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011 ブローセンヌの午後

 

 ある日のことである。オーブニル伯爵家の若き当主、ライナス・ストレイン・オーブニルは、己の邸宅に不意の来客を迎えていた。


「突然の来訪、あいすまぬのう伯爵」


「いえ、私とて卑しくも王国貴族の末席。それも伯爵などという過分な位を賜っておりますれば、常日頃より不意のお越しに備えるも義務の内かと――侯爵様」


 柔らかく包んだ言葉に隔意を潜ませながら、ライナスはその人物に恭しく頭を下げた。

 客人の名はラヴァレ侯。皺の寄った顔に総髪全てが白髪という老人だった。大封を誇る大貴族でありながら、諸外国の脅威を説いて王家の下に団結すべきと訴える、いわば中央集権派というべき一派の領袖たる人物である。


 ――何が中央集権か。預かりし領地の安定こそが、王室の藩屏たる貴族の一義であろう。


 そう信じるライナスにとって、まさに正反対の立場に立つ者でもあった。

 しかし腹の中で何を思っていようと、相手は爵位で上を行く。位で負け、かつ若輩のライナスは、とにかく下手に出るしかない。


「折しも、中々に良き茶葉を手に入れてございます。よろしければ馳走したく存じますが」


「折角じゃ、頂こうかの」


 舌打ちが漏れそうになるのを、何とか押し殺す。

 あれ程の銘葉は、本当なら自分だけで飲みたかった。でなくとも、せめて心許せる相手と飲み交わしたいものだった。王家の威光を笠に諸侯を弾圧しようと目論む妖怪爺などには、茶の一摘まみ湯の一滴たりともくれてやりたくない。しかし、万が一にも来客に対して上物の茶を惜しんだ、などと知られたら、社交界で嘲笑を買うのは必至。元々あの愚弟の所為で低い評判が、更に落ちることになる。


(あの化け物の所為で、伯爵家当主ともあろうものが、茶の一つも自由に出来ん……)


 忸怩たる内心を秘して、執事に茶会の準備を命じる。

 ライナスは通りに面したテラスに侯爵を案内した。庭には弟が実験体を焼却した火葬の跡が、まだ微かに残っている。それを見られるのを嫌ったのだった。


「ほう、王都の街並みを眺めながら茶を喫するか」


「……斯様な趣向をお好みかと愚考致しまして」


 庭に通さなかったことを当て擦られたように感じて、要らない言葉まで言ってしまう。


『貴殿は封建貴族の栄華を誇る庭園などに興味は無かろう? 必死に我らの領地を削り、王家へと献上しておるのだからな。精々、飼い主である王の庭、この都の景色でも眺めて心を慰めよ』


 そう解釈できなくも無い台詞だった。揚げ足を取られかねない発言とは、即ち失言である。

 ハッとなって口元に手をやるライナスを後目に、ラヴァレ侯は悠々と給仕の淹れた紅茶を口元に運んでいた。気付いていないのか、見逃されたのか。眼前の相手が政界を泳いで来た年月を思うと、後者であるよう感じられてならない。

 紅玉色の液を二、三口、音も無く味わうと侯爵は顔を上げた。


「南国の風味がしおる。よく陽を当てた葉の味だ。産地はオムニアか? そして、摘んだのは初夏あたりというところ。……中々に良い趣味をしておるな伯爵」


「恐縮であります」


 忌々しいことに正答だった。これで頓珍漢な答えでも出していれば、それみたことかと後で物笑いに出来た物を。

 笑みの形に細めた目で敵意を隠すライナス。それを前に侯爵は悠々と茶菓子を摘まみ、紅茶を愉しんでいる。


「うむ、付け合わせも考えておるではないか。若いながら出来た持て成しだ。さて、饗応も存分に楽しませて貰ったことじゃ。本日参った本題と行こうか」


「はっ、謹んで承りましょう」


 カップを置いて好々爺然とした笑みを向けてくる相手に、ライナスは毅然と返事をする。ペースを握られていると、自分でも思う。あくまでも柔らかくこちらに近づいてくる侯爵に対し、己のこの堅さはどうだ。老獪な政治家に手玉に取られる若造そのものだった。

 だから何だ、とも思う。

 元より、この熟年の寝業師が作る流れに流されまいとするなど、初手から誤りである。自分ごとき若輩など、どうあっても流されるに決まっている。ならば敢えて堅守。とにかく守りを固めて、最終的に流れ着く場所が、完全に相手の薬籠中となることのみを避けよ。

 そんな思いを固める彼に、侯爵はテーブルの上に紙の書類を広げて見せた。


「先日、宮廷に対しこのような届け出があった。差出人は貴殿の弟御だ」


「これは……家臣団の新規召抱えと、王都での公募の願い、ですか」


 やるとは思っていた。またそれをやらせる為に碌な与力も無しに送り出したのだ。これに乗じて己の息の掛かった者に内偵させ、あのトゥリウスの息の根を止めうる何かを掴むつもりだった。

 だが、よりにもよってラヴァレ侯爵に渡るような真似をしでかすとは。


(あの阿呆め……! 貴様にとっても敵なのだぞ、この爺は!?)


 他貴族の領地を削ることに腐心する、血に飢えた老狼。そんなものが侯爵の正体だ。新たに立てられ領地に赴任したばかりの子爵など、好餌以外の何者でもあるまい。なのに何故、自分の弱みをこうも晒す?

 ……愚者の振舞いに違いない。

 何の意図も無くこんな真似をしたのならば論外であるし、兄である自分の策を読んだ上でその政敵に渡したのであれば、政治的センスに欠けているとしか思えない。重ねて言うが、ライナスだけでなくトゥリウスにとっても、この老貴族は潜在的な敵なのだ。

 敵の敵を味方に付けて上手く事が運ぶのは、所詮は一時の事。あるいは脚色に塗れた絵空事の英雄譚の中だけだ。現実には、狡兎死して走狗煮らるの喩えをなぞるのが関の山である。この場合、トゥリウスはライナスを火攻めにしたつもりで、その実後々自分が煮られる竈に火を点けたようなものだ。

 もっとも、あの錬金術狂いの事である。政治向きの話など何一つ解さず、ただポンと無造作に王都へ願いの筋を送っただけ、という可能性もあった。どちらにせよ救いようが無い。救う気は最初から無いので、破滅するのなら自分一人でして欲しかった。


「お恥ずかしい話です。家中の恥でお耳を穢したようで」


「左様な言い方は止されるがいい。その方、何も弟御を嫌い抜いている訳でもなかろう?」


 何を白々しいことを、とはおくびにも出さない。その言を肯定すれば、王から下賜されたという名目で預かっている領地に対し、私的な感情で十分な手当てをしなかったと認めてしまうからだ。事実ではあるが、それは目の前の相手に対して、素直に是と返せる類の事実ではない。

 ライナスは、この都で最大の敵に対し、この世で最も嫌いな男を持ち上げるという苦難を味わう羽目になった。


「わ、私も弟の才幹に目が眩んでいたようでして……アレならば、この程度の家臣であれど十分に彼の地を裁量出来るものかと。は、ははは……っ」


 愛想笑いに持ち上げた口角が、ヒクヒクと引き攣るのを感じる。口が腐る思いだった。

 侯爵は愉快そうに笑う。


「ほほほっ! そうであろう、そうであろう? まあ、人使いというものは難しいものでな、慣れぬうちはよくあることよ伯爵」


「……はっ、仰る通りであります」


 殺す。トゥリウスの次は絶対にコイツを殺す。

 密かに意を固めつつ、努めて平素の表情を保って訊ねた。


「して、愚弟よりの願いですが、いかように扱われるのでしょうか?」


 わざわざこうして手ずから携えてきたということは、自分に渡して握り潰させるつもりだろうか? あるいはトゥリウスに送る人材を意のままにできるよう、ライナスの主導で募集を行えるよう取り計らうのだろうか? そうして対立派閥の若手である自分へ恩を売り、こちらの離間を図る。有り得そうな話だったが、


「扱うとは、どういうことかな?」


「……はっ?」


 予想外の答えに目と口を丸くするライナスへ、老貴族は人の悪い笑みを漏らした。


「既に許可は出ておる」


「……はあっ!?」


 若い伯爵は、ついには体面を保ち切れずに腰を浮かす。

 そんな彼に向けて、老侯爵は広げた書面を指してみせた。


「よく見てみよ、この書類は写し。本物は既に受理され、間も無く公募が始まる。そちの耳にも近日、何らかの形で届くであろうな。儂はその際にそこもとが要らぬ恥を掻かぬよう、あらかじめ教えに来たまでよ」


「な、な、な……っ!?」


 言われてみると、インクの匂いは新しく紙に雨風を被ったような形跡は無い。真新しい紙に、つい最近書かれたものだった。

 そもそも紙という時点で気付かなかったのか。伝統と格式を重んじる王国貴族ならば、このように格式ばった書簡は羊皮紙を使う。いくらトゥリウスが貴族の常識など鼻にも掛けぬうつけだろうと、そのくらいは守るだろうし、守らなかったらこの老人が何も言わない訳はない。

 自分がそんなことにも気付けなかったという事実に、ライナスは赤面を禁じえない。

 ラヴァレ侯爵は静かに言った。


「儂は奇しくも公募の発表を事前に知ることが出来てな。折角であるから知己の子息を数人、推挙しておいたよ」


「なん、ですと?」


 疑問符を舌に乗せながら、やはりという思いが強かった。中央集権派に隙を見せた時点で、その息の掛かった子飼いが送りこまれるのは必定である。やはりこの老人は、トゥリウスを放置するなどという悠長な真似はしない。

 では、何故それを自分に教える?


「貴殿も、弟御の為に人材は見繕っておろう? 早めに公募へ応じさせることじゃ」


「…………」


「共に可愛いご兄弟を盛り立ててやろうではないか、なあ伯爵?」


 ああ、つまりはそういうことか。ライナスはようやく悟った、

 ライナスとトゥリウスの不和、それによる事実上の王都追放であるマルラン下向――その絵図を読み取ったラヴァレ侯爵は、新規召抱えに乗じてマルランを探る密偵を放つことをも予測していた。そしてそれに同調する動きを見せることで、周囲の人間に、自分とライナスと手を結んだと思わせたいのだ。

 そうなれば、オーブニル伯爵家は中央集権派に与したと見られる。侯爵の敵対派閥は、まるまる伯爵家一つ分の影響力を失うばかりか、離反者を出したことで権威をも失墜させる。では、中央集権派は不本意に組み込まれたライナスという、獅子身中の虫を飼うことにならないのか? ならないのだ。

 この筋書きのまま事が進むと、ライナスにその気は無くとも侯爵の手を借りて弟への陰謀を行った、という既成事実が残ってしまう。中央集権派への莫大な借りだ。これを蔑ろにすれば、忘恩の輩として他家からの付き合いを遠慮される程の借りである。今後のオーブニル伯爵家は立ち行かない状況に追い込まれる。そして立ち行かなくなったとしても、誰も助けることは無い。中央集権派にとっては寝返ったばかりの新参、反対の分権派諸侯にとっては度し難い裏切り者だ。仮に手を差し伸べる者がいたとしても、その新たな借りを盾にして骨の髄まで貪られる。それが嫌なら、この老政治家に従う以外にない……。

 気付いた事実に、呆然とする。

 そんな彼を後目に、侯爵は悠然と立ち上がった。


「失礼、少々長居し過ぎたようだな。この後も人と会う約束がある。今日のところはここまでにしよう」


 今後の付き合いを仄めかすこの言動、やはり推量に間違いは無い。だが、だからといってどうしようもなかった。


「お、お待ち下さい侯爵閣下!」


 無作法にも椅子を蹴立てて身を起こしたライナスに、ラヴァレ侯は微笑みかけた。


「この後会う友人にも、君の事はよぉく紹介しておこう。『少々奥手だが如才ない若者であったぞ』とな」


「……くっ」


 その言葉の意味するところは、実のところこうだ。


 ――頭は悪くないが、陰謀に対し受け身過ぎる。まだまだ精進が足らぬぞ若造。

 ――最後の最後に絵図面に気付いたことには及第点をやるが、それ以外には不足が多い。特にこちらの仕掛けに対して、即座に有効な手だてが打てなかったのが頂けぬ。


 そんな辛い評価だった。


(やられた……!)


 まんまと向こうに乗せられた上に、器量まで見透かされたのだ。おそらく、紙に書かれた写しの書面を広げてみせたのも、テストの内だ。こちらは見破られても大した痛手にはならない。何しろ本命の策は、この老人が屋敷に訪問する前に、既に仕掛けられていたのだから。極論、この侯爵はライナスに会って茶の一杯でもせしめるだけで、十分に勝利条件を満たしていたのだ。


「そうそう、『茶の趣味は良かった』とも伝えておこう」


 最後にそんな勝利宣言までくれて、侯爵はテラスを後にする。

 ライナスはそれを追えなかった。追ってどうするという思案すら浮かばなかった。

 完敗である。

 ラヴァレの姿が見えなくなって、しばらく後、


「……くそっ!」


 けたたましい音を立てて、テーブルの上の茶器が割られた。

 名工の手から為るカップも、ソーサーも、ポットも、何もかも砕いた。

 砕けた破片目掛け、靴の踵を何度も踏み下ろす。

 全てが木端微塵となっても、怒りは収まらない。収まるものではない。


「……ひっ!?」


 突如、背後から掛けられた声に反射的に振り向く。

 そこに立っていたのは、粗末な、だが辛うじて不潔ではないといった程度の格好をした女だ。

 激昂し物に当たり散らすライナスの姿に、家僕である奴隷の女が悲鳴を上げた……そんなところだろう。

 片付けに現れたのであろうその女奴隷は、彼の方に化け物でも見るような視線を向けている。


「何だ、その目は……?」


「い、いえっ、あのっ」


 見返してやると、女奴隷は震えながら後ずさる。

 何だ、これは?

 何故、自分をそんな目で見る?

 ……この家が【奴隷殺し】の化け物を飼っていた屋敷だからか?

 ……だから、あんな化け物を見るような目で、自分を見るというのか?


「『そんな目で私を見るな』っ!!」


 反射的に唱えた服従の魔法が、奴隷の女の身を捉えた。

 術式に走る魔力に従い、強制的に瞼が固く閉ざされる。


「や、止めて下さいご主人様っ!」


 突如として閉ざされた視界に困惑しながらも、奴隷の女は額づいて許しを乞うた。

 その憐みを誘う声がまた、苛立ちを募らせる。

 かつて、この家の地下ではそんな声が絶えなかった。

 今は遠くマルランの地へ追放したはずの男、次男トゥリウス。

 彼が奴隷たちを苛み続け、上げさせていた声と同じだった。


「うるさい、黙れっ! 何故、今になってそんな声を聞かねばならん!? 何故今をもそんな顔を見ねばならん!?」


 喚きながら、女へと馬乗りになり頬を叩く。

 何度も、何度も、何度も、何度も叩く。

 その度に奴隷は無様な声を上げながら許しを乞うた。半ば、聞き入れられはしないという諦めを滲ませた、あの声を。

 この奴隷は何もかも不快だ。身の回りに置くからとせめて見目良いものを選んだはずが、その顔が浮かべる諂いの色に吐き気を催す。殴るうちに腫れ上がっていく様が、いつだか弟が選んだ最初の奴隷を思い出させる。

 ……気が狂いそうだった。

 この苛立ちを、この憤懣を、この嫌悪感を、速やかに吐き出さなければならない。

 義務感にも似たそれに忠実に従い、ライナスは奴隷の着衣に手を掛けた。


「やめ、て、……あ、なに、を……? や、やめ――」


 見ることを禁じられていながらも、何をされようとしているかを本能的に悟ったのだろう。奴隷の女は儚い拒絶を試みる。

 だが――、

 屋敷に響いた衣を裂く音は、使い古された喩えのとおり、どこか悲鳴に似ていた。







「ハァー……ッ、ハァー……ッ、ハァァァー……っ」


 気付けば、夜になっていた。

 腹も随分と減っている。執事も気が利かない、声くらい掛けてくれても良かったものを。

 そう思いながら、ライナスは気付いた。

 今の自分は、気の利く人間ならばそれこそ声を掛けるのを躊躇う有様だったろうと。

 八つ当たりの対象となった奴隷は、衣服の残骸を精一杯引き延ばした布切れで、辛うじて身を覆っている。彼女は泣いていた。主が自分にこんな無体をしでかすなど、信じられないとでも言うように泣いていた。

 思えばこの女のことは、奴隷にしては大事に扱っていたような気もする。昔は不始末を仕出かした奴隷を斬るくらいはしていたのに。

 それもトゥリウスの所為だった。奴があんまりにも奴隷を殺すから、世間体を恐れて自分と父は奴隷に手を上げることが無くなっていた。

 それなのに、この女はあの悪魔と自分を区別すらしなかったのだ。

 今日の今日まで、生かしてもやったし手を上げもしなかったのに、あんな目で自分を見たのだ。


「見苦しいぞ、奴隷が」


「ひ……っ」


「用は済んだ。失せろ」


 冷たく凄むと、女奴隷は震えながらノロノロとその場から這って去っていく。腰が抜けて立てないのだろうか。無様な格好だった。間抜けに晒された尻たぶに残る、月明かりにも鮮やかな手形は、自分が残したものだろうか。事の最中の記憶は曖昧だった。


「……くっ、何をしているのだ私は!?」


 侯爵に良いように扱われた屈辱感と敗北感。それに逆上してあたら高価な茶道具を壊し、それでもなお収まらず奴隷に当たるなど、伯爵家当主に相応しいとは到底言えない振る舞いである。

 特に最後の一線を越えてしまったのは最悪だった。下手をするとこれが元でライナスの最初の子が生まれてしまうかもしれない。奴隷の血の混じった庶子だ。もしそうなれば、血の尊さを謳う貴族社会では、あるいは奴隷を殺す以上のタブーである。

 ……殺すか?

 ライナスの脳裏に今更な思考が走る。

 だが、それも駄目だ。奴隷を好き勝手に扱った挙句、殺す。

 まるで――


「――私がトゥリウスの同類のようではないか……!」


 血を分けたとも思いたくない外道である。この上、同列にまで落ちたくはない……。その認識が、歪んだ形ではあるものの、ライナスの最後の体裁を守っていた。

 それにしても忌々しいのは弟のトゥリウスだ。今回の原因も、奴がよりにもよってラヴァレ侯爵に察知される形で嘆願を送ったことに端を発する。いくらライナスにそれを渡したくなくとも、他にも打つ手はあったはずだった。せめて分権派貴族の派閥内対立派閥だとか、中央集権派でもこのような案件を扱いかねる末席だとか、単に兄に嫌がらせをするなら、もっと穏当な相手は腐るほどいる。なのにどうして、わざわざ最悪な相手を選んでしまうのか。

 やはりアレは鬼子だ、とライナスは再認識した。トゥリウス・シュルーナン・オーブニル……あの男は、この世に存在する限りオーブニルの家を傾け続ける厄の種だ、と。

 思えば、生まれからしてそうなのである。トゥリウスが産まれて、母が死んだ。記憶の中の母は、気弱な女だった。父を相手に強く出ることが出来ず、いつも物言いたげな顔をしていた。だがライナスには常に優しかった。目立った欠点は無いが凡庸な子だった彼は、優秀な後継ぎをと焦る父に、厳しく躾けられてきている。そのお陰で今の自分があると言えるが、己の愚鈍さを棚に上げて子どもにばかり無茶を言う父は、好きではなかった。あの日々を耐えられたのは、母が陰日向に自分を庇い、慰めてくれたからだとライナスは信じている。その母を殺したのはトゥリウスだ。産後の肥立ちがどうのといったところで、アレの存在の為に母が失われたことは変えられない。

 父は長ずるにつれ、幼時から小賢しかったトゥリウスを寵愛しだした。ライナスは飽きた玩具を捨てるように冷たく扱われ、幼年期の大半を、父に甘やかされる弟を見ながら育つことになる。あの頃を思い出すだに、弟は異常だった。言葉を覚えることこそ遅れ気味だったものの、四歳になる頃には逆に大人顔負けの弁舌を使いだし、瞬く間に初歩の魔法を習得していた。父は神童だ天才だと褒めそやしていたが、当のトゥリウスはどこか冷めた顔をしていた。子どもというよりは、幼稚な餓鬼を見る大人の目だった。

 長子である自分を期待外れと切り捨てた父は、弟に掛けた期待にも裏切られることになる。卑賤な詐欺師の業として遠ざけられている錬金術。トゥリウスは何故かそんなものに熱中していった。父は錬金術から弟の興味を逸らそうと、人使いの勉強の為に奴隷を買いに行かせたが、そこでアレが選んで来たのは、顔を潰された死にかけの子どもだった。狂っていると思った。父もそう思っただろう。だが、何より狂っていたのは奴の腕前だった。独学の錬金術と簡単な治療魔法で、その半死人を綺麗に生き返らせてしまったのだ。父は引き攣った顔で奴を労うと、しばらく距離を取って好きなようにやらせた。忌避感と我が子の才能を思う父親の情、その均衡がそうさせたのだろう。それが、最大の間違いだったというのに。

 父の態度を錬金術への黙認と考えたのだろう。トゥリウスはそれから常軌を逸した研究にのめり込んでいった。あの最初の奴隷を巧みに助手にと仕込むと、独自に調合したポーションを売り捌き、家に依拠しない資金源を得始める。それを皮切りに次々と新たな奴隷を購入し、実験と称して殺していった。発覚した時点で、一体何人を殺していたのか。顔色を無くし問い詰める父に対して、トゥリウスは抜け抜けと言った。


『父上、奴隷は持ち主がどう扱っても良いと、法律で決まっているのでしょう? なら問題無いじゃないですか』


 と。


『それに大抵の貴族は癇癪で奴隷を殺しますけど、僕は有為な実験だからしているんです。ああ、付け加えて言うなら、僕も殺したくて殺しているんじゃない。実験をすると大抵は死んでしまうだけなのですよ。ほら、ユニみたいにちゃんと生きている奴隷だっているじゃないですか?』


 悪魔の言葉だと思った。父もそう思ったのだろう、青褪めた顔で奴の手を掴むと、そのまま教会まで引き摺っていて神官に泣きついた。私の子どもから悪魔を祓って下さい、と。

 だが、信じられないことに悪魔は憑いていなかった。感知魔法も、聖遺物も、奴から悪魔らしい邪気など見出せなかったのである。呆れたことにトゥリウスは、駄目押しのように聖典の文言を諳んじてみせ、逆に神官から歓心を買ったという。その神官はモグリの売僧に違いない、とライナスは今でも思っている。この手口が悪魔でないならば、一体この世のどこに悪魔がいるというのか。いや、神官の見立てでは悪魔は『憑いていない』とのことだった。ならばトゥリウス自身が悪魔なのだろう。

 それからのオーブニル家は、毎日が地獄だった。地下室では奴隷を供物にした実験が続き、庭では死んだ奴隷が度々荼毘に付される。死臭と骨肉の焼けた匂いがあちこちに染みつき、家人はそれに心を病んで、辞めていく者が後を絶たなかった。

 ライナス自身、格下であるはずの下級貴族の子弟から、「オーブニルの屋敷の周りは臭い」と嘲笑われたことも一度や二度では無い。街で商人と取引を持つ際に「あのオーブニル家の……」と見下しきった枕詞を付けられたこともだ。オーブニル伯爵家の伝統と矜持は、トゥリウス一人の存在で瓦解しかけていた。

 父が病み付き、実験を生き残った奴隷が何人か屋敷の家僕の真似ごとをし始めた頃、堪りかねたライナスは弟を隣国へ追いやった。行先は魔導アカデミー。研究がしたければ好きなだけするが良い。だからせめて、我々の目の届かない遠くでしておくれ――そんな願いも虚しく、僅か一年であの怪物は屋敷に帰ってきた。決闘騒ぎなどを起こし、またも家名に泥を塗った上で。

 奴が帰国して間もなく、父が死んだ。今わの際までトゥリウスに怯えていた父は、意味の通る遺言すら残せなかった。父の事は憎んですらいたが、それ以上に哀れだった。いや、恐ろしかった。父がいなくなれば、錬金術に狂った奴隷殺しだけが、自分の肉親になってしまうのだから。

 そして今、トゥリウスは自分を道連れに破滅への道をひた走っている。ラヴァレ侯爵の張った蜘蛛の巣に、まんまと引っ掛かって。


「……ああ、くそっ! 返す返すも、あの悪魔めっ!」


 独白し、両手で頭を掻き毟る。

 半生を振り返って確信する。ライナス・ストレイン・オーブニルの人生は、弟トゥリウスの所為で滅茶苦茶だった。奴さえいなければ、父との確執は避けられなかっただろうが、それでももう少し平穏で、少なくとも他家並には貴族らしい生活は送れていただろう。母もあんな化け物を胎に宿さねば、今も生きていた筈なのだ。


「やはり、殺さなくてはならない」


 そうしなければ、この家は救われない。最早、オーブニル伯爵家が、ラヴァレ侯爵たち中央集権派に組み込まれることは避けがたいだろう。領地も幾らか削られてしまうかもしれない。

 だが、それと引き換えにトゥリウスだけは殺す。アレはこのオーブニル家の病根だ。切除しなくては御家の存続も糞もない。こうなったら、侯爵だろうが誰だろうが、使えるものは使ってやる。手段を選んではいられない。無論、後顧の憂いを断ったら中央集権派も潰す。トゥリウスを潰したところで、連中に使い潰されてはどの道終わりなのだから。

 だが、あのどうしようもない愚弟に始末を付けるまでは、仕方なく手を組んでやる。


「ああ、そうだとも。悪魔を敵に回すのだ。……それ以外の者なら、何とだって手を組もうじゃないか」


 ラヴァレの如き妖怪だろうと、悪魔よりはましだ。

 そう思うと、少しは気が晴れたのを感じる。

 トゥリウスを殺すことのみを考えれば、今の状況は悲観したものではない。自分の手駒に加え、侯爵陣営の人材まで使えるのだ。

 ……手痛い負債は抱え込むだろう。が、幸いにも自分は若い。あの老獪な侯爵は、老獪さを得るのに相応の年月を重ねている。自分が夭折するか、あれが本物の妖怪でもない限り、確実に向こうが先に死ぬ。それまで耐えられれば、ライナスの勝ちだ。


「何を取り乱していたのだ、私は……」


 溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らした所為か、妙に冴え冴えとした気分を感じた。そう思うと、あの奴隷にも少しは申し訳ないという気持ちも湧いてくる。が、まあ良いだろう。精々後で詫びを兼ねて幾らか握らせておこう。多少は情を掛ければ、伯爵の手が付いたなどと吹聴はすまい。

 そんなことよりも、ライナスは早く弟の急所を握り、殺したくて堪らなかった。

 不意に、夜風が頬を撫でた。

 見れば窓の外は三日月。それをなぞるように、若き伯爵の口が歪んだ。


「トゥリウス……貴様は所詮、奴隷どもに傅かれた裸の王様だ。本物の貴族の権謀を前に、卑賤な下僕どもは無力と知るがいい――」




   ※ ※ ※




「――と、兄上は今頃、お考えになっているところだろうね」

 

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― 新着の感想 ―
[一言] てっきり、兄さんの脳みそも弄り済みかと思ったら、そうじゃなかったか。 しかし読み切ってるなぁ 侯爵を引き入れたのも、優秀な文官人材を得るためだろうね。 どうせ脳改造しちゃえば忠誠心MAXに…
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