ないとめあカーニバル・ラビィの受難編
小説、イラスト共に初投稿になります。それゆえに、手探り状態なので、ミス等あるかもしれませんが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。というか、ちゃんとイラスト挿入されているか不安なのですが……どうでしょう。
ここは、『魔界』と呼ばれる常闇の世界。それ故に時間という概念などないように思えるが、この世界にも朝夕わずかばかりの変化が起きる。とはいっても、朝になっても微妙に空が薄明るくなるだけで、人間界の月夜ほども明るくはならない。しかし、あちこちに光を放つ虫やら球体やらが空に浮かんでいるため、一部の地域を除けば、充分に視界は明るい。
その光源の一つ、オレンジ色の光の玉に照らされた豪奢な居城の一室で、複雑怪奇な彫刻の施された椅子に腰かけた赤毛の青年が、上質な羊皮紙を前にそっと吐息した。
「…うーん、やはり、まずは『拝啓』と書き始めるべきだろうか? い、いやいや、それはおかしいだろう! これは果たし状なのだから、もっとこう、威厳と敵意に満ちた感じに仕上げなければ……とはいえ、礼を欠くようなことも書けんしな」
一角獣の爪を細工したペン先にインクを浸しつつ、何度も紙面に文章をしたためようとするのだが、一向に筆が進まない。
こんな調子で悩み続けること、二時間以上。青年、ラヴィアス・フェルナードことラビィは、頬杖をつきながら、白紙相手に虚しい戦いを繰り広げていた。
「………ううう…何と書けばいいのだろう…」
生まれて初めて書く、果たし状。いかに、礼儀を欠かず、かつ、高潔な印象を相手に与えるか。戦いは、すでに手紙を書く段階から始まっているのだ。
しかし――どんなに知恵を振り絞ってみても、書き出しの文句すら思い浮かばない始末。当然ながら、他の誰かの知恵を借りるなんてプライドが許さないし、かといって『果たし状の書き方』なんて便利な参考書も存在しない。よって、もう二時間以上も――いや、正確には、今日だけで二時間。実際は、十日も前から無謀な挑戦を繰り広げているのだが、一向に成果はあがらない。
そもそも、ことの始まりは、十一日前に遡る。
悪魔や竜族、獣人族など多数の種族が乱れ住む魔界に、唐突に一人の少年がやってきた。カワハラ・ナイトと呼ばれるその人物は、見たこともない恐ろしげな魔物を従え、こともあろうに一国の重鎮の娘であるメア嬢を誑かし、今、まさに次期当主の座を得ようとしているのだ。当然ながら、誰もが猛反対したが、肝心のメアが領民や貴族たちの声を聞かないため、どうしようもなかった。
(…メア様は、類稀な魔力の持ち主。この世界を統べる魔王様に匹敵するとも噂されるほどの実力者だというのに、どこの馬の骨とも知れぬ者と婚約など、常軌を逸しているとしか思えん!)
いや、元々、彼女に常識など通用しないのだが……。
ラビィは、メアの愛らしくも鬼畜な本性の見え隠れする風貌を思い浮かべた。
最後に会ったのは、ほんの五日前。
さらりと伸びた長い青紫色の髪に、澄みきった紅の瞳。白い肌に馴染まぬ漆黒のドレスを身に纏い、大人びた衣装に似合わない胸元は、限りなく平坦に近い。声は耳障りなほど甲高く、怒鳴り声は超音波。ちらりと覗く八重歯がきらりと光る様は、少女らしく無邪気だが、実年齢はかなりいっている。
(…容姿だけは無害そうに見えるんだがな…)
彼女は、能力こそ高いが、少々…いや、かなり性格に難があった。過剰なまでの女王様気質で、基本的に自分にしか興味がないため、他者に施すべき良心や思いやりなんかは存在しない。常に自身の幸福が最優先され、逆らうのはもちろん、意見を言うことすら許されない。そのせいで、使用人は数時間単位で入れ替わっているし、何度も組まれた縁談は次々と破談になった。
かくいうラビィも、破談に至ったうちの一人である。ナイトという少年が来たために、お役御免になってしまったのだ。それは、すなわち、ラビィよりもナイトという少年のほうが優秀だと評価されたということに他ならない。
(……どう考えても、納得できん! 私よりも、あの貧弱そうな少年を選ぶなどと)
ラビィは見た目こそごく平凡な青年の姿をしているが、その本性は火竜である。火炎属性の魔術に長け、ヒト型での剣術にも定評がある。メアほど特異な存在ではないにしろ、他国に知られるくらいの知名度も名誉もある優秀な騎士なのだ。それなのに、だ。自分よりも明らかに年下で、突けば倒れてしまいそうなひ弱そうな少年に女を掻っ攫われたなどと噂が流れるのは、不本意すぎる。とはいえ、ラビィ自身、メアに対して特別な感情など微塵もないので、未練はまったくない。それどころか、解放されたことに安心感すら覚えているのだが、立場上、手放しで喜んではいられない。それは、名門と呼ばれる家に生まれた者の宿命だ。
「……腹立たしいのもあるが…一体、どのような手であのメア様の心を射止めたのか。いまだに不思議でならん…」
相手の少年は、第一印象からして、さほど戦闘能力が高いようには見えなかった。そこから鑑みるに、おそらく、洗脳系の魔術の類を使用しているのだろうと推察できるのだが、我が国最強と言っても過言ではない彼女を操作できるとは思えない。
(…どれほどの力を持っているのか、興味があるな)
元婚約者という立場もあるが、相手の能力にも興味があって、果たし状を書こうと思い立ったわけだが、結果は見ての通り。ひたすら無為な時間ばかりが過ぎている。
「……はあっ。こういう遠回りな作業は、どうも苦手だ」
私情での戦いは、礼儀として果たし状を送り、相手からの承認を得る決まりになっている。明確に法で定められているわけではないが、竜族のしきたりではそうなっている。
「どんな敵にも、最低限の礼儀を欠くわけにはいかんしな」
その後、悶々と一時間以上も悩んだ末、今日もペンを放棄したラビィであった。
* * *
数日後。ラビィの住む居城から数百キロ離れた、黒金に輝く尖塔が目印の大邸宅。そこは、大貴族の娘・メアが所有している別荘の一つで、立地条件も景観も抜群によかった。近くには澄んだ湧水でできた湖があり、二階の大広間に面したバルコニーからは、青々とした木々が緑の雲海のように一面に広がって見え、吹き抜ける風は爽やかで心地いい。
「……えーと、メア。何か、僕宛てに手紙が届いたみたいなんだけど」
川原七糸は、ごつごつした立派な椅子の肘置きに軽く体重を預けて謎の手紙を手に首を捻っていた。度の強い眼鏡を掛け、どこかインテリな雰囲気の十五歳の少年だが、その表情に不安げな色は見えない。
「…僕、魔界の文字は読めないんだよね。ややこしくて…」
英語とも日本語とも違う、見たこともない言語で書かれた手紙は、小さな子供がイタズラ書きしたようにしか見えない。
七糸がこの世界に来たのは――いや、正確には、メアに拉致されて魔界に強制連行されたのは、今から二十日ほど前のこと。一身上の都合とやらで人間界にやってきたものの、道に迷い、七糸の愛犬・アルトに追いかけられていた彼女を助けたところ、命の恩人だと懐かれ、とある日の朝、目覚めたら見知らぬ世界に運ばれていた。
(……いくら僕がファンタジー好きだと言っても、さすがに本物の竜とかクマ人間とか魔法とか……まともに付き合ってたら、こっちの神経がもたないもんなあ…)
よって、これは、夢かそれに近い何かだと割り切ることにして、謎の魔法少女・メアに元の世界に帰してくれるように頼んでいるのだが、知らないうちに婚約だの後継ぎだのという話になり、どんどんと泥沼化しているような気がするのは、勘違いではないはずだ。
「…メアの魔法のおかげで、こっちの人たちと会話するのには困らないんだけど、文章には効力がないんだよな…。ねえ、これ、代わりに読んでくれない?」
そう頼んでみるが、返事はない。不思議に思って広い室内を見渡すと、バルコニーで優雅に舞っているメアを見つけた。今夜のダンスパーティーに心を奪われているらしく、鼻唄を歌いながら、くるくると細い脚を優美に動かせて、こちらに近づいてきた。
「あら、メアのことをお呼びになりまして、ナイト様?」
少女は、ポニーテールにした長い青紫の髪をリボンのように揺らし、勝ち気そうな目でこちらを覗き込むように見てくる。小猫のような愛らしい仕草だが、襟を深く抉った深紅のパーティードレスからは、残念ながらふくよかな胸は見えない。彼女は、面立ちこそ愛らしい美少女だが、残念ながら女性らしい肉体美には恵まれていなかった。もっとも、胸があるかどうかで女性の価値が決まるわけではないだろうが…やはり、こういう場合、大胆な衣装からちらりと垣間見える胸の谷間などを期待してしまうわけで――ちょっとだけ、がっかりする。
「…あら、どうなさったんですの? そんなに、このドレスがお気に召しまして?」
じろじろ見ていたせいか、嬉しそうに声を弾ませる彼女の様子に、少しばかりの罪悪感がわいた。
「う、うん。それ、可愛いね」
とりあえず褒めてみると、彼女はポッと頬を赤らめて、身体をくねらせた。色っぽいというより下手なバレエを踊っているようにしか見えない。それくらい、彼女は妖艶さや色気からは無縁の少女だった。
「うふふっ、今夜のための特注品なんですのよ! ナイト様のお召物と対になっていますの。ああ、きっと誰もが似合いの二人だと囁き合うことでしょう! 目を閉じると、無数の羨望と称賛の眼差しが身体中をズバズバ突き抜けていくのを感じますわ!」
「……そ、それは、大変そうだね。いろいろと…」
メアの言動に振り回されるのは、今に始まったことではない。かといって、逃げるという選択肢はこちらにはないため、引き攣った笑顔でひたすら耐えるしかないのが現状だ。
(…目を閉じると、殺意と敵意が飛び交う光景が容易に想像できるよ……)
メアは、この世界の男連中にとっては、クレオパトラや楊貴妃レベルの女性にあたるらしく、一方的に彼女が言い出した婚約発表以後、生命の危機を感じる毎日が続く。どうにか今まで無事でいられたのは、メアが常にひっついているからと、もう一つ。愛犬・アルトが傍にいるからだ。
(…どういうわけか知らないけど、こっちの住人たちは、やたらとアルトを怖がるんだよね……)
別に唸っているわけでもないのに、目が合っただけで飛び上がって逃げていく。体長十メートル以上もある竜や恐竜みたいに強そうな怪物が、さして大きくもない柴犬を前に怯えて逃げ惑う様というのは、正直、見るに堪えなかった。
「…ええと、それで、メア。この手紙なんだけど、何て書いてあるのかな?」
メアに手紙を渡すと、彼女はまだうっとりとしたままの目つきで手紙の差出人を一瞥して、
「ただのゴミですわ」
ぽいっと床に投げ捨てる。
「えっ、いや、さすがにそれはどうかと…」
誰からの手紙かは知らないが、読まずに捨てるなんてあまりにも失礼だろう。七糸が困ったような顔つきになると、メアは面倒臭そうに吐息して、嫌々ながらも手紙を拾い上げた。
「…ナイト様ってば、お優しいですのね。これは、火竜一族の馬鹿からの呼び出し状ですわ」
「火竜一族の馬鹿? って、えーと…ラビィさん、のことだよね?」
「…ええ、そうですわ」
赤毛の、騎士道精神に溢れた好青年の姿を思い浮かべる。
この世界では見た目の年齢なんて意味を成さないが、あえていうなら二十代前半。身長は百八十センチ前後で、身長のわりに細身だが、頼りない印象は受けない。顔立ちは精悍というよりも爽やかな感じで、パッと見、ごく普通の人間と変わらない。決定的な違いがあるとすれば、その背に四枚の赤い翼があることだろう。それは、鳥っぽいものではなく蝙蝠系の羽で、かすかに透けているのが何だか格好いい。それ以外では、人間よりもかすかに耳が長くて尖っていることぐらいの違いしか七糸にはわからない。メアの話によれば、彼は歴戦の兵らしいのだが、穏やかな目元や口調からはそんな気配は微塵も感じられなかった。いかにも善良そうな人物で、個人的には嫌いなタイプではないが、メアはあまり好きではないらしい。露骨に冷たくあしらっていたのを覚えている。
メアは、汚物でもつかむような手つきで封筒から手紙を抜き取ると、さっと一読してから、こう吐き捨てた。
「手紙には、クソ汚い字で忌々しい言葉の羅列が並んでいますわ。ええ、口に出すのもくだらない愚かな内容ですとも。本当に、あの駄竜野郎、死ねばいいのに」
「……前から思ってたけど。メアって、ラビィさんに何か恨みでもあるの?」
凍えそうなほどの殺気を感じておずおずと訊ねてみると、彼女は愛らしい笑顔を浮かべながら答えた。
「いいえ。でも、誠心誠意尽くそうとする輩を見ると、猛烈に胸クソ悪くなりません? 騎士道だの、礼儀だの、生きるうえで何の役に立つというのでしょう? それに比べて、ナイト様の素晴らしいことといったら! ああん、骨の髄から痺れてしまいますわ!!」
きらきらした目で見られても、全然嬉しくない。
「…今の話の流れだと、僕が誠意の欠片もない極悪人みたいだよね? メアから見た僕って、そんな感じなの?」
心外の極みとしか言い様がない。しかし、彼女は瞳をきらめかせてうっとりと頷く。
「もちろんですわ! ナイト様は、恐ろしくも愛らしい魔獣・アルト様に襲われているメアを救ってくださいました。そして、今は、この世界に蔓延る愚者どもに絶大なる恐怖と絶望を与え、魔王すら服従させようという野望に満ちていらっしゃる! ああ、そんな雄々しくも勇敢な殿方に恵まれ、メアは幸せです! 微力ですが、メアにもお手伝いさせてくださいませ! 死力を尽くして援護いたしますわ!」
「……そこに僕の希望は一つも入ってないんだけどね…」
メアにとっては、七糸が何を言おうと関係ないのだろう。都合のいいように記憶を改竄して、勝手に言いふらしているのだから、手に負えない。
(…否定しても無駄だから、何も言わないけど…)
暴走する彼女を放置して、七糸は立ち上がった。
よくわからないが、ラビィがわざわざ手紙を送ってきたということは、何かしら大事な用事があるからなのだろう。話の途中で、自己陶酔中のメアが勢い余って手紙を破り捨ててしまったので、すでに、内容を知ることはできない。こうなったら、直接本人に会って訊くしかない。
「……えーと、ラビィさんに会うには、どうすればいいのかな? とりあえず、誰かにことづけを頼んでみよう…」
くねくねと身体を揺らして頬を染めているメアを尻目に、七糸は部屋の外で待機していた侍従長に頼んで、彼と会う段取りをつけることにしたのだった。
* * *
「……ふむ。約束の時間よりも早く着いてしまったな。それにしても、思ったよりもあっさりと承諾したものだ。果たし合いともなれば、生命にかかわるというのに。もしや、私ごときに臆する必要がないという自信の表れか?」
ようやく手紙を書き終えたのは、つい先日。つまり、七糸が現れて、約二十日後のこと。そして、今は、さらにその翌日――。
果たし状を送った当日に七糸からメッセージが届き、翌日、つまり今日の昼食後に会おうという返事をもらったのだ。
場所は、ピクニックに行くにはちょうどいい、見晴らしのいい小高い丘の上。奥の森へと続く道の両脇にはパステルカラーの花々が咲き乱れ、何とものどかな風景が広がっている。
「…このような場所に誘うとは。私との勝負など腹ごなし程度と言いたいのであろうが、そう容易くことが運ぶと思うなよ」
少なくとも、今回の決闘には、ラビィの名誉がかかっているのだ。勝負を挑んだ以上、たとえ魔王相手でも負けるわけにはいかない。
(…この生命に懸けても、勝たねば!)
そう思うが、どうしてもモチベーションが上がらないのは、七糸に勝ってしまった場合、メアがどう出るかという問題があるからだ。
(…はっきりいって、あのナイトとかいう少年は気に入らんが、メア様との再婚約だけは避けたい。まあ、彼女のことだから、再婚約などと言うことは頭にもないだろうが…)
それでも、大義名分というものがある以上、彼女なりにけじめをつけなくてはいけないだろう。そこまで考えて、ふと恐ろしい展開を思いついてしまった。
(……恋人を倒されたメア様が、おとなしくしているとは思えん。となれば、持ち前の嗜虐心の限りを尽くして復讐をしてくるのではなかろうか…?)
ざあっと全身の血液が凍りつく。恐怖のあまり、背中に生えている硬い鱗が、服の下でぴりぴりと痺れ始めた。
「……これは、マズい! 勝とうが負けようが――いや、負けるということはないだろうが、このままでは、メア様にあんなことやこんなことをされてしまうううっっ!」
メアの性格の悪さは、群を抜いている。というか、他人の弱点や弱みを瞬時に見抜き、それを容赦なく抉り、いたぶる趣味があるのだ。他人が困ったり苦しんでいるのを見るのが何よりの楽しみで、嫌がれば嫌がるほど、苦しめば苦しむほど、喜々として攻撃してくるので厄介だ。
かくいうラビィも、被害者の一人である。元々、誠心誠意、真心を尽くすことを信条とする騎士道精神の持ち主・ラビィと他人をいたぶるのが趣味の女王様・メアとでは、性格上、合うはずがない。事あるごとに衝突――というより、一方的にいじめられてきた過去がある。
(…メア様の恐ろしいところは、肉体的攻撃ではなく、精神的に貶めることにあるからな…)
正面からではなく、背後、もしくは横、斜め上、足元…そういったところを攻撃してくる戦闘スタイルで、影からネチネチと…いや、ズバズバと切りつけてくるのだ。
婚約中など、ひどい思い出しかない。思い出すだけで泣けてくる。
「……わ、私の可愛いマリンも無残な目に…」
子供の頃からずっと可愛がっていた、一本足の大鳥・マリン。人懐っこくて、まだラビィが自らの翼で飛翔できなかった頃、よく一本脚につかまって空を舞ったものだ。まさに、家族であり親友であり、かけがえのない存在だった。それを知ったうえで、彼女は婚約が決まった一か月後に夕食の材料にと切り刻んで料理に出したのだ。
「…しかも、それを何も知らない私に食べさせて……」
おかしいと思ったのだ。あの性格の悪いメアが満面の笑顔で「食べて♪」などと言ってきたときは、疑いもした。しかし、さんざん嫌がらせを受けていたこともあって、少しは謝罪の意思があるのだろうと思った自分が馬鹿だった。お人好しすぎた。
じゅわりとした肉汁、素材の味を生かす絶妙なスパイス加減……そう、美味しかった。ほどよく油の乗った肉は、驚くほどうまかった。それが、さらに悲しみを誘う。
「………素材の正体を明かしたときのメア様のあの喜びようときたら――!!」
子供みたいに大泣きするラビィの隣で、声が枯れるほど笑い転げたあと、ひいひいと喉を引き攣らせながら呼吸を整えた彼女は、冷徹な声でこう言い放ったのだ。
『貴方、騎士なんてやめて家畜の世話係になったほうがよろしいのではなくて? 肉を育てるのだけは上手だものね!』
そのとき、殺意が芽生えたのは言うまでもない。しかし、その直後、彼女のおぞましいほどの冷え冷えとした笑顔を見た瞬間、呆気なく復讐の炎は掻き消された。
「…メア様を敵に回すと、ろくなことがない。下手すると、家族にまで害が及びかねん…」
あの笑顔は、そういう悪質な代物だった。実際、彼女の能力をもってすれば、家族同士で殺し合わせるなんて真似も可能なのだから。
「――何せ、メア様の能力は精神感応だからな」
どんな強力な結界も防御も、通じない。いや、機能しないと言ったほうが正しいだろう。
本来、精神感応能力は、耳や皮膚といった感覚器官を通して初めて作用する。たとえば、風の音、小さな針を刺した際のわずかな痛覚。そういったものに魔力を乗せて、身体の内部へと自身の意識を忍び込ませる。そうすることで、思考や身体機能を乗っ取り、操る。記憶操作や人格の変貌など、能力の強さによって方法は異なるが、メアの場合は、そういった身体的な仲介は必要としない。魔力が桁違いに高いため、相手の感覚器官を利用せずとも、魂そのものに作用させることができるのだ。
「……メア様の能力は、強力すぎて防ぎようがない」
その気になれば、この一帯の生命体を瞬時に操ることも可能だろう。あえてそうしないのは、一重に、彼女が徹底した女王様気質だからにすぎない。
要するに、操るのではなく、自分の意思で服従させたい。苦渋を嘗めさせたうえで、ひざまずかせたいのだ。
「…考えれば考えるほど、関わりたくないな…」
いっそのこと、この決闘で適当に負けてしまったほうがいいのではないか。そんな騎士道精神に反した考えがよぎったとき、待ち人がやって来た。
――そう、決闘には場違いな観客、三人と一頭を従えて。
そのうちの一人を視認した瞬間、ラビィの全身から血の気が引いた。
「! メ、メア様が一緒だとっ!?」
しかも、あの恐ろしいアルトとかいう獣まで連れてくるとは! あのナイトとかいう男は、決闘のルールも通じない不作法者らしい。
「し、しかも、何故、お前たちがここにいるのだ!? ライナ、サーシャ!」
メアと手を繋いで大声で歌を歌いながらやってきたのは、火竜族の子供・ライナとサーシャである。ようやく小さな両翼が動くようになったばかりの幼い二人には、メアの恐怖など通じない。楽しくお散歩でもしていると思い込んでいるようで、こちらに気づくと嬉しそうに目を輝かせた。
「あーっ、ラビィにーさまだっっ! にーさまーっっ」
てこてこと転びそうにながら駆け寄ってくるおかっぱ頭の少女は、ライナ。それに遅れて、短めの髪を無理矢理リボンで結んだサーシャが走ってくる。
「お、おい。走るな! 転ぶぞっっ!」
はらはらするラビィに満面の笑顔で駆け寄って来た二人は、ぎゅうっと脚にしがみついて、にこっと笑いかけた。
「にーさま、あそぼ、あそぼっ!」
「サーシャもあそびたい! にーさま、おままごとしよー」
ズボンを引っ張って愛らしくねだってくる頭を、どうしたものかと困惑顔で撫でていると、能天気な少年の声が割って入った。
「あの、ラビィさん。すみません、僕一人のほうがいいと思ったんですけど、メアもラビィさんに用事があるらしくて…」
心底、申し訳なさそうな声で言われて、ラビィは怒るタイミングを逸してしまった。
「……いや、アクシデントは常に起こるものだ。ましてや、メア様相手となれば」
彼女の願いを断れる者など、この世にいない。何より、来てしまった以上、責めたところで仕方がない。
「すみません。ええと、それで、あの手紙なんですけど」
七糸がそう切り出したとき、無意識に冷や汗が出た。少年の向こうで、メアが薄く微笑むのが見えたからだ。
「…あ、ああ。あれか。断ることもできただろうに、よくも快諾したものだと感心していた。だが、私など弱すぎて相手にならぬと侮っているのであれば、それは否定させて頂こう」
メアの様子をちらちら見つつも、みくびられないように言葉を選ぶ。それを聞いた七糸は、無害そうな表情で小さく首を傾げてみせた。
「…侮る? よくわかりませんけど、別にラビィさんが弱そうとかそんなことは思ってませんよ。っていうか、むしろ、強そうだし、いい人そうだなっていう印象があって――できれば、仲良くしたいなーとか思ってるんですけど」
「! な、仲良くだと!?」
驚いた。何を考えているのか、相手の思惑が読めない。
「……貴様、どういうつもりだ? 決闘を受けた相手に、提携を呼びかけるとは。貴様には男としての誇りはないのか!?」
思わず声を荒げたラビィの足元で、少女たちがびくりと震えた。叱られたと思ったのか、大きな瞳にじわりと涙が浮かび―――あろうことか、その小さな手を、七糸の愛犬・アルトがぺろりと舐めた。それを目撃したラビィは、
「!! なっ」
反射的に、少女二人を抱えて背後に跳んだ。おぞましくも小さな獣は、そんなラビィの様子を視線を逸らすことなくじーっと見つめていた。
七糸の愛犬・アルト。一見すると無害そうな獣だが、竜族としての本能が警鐘を鳴らしている。愛らしい見かけに騙されるな、と。
「子供に手を出すとは、何と非道な真似を! 大丈夫か、ライナ、サーシャ!?」
訊いてみると、子供たちは、ぱっちりとしたルビーアイでこちらを見上げてきた。
「…だいじょーぶって、なあに?」
サーシャの声に、ライナも大きく首を傾げながら言う。
「にーさま、どうしたの? おこってる?」
「い、いや、怒っているとかじゃなく――…お前たち、アレを見て何も感じないのか?」
アルトを指差して訊いてみる。
本来、動物というものには生存本能があり、無意識に敵が自分に害をなすかどうか、判断できるものだ。
(…あの少年は、さほど脅威はないように感じるが……アレは別だ)
これまで感じたことのない違和感――そう、恐怖というよりは、ひどく異質な気配がするのだ。関わりたくないというか、近づきがたいというか……それ故に、本能が逃げるように指示する。
しかし、まだ幼い彼女たちには、その感覚がわからないようだ。相手が危険かどうか判別できるだけの経験値が足りていないのだろう。
案の定、二人はきょとんと顔を見合わせ、合点がいったとばかりに嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「アレじゃなくて、アルトだよ。すっごくかわいーの!」
「もしゃもしゃーってすると、ぺろぺろーってしてくるんだよねー。かっわいいー」
「うんうん、にーさまもやってみるといいよー。もしゃもしゃーって」
「! か、可愛いだとっ!? もしゃもしゃーって何だ!?」
ぎょっと目を剥くラビィだったが、とんでもない提案をしてきた少女たちの期待に満ちた眼差しを前に、その無邪気な危険行為を厳しく注意できなかった。
(…ここで否定すると、何か私が悪者扱いされそうな気がするのは何故だろうか…)
大人として、誤った子供の認識を改める必要があるが、実に楽しそうにきらきらと目を輝かせる少女たちに水を差すようなことは言いたくない。言えるはずがない。
(……だが、危険察知は生きていくうえで重要だ。あの獣の危険性は、測り知れないからな。これまでは、偶然、あの獣の機嫌がよくて襲われなかっただけだろう。だが、機嫌を損ねれば、問答無用でガブリとやられてしまうに違いない)
しかし、子供たちの明るい笑顔を曇らせるようなことを言えるほど、ラビィは厳格な男ではない。さりげなく危険を伝えようと言葉を探していると、これまで沈黙していた女王様が口を開いた。
「ふふ、そうね。アルト様は、とても可愛らしい御方だわ。貴方もそう思うでしょう、ラヴィアス?」
「! い、いや、私は」
反射的に身構える。にこやかに見える彼女の瞳の奥は、明らかに笑っていない。それどころか、強烈な敵意――いや、殺意に満ちている。
(…な、何を企んでいるのだ、メア様は?)
ひやりと額に冷たい汗が滲む。
これまでの経験からすると、彼女が機嫌よく話しかけてきた場合、間違いなく災難に遭う。それも、想像をはるかに超えた悪質な事態が待ち構えている。
顔を強張らせるラビィの視線の先で、メアは愛らしく微笑みながら声高らかに告げた。
「ほーら、アルト様! お待たせいたしました、本日のおやつを差し上げますわっっ!」
その声と同時に、彼女の手から骨付き肉が投げられる。
「……え…」
ちょうど正面に飛んできたそれをラビィが反射的に受け取った瞬間、小さな獣の目つきが変わった。
つぶらな瞳をぎらりと鋭く光らせたかと思うと、狩猟本能に突き動かされた俊敏な動きでこちらに猛進してきた。
その形相たるや、喉笛を食い千切ろうとするかの如く極悪で――やられると察知した直後、背にある四枚の翼で空高く舞い上がろうとしたのだが、
「敵前逃亡は死罪!」
メアの言葉に、ぎくりと硬直したわずかな隙に、アルトが涎を垂らしながら足にすり寄ってきた。ぞわわっと背中の鱗が恐怖に震える。
「ひいっ」
逃げなければヤバいと思うのに、身体が動かない。
(…今、動いたらやられるっっ!)
激しく尻尾を振りながら、ぎらぎらとした飢えた両目がこちらを見つめている。ちらちらと覗く鋭利な犬歯と紅い舌がぞわぞわと恐怖心を煽る。
(……な、何だ!? 何をしているのだ、こいつは!?)
何を企んでいるのか、アルトはラビィの顔を見ながら足の周囲をくるくる回っていたかと思うと、地面にちょこんと尻をつけて座った。そして、ハッハッと息を吐きながら、物欲しそうな目で手にしている肉を見上げてくる。
「な、何だというのだ!?」
じっと手元を見てくる、この突き刺さるような視線。執念すら感じるこの獣の目には、獲物しか映っていない。
(…獲物――ま、まさか、私のことかっっ!?)
それなら、この小さな獣の行動も納得できる。
今にも食いつきそうな形相で駆けてきたくせに、即座に襲わず、様子を見ている。これはつまり、一種の遊びのつもりなのだろう。
(…お前などいつでも狩れるが、簡単に殺したのではつまらない。少しは足掻いて自分を楽しませろ、と、そういうことか!?)
何と恐ろしく、禍々しい獣だろうか。小さな体躯は、この際、関係ない。容姿など、どうとでも変化できるのだ。まばたきをする間に、山を覆うほどの化け物に変化している可能性もある。油断はできない。いや、そんな余裕など、今の自分にはない。
ちらりとサーシャとライナを見る。二人は、狼狽しているラビィを見つめ、不思議そうな顔をしている。
「にーさま、どうしたのー?」
「のー?」
揃って首を傾げる様は実に愛らしいが、そんな微笑ましい状況ではない。
もし、今、この獣の意識が二人に向いたら――彼女たちが餌食になりかねない。かといって、二人を連れて逃げることもできそうになかった。
(……す、隙がない…)
一ミリでも動けば、容赦なくガブリと急所を攻撃されて、美味しく頂かれてしまうに違いない。それほど、アルトの視線はこちらに釘づけになっている。というか、目を離す気などさらさらない様子。
蛇に睨まれたカエル状態で硬直していると、いつしか近くまでやってきていたメアが蔑むような眼差しで言った。
「あら、どうしたのかしら? 顔色がよくないみたいだけれど……ああ、もしかして、アルト様を恐れているのかしら? 誇り高き火竜族の男ともあろう者が――無様ですこと!」
「! そ、そんなこと、あるわけないだろう!」
思わず怒鳴るラビィを無視して、メアがにやりと笑い、命じる。
「アルト様、お手!」
メアの声にアルトの耳がぴくりと動き、そっと前足を動かせた。ゆっくりと…しかし、確実に触れられる距離で前足が伸びてきて――。
「っ!」
攻撃されると思ったラビィが三メートルほど後方へ飛ぶと、空を切った前足がすとんと地面に落ちた。アルトは、不思議そうに目をぱちくりさせて、ラビィを見つめている。
「………にーさま、なんでにげるのー?」
「のー?」
訝しげな少女たちの声と視線に、はっと我に返る。
どうやら、アルトは攻撃を仕掛けようとしたわけではないらしい。そうわかったときには遅く、こちらが一方的に尻尾を巻いて逃げたようにしか見えなかった。
「…い、いや、今のは、その」
子供たちに情けない姿をさらすとは、何たる不覚。これでは、どんな言い訳をしても敵前逃亡しようとした事実は変わらない。というか、年長者としての威厳もクソもない……。
気まずい沈黙のなか、おずおずとした声が割って入った。
「…え、えーと…誰にだって苦手なものはあるんだから、あんまりラビィさんを困らせたら駄目だよ、メア」
「!」
七糸の制止に、メアは異常なほど早く反応した。
くるりとドレスの裾を翻して振り返ったかと思うと、気持ち悪いくらいにしなをつくりながら猫撫で声を出す。
「まあ、ナイト様! なんて、お優しい御方なのでしょう! こんな虫の餌にもならなさそうな駄竜に慈悲をかけようだなんて――さすがは、男のなかの男! その懐の深さに、メアはただただ感服するばかりですわっっ!」
彼女らしからぬ賛美の言葉に、ラビィは総毛立った。
彼女の機嫌がいいほど、そのあとに地獄が待っている。いや、地獄なんて生温い!
(…きっと、私には想像もできない恐ろしい出来事が起こるに違いない!!)
案の定、こちらを振り返った彼女は、蔑むような冷血な目つきで口角を持ち上げたかと思うと、傲慢な口調でとんでもないことを口走った。
「――というわけで、そこの駄竜。ナイト様に平伏なさい」
「何だと?」
思わず、訊き返してしまう。
平伏するという行為は、竜族にとっては、服従を誓うということ。いわば、下僕同然になると約束したも同じ。
そもそも、誇り高き竜族は、先祖代々仕える主が決まっている。よほどのことがなければ主を変えることはしないし、ましてや、ラビィは一族のなかでも堅実で有名なのだ。性格上、そんなことができるはずがない。
しかし、それすらも見越したうえで、彼女は高慢に告げる。
王が兵士に命じるように、絶対的な力を込めて。
「今の主人を見限り、ナイト様に仕えなさいと言ったのよ。三度は言わないわよ、ラヴィアス」
「ばっ、馬鹿を言うなっ! そんなことができるわけがないだろう!」
当然ながら、はっきりきっぱりと突っぱねたのだが、メアは見下すような目つきで舌なめずりをしながら、ゾッとするほど低い声を出した。
「お黙りなさい、このヘタレ騎士。ナイト様は、いずれ魔王になられる御方。遅かれ早かれ、貴方の飼い主になるのだから、今から尻尾を振っておいたほうがいいと助言してあげているのよ。感謝なさい」
「なっ!?」
嘲笑混じりの発言に、ラビィはさっと青ざめた。
彼女の言葉は、戯言にしてはあまりにも悪質すぎた。
「それは、反逆ととられても仕方のない発言だぞ!?」
絶対的な支配力を持ち、世界を統べる孤高の王・魔王。
いくらメアが強力な能力を持とうと、あのナイトとかいう少年が番狂わせを起こそうとも、倒れるはずがない絶対的な存在。それを倒そうと息巻いていた者は、他国自国を含めて大勢いるが、どんなに強い奴らも呆気なく死んでいった。
それを知ったうえで、彼女はとんでもない言葉を吐く。
「ナイト様は、新たな魔王として、この世界を統治なさる高貴なる御方! いいえ、もはや、この世界は、ナイト様のものといっても過言ではないのよ!」
「…いやいや、全部メアの妄想だから、それ」
ややうんざりしたような、呆れたような七糸のツッコミも自己陶酔中のメアの耳には届かない。
彼女は、酔っ払ったようにぽうっと頬を上気させ、祈るように両手を合わせたかと思うと、うっとりとした口調で世迷いごとを紡ぎ始める。
「そう! この、陰鬱で死にそうなほどつまらない平和ボケした腐れ魔界を破壊し、魔王討伐を終えたその日から、ナイト様とメアの新たな生活が始まるのっ! 使用人には、従順で寡黙な輩を雇いましょう。そこの駄竜のように余計な知恵と反骨心がある者は、論外ね。死ぬほどイライラしてしまって、翌朝には使用人が一人もいなくなってしまうもの。ああ、料理人は超一流、いえ、それ以上の者でなくてはいけないわ。ナイト様に半端なものは似合いませんものね。服の仕立てに関しては、ウチの専属の者で構わないでしょう。生地も裁縫も細工も、最高の出来ですもの。もっとも、そうでなくては、長生きできないでしょうけど」
思い描く幸福な未来予想図に足どころか全身を浸してしまったメアは、独りごとを呟くように、自分の妄想に心酔してしまっている。
しかし、ここで下手に口を挟んだりすればメアの怒りを買ってひどい目に遭わされるのがわかっているので、ラビィはとりあえず沈黙して様子を見守ることに決めた。
ちらりと、ご機嫌なメアの様子を窺うと、その隣にいた七糸と目が合った。
面倒な人だよね、と言いたげな笑みが見えて、ラビィは反射的に頷いてしまった。
(……もしや、この少年も私同様にメア様に振り回されているだけなのではなかろうか?)
ふと、そんなことを思う。
よく考えれば、メアのように傲岸不遜で傍若無人な女を好む男は老若問わずいない。その高貴な身分や後ろ盾、魔力の高さを別にすれば、彼女に魅力などないのではないかとすら思えるくらいなのだ。
(…そう考えると、不憫だな…)
はっきり言って、メアと一緒にいると生命力を根こそぎ削り取られて死期が早まる気がする。それほど、精神的にキツイのだ。
きっと、この世界の誰も、我儘な彼女を満足させられないだろうし、傍に居続けることは不可能に違いない。そんな厄介な女に見染められた若者―――もはや、不幸の極みとしか言いようがない。これほどの不運は存在しないだろう。
(――しかし、それとこれとは話が別だ)
七糸の身の上話よりも、今は竜族の誇りのほうが大事だ。そう思い、再度、彼女の服従命令を断ろうとしたときだった。
拒絶の気配を感じ取ったのか、ふっとメアの瞳の色が変わるのが見えた。
澄んだ赤目から、ひどく淀んだ闇色へと。
ぞっとするような、圧迫感。
ひやりとするほど、冷酷な微笑がこちらへ注がれる。
周囲を見やれば、いつしか、景色がくすみ始め、野原も暗い空も、可愛い竜族の子供たちも、七糸の姿さえも遠のいていく。
「……これは…」
疑うまでもない。メアの能力だ。彼女の瞳や容姿に異変があれば、何かしらの魔法を発動させていると考えていい。
メアの能力――精神感応。その用途や発動形式はいろいろあるが、これもそのうちの一つ。周囲の人間の目には、ただ、ぼんやりとしているだけにしか見えないが、実際は違う。心そのものに、メアの鋭くも冷たい意識が強引に流れ込んでくるのだ。
それは、恐ろしく純粋で飾り気のない、脅威。
逃げる隙のない、恐怖と絶望。それらは、どんなに強靭な精神力の持ち主であろうとも逃れることはできない。
逆らえば、間違いなく殺される。思い込みなどではなく、はっきりと確信してしまえるほどに、メアの存在は絶対的だった。
『…何か勘違いしてるようだけれど、あなたに選択肢などないのよ。ラヴィアス』
彼女は、唇を動かさないまま、直接、頭のなかに言葉を流し込んでくる。おそらく、七糸や子供たちに聞かれたくない内容なのだろう。
ラビィは、彼女の術に抗うことなく、やはり、直接、頭のなかだけで会話する。
『…知っているはずだろう。私の仕えるべき主はすでに決まっている。それを変えるということは、一族の掟に背くということだ』
『駄竜一族の掟なんて知らないわ』
『…第一、脅されて軍門に降るような情けない真似ができるか。何より、あのナイトとかいう男は得体が知れん。我が一族に及ぼす影響も測り知れない以上、過剰な接触は控えたい』
姿勢を正して告げるラビィに、メアは笑った。
七糸の前では絶対に見せないであろう、下卑た笑み。悪意の塊のような、悪魔らしい残忍な微笑みを浮かべている。しかし、これは、精神感応能力により見えている幻の映像。現実の世界での彼女は、実に愛らしい笑みを浮かべているだけだ。
メアは、言う。禍々しいほどの低音で。
『あら、何もわかっていないのね、可哀想な駄竜だこと。私の言葉は、お願いではないの。命令なの。そして、貴方は、それを拒めない。どうして、そんな簡単なことがわからないのかしらね?』
彼女の笑みが、だんだんと深くなる。歴戦の勇者ですら背筋が震えるほどの殺気が満ちていく。
『ナイト様はお優しい御方ですから、貴方の醜態を吹聴したりはなさらないでしょう。ええ、そんな姑息な真似をするような矮小な男ではございませんもの。でも――私は違う。この世界のすべての者に、火竜一族ご自慢のご立派な騎士様の無様な姿を配信することも可能なのよ。あら、どうしたのかしら? 随分と顔色が悪いようですけれど――ふふ、そうよねえ。決闘すべく果たし状でナイト様を呼び出しておきながら、戦うことなく逃げようとしたなんて。ああ、何て、無様なのかしら! 騎士として、あるまじき恥さらし! しかも、前途有望な竜族の子供たちの前でそんな醜態を晒したとあっては、どんな誤魔化しも効かないでしょうね。子供は正直だもの。どうやって、どんなふうに逃げたのか。嬉々として、語ってくれるでしょうねえ。貴方のご両親や親族、その他もろもろ。明日からの転落人生が実に楽しみだわ!』
『………っ』
絶句する。
彼女が二人の竜族の子供を連れてきた理由は、人質などではなく、目撃者をつくるためだったのだ。
(…いや、それだけではないかもしれない)
脳裏によぎった、最悪の事態。それは、竜族に課せられた、重大な制約。束縛と言ってもいい代物。
竜族は、種族に拘わらず、仕えるべき主君を必要とする。
それは、人が生きるために夢や理想を必要とするのと同じように、いや、それ以上に重要な生きる糧となる。元来、竜族は忠誠心が強く、誰かを守護することでより強い力を発揮できるという、根っからの騎士道精神を備えた存在なのだ。それ故に、年齢性別問わず、主君となるべき存在と契約を交わさなくてはならないという掟がある。それは、たいていの場合、家系により主が決まっているのだが、例外として、子供時代、不用意に行った契約に縛られる場合がある。つまり、一度、誓いを立てさせてしまえば、主が契約を切らない限り、死ぬまで使い潰すことが可能になるのだ。その習性を利用すべく、かつて、竜族の赤子が攫われるという事件が頻発したことがあったくらいだ。今では厳重に保護されているため、そのような事件は起こらなくなったものの、竜族の子供に接触を試みる者はあとを絶たない。
ラビィたち、火竜一族の間では、子供の外出時には成竜が付き添うのがルールになっている。今回の場合、メアが成竜の代わりに付き添うという形で強引に連れ出したのだろう。
『……一つ、確認したいことがある』
神妙な面持ちで切り出すラビィに、彼女は小さく鼻を鳴らして腕を組んだ。どうやら、ラヴィの危惧を察したらしい。
『ふふっ、幼くとも、あの子たちは紛れもなく竜族。その本能が、仕えるべき主君を常に探し求めていた、ということかしらね。あら、怖い顔をしてどうしたの? 本人がそうしたいと望んだのならば、私に口出しする権利などありはしないでしょう?』
『――それは、サーシャとライナに無自覚なまま契約させたということか』
自然とラビィの声が鋭くなる。
『…何も知らない子供を誑かすとは、いかにも貴女らしいやり口だ』
『あら、お褒め頂いて光栄ですわ、騎士様』
微笑んだ彼女は組んだ腕を外すと、ゆっくりと右手を持ち上げた。細い指先が、すっとラビィに向けられる。
『……言ったでしょう? 貴方に、選択権はないの。すべては、私の手のうちにあるのだから――…おとなしく、手駒におなりなさい』
そのあまりにも傲慢な言い分に、今にも腸が煮え繰り返りそうだ。
しかし――サーシャたちの未来を考えると、強く出られない。非難することも拒絶することも容易いが、何も知らずに運命を決められた子供たちを見捨てることはできない。
(…かといって、このままメア様に屈するのも腹立たしい。何より、我が主にどう説明すればいいのか…)
現在、ラビィが仕えているのは、魔王の遠縁にあたる姫君だ。メアとは両極端の娘で、か弱く儚げで慈悲深いと噂の人物。話せば契約を打ち切ってくれるだろうが、ラビィ自身、メアや七糸を守るよりも彼女を守りたい意識のほうが強い。とどのつまり、ラビィは今の自分の立場を気に入っているのだ。か弱いご令嬢を守る騎士という、その役目を。
だが、この状況からして、そんなことにこだわっているわけにはいくまい。メアは、子供たちを盾にこちらに迫っているのだ。反撃しようものなら、傷つくのは小さな二人だ。
(……なるほど。確かに、こちらに選択権はない)
完全な袋小路だ。逃げることも避けることも不可能。
自分の身一つで解決できるならば、それに越したことはないが――おそらく、それは無理だろう。
(…下手すると、火竜一族を敵に回すことになる)
メアに敵愾心を抱いている者は数多く存在するが、なかでも竜族からの反発は強い。ラビィが婚約者に選ばれたときも、非難囂々だった。極悪非道を地でいくメアと、騎士道精神の塊である竜族では、根本的に合わないのだ。
メアとの距離を測りつつも、二人の子供たちを救い出す方法。そんな便利なものがあればいいが――…。
思案しながら、ふと七糸を一瞥する。
(……そうだ。こちらの弱点が子供たちだとすれば、メア様にとっての弱みは――おそらく、あの少年だ)
ナイトと呼ばれる、謎多き人物。強いか弱いかすらわからない彼は、メア以上に何を考えているのかわからない。
(…どう見ても、貧弱な子供にしか見えないが…)
彼の姿を、再度、確認する。
細いのは、腕や肩だけではない。背が低く、髪は漆黒で短く切られているが、どこか上品な印象がある。茜色の縁取り眼鏡を着用し、身に纏っている服も靴も、男らしさからはかけ離れた代物。つまり、一見すると、戦士というよりは学者やそれに近い雰囲気の少年だった。
(…というか、ちょっと翼で煽っただけで世界の果てまで吹き飛ばされてしまいそうな気さえするな……)
ラビィの目には、七糸は竜族の子供同様に、か弱い存在としか映らない。
(――…待てよ。メア様は、私を追いつめて楽しむと言うよりも、むしろ、彼の護衛役を探しているという可能性はないだろうか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
メアが傍にいるだけで、彼は充分安全な立場にいるが、それでもなお、味方を増やしたいということは、つまり、どういうことなのか。
(……単純に考えれば、メア様は魔王様に挑むための戦力を欲して、私を引き込もうとしている。それが一番自然な展開だが、しかし――それにしては、どうも様子がおかしい。少なくとも、あの少年は、戦争を前提に私と交渉するつもりはないようだ)
ある程度、死線を潜り抜けていれば、相手の気質・性質というものを察することができるようになる。メアはどこまでも好戦的だが、七糸は真逆だ。生温い環境で生きてきたのか、目つきも、身に纏う空気も、ほのぼのとしている。とてもではないが、戦闘向けではない。
(…そうなると、話は変わってくる)
メアは、彼を魔王にするべく、遠からず戦争を仕掛けるつもりだ。それは、百パーセント確実だが、ここで問題になるとすれば、戦闘向きではない彼をいかにして守るか、ということに尽きる。
メアの能力をもってすれば、操り人形状態の兵士をつけることは簡単だろう。しかし、それでは不十分なのだ。自分の意思で動けない兵士は、実力のすべてを発揮できない。何より、メアの性格上、七糸に対しては常に万能な自分を演じていたいだろうから、敵が近づくより先に、彼の目に入らない段階で決着をつけたがるに違いない。
(……そうなった場合、どうしても、少数精鋭の兵が必要になる)
そこで、ラビィに目をつけた。手近にいて、弱みも性格もよく知っていて、それでいて、忠誠心のある有能な兵士。国でも名の通った歴戦の将であるラビィは、メアにとっては棚からぼた餅に近い存在だったのだろう。
『…一つ、訊かせてもらいたい。メア様にとって、あのナイトとかいう少年はどういう役目を担っているのだ?』
メアの行動には、必ず意味がある。暇潰しにしろ、からかうにしろ、憂さ晴らしにしろ、何かしらの目的に沿って行動するのが彼女だ。しかも、どんな些細なことにも全力を尽くすというから質が悪い。そんな彼女が、一人の少年を魔王にすべく動いている。そこに、どんな意図があるのか。本当の狙いは何なのか。どうしても、その一点だけが見えない。
メアは、ぱちりとまばたきをしてから、すうっと瞳を細めた。それだけで、空気が冴え冴えと冷えていく。
『…役目など、決まっているでしょう? ナイト様は、魔王になってこの世界の支配者になるという運命を担っていらっしゃるの。私は妻となり、隣でそれを助け、支え続けるだけよ』
『――それは、建前だろう。貴女には、もっと別の思惑があるはずだ』
目に力を込めて訊ねるラビィに、彼女は薄く微笑んだ。
『…誠実を売りにしている竜族にしては、疑い深い言葉ですこと。でも、ねえ、ラヴィアス。私は、本気であの方をお慕いしているのよ。女がすべてを懸けて尽くすということは、持てるすべてを捧げるということ。つまり、私にとっては、この世界のすべて。それをナイト様に差し上げたいの』
メアは、瞳を輝かせて笑みを深くする。爽やかさからは程遠い、ドロリとした粘着質な笑顔を浮かべ、
『……いずれ、私は、魔王をぶち殺し、遠からずこの世界を手に入れるでしょう。本当は、今よりもスリリングで狂気に満ちた素敵な場所にしてあげるつもりだったのだけれど、それ以上に楽しいことを見つけてしまったの。私の、すべて…つまり、この世界全部をナイト様に捧げ、二人の愛の楽園につくり変えるという壮大な夢を、ね。ふふ、これからの魔界は、残忍で美しく、焼けつくような愛に満ちた世界になることでしょう。なんて素晴らしいのかしら。ねえ、そう思わない?』
恍惚とした声音で同意を求められても、素直に頷けるはずがない。賛同するかどうかよりも、あまりにも予想外すぎる内容で、面食らってしまったというのが本音だった。
『………つまり、彼を魔王にしたいというよりも、支配下においたこの世界を花嫁道具代わりにして嫁ぎたいと、そういうことなのか?』
自分で言っていて、ひどく馬鹿馬鹿しいことのように思えた。そんな理由で世界征服を企むなんて、ありえないはずだが――メアは、至極真面目な様子で肯定した。
『駄竜にしては、呑み込みが早いわね。そうよ。だって、この世界は、私の愛のため夢のために存在しているのだから、私がどうしようと構わないでしょう? 魔王だろうが、神だろうが、誰にも文句は言わせないわ』
『……それは、何というか…』
一言で言えば、くだらない。二言で言えば、馬鹿だろう、この女。
(…そんなアホみたいな理由で、私の一生が食い潰されようとしているのか……)
そんな理由ならば、いっそ、世界滅亡くらい言ってほしかった。いや、本当に滅亡させられても困るのだが、せめて、それくらい大規模な野望を聞かせてほしかった。
(……男に貢ぐのにも全力投球とは…どこまでもメア様らしいというか何というか…)
彼女らしいといえばそうだが、この世界に住まう者としては、かなりはた迷惑な話だ。そもそも、自分が命を懸けて守ろうとしている母国が、この世界が、一人の我儘娘の妄想の餌食になろうとしている事実は、あまりにも信じがたく、受け入れがたい。
だが、彼女が本気になればそんな未来もありえるというのも、また事実。それほどの実力と強靭な意志の持ち主なのだ、このメアという性悪女は。
『――とりあえず、メア様の言い分はわかった。子供を人質に取られている以上、私が貴女の命令に背けないであろうということもな。だが、私とて誇り高き竜族。何の建前もなく、悪しき陰謀に加担するわけにはいかない』
せめて、世界平和とか、国を守るためとかいう理由ならば少しは妥協できたかもしれないが、この世界を花嫁道具代わりにして男に嫁ぎたいというくだらない理想を聞かされた以上、素直に応じるわけにはいかない。
世のなか――特に、騎士という世界において、大義名分は重要な位置を占めている。メアのように自分勝手な主張をしていれば、遠からず、掟に背反した者たちを狩る断罪者の手で粛清されてしまうのがオチだ。
(…牢に送られるくらいなら、まだいい。重罪だと判断されれば、即処刑も珍しくないからな)
仮に、ラビィが一族の掟に背いて七糸側についたとしても、メアが背後にいる限り、処刑はまずないだろう。しかし、一族の縁を切られ、死ぬまで敵対することは必至だ。
(…それでも、ライナたちを守るためには、それも仕方のないことなのだろうが…)
子供たちが無意識にメア、もしくは七糸との契約を結んでしまっている以上、それを放置するわけにはいかない。自覚がなかったとはいえ、メアと手を結ぶということは、子供であっても重罪に等しいからだ。
何せ、メアは、世界の敵になろうとしている危険人物だ。この世界を傍観しつつ支配している魔王を殺し、玉座の簒奪を画策している相手の下僕になるということは、それだけで死罪になる。
(……私だけなら、何とかなる。せめて、子供たちの契約さえ何とかできれば…)
隙を見て、うまく動けば、それも可能かもしれない。
いや、それよりも、メアが自分を引き込もうとしている以上、彼女が望んでいるのは、子供たちではなく、ラビィの戦闘能力のほうだろう。それならば、まだ手はある。
(…私が協力する代わりに、子供たちの契約を解除してもらうというのはどうだろう?)
それならば、子供たちだけでも罪から免れることができるはずだ。そう考えていると、メアが薄く残忍に笑んでみせた。
その笑顔に、ラビィは戦慄した。
彼女の能力をもってすれば、他者の心を覗き見ることも容易いということを忘れていた。
『…あら、それは素敵な考えね。騎士らしく、子供の代わりに自分が犠牲になるなんて、ご立派ですこと! でも、ご立派な騎士さん? 私がそんな甘い女だと思っているのかしら? だとしたら、とんだお馬鹿さんだわ。わざわざ手に入れた宝石を手放すはずがないでしょう?』
『――…っ、どこまでも卑劣な!』
彼女は、ラビィだけでなく、幼い子供の未来まで踏みにじろうとしている。その容赦ない事実に、咄嗟にラビィの顔つきが戦士のそれに変わる。しかし、それに臆することもなく、メアは悠然と微笑んでみせた。
『ラヴィアス、貴方って、本当にお馬鹿さんなのね。言ったでしょう、私は。この世界は、いずれナイト様のものになると。それにね、私は敵には容赦しないけれど、身内にはとっても寛容なの。嘘じゃないわよ? あの子たちがナイト様の下僕になるということは、すなわち、私の身内も同然。どんな敵が迫ろうとも、指一本触れさせないと約束しましょう。この世界において、これ以上安全な場所はないと思うけれど――どうかしら?』
『…それはつまり、ライナとサーシャを竜族の断罪者から守るということか?』
断罪者、すなわち、罪を犯した者を捕縛し、処刑する役職の者たちのことだ。彼らは、どこまで逃げようとも、どんなに足掻こうとも、容赦なく追いつめ、罪を裁く。子供だろうが女だろうが関係ない。いわば、殺戮に適した好戦的で冷徹な連中なのだ。ライナとサーシャの件がばれれば、確実に動いてくるだろう。
『…連中は手強いぞ。それこそ、私など足下にも及ばないくらいにな』
脅しではなく、危惧して忠告してやるが、彼女の余裕の微笑みは崩れない。
『あら、貴方なんて中の下の実力しかないでしょう? だって、私にすら勝てないんだもの。だとすれば、断罪者なんて、せいぜい、そこらの毒虫程度の存在だわ』
『…侮っていると足下をすくわれるぞ。しかし――口約束とはいえ、貴女が誰かを守ると言い出すとは、どういう心境の変化だ?』
少なくとも、これまでのメアなら、子供がどうなろうが興味ないはずだった。しかし、彼女は、はっきりと言った。子供を守ってやると。
訊かれたメアは、ちょっと考えるように首を傾げてから、いつになく静かな声で答えた。
『…女は、付き合う男で変わるものよ。つまり、これまで私を変える男はいなかったということね。だとすれば、ねえ、ラヴィアス。ナイト様は、とてつもない素質をお持ちだと思わない? 他でもない、この私の心を動かしたのだから』
『――確かにな』
そこは、素直に感心する。
もっとも、あの細っこい少年にそんな秘めた能力があるようには見えないが―――傲岸不遜なメアを変えるくらいだから、よほどの逸材に違いない。
『ラヴィアス。私に、いいえ、ナイト様に従いなさい。これは、命令であり、忠告よ。そうしなければならない理由が、貴方にはあるのだから』
『わかっている。子供たちの件だろう』
うんざりしたように言ってやるが、彼女は即座に否定する。
『違うわ。他にもあるでしょう? もっと重要なことが』
その囁くような声に、ぞわぞわと寒気がする。
『…意味深な言いかただな。どういう意味だ?』
何とも薄気味悪い気配を感じながら訊ねると、彼女はにっこりと微笑んだ。猛烈に嫌な予感がする。
『…あら、本当に何も気づいていないのね。ナイト様に果たし状を送りつけたこと。それこそが、最大のミスなのよ』
『…最大のミス、だと?』
どういうことなのだろう。首筋に寒いモノを感じつつ問うと、彼女は思いがけない事実を突きつけた。
『貴方は、騎士として最大のタブーを犯した。よりにもよって、ナイト様に――非力な女性に戦いを挑むなんて、とんだ騎士様ですこと! この事実が知られたら、貴方、騎士でいられなくなるでしょうねえ』
メアの言葉に、ラビィは耳を疑った。
『……な、何? 女、だと? あの少年がか?』
確かに、男にしては細いし、背が小さいし、非力そうだし、声も低くないし。
(…女と言われれば、そう見えないこともないが……)
だが、初めて七糸に会ったとき、メアは彼を男として紹介していたし、七糸本人も否定はしなかったではないか。
『…そ、そんなはずはないだろう。冗談も程々にしてもらいたいものだな』
半信半疑で言うラビィに、彼女はにやりと笑う。
『冗談ではないわ。あの方は、両性具有体なの。つまり、男であると同時に女なのよ。ナイト様ご自身は、男としての心をお持ちだけど、身体的には女性なの。よって、女としてナイト様があるべきところへ届け出れば、貴方の騎士としての資格は剥奪、一族追放、いえ、死罪へまっしぐら! ああ、何て哀れな末路なのかしら』
『! だ、だが、男として決闘を受けたのならば、違反してはいないだろう!』
両性具有体なんて、この世界では珍しくない。そういう場合、相手が男として決闘を受けた場合、問題にはならない。
だが、ラビィの縋るような言葉を、悪魔女は容赦なく弾き返した。
『あら、ナイト様は、あの手紙を読んでいないわよ。その証拠に、子供も一緒に連れていたでしょう?』
『そ、それは、何かしらの企みがあって、わざと連れてきていたのでは?』
『…いいえ? ナイト様は、貴方が自分に何か用事があるのだろうと察して、お返事なさっただけ。ライナとサーシャは、貴方と遊びたくてついてきただけ。つまり、ナイト様にとっては、ピクニックと何ら変わらないのよ』
『!!! そ、そんな、馬鹿なっっ!』
言われてみれば、最初から話が噛み合っていなかった。待ち合わせに同行してきたメアの意味ありげな薄笑いは、女相手に果たし状を叩きつけた愚かな騎士の姿を嘲笑っていたからだろう。
『――さあ、どうするのかしら? ご立派な騎士様? 守るべき非力な女に挑んだ愚か者として死罪になるか、竜族の子供を守るために泣く泣く敵についた不幸な騎士として後世に名を残すか。どちらがお好み?』
『どっちも御免だっっ!』
しかし、その選択肢のどちらかしか自分には選べない。
(…完全に、嵌められたっっ!)
四方八方、どこにも逃げ道は見つからない。いや、たとえあったとしても、メアの仕掛けた罠がそこかしこに仕掛けられているに違いない。
死ぬか生きるかで言えば、当然、死にたくはない。かといって、一族を裏切ることもできるはずがない…。
さんざん悩んでいるうちに、ふっと身体が軽くなった。メアの術が解けたのだ。
視界が鮮やかな色を取り戻し、花の香りが鼻腔をくすぐる。
ようやく、平和でのどかな時間が戻ってきたというのに、ラビィには、陰湿な精神の呪縛から解放されて安堵する暇はなかった。
メアが、底意地の悪い――傍目には極上の愛らしい笑みを浮かべて、からかうように訊いてきたからだ。
「――さあ、どうするの、ラヴィアス? ばっさりざっくり死んじゃう? それとも、無様にのうのうと生き長らえたい?」
「嫌な言いかたをするなっっ!」
言いながらも、自分に残された道は一つしかないことをラビィは理解していた。
(…私が死罪になっても、ライナとサーシャの未来が変わるわけではないからな)
竜族としての契約がある以上、哀れな子供たちは一生、七糸とメアに従わなくてはならない。それはすなわち、竜族、いや、家族との断絶を意味する。
(…せめて、私くらいは傍にいてやらねば可哀想だ)
どんな状況でも味方は必要だ。特に、過酷な人生を歩む者にとって、それは生きるうえでの救いとなるに違いない。
そう強引に自分を納得させたラビィは、ふっと息を吐き、悪戯な目を向けてくるメアを見据えて言った。
「…わかった。貴女の企みに乗ってやろう。だが、それは、あくまでも子供たちのためだ。勘違いするなよ」
「ふふ、いいでしょう。そうと決まったのなら、早速、今の飼い主との契約を切ってきなさい。ああ、それと――これからは、もっともーっと仲良くしましょうね、ラビィ?」
わざとらしい猫撫で声であだ名を呼ばれて、反射的に怖気立つ。
彼女が愛想よく振る舞うと、それだけで戦慄してしまうのは、本能の悲痛な叫びに他ならない。
それから数日後。ラビィは、衝撃の事実を知らされることになった。
実は、ライナとサーシャは誰とも契約しておらず、結局のところ、メアの奸計に陥り、竜族を裏切っただけだと知ったラビィは、一週間寝込み、その後、一ヶ月以上も部屋に引きこもる羽目に陥ったのだった。
一応、七糸やメア、サーシャとライナの物語も書きたいと思っています。遅筆のうえに他の話を書いたりするので、いつになるか不明ですが……目にする機会がありましたら、読んで頂けると嬉しいです。