、全員に処置をする分には十分です」


「そうだね。じゃあ、ドライの身体の事もある。手早く済ませよう。ユニ、拘束は解除して良い」


「はい、直ちに」


 言って、オーブニル子爵はジャンたちの前に屈み込んだ。受験生たちを地面に縫い付けていた圧力は、既に消えている。


 ――命令を、早く命令をください。


 ジャンの思考はそれ一色に染まっていた。逃げ出そうなどということは、考えもしない。


「それじゃあまず……この中で、試験中にカンニング――他の人の答案を盗み見たり、許しの無い覚え書きを持ち込んでいたりした人はいるかい?」


「「…………」」


 全員が首を横に振る。勿論ジャンも遅疑せず否定を返した。

 心地の良い気分だった。他人に全てを支配されるのは、何て気楽で素晴らしいのだろう。


「次、この中で試験終了の合図があった後も、不正に答案への記入を行った人はいないかな?」


「…………」


「…………」


「……はい」


 一人が、小さく声を出しながら挙手する。


「受験番号025番、失格と」


 オーブニル子爵は書類の一枚に羽ペンで×を描いた。


「じゃあ、個人個人への質問に移ろうか。受験番号023番」


「はい……」


 青年が番号を呼ばれて声を返す。


「君は何者だい?」


「……ヴィクトル・ドラクロワ・ラヴァレ。ラヴァレ侯爵家の末子であります」


 それはおかしい、と胡乱な意識でジャンは思った。

 彼は、彼は自分に、伯爵家の庶子だと名乗ったはずだった。


「書類には伯爵家とあるし、家名も違うようだけど?」


「隠密を保つ為に、偽りを述べました……」


「ラヴァレ侯爵は、君の何だい?」


「父です……」


「うーん……ラヴァレ侯には直接会ったことは無いんだけど、あの人って結構お年を召していたんじゃなかったっけ?」


「母より、父が五十二歳の頃の子だと聞いています……」


「ああ、成程。読めてきたかも」


 言ってオーブニル子爵は頬を掻く。


「君、もしかして養子に出された? それがこの書類にある伯爵家だね?」


「……違う……私は……誇り高き侯爵家の……」


「お母さんは妾だったのかい?」


「違う……母は裏切られた……父は後妻に迎えると……」


「なのに君を孕んだまま、伯爵家に譲り渡したんだね。で、その先で君が生まれたと」


「……………………はい」


「ラヴァレ侯爵は君を実子だと認知したかい?」


「……しなかった……背中に……生まれつき……同じ……痣が……あるのに」


「君は何で自分を侯爵の子だと思いたいんだい? お母さんを裏切って捨てたんだろ?」


「私の……才覚……女を下げ渡されるような……情けない……伯爵家に……留まるものでは……。それに……母の名誉……母様は……伯爵家でも……居場所が無いまま……」


「それで僕を嵌める謀略に加担し、成功したら君をしかるべき地位に取り立てて、母の名誉も回復すると。そう侯爵は言ったのかな?」


「……はい」


 成程ねえ、とオーブニルは肩を竦めた。

 思考の麻痺したルベールに、今の問答の意味は分からない。


「ラヴァレ侯爵って人も、えげつない手を考える。彼が僕の弱みを握れればそれでよし。内偵が露見して処断されれば、生き別れの息子を殺した非を鳴らして弾劾出来る。どっちに転んでも僕は追いつめられる訳か。参ったね、面倒な相手に目を付けられちゃったよ。侯爵を巻き込んだのは失敗か……」


「これも良い勉強でしょう、ご主人様。失策はしましたが、挽回の余地は十分です」


「まあ、ね。今回は敵の敵は味方って理論に盲従し過ぎた。次からはこの反省を活かさないと」


「それに侯爵側もミスを犯しました。一つはご主人様の手腕を甘く見たこと。もう一つは使い捨てる気とはいえご子息をみすみす手放したことです」


「その辺りは、今後詰めていこう。今はさっさと軽い尋問と仮処置を済まさなきゃね」


 ルベールは何も考えていない。ただ魔眼の効果のままに、黙って命令を待っている。


「じゃあ、次は君。名前は?」


「……ジャン・ジャック・ルベールです」







「――おい、ルベール! ジャン・ジャック・ルベール!」


「はっ!?」


 知人に肩を叩かれて気が付いた。

 周囲を見ると、そこは領主屋敷の廊下。

 いつの間にか面談は終わっていたようである。


「何をボケっとしてたんだ? ……ははーん、お前そんなに緊張したのか?」


 笑う知人の顔に、気楽だな、とルベールは溜め息を吐く。


「これからの一生が掛かっている面談だぞ? 緊張しない方がどうかしているよ」


「そう言うなよ、俺だって緩んでる訳じゃあねえ。武官の試験じゃ、あんまり良い成績じゃあなかったんでな……ここからの面談に全てが懸かっているってことよ」


「ああ、そういうこと……」


 言われてからようやく、知人がやたらと汗を掻いていることに気づく。つまりはルベールをからかったりでもしないと、緊張が解れないくらいには追い込まれている訳だ。


「ああ、そういうことなんだ。てな訳で、先に面談を終えたお前さんに、手応えの辺りを窺っておきたくてな」


「そう言われても……」


 実のところ、面談で何を話したかすらあやふやだ。

 記憶に霞が掛かり、どうにも確かな何かを掴めずにいる。

 その逡巡に知人は何を思ったか、


「そうか……お前も手応えは良くないか」


 などと妙に深刻ぶる。

 そう言われると、自分でも出来が悪かったように感じられてきた。


「かもしれないね……どうにも頭が真っ白で、何を喋ったのかも覚えていないよ」


「おい、ルベール。そんな消え入りそうな顔するなって。……そうだ今夜は宿を抜け出して、町の酒場で飲もうじゃねえか! 景気の悪い田舎だが、飲めるところくらいはあるだろうしよ」


 こちらが余程深刻げな顔をしていた所為か、知人はそう励ましてきた。


「ヴィクトルのヤツにも声を掛けたんだが、どうにも具合が悪いらしくて、遠慮するってよ」


「ヴィクトル……」


 行きの馬車で知り合った、あの青年のことだった。

 彼とは、何か大事な約束をしていたような気もする。……それも思い出せない。


「まあ、ここは俺とお前で、恒例の残念会と行こうじゃねえか。これだけの応募者がいて、しかも路銀や滞在費も持ってくれてるんだもんな。相当要求が高いんだろうぜ。俺たち万年部屋住み浪人じゃ、やっぱ無理だったってことだよ。うん」


 ルベールの茫洋とした発言をどう取ったのか、知人は殊更に激励の声を張り上げた。

 後ろ向きな発言はどうかと思うが、飲みに行くのはそう悪い発案では無いかもしれない。結果はどうあれ、飲まずにはいられない気分だった。

 だが、


『――今夜はちゃんと――』


 だが今夜は、予定があったような……?


『――僕の所へ、手術を受けにくるんだよ?――』


 ……。

 そうだ。ともかく、今夜は駄目だ。


「……悪い。まだ結果も出ていないのに騒ぐのは、ちょっと」


「ちっ、何だよ。つれねえなァ」


「ははっ。そう拗ねるなよ。それに面談の出来に自信が無いんだ、もし当落線上だったら、今夜の素行が鍵になるかもしれない。そう思うと、ね」


 そうだ。

 だから今夜は誰とも会わないようにしよう。

 そして、時間になったら――どうするのだ?


「なァる、そういう考え方もあり、か。じゃあ、俺も精々行儀良くしておくかな」


「そうしなよ。きっと、そうすれば上手くいくさ」


 答えの出ない考えを打ち切り、無根拠な励ましを口にする。

 ルベールにもその自覚はあったが、それ以外に言いようが無かった。

 丁度その時、面談に使う執務室の扉が開いた。青白い顔をした受験生がぞろぞろと姿を現す。


「……次の方、どうぞ」


 首輪を着けたメイドが、入室を促す。


「ええっと、次の順の受験番号は――俺らの番だな。にしても、そんなにおっかないのかねェ、噂の子爵殿は? 今出て来たヤツらも、お前たちも、みんな死人みたいな顔だったぜ」


「うん、そうだね……」


 ルベールは肯く。

 ……オーブニル子爵は恐ろしい。面談の記憶は朧げだが、それだけは確かな気がした。

 漠とした恐怖を抱きながらも、足を逃げる為に動かすことも叶わない。ジャン・ジャック・ルベールは、知人が扉の中に呑み込まれていくのを、黙って見送った。

 

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