000 永劫への探求
――光が無いことを闇と呼ぶのなら、それは確かに闇だった。
堕ちていくような浮遊感。
毛糸玉が解けるように、自分を構成する要素が末端から剥離していく。
記憶、言葉、感覚、情緒。
そうした全てが抜け落ちて、果たしてその後には何が残る?
――無だ。
意識した途端、怖くて怖くて堪らなくなった。
離散していく自分を必死で掻き集め、押し留めても、零れるように失われていく。
足掻いても藻掻いても、それでも喪失は止まらない。
無くなってしまう。亡くなってしまう。
――嘘だ。
眠りとも喩えられるそれは、断じてそんな穏やかなものではなかった。
溶けるように主体を失っていくそれは、寧ろ獣の胃袋で消化されるように暴力的だ。
そこに安らぎなんてものは無い。単に不安を感じる機能が無くなるだけだ。
そして、いずれ何も感じなくなる。感じないことも感じなくなる。何も無くなる。
――嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!
こんなものが終わりだなんて嫌だ!
こんな空虚な、何も無い世界が自分の末路か?
こんな結末を迎える為に、今までの人生があったというのか!?
「……こんなのは、あんまりだ」
自分自身の寝言で、僕は目を覚ました。
目に飛び込んでくる光景は、ランプの頼りない明かり、木製の机、その上に置かれた鼠の檻と数々の薬品。見慣れた地下の実験場である。
どうやら実験の最中に寝入ってしまったらしい。
さっきのは悪い夢だ。何度も何度も見た悪い夢を、今日も見ていたようだった。
幾度となく繰り返し見た所為か、今更悲鳴を上げて飛び起きたりはしない。けれど、気分が良くないのも事実である。
背凭れから起き上がると、熱くもないはずなのに体中が汗でぐっしょりだった。あの夢を見た後はいつもこうだ。
――自分が生まれる前の夢。
――或いは死んだ後の夢。
「最近は見ていなかったはずなんだけどな……。今頃になって、何でまたあの夢を」
独り言を呟く僕に、籠の中の鼠がチチチと鳴く。まるで嘲るようであった。
……ああ、そうだ。原因なんて決まっている。
研究が、行き詰まってしまっているからだ。
あんなことにならない為の研究。不老不死の研究が。
「……まだ時間はあるはずなんだけど。それも十分に」
言いながら明かりに翳す手は、かつてのそれとは比べ物にならないくらい小さい。
指すら短く、育ち切っていないこの手は、紛れもなく子どもの手である。
鼓膜を振るわせる自分の声も、声変わりすらしていない甲高い小児のそれだ。
頭を掻いた指に絡まる髪も、銅を思わせる赤。見慣れた黒では断じてない。
そう。
かつて別の世界で死に、ここで生まれ変わった存在である僕。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニルは、まだ八歳になったばかりだった。
――輪廻転生。
どうやら僕が見舞われたのは、そんな現象であるらしい。
一度死んだ後、記憶と人格を維持しての生まれ変わりだ。
どうして僕が生まれ変わったのか? その辺り、自分自身興味は尽きないが、今のところは不明である。少なくとも身の回りに僕の同類はいないようであるし、似たような例があったとしても、嘘か真かも分からない神話や童話の中だけだ。
僕が前世でどんな人生を送ったかは、あえて語る必要はないと思う。
今生と同じく男性であり、二十一世紀の日本に生まれ育ち、一端の大人げやら何やらを身に着ける前に若くして死んだ、とだけ憶えておけば、特に問題は生じないんじゃないだろうか。
重要なのは、僕が一度死んで、記憶を持ったまま生まれ変わったことだけなのだから。
……そう、僕には死の記憶がある。
脳の見せた何らかの作用か、それとも魂が肉体から抜け出た後の光景か。自分が無へと還っていく感覚を、嫌と言う程に味わわせられたのだ。
あの後に何があったのか、どういう幸運に見舞われたか、僕はこうして二度目の生を得ることが出来たのである。
だが、あの時のことを夢で見るだに、気が狂いそうだった。いや、もしかしたら既に狂っているのかもしれない。
だって、死の恐怖は未だに僕を捉え続けているのだから。
……人間はいずれ死ぬ。それはどうあっても覆せない摂理だ。こうして生まれ変わった僕も、いずれは年老いたり、病気になったり、或いは事故に遭ったり――酷い場合は誰かに殺されて、やはり死ぬだろう。
それは、嫌だ。
僕がこうして生まれ変わった原因は明らかではない。つまり、もう一度死んだら生まれ変われるかどうか分からないのだ。
多分、今度は帰って来れない気がする。僕が死後に感じた、自分が消えていく感覚。それはこの幸運が二度とあるものではないと、そう確信させるに十分なものだったのである。
だから十歳にもならない内から、こうして研究を行っているのだ。
え? 何の研究かって――?
「この実験は、もう失敗しようが無いくらい繰り返しているんだけどな……」
言いながら、ケージの中から一匹の鼠を摘まみ出す。
その鼠の前足は、片方が欠けていた。僕が実験の為に切り落としたからだ。
小さな脳味噌にも足を切除された記憶くらいはあるのか、必死で抵抗する鼠。僕はそれを無視して、欠けている方の足へ適量の『素材』をあてがう。
そして、その『呪文』を唱えた。
「≪錬金≫」
淡い光の粒子が素材に集まり、それそのものが光り輝いたかと思うと、光が収まる頃には全く別の形へと組み直されていた。
鼠の前足だ。かつて僕が切り落としていた部位は、他ならぬこの僕の手によって、再生を果たしたのである。
――錬金術。
鉄や鉛を金に変えるように、物質をより高次の物へと変換する魔法技術。
極めれば魂すら錬成し、人間を更なる高みの存在へと変えるともいう。
それがこの僕、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルが、死を免れ得る可能性として研究している学問なのである。
……言い忘れていたのだが、僕が生まれ変わったこの世界には、魔法なんていう代物が存在しているのだ。
アルクェール王国、王都ブローセンヌ。
二十一世紀初頭を生きる、ごく一般的な日本人に、そんな地名に聞き覚えがある者はいないだろう。
実際、僕もこの世界の人間として生まれる以前は、知りもしなかった名だ。
円形に外周を覆う石造りの壁に守られた城塞都市である。市街は北東から南西に掛けて蛇行しながら流れるアモン川によってほぼ二等分されている。上空から見下ろせば、さながら東洋で言う太極図を思わせる光景が広がっているのが目に入るはずだろう。
この僕が住むオーブニル家の邸宅も、この街にある。
「トゥリウス。お前はまだあの賤業に耽っておったのか?」
一列に十人は優に座れるだろう長テーブルの上座から、中年の男性が声を上げる。彼は僕の父だ。
緩やかなガウンを羽織り、仕立ての良い服をその下に覗かせる身体は、言っちゃあなんだがこちらも大分緩やかな弧を描いている。見事な太鼓腹だった。血色は良いし、骨相もそんなに悪い方では無いので、もっと運動して身体を引き締めれば良いのに。
「そのような言い方は止めて下さいよ、父上」
僕はまたぞろ彼のお説教が始まったと思って、うっそりと顔を上げる。オーブニル邸食堂の風景が目に飛び込んで来た。
朝方の時刻にありながら、天井の装飾豊かなシャンデリアは窓からの日差しを受けて輝いている。これだけの大きさだ。明かりが灯れば夜でも昼のように感じられるだろうと、そんな事さえ思わされる。現当主である父の席、その背後の壁には一幅の絵画が掛けられていた。そこに神秘的な筆致で描かれるのは、二百年以上前のさる戦いで手柄を立てた初代当主が、当時の国王から叙任を受ける光景である。
他にも鮮烈な色合いと艶の絨毯といい、壁際に置かれた高そうな壺といい、何もかもが無闇にきらきらして目に痛い。まだまだ前世の庶民的な感覚が抜け切らない僕としては、どうにも華美に過ぎて馴染めない内装だった。
まるで王侯貴族の豪邸、といった風であるが、
「錬金術など、卑賤な所業と言う以外にどう呼べば良いのだ? 卑しくもオーブニル伯爵家の子とあろうものが、手を染めて良いものではない」
と、にべもなく言う父。
そう、僕が今生で生まれた家は、どういう訳だか貴族だった。それも伯爵という中々の高位である。
オーブニル伯爵家は二百年前に興されたという、五百年の歴史を持つとされるこの国では、比較的新しい家だ。何でも初代当主は、係累の絶えたさる大貴族の後裔が、隣国との戦争で功を立てたのを機に、時の王から官爵の列に戻るのを許されたという。正直、どこまで本当か怪しい物だ。元々身分の低い成り上がりが、系図を買って由緒ある名籍を手にする、なんていうのは前世の世界の歴史にもあったことである。徳川家康なんて最たる例だろう。彼は実のところ、かなり無理のある理屈で徳川姓を名乗ったのだと、ものの本で読んだ覚えがある。
まあ、家の由緒は置いておいてだ。このオーブニル家に生まれついたことは、僕にとっては幸運だった。何せこの世界は、見ての通り貴族がかなりの力を持つ、封建制の身分差社会である。こんな世の中に生まれて農民の子、とかだったら目も当てられない。不老不死の研究どころか、日々の暮らしを維持するだけで精一杯だ。こうして裕福な家の子として生を受けたのは、生まれ変わりが出来たことと併せて、とんでもない天恵だろう。
王都住まい、というのも良い。父は領地運営に熱心な方ではなく、そういったことは家臣に任せて王都での社交に精を出している。お陰で僕は不便な田舎暮らしなどせずに、インフラの整った都会で何不自由なく過ごせるという訳だ。
ただ、僕にとって至上の命題である錬金術の研究が、父にとっては頂けないものであるらしいことはマイナスなのだが。
「そもそもだ。トゥリウスよ、お前ほどの才能があれば、左様なせせこましい術に頼らずとも一端の魔導師にもなれよう? そうすれば次男であるお前にも、宮廷魔導師などで身を立てる道もあろうというもの。錬金術師など、路傍の怪しい薬売りが如き、下賤な稼業ではないか」
「はあ……」
何度も繰り返された問いに、同じく繰り返された生返事を返す。
彼が言うように、この世界での錬金術の地位は不当に低い。というのも、この世界での魔法は概ね錬金術と比して、かなり強力な代物だからだ。杖から炎や雷を出すのは当たり前。大概の怪我や病気は、教会の神官に頼めば魔法で治しても貰える。そこに乳鉢で擂って調合した薬だの、魔法を帯びさせた武器だのを持ち込んでも、精々が既存の魔法の下位互換な代替品扱いが良いところだ。
元現代人である僕からすれば、噴飯ものの理論だった。代替品だって? そこが良いんじゃないか。幾らでも物で替えが利くってことは、逆に言えば大量に揃えられるってことでもある。先天的な才能が物を言い、ユーザーがごく少数に限られる魔法こそ、融通が利かなくて使い勝手が悪いじゃないか。
そう言うと大概の人は、錬金術で物を作ることこそ金が掛かるだの、既に魔法があるから十分だのと返してくる。
……何を言っているんだか。コストなんて大量生産の過程で必然的に下がっていくものだし、その魔法こそ間口が狭くて、恩恵を受けられる者が少ないんじゃないか。治療に使う回復魔法なんて、教会の連中に寡占されているようなものだから、いつまで経っても医療費が割高なままなのだ。金の無い平民が、疫病の度にばたばたと死ぬ。だから人口も伸び悩むし、辺境の開発も進まない。そんなことを今まで何度も繰り返している癖に、一向に改善の兆しが見られないのは如何なものか。
まあ、これも所詮は元現代日本人であり、科学と思想と経済とが発達している世界から来た僕個人の理屈だ。この世界――イトゥセラ大陸に住む人の過半が現状を善しとしているのなら、下手に口を挟むべきことではないだろう。
僕が研究を行うのに邪魔にならなければ、だが。
父の目は未だに厳しく、彼の言う賤業にのめり込んでいる僕を視線で指弾していた。
「そう目くじらを立てずとも良いではありませんか、父上」
穏やかで品のある口調で割り込んでくるのは、今まで黙って成り行きを見守っていた青年だ。豊かで柔らかな金色の長髪に、ブルーの瞳。細面の顔立ちの造作は整っており、浮かべる表情からは育ちの良さが滲む。
ライナス・ストレイン・オーブニル。僕の七つ上の、年の離れた兄だ。
「トゥリウスは賢い子です。その彼がこうも熱意を持って取り組む道、多少は応援して差し上げてもよろしいのでは?」
「おお! 流石は兄上、よくお分かりでいらっしゃる!」
僕は快哉を叫んだ。
彼は領地をほったらかしにしている父とは違う。この父親ときたら、社交だ何だと言いつつも、実態は王都での贅沢暮らしに浸っているだけである。夜会に招かれた客人が、父の奢侈に陰口を叩くのを聞いたことなど、一度や二度ではない。その点、兄ライナスは勉強熱心な努力家だ。贅沢と言えば茶の趣味程度で、後は質実剛健そのものの暮らしぶり。多分、今日明日あたりにでも父が身罷ったとして、それでも彼が家を継げば、今よりは確実に良くなるだろうとさえ思う。その兄の口添えだ。僕としては大助かりである。
だが父は不機嫌そうにスープを一啜りすると、不興げに鼻を鳴らした。
「貴様も一端の口を叩くようになったではないか、ライナス」
彼の目には、僕に懇々と説教を垂れていた時以上の不快さがあった。
「不肖の嫡男としては、その方が都合が良いであろうからな」
そしてこの言い草である。一体、兄の何処が不満なのやら。
「っ、父上……」
兄も短く息を呑んだ。
確かに、次期当主を争う兄弟としては、ライバルが錬金術などという胡散臭い趣味に耽溺しているのは都合が良いだろう。だが、それは僕としても同じだ。兄が出来の良い後継者であれば、僕は自分の研究に専念できるのだから。
「兄上のような立派な方ですら不肖とは、父上も理想が高くていらっしゃる」
僕は呆れ返って口を挟んだ。
「そんなに出来の良い世継ぎをご所望なら、早々に後添えを設けられてはどうです?」
「おい、トゥリウス」
さも心外そうに眼を剥く父。彼には現在、妻がいない。僕と兄の母に当たる女性は、僕を産んだ後に亡くなられている。なんでも産後の肥立ちが悪かったとのことだ。
父も最近白髪が目立ってきているとはいえ、まだまだ男盛りの年である。後妻を娶っても不思議ではないと思うのだが、既に正嫡の息子が二人もいることから、なかなか新しい縁が無いらしい。だとしても、仮にも伯爵家であり金回りも悪くないのだ。男爵家あたりからの玉の輿を目論む女性が一人や二人、いてもおかしくはないと思うのだけれど。
彼は苦々しい顔で言う。
「……お前が錬金術から足を洗えば、すぐにでも叶う望みなのだぞ?」
このお人は何を言っているんだ?
「止めて下さいよ。明確な不備も無いのに長幼の序を乱すなんて、それこそ要らない騒動の元です。僕は御免ですね」
下の子可愛さに謂われなく長男を除くなど、三国志でも有名な死亡フラグだ。曹操に滅ぼされた大陣営の内、袁家と荊州劉家の二つがこれを満たしている。当時は劉備や孫権より強かった連中でさえあの様だ。わざわざそれをなぞる理由は、このオーブニル家には無い。僕らの属するアルクェール王国だって、長子相続は基本中の基本なのだ。
言っちゃあ何だが、それを平然と無視してかかる父は、かなり暗愚だと思う。
「世の親が後に出来た子ほど可愛がるのはよくあることですがね。だからって御家の跡目まで玩具のようにくれてやるのは筋が通らない。第一、兄上は弟の僕から見てもご立派な後継ぎですよ。ねえ?」
同意を求めて目線を向けると、兄は盛大に顔を引き攣らせていた。
「あ、ああ……お前からもそう言ってもらえて、嬉しいよトゥリウス」
そして溜め息を吐きながら呟く。
「……もっとも、子どもの癖にそうやって賢しらぶるから、こういうことになるのであるがな」
聞こえていますよ、兄上。小声のつもりでしょうけれど。
父は多分、僕がこの年で大人みたいな口の利き方をするものだから、すわ兄をも凌ぐ神童なのでは? などと錯覚しているのだろう。
それも単に生まれ変わる前の大人だった頃の記憶の所為なのだ。要するにインチキ、砕けて言ってチートである。僕から言わせてもらえれば、齢十五にして後継ぎになる為の自己研鑚に打ち込む兄こそ優秀な子どもだ。絶対に前世の僕が同じ年だった頃より立派である。
かといって、今更子どもらしく振舞うつもりなんて、僕には無い。赤ん坊の頃、下から色々と垂れ流しの上に、乳母の乳まで吸わされる生活に甘んじて来たのだ。ああいうプレイは、その手の性癖が無い人間にとって苦痛でしかない。あれに一年以上耐えたのだ。大人としての自意識があるなら、自分で立って歩けるようになれば、それらしい口も利きたくなるのが人情である。
我慢してそんな韜晦をすることが出来ないことこそ、余程子どもっぽいと言えるかもしれないが。
父はゴホンと咳払いを一つする。
「まあ、それは置いておくとしてだ。トゥリウスよ、お前も八つになったのだ。いつまでも遊びに興じていられる年でも無かろう?」
毎日贅沢な遊びに興じている貴族が何か言っているが、ひとまず堪えて肯いておく。家長の権限は絶対。それが貴族の家というものだからだ。
「お前もそろそろ、貴族の男子として人使いというものを覚えていかなくてはいかん。そこでだ、今日は午後より奴隷市に出向いて貰う」
「奴隷、ですか?」
顔が渋くなっていくのが自分でもわかる。
奴隷。この身分差社会における最底辺。何せ平等だの基本的人権だのという、近代的な思想とは無縁の世界だ。そりゃあ奴隷ぐらいはいる。どころか鉱山などの過酷な環境では、奴隷が主な働き手だ。
そして貴族や平民の中でも富裕な層となると、家の中で働かせる奴隷を抱えてもいる。無論、何でもかんでも奴隷にやらせている訳ではない。富貴な身の上となると、家人にも相応の格というものが必要になるからだ。
このオーブニル家の場合、伯爵家という高位貴族なのだから、家人は大方が平民。側近や政務に携わる者となると、陪臣である下級貴族の家から出仕している。伯爵家ほどの身代で奴隷にやらせることと言ったら、そういう身分の連中にやらせるには辛くて汚い仕事か……或いはまだ人使いに慣れていない子どもの配下だ。まずは奴隷から始めて平民、下位貴族と順繰りに、人に命令させることに慣らしていく訳である。
確かに八歳になった僕も、そう言ったことを始めても良い年頃だが、どうにも嫌な予感がする。
僕は恐る恐る聞いた。
「えーと、それは構わないのですが……予算はどれ程頂けるので?」
「心配は無用だ。来月の小遣いを前借りして遣わす」
やっぱり! 僕は思わず天を仰ぐ。
錬金術の研究は、当然のことながら父からの小遣いを資金に行っている。子どもの小遣いとはいえど、伯爵の二人しかいない息子の片割れ、それに渡すだけの金だ。八歳児としては分不相応に潤沢な予算だった。
しかし来月分を小遣いを使って奴隷を買わされるとなると、どうなる? お金が足りずに、翌月以降の研究に支障を来たしてしまうじゃないか。素材や実験機材だってロハじゃないのだし、当然使えば減るのだから。
奴隷の維持費の問題もある。食費は家の残り物で何とかなるにしても、被服費は掛かるだろう。彼らにだって伯爵の子である僕の従者として、それ相応の格好をさせなければならないのだから。更に病気になったり怪我をしたりしたら、治療費まで掛かってしまう。
その分の金まで、父が出してくれるのか? いいや、出す訳が無い。小遣いは十分にやっているのだから、後はそこから工面せい、で終わりだ。錬金術の研究が続けられなくて困る、と訴えても父は元からそれに反対している。
父は得たりと笑う。
「良い機会だ。お前も心を入れ替えて、貴族の子息としての本道を遂げよ」
要するにこれは、形を変えた研究中止命令ということだ。
冗談じゃないぞ。錬金術の研究を辞めるということは、死んだら終わりという人生を受け容れるということだ。折角僥倖に恵まれて生き返ったのに、百年もしない内にあの虚無の世界に逆戻りなんて、認められる訳が無い!
何とかこれを撤回――、
……。
いや、待てよ?
僕の奴隷、ということは、僕が好きに使って良いということだ。仮にも人間一人を、僕が勝手に動かして構わないと、そういうことだ。
だったら……錬金術の助手に使っちゃっても、構わないんじゃないだろうか?
我ながらナイスなアイディアだと思う。
元々、最近の僕は研究に行き詰りを感じていた。いくら大人の知識と知能を持っているとはいえ、たかが一人で続ける研究には限界があったということだ。そこに新たな人手が増えれば、出来ることの幅も大きく広がるはずである。少なくとも、僕と奴隷を合わせれば、頭数は一人から二人になって単純計算で二倍になるのだ。
勿論、全く知識を持たない奴隷に錬金術を仕込む手間はあるだろうが、上手くすればリターンはそれ以上に大きい。
そう考えれば、悪い話ではない。どころか渡りに船だ。
「確かに、父上の仰る通り――良い機会なのかもしれませんね」
僕は顔を伏せて、いかにも悄然とするようにして答える。
名案が浮かんだ喜びと、騙す相手への侮蔑にほくそ笑んだ表情を隠す為だ。
良いだろう。来月分の予算丸々使っての高い買い物である。精々飛びっきりの奴隷を見つけて、手に入れてやろうじゃないか!
僕の返事に父はほくほくとした顔を隠しもせず、兄はと言えばどこかきな臭そうにこちらを見ていた。
そんなわけで、ブローセンヌの奴隷市場である。
街の片隅とはいえ、天下の王都でこんな商売が絶賛営業中、かつ貴族の子どもである僕でも入れるあたり、色々とアレだ。元・現代的日本人として思うところが無いわけではないが、そこはそれ、自分が痛手を被らなければ、ある程度の事は黙認するべきだろう。事なかれ主義万歳。
「で、坊っちゃん。どんな奴隷を御所望なんで?」
伝法な口調でそう言ったのは、護衛兼お目付け役として父から付けられた従者だ。
彼は一代騎士の名乗りを許された元平民である、らしい。親しくないからよく知らないが。僕らの詳しくない下々のことにも、それなりに知悉しているとか。世間知が利くという訳だ。
比較的下層に近い身の上だからだろう、銀色の首輪と共に値札を首から下げた奴隷たちに向ける彼の眼には、軽侮よりかは憐憫の色が強い。それでも蔑みが完全に消せない辺り、平民(とそれに近い身分)たちの奴隷へ向ける感情が窺い知れる。
「うーん、僕の家臣教育の教材って意味もあるからなあ……出来るだけ若くて年が近いのが良いな。僕の助手になることも視野に入れると、ある程度魔法の素養があれば尚よし」
彼の都合は斟酌せず、僕はあくまで僕の要求する仕様を述べた。錬金術は、学問であると同時に魔法の一種だ。ある程度の魔力が無ければお話にならない。ちなみに僕も魔法は使える。ちょっとした火遊び程度の火炎魔法や、小さな傷を癒すのが精々の回復魔法くらいだが。
「へえ? 綺麗どころだとか、そういうのは埒外で?」
「それだと値段が高く付くじゃあないか」
加えて言うなら、僕の年齢的にもそういう楽しみを目的とした奴隷はまだ早い。まあ、綺麗だったり可愛かったり、見た目が良い方が気分も良いが、その為に大金を投じるというのも馬鹿馬鹿しかった。
「ということだ、まずは安い方から順々に見ていこう」
低年齢層の奴隷は、よっぽどの例外でもない限り安い。僕が求める年の近い子どもも、そんな売り場に集中しているはずだ。
「へい」
返事をする従者も、顔つきを事務的なそれに変える。結構なことだ。何をどう思おうと僕には関係無い。必要なことをしてくれて、必要でないことはしないでくれればいい。
などと可愛げゼロな思考をしつつ、奴隷を物色する。
主な商品は、やはりというか身売りさせられた農民の子だ。農業が未発達な社会では、冷害や旱魃が一つで大勢の農民が窮地に立つ。災害が無くても、領主が暗愚で重税を課されたりすれば、暮らし向きは全然良くならない。それでも彼らにとって自分の子どもは、無償で働かせられる貴重な労働力である。それを得ようと鼠みたいにポンポン産むもんだから、ちょっとした情勢の変化で、食い扶持の無くなった子どもが売りに出されるのだ。……この国、アルクェール王国は他国に比べて食糧事情に恵まれている筈なのだが、どうしてこんなに困窮する農民が多いんだか。きっと、上に立っている連中が相当な盆暗だからに違いない。ウチの当主とかみたいな。
話を戻そう。次いで多いのが犯罪者である。中世だかルネッサンス期だか程度の文明レベルであるこのイトゥセラ大陸に、刑務所なんて先進的なものは無い。少なくとも、大量の平民を一つ所に拘置する施設に心当たりは無かった。捕まった犯罪者は一旦牢屋に留置され、軽い罪なら保釈金いくらで釈放。金が払えないか、罪が重いなら奴隷に落とす。よっぽどの重罪ならとっとと処刑だ。大貴族や高位の聖職者なんかは辺境で隠居生活を営むことが許される――という名目で軟禁される――場合もあるらしいが、まあ例外である。元犯罪者の奴隷なんて買って大丈夫なのか? と思われるだろうが、そこはそれ。服従の魔法での反逆防止くらいは施されている。彼らの首に掛けられた銀色の首輪が、その所産だ。流石ファンタジー、魔法とさえ付けば案外無理が通る。
で、一番少ないのがエルフだのドワーフだのの亜人である。そう、亜人。この世界には人間以外の知的生命体がいるのだ。長命種とも呼ばれる彼らのような人がましい種族の他にも、言葉を話すドラゴンもいるというが、僕はどちらも見たことが無い。母数自体が少ないし、とっ捕まえるのも一苦労なのだから。当然、市場に流れたとしても値が張る。正直、伯爵家の家中とはいえ子どもの小遣いで買えるものではない。おまけに種族の壁もあって忠誠心が低いことが多いし、エルフみたいな人間より魔法が上手い種族だと、服従の魔法を自力で解除される恐れもある。ロマンはあるが、僕の現状を鑑みると論外だろう。
僕の狙い目はというと、二番目に挙げた元犯罪者……正確に言えばその類縁だ。お家騒動や謀反の嫌疑などが起こったりして家が一つ取り潰されたりすると、その子が累を被って奴隷に落とされたりする。つまり、ある程度教育を受けている可能性のある手頃な奴隷が市場に流れるのだ。僕としても初期教育の手間が省けるので、そういった奴隷は喉から手が出るほど欲しい。
貴族の子なら、魔法の素養もある可能性が高いだろうし。
魔法の源である魔力。これを備えているかどうかは多分に体質的な物で、ある程度は親から子へと遺伝する。その上、魔法は呪文や運用法を含めてきちんとした教養が無ければ使えない。基本的にはハイソの特権なのだ。それもそうだろう。科学の未発達なこのイトゥセラ大陸において、主力武器は剣と魔法だ。平民に革命なんて起こされちゃ堪らないから、魔法の素養を持った人材や魔法の習得に必要なテキストは、貴族層が厳重に管理する。冒険者とかいう便利屋の中にも魔導師はいるが、アレも大概は貴族の紐付きか没落貴族そのものからしい。
そんなことを考えながら、奴隷を安い順から一人一人チェックする。
多少魔法の心得があれば、垂れ流している魔力の大きさくらいは判別できる。勿論、それを隠す技術だってあるが、そんな技量の持ち主は相当な高値が付くだろう。売り手を誤魔化してわざわざ自分に安値を付けさせる? 真っ当な神経の持ち主なら、それはない。バーゲンで買った部屋着と一張羅のブランド物スーツを、同じように着回す人はいないだろう。安いということは、買われた後の待遇もそれ相応になるということだ。自分という唯一無二にして至高の財産は、売らなければならない状況に追い込まれたときは、出来るだけ高く売るのが原則である。
うーむ、中々これはというのが見つからない。魔力持ちはやはり希少だ。教養のある奴隷もまた同じである。仕方ない、もう少しグレードの高い商品の売り場へ移ってみるか。
と、思った時である。
「……お?」
僕の感覚に引っ掛かってくるものを感じる。なかなかに上質な魔力だ。いかにも微弱な感触だが、よく練られている。しかし、どうにも弱々しいのが引っ掛かった。僕の知る限り、基本的に魔力の質と量は比例するものである。こういった質は良いが量感に乏しい魔力というのは中々に珍しい。
ひょっとすると、死にかけか? 基本的に屋敷に閉じこもって研究ばかりしている僕が出会うのは、健常な状態の人間ばかりだ。半死半生で息も絶え絶えな人間とは、会った経験は少ない。希少な魔力持ちなら尚更だ。父や兄が勘気を発して奴隷を死なせた現場なら幾度か見たが、流石にその被害者に魔法の素養は無かった。それにしても、あのライナス兄上でさえ躊躇することなく殺すとは、本当に奴隷とは人間扱いされていない存在であることだ。
ともあれ、ひょっとしたら掘り出し物かもしれないな、と僕は感知した魔力の方へ顔を向けた。
「こいつは酷ェ……」
視線の先にあったものに、従者の男がポツリと漏らす。
確かにこれは酷い。
そこにいたのは、多分少女だろう。体格からして今の僕のより、一つか二つくらいは下なのではないだろうか。
長い黒髪はそれなりに櫛を通していた名残があるが、今となってはバサバサに乱れている。肉付きの良さや肌の白さからいって、こんなところに身を落とす前は、そこそこ良い暮らしをしていたことを偲ばせる。だが、それが逆に無惨だった。
顔は何度も強く殴られたのか、あちこちが腫れ上がり、どこが目なのか鼻なのかといった具合。性別を推測するのに多分、などという単語が付いたのはその所為だ。元の形が分かったものじゃない。身に着けているのは、穴の空いた麻袋のような奴隷用の粗末な貫頭衣。よく見るとそれは、股ぐらのところだけが乾いた血やら汚物やらで黒く汚れている。裂傷の所為か下半身の堪えが機能していないのだ。この市場に落とされる前に、元の売り手が随分と手荒く扱って愉しんだ後なのだろう。年齢一桁の相手に、よくもまあ張り切ったものだ。僕には理解出来ない世界である。
まったく酷い短慮だ。綺麗なまま売り払えば、纏まった金になっただろうに。
僕はチラリと彼女の値札を見た。
「……高っ」
思わず呟きが漏れてしまう。
記されていた値段は、僕に与えられた予算ぎりぎりという高値だ。辛うじて呼吸出来ているような死に損いに付ける値段じゃなかった。
希少な魔力持ち、それも相当に優れた資質だから仕方ないが、ならばせめて治療くらいは施してやっても良いと思う。そうすれば一、二ランクは上の売り場にも並べるだろう。いや、健康な状態なら魔力量も元に戻るだろうから、それだけで今日の最高値が付いてもおかしくないのではないか。
まあ、奴隷市場は魔導師の斡旋所ではない。多少の魔力があることは分かっても、それがどれ程のものかまでは、売り手も理解していなかったのだろう。企業努力の不足を感じるが、だからといって改善を要求するような義理もつもりも無かった。
「行きましょう、坊っちゃん。可哀そうな子ではありますが、どうにもいけねえ」
従者の男が、袖を軽く引く。
僕はそれを振り払った。
「まあ、待ちなよ」
息を呑む従者を無視して、彼女の傍に屈みこむ。
検分してみると、手にはやはり労働の痕跡は無い。力任せに掴まれたのか右手首が折れているが、掌は綺麗な物だ。
裸足の足は石床に擦れてか傷が付いていたが、爪の形が整っている。床に接していない足の甲やくるぶしの辺りは無傷。売られる前は靴と靴下を履いて暮らしていたのだろう。
やはり良い家の子だ。それが没落したか拐されたかして、その末にこの奴隷市場に落とされた。
つまり僕が求めている、ある程度の教育を受けた子どもである可能性が高い。
……僕はしばらく考え込んだ。
一つ、年齢が僕に近く、父が求めている人使いの教育素材に適している。
もう一つ、僕が求めているそこそこの教育を受けている子の可能性がある。
そして……魔力はすこぶる上等だ。
はっきり言って、これだけの逸材が手に入る可能性は、今後を含めてもそう高くない。それが手の届く値段で投げ売りされているのだ。
問題は、今この瞬間に死んでもおかしくない程の傷物だということだけだ。
果たして、この子を買っても良いものだろうか? 家に連れ帰って命を拾ってくれれば万々歳だ。が、悪い方に転べば、来月分の小遣いを丸々使って、死体を一つ買ってきた、なんてことにもなりかねない。そうなったらどうなる? 馬鹿なことをしたと説教を喰らう程度ならマシな方だろう。下手をすると、そんな馬鹿な買い物をする子どもに大金は預けられん、と再来月以降の小遣いを減らされることもあり得る。
それ以外には? ……特に無いな。
勿論、僕の評判は暴落だろう。父も今までのように可愛がってはくれまい。だが、それがどうした? 問題なのは、その父が可愛さ余って僕を後継ぎにしかねないことだ。そうなると長男である兄と争わなければならないし、もし彼に勝ったとしても伯爵家当主としての政務に追われ、研究どころではなくなる。いや、最悪の場合は御家騒動を理由にお上に取り潰される恐れだってあるのだ。
それを考えれば、多少の失点は未来への先行投資の内だろう。当主の座なんてものはやる気のある兄に任せれば良い。僕は彼からある程度の捨扶持でも貰って、不老不死に至る為の研究が出来れば満足だ。死にかけの奴隷を買って、それがすぐに死んだとしても、困るのはしばらく研究が停止することくらいである。元々研究は行き詰っていたのだ。ならば次に纏まった金が入るまで、神様がくれた長い休憩だとでも思って過ごせば良いだろう。
外れて元々、当たれば儲け。そう考えれば、この奴隷を買うのも宝くじを買うようなものだ。
僕が負う傷はなんとかなる範疇で、この娘は傷を治して命を拾う機会を得る。兄はライバルの失点で後継者の地位を安堵され、父は誰が本当に嫡子に相応しいか理解出来る。なんてことだ、八方丸く収まるじゃないか!
「よし。この子、買っちゃおう」
「坊っちゃん!?」
従者の男が、大仰に目を瞠る。信じられない、といった顔つきだ。正常で真っ当な反応だろう。
僕はそれを無視して、うずくまる少女の顔を覗きこむ。悪臭がツンと鼻を突くが、無視する。毎日薬品の調合をしていれば、この程度の臭いには慣れるものだ。
「君、名前は?」
「…………」
顔を腫らした少女は、何事かをもごもごと呟いた。聞かれた通りに名乗ったのか、悪態でも吐いたのか、それとも単なるうわ言か。僕には判断が付かない。
「まあ、答えられるようになったら、また改めて聞くよ。それで、ええっと……買い取りの話は誰に持って行けばいいのかな?」
僕が話を持って行くと、売り手はきな臭い顔をしながらも二つ返事で承ってくれた。
まあ、棺桶に足を突っ込んだ、二目と見れない有様の奴隷だ。それを買って行く子どもなんて、いくら不審がっても足りない相手だろう。
――こうして僕は、彼女を手に入れた。
それが今後、どんな意味を持ってくるのかを知らないままに。