長官の憂鬱
「ああ、とうとうこの日がきてしまった……」
その日の彼は憂鬱だった。
彼が親衛隊長官の内示を受けてから1ヶ月。
何度も断ったのだが、上司は聞く耳を持ってくれない。
大体何なんだ、親衛隊って……
皇帝の警護をするのは近衛の役目だろ……
彼が嫌がった理由の一つはそこにあった。
時は3世紀、場所はローマ。
いわずと知れたローマ帝国である。
偉大な皇帝アウグストゥスが帝国建国してから既に300年近く経過し、帝国は荒廃していた。
「なかんずく、軍人皇帝時代なのだ」
この30~40年で皇帝が入れ替わり立ち代り、立っては消えていった。
「いや、消されていった、というのが正しいか……」
わずか半世紀にも満たない間に40人以上の皇帝が倒されているのだ。
天寿を全うできた皇帝は皆無といってよいだろう。
「この動乱の時代によくここまで生き残ったと思うが……」
もともと体格がよかったこともあり、彼は年齢をごまかして12歳でローマ軍に入隊した。
蛮族から故郷を守ろうと思って入隊した彼に待ち受けていたのは、同胞との殺し合いであった。
運がよかったのか、上司に恵まれたのか、20年生き残れた。
キャリアの最初が一平卒であり、そこから伍長、百人隊長、軍団長と順調に昇進していった叩き上げの軍人であり、あと5年ほど勤めれば退役が待っている。
彼は退役後は故郷のダルマツィア(現在のクロアチア)に別荘でも買って隠居するつもりだった。
「ああ、プロブス帝は悪くない皇帝だった……」
それなのに、上司が要らぬ野心を抱いたのである。
従来、皇帝が直々に率いる軍隊は近衛軍団と決まっていた。
全ローマ軍団の中でも生え抜きの兵士達が近衛軍団に配属となる。
常に最前線にあると同時に、皇帝の警護も彼らの役目だった。
しかし、軍人皇帝時代に入り、この近衛軍団が曲者となった。
皇帝に近いだけに、皇帝をいつでも殺せるのだ。
実際、近衛軍団に殺され、近衛長官が皇帝を僭称したり、皇帝になったりというのは彼の軍人生活の中でも何度も見ている。
プロブス帝は近衛軍団による暗殺を警戒し、その身辺を新たに組織した親衛隊に守らせていた。
親衛隊は皇帝の身辺警護に加え、作戦立案を担う参謀機能、軍人の人事や兵站を指揮する軍令部機能を持っていた。
これらの機能を持つことで、近衛軍団をけん制し、他の軍団と同列にしてしまおうというのがプロブス帝の狙いだった。
「だが、あの上司はその立場を悪用した……」
彼の上司、カルスは親衛隊の長官であった。
皇帝がもっとも信頼する作戦参謀として常に傍にいたのである。
その彼が皇帝を殺し、自ら皇帝を名乗った。
「私の老後は一体どうなるのだ!?」
彼は上司を呪う思いだった。
一平卒の出身ながら、軍団長も務め、親衛隊の幹部にまで上り詰め、退役まであとわずかだったのだ。
幹部の年金があればローマの元老議員よりもいい生活ができるだろう。
「ああ、嫌だ……、なぜ私が親衛隊長官などに……」
死にたくない。死んでたまるか。豊かな老後を過ごすんだ。
彼の望みはそれだけだ。
彼の上司、カルスは皇帝を殺して帝位を簒奪した。
帝位を簒奪したものは、また、帝位を簒奪されるのがこれまでのパターンだ。
親衛隊は常に皇帝と行動をともにしている…つまり、一緒に殺される可能性が高い。
殺されるのが嫌であれば、兵士達に皇帝としてふさわしいところを見せなければならない。
カルスはペルシャ帝国に大規模な遠征を行うことでその資質を示そうとしている。
「冗談じゃない。私は砂漠で死ぬなどごめんだ。」
親衛隊で兵站を知り尽くしている彼には現在計画されている遠征がとんでもないものであることがよく分かっていた。
自分の事務机にあるものを手当たりしだいに投げ、駄々っ子のように呻いた。
「もう戦争なんて御免だ!何のために後方勤務を志願したと思ってるんだ!」
故郷でキャベツ畑を作って、ローマ随一のキャベツを作る私の夢を返せ!!」
投げつけた陶器の杯が砕け散ると同時に、部屋の外から呼びかける声が聞こえた。
「閣下、そろそろお時間です」
ああ、忘れていた……今日は親衛隊長官の就任式であった。
「わかった、しばしそこで待て」
取り乱した自分が滑稽であった。
すそを直し、鉄兜を手にする。
ローマ軍団幹部であることを示す扇形の赤いたてがみを丁寧に整える。
「ああ……憂鬱だ……」
そう呟きながら、兜を被り、顎紐をしっかりと縛った。
いっそ、上司を殺してしまおうか……
適当に近衛あたりに皇帝をやらせて私は隠居する……
いや、そんなにうまくはいかないか……
我ながらおかしなことを考える……と苦笑しつつ部屋を出ると、若い兵士が腕を前に真っ直ぐに伸ばし、手のひらを下にし、指先を伸ばして直立していた。
見慣れたローマ式の敬礼だが、それにしても違和感がある。
目の前の兵士は少年と呼ぶにもなんだか覚束ない、幼い感じがした。
「ずいぶんと若いな。貴様、いくつだ?」
「16になります」
ほほう、ずいぶんとサバを読んだものだ……と彼の口許が緩んだ。
それを見た若い兵士が嬉しそうに言った。
「閣下も皇帝陛下より直々に長官職を授けられることを喜ばれているのですね!」
なんと無邪気なことか。
そう感じると同時に、自分もローマ軍団に入隊したころは彼のように将軍達に憧れ、昇進を夢見たものだと懐かしく思えるのであった。
彼は式典会場に向かう。
両脇には軍団兵がびっしりと整列していた。
彼の姿を見ると兵士達はみな右手で左胸を叩き、甲冑と篭手のぶつかる音が地響きとなって響き渡る。
会場は一瞬にして興奮の渦に包まれていた。
彼ら一平卒にとって私の長官職はおよそ考えうる最高の地位ということか…
そう考えれば、この興奮も分かる。
彼らは私を通じて己の栄達を夢見ているのだ。
壇上には皇帝となったカルスが今かと待ち構えている。
普通、皇帝が先に出ているなど考えられない。
そうか、奴は私の兵卒からの人気にあやかろうというわけか……
その卑しさに眩暈を感じるほどだ。
壇上に上がる直前、先ほどの若い兵士に彼はささやいた。
「確かにこれ以上の名誉はないだろうな。
だが、憂鬱だよ。とてもね。」
その声は、万を越える兵士達の狂ったような喚声にかき消されていった……
ディオクレティアヌス帝の謎多き軍人時代について、後のやけっぱち人生の原点はここにあり!という視点で書いてみました。