くもりメガネと虹もよう
私は、人前で泣けない。
泣くという行為は、とてもプライベートなものだと思う。人前でなんて、とてもじゃないけど、無理。
だから、ひとりで泣く。
ベッドに突っ伏したり、部屋の真ん中に仁王立ちになったり、リビングにしゃがみ込んだり。ぽたぽたと垂れる雫を眺めているときもあれば、声を押し殺しているときもある。大声を上げたことは、数回しかない。元々、そんなに激しい気性ではないのかもしれない。
涙には、色んなものが詰まっているのだと思う。
泣いた後には、体が少し軽くなる。ジョギングなんてするよりも、余程効果的。涙で腫れ上がった瞼では、鏡に映る自分の姿をきちんと見られないけれど、あまり美しいものではない、と想像する。
それでも私は、涙を流すことによって、自分で在り続けているのだと思っている。涙と一緒に消えていくものと、涙と一緒に手に入れるもの。そのどちらもがなければ、私は私でいられない。きっと、そう。
私が元々ひとりで暮らしていたマンションに、彼が越してきたのはもう二ヶ月の前のことだ。彼は研究所の職員をしていて、毎日毎日顕微鏡と睨みっこをしているらしい。一度、仕事は面白いのかと尋ねたら、彼は唇の片端のだけを微妙に持ち上げる仕草で、まあまあ、と答えた。もしかしたら顕微鏡子ちゃんに、多大な愛情でも抱いているのかもしれない。彼は自分の気持ちや感情をべらべらと口にするタイプではないから、本当のところはどうか分からないけれど。
今までの彼氏というのは、私を強制したがる人間が多かったように思う。もっと人前で感情を吐き出した方が良いとか、僕にはすべてを見せて欲しいとか、そういうようなこと。歴代の彼氏の前で泣いたことがない私に、責任があるのかもしれない。
そもそも、何故彼が私の家に転がり込んだのかというと、彼がそう提案したからだった。
「効率的でしょう、その方が」
という彼の案に、私は異論を唱えられず、頷いたつもりはないのに、気付けば彼はその場で引っ越しの日取りを決めていた。
「でも、どうして私の家なの?」
「君の家の方が、僕のよりも一部屋多い。それに、君の家には洗濯機もあるし、風呂だってユニットバスじゃない。嫌いなんでしょう? ユニットバス」
一度、ユニットバスだとお風呂にゆっくりとつかれない、と呟いたのをまだ覚えていたらしい。だからって、毎日お風呂に入ってるわけではないのに。いつもは、シャワーで済ませているのに。
数々の反論が脳裏をよぎったけれど、何だか面倒臭くて、私はため息を吐き出すと同時に、座っていたソファにお行儀悪く深く腰掛けた。
「じゃ」
彼は毎朝、それだけを言って玄関を出て行く。出勤時間は、彼の方が遅いはずなのに、愛しの顕微鏡子ちゃんに会うためにか、彼は私よりも早く家を出る。
「うん」
私はそう答えて、ぼんやりとカーテンに遮られた空を見る。遮光に優れたカーテン越しでは、空の色はおろか日の光さえもまともに感じられない。当たり前か。そのための、遮光だもんな。
彼は、判で押したような生活を好む。引っ越しの際に持ってきたマグカップに、コーヒーメーカーで作ったコーヒーを注ぎ入れ、ミルクもクリームも砂糖も入れないで、毎朝同じ分量だけマグカップに注ぐ。あまりに毎日、同じだけの分量を入れるものだから、彼は精巧に出来たアンドロイドなのかと疑ってしまったほどだ。朝ご飯といったものは、食べない。
「コーヒー、好きなのね」
私のコメントに、彼はゆっくりとこちらを振り向く。彼はそもそも、慌てたりすることがほとんどない。それから、一瞬、視線をそらしてから唇の片端を持ち上げると、
「まあまあ」
私はコーヒーを飲まない人間なので、その意味がいまいち分からない。分かったからって、どうなるものでもないけれど。
「ただいま」
大抵、私が帰宅する頃には、彼はすでに家に着いていて、たまに夕飯が用意されていたりする。
「やあ」
言って、彼は玄関に少しだけ顔を出す。ブーツを脱ごうと膝を曲げ、俯いた私をしばしの間見つめてから、彼は何も言わずにそこを去っていく。
「あ、良い匂い」
くんくんと鼻孔をくすぐる芳ばしい匂いに、私は少しだけ声を明るくした。
「シチュー。パンもあるよ」
「すてき」
「そりゃ、何より」
そんな、会話と呼ぶにはあまりにも単語数の少ない会話を交わして、私はコートをクローゼットに戻しに寝室へ向かう。
寝室は、灯りがともっておらず、カーテン越しに入ってくる外の灯りで、ぼんやりと家具のシルエットが浮かび上がる。コートをクローゼットにしまって、カバンを指定の場所に置く。携帯をカバンから取り出して、ベッドサイドテーブルの上に置く。
ああ、そうか。
私も、判で押したような生活をしているのか。どうりで、彼の行動が邪魔に思わないはずだ。
変化に富んだ毎日を過ごしたい、という人間を、割と頻繁に見かけるが、その真意は何なのだろう? 変化に富んでいること自体が素晴らしいことであるかのような。それ自体に異を唱えるつもりはないが、それ以外を認めない変化賛同者は、いかがなものだろう?
「手は?」
寝室を出て、リビング兼ダイニングに向かうと、彼がそっとそう言う。
「あ。まだ」
言ってから、私は大人しく洗面所に向かう。ごうごうと音を立てている洗濯機の隣に鎮座した洗面器の蛇口をひねって、流水で手を洗う。
いつもは、こんなこと、忘れたことないのにな。
柄にもなく、他人の行動論理に思いを馳せたりしたからだろうか。
回り続ける洗濯機は、健気だな、と思う。役に立つことを知っていて、自分が必要とされるまで大人しく待って、いざ仕事が舞い込んだら、文句も言わずに仕事に取りかかる。これこそ、仕事をしている人間の取るべき態度なのではないか。
ああ、私、疲れてきているのかもしれない。こんなことを考えるだなんて、まったくどうかしている。
「いただきます」
私たちは両手を合わせて、軽く目を瞑って言った。
「あっつ」
「そりゃあ熱いでしょう」
猫舌の私は、ただでさえ熱いものを口に入れられないというのに、彼が作る料理はどれこれもが、湯気を立てて、口内をやけどしてやろうとばかりの勇ましさなので、私は少々辟易してしまう。そして、彼の素っ気ない相槌にも、辟易。
「だって」
「だって?」
「美味しそうだったから」
「うん。でも、多少冷めたくらいでは、美味しさは半減しない」
「でも、乗り遅れた感は否めない」
「乗り遅れた? 料理は、流行じゃないよ」
「そうね。もっと大事なものだわ。だからこそ、乗り遅れちゃうと、死活問題」
「そう。じゃ、貸して」
彼の手が目の前に差し出される。大きな、手。骨張っているのに、肌自体は滑らかな、紛れもなく男性の手。
「シチュー。貸して?」
何をするつもりなのか皆目見当もつかずに、でも私は素直に、スプーンを置いて、シチューの入ったボウルを差し出した。 静かに、でも、彼の背中は少しだけ楽しそうで、それが何だか新鮮。
私は、そこまで友達の多い方ではないし、ホームパーティーなんてものに憧れるほど社交的でもないので、必要最低限の食器しかなかったのだけれど、彼が引っ越して来たときに、その数を少しだけ増やした。一枚だけだったお皿が四枚に、ひとつだけだったボウルがよっつに増えたので、単純計算で言えば、その数は四倍になったことになる。
食器棚から、使っていない分のボウルを出してくると、彼はシチューの入っているボウルから、空のボウルへと中身を移し替えた。それを、数回繰り返してから、垂れてしまった分のシチューをフキンで拭き取って、こちらに戻って来る。
「はい、どうぞ」
「どうも」
何故だか私は差し出されたボウルを両手で受け取って、シチューをスプーンですくって口に含む。彼は、片手を顎の下に置いて、好奇の目で私を見ている。
「まだ熱い?」
三口ほど飲み込んでから、彼がそう聞いてきた。声には出さずに、首を左右に振って応えると、メガネの奥の彼の目が細められる。
「小さい頃、教わらなかった?」
「なにを?」
「お茶が熱くて飲めないときに、空の湯飲みに移し替えると、冷えていた湯飲みの温度のせいで、熱いお茶が冷めるんだ」
「へえ」
「教わらなかったらしいね」
「私、おばあちゃんことかじゃなかったし」
「そう」
「うん。そう」
「あんまり、会わなかったの?」
「遠くに住んでいたから。父方の祖父母は、私が小さい頃に亡くなってしまっていたし、母方の祖父母は遠くに住んでいて、滅多に会わなかったから」
「じゃあ、今のが初めてのおばあちゃんの知恵か」
「え?」
穏やかに言う彼の言葉が少しだけ引っかかって、私はシチューを見つめていた目を彼にフォーカスさせる。同じように顔を上げた彼は、
「ん?」
とだけ言った。
「おばあちゃんの知恵って。どうして、おばあちゃん限定なの?」
「ああ」
合点がいったと両の瞳が笑っている。彼は、こういった器用な顔をする。瞳は確かに笑っているのに、顔全体は笑顔ではまったくない。目を見て話さない人間が見れば、彼はまったくの無表情で、それどころか、いつもふてくされているひとに見えるだろう。
「だって、僕も自分の祖父母から教わったわけではないから」
「え」
「小さい頃、母親がおやつに出してくれたせんべいに、おばあちゃんの知恵っていう生活トリビアをのせたものがあってね。その知恵ってやつが、どの程度真実を語っているのか、気になったから。片っ端から試してみた時期があったんだ。今のは、その名残」
「名残? 成果ではなくて?」
「自分でも発見出来た知恵なら、成果ではないよ。それに、発見するまで、何の苦労もしていない。頭を使ってもいないで取得した技術や知恵に、何の意味がある?」
「そういう見方も、あるね」
「僕が、変人なだけさ」
「そういう見方も、あるね」
「君が、偏屈なだけかも」
「そういう見方も、あるね」
そうして、しばらく沈黙が続いた。 ただひたすらに、ふたりしてシチューを口に運んではずずっとすする音がするだけ。 どうしてこうも、人が何かを食べる音というのは、非魅力的なのだろうか。どんなに美味しいものを食べていたって、どんなに格式張った食べ方をしたって、結局は、食べるという行為自体が原始的なのかもしれない。原始的で何が悪い、という意見も、もちろんあるが。
「ひとは、何故食べるのであろう」
スプーンが口を離れて、シチューが口内を過ぎ去った、その一瞬をついて私は呟く。
「どこかで、死にたくない、と思っているからかも。それとも、早く死んでしまいたい、と思っているからかもね」
彼の瞳は、シチューに注がれている。メガネは、私のシチューよりも余程熱いと思われる湯気にさらされて、微かに曇っている。瞳がよく見えないだけで、まるで知らないひとみたいに感じる。
「そういう見方も、あるかもね」
無感動に言ってから、私はくすりと笑った。面白かったわけじゃない。冗談だったわけでもない。でも、面白いときにだけ笑うわけはないと思うのだ。この頃。
「じゃ」
いつものように、彼が立ち上がる。飲み終わったマグカップは、洗われたあと、きちんと拭かれて、食器棚に戻っている。コーヒーメーカーも、きれいにしまわれて元の場所に戻っている。キッチンに漂うコーヒーの匂いがなければ、彼がコーヒーを飲んだなんて、誰にも分からない。
「うん」
言いながら、私は玄関へと移動した。
靴を履き終わった彼が、ふと顔を上げる。そのまま、言葉もなしに、彼は私の目をじっと見つめた。
「珍しい」
「え? なにが?」
「玄関に来るなんて、初めてでしょう」
「そうだっけ」
「どうかした?」
「いや、べつに」
どうかしてる? 私が? そんなことは、ない。いつもの朝。いつも通りの朝。何も変わっていない。何も。何もかも。
「遅れるよ」
一瞬、瞳が揺らいだかもしれない。でも、それだって、一瞬のこと。彼が、気付くわけがない。私の言葉は、少々タイミングがずれたかもしれないけれど、そのコンテクストはずれてはいないはずだ。だから、大丈夫。
「じゃ」
もう一度、同じ言葉を彼が紡ぐ。
「うん」
私も、彼を真似てみる。
ちらりと私を振り返って、彼は背筋を伸ばすと、玄関のドアのハンドルに手をかけた 手の平に力を込めて、金属のハンドルが下ろされる。 暗いグレーのドアが開いて、早朝独特の空気が、玄関に滑り込む。
滑らかな仕草で、彼がドアをくぐり抜ける。ドアが閉まる音。重くて、それでいて虚無感を感じさせる、やたらと空っぽな音。
それが過ぎ去れば、沈黙。
かすかに薫るコーヒーの匂いが、私を現実にかろうじて繋ぎ止める。
大丈夫。
いつもと、同じ朝。
同じ事を繰り返しているだけのはずの毎日が、唐突に辛くなるのは何故なんだろう。不思議には思えど、それに対する解答は未だに見つからない。
何が辛いわけでもない。何が苦しいわけでもない。目に見えるほどの大怪我をしているわけでもないのに、何故だか、どこかが疼く。鋭く痛いわけでもない。のたうち回るほどの痛みでもない。ただただ、ぼんやりと、息が詰まる感じがするだけ。 そして、それを心地良く感じない自分に、不快感を覚える。その内、沈黙が、肩に振り降りる。しんしんと積もるようにして、それは私の両肩を少しだけ重くする。このままいくと、肩から崩れ落ちてしまいそう。
シンプルに、日々を過ごしていければ良いのに、と思う。そう、願っている。でも、強く願ってしまうと、ガラス細工のような日々のバランスが壊れてしまうような気がして、それも出来ないでいる。結局、この毎日という不確かなものを支えているものは、不透明であやふやな私の願いのようなもので、それは、何もかもが曖昧だということに繋がる。つまり、私の毎日は、シンプルなのかもしれないが、おおよそ、確定的とは言い難い。
現状に満足しているかと言われれば、それはそうなのだと思う。だって、何の不満も見当たらない。私は、大多数の他人と比較しても、何かが決定的に欠如しているわけでもなく、そういう意味では、過不足のない人生を送っているのだと思う。
それでも、この空っぽの気持ちがこころの中をどんどんと浸食していくとき、沈黙が私の骨という骨をきしませているとき、私はひとつのことだけを思い浮かべる。
泣かなくちゃ。
涙を流して、全てを流してしまわないといけない。
そうしなければ。そう、そうしなければ。
彼が脱ぎ捨てていったスリッパをそろえる。しゃがみ込んで、まだ彼の足のぬくもりの残ったスリッパに指が触れると、私はそこから動けなくなった。結局、スリッパを脇にやることもせずに、私はそこに座り込む。
ひとつぶ。そしてまた、ひとつぶ。
瞳から、ぽつんと孤独な雫がこぼれ落ちる。沈黙が支配する空間では、雫が床に落ちる音でさえ、まるで大事件。
次から次へと流れ落ちていく雫を、私は見つめる。他人事のように。フローリングの床に鈍く映った自分の姿を滑稽に思いつつも、流れ続ける涙を止めることも出来ずに、止めようともせずに、頬をつたう、その感覚だけを追い続けた。
私が泣いているとき、時間はひどく曖昧に流れる。時が流れるのを感じていないわけでもないのに、それはとても抽象的なものになってしまって、私は泣いている間だけ、時というものが存在することすら忘れるのだ。それが、果たして私の精神衛生上、好ましいことなのか、それは分からないけれど。ゆらりゆらりと存在と非存在の境界線をたゆたうように流れる時間の中で、私の涙は悠久の時を旅しているのかもしれない。一粒の涙に込められた思いは、床に落ちてべちゃりと潰れてしまうまでに、数々の記憶と思い出の中を旅して、そして朽ち果ててゆく。朽ち果てた雫は、朽ち果てることによって私の心を、心でなければどこかを浄化していく。そんな風に、ぼんやりと思う。
だから、目の前に立ちそびえる金属の固まりがぎこちなく動いたことに、私は気付かなかった。ふいに、外気が玄関に舞い込んでくる。
「 」
彼は、何かを言ったのだろうか。
恥ずかしい話、私は泣くという行為に夢中になっていて、それすらも気にとめなかった。ドアが開いたらしいということと、彼が何故か戻って来たらしいということを、頭の片隅で認識したに過ぎない。
とても静かに、いつもように滑らかに、彼が靴を脱いだ。靴の踵が、乾いた音を立てる。ひとの呼吸音は、息を吸って吐くその一連の音は、たびたび私の神経をざらざらと無神経に撫でていくものなのに、彼のそれは一度だって私の耳をざわつかせない。衣擦れの音すら軽やかで、彼の姿を振り返られずにいた私には、彼が一体何をしているのか想像するしかなかった。
そしてまた、沈黙が訪れる。
ドアが再び閉まりきって、外気が入り込まなくなる。
瞳からこぼれる雫は、濡れた頬のせいで滑りやすくなって、床に小さな水たまりを作っていく。両肩に降り積もる沈黙は、その速度を緩めずに、しかし、その重さを和らげた気がする。
空気が淀んでいくような閉塞感が、涙と一緒に蒸発していく。
泣かなくちゃ。
涙を流し始めるときは、そう漠然と、でも決然と感じているのに、つまり、私は泣くという自分の行為をコントロールしているのに、涙が止まるのはいつも唐突だ。
もう、おしまい。
まるで、涙自身がそう伝えているかのよう。
私という存在は、私という自我が把握出来ない、小さな小さな、たくさんの自我によって成り立っているのかもしれない。だったら、蒸発していった涙は、私の、私自身への優しさの欠片なのだろうか。自己愛の欠片なのだろうか。それとも、ただの我が儘で子供っぽい憐れみ?
す、と何かが私の視界に入ってきた。涙の膜でぼんやりとした目では、それが何かがすぐには判別出来なかったけれど、ハンカチか何かの類らしい。
彼が差し出したハンカチだと、ようやく気付く。
反射的に顔を上げれば、彼の瞳と私のそれが真正面からぶつかった。
「あ……」
そんな、馬鹿みたいな言葉しか、言葉と呼べないほどの情けない声が、私の喉から漏れる。
「どうぞ」
まったくの動揺を見せないで、彼が言った。いつもの、無表情に良く似た穏やかな顔で。
急に恥ずかしくなってきた。いつも、そう。現実は、とても無神経だ。私はいつも、気まぐれな現実に振り回されて、その姿を日々という人混みの中で見失ってしまう。そして、迷子になった子供のように泣きじゃくり、気付けば現実は傍に戻って来ている。それに気付かなかった私の、なんと愚かなことか。そうやって、現実は何度も何度も、飽きることなく何度も、私を辱めるのだ。
彼の穏やかな顔が、にやにや笑いに見えてくる。思い込みだと、被害妄想だと思いたいのに、彼はこんな私を見て嗤っているのではないかという想像は、不健康的な魅力を持っていて、それに抗うために、私はわざと口を開けずに彼からハンカチをひったくった。
自暴自棄になっている?そうかもしれない。だったら、それで良いじゃないか。そもそも、私の神聖な儀式(今となっては、そう思っていた自分を一笑にふしてやりたいが)を見られたのは、これが初めてなのだ。どうリアクション取って良いのか分からないのが、当たり前ではないか。それに、ここまで自分の恥部を見られてしまったのだ。もう、これ以上に恥ずかしいことがあるだろうか? いや、ない。
というわけで、私は彼のハンカチをおもむろに鼻にあてると、盛大な音を立てて鼻をかんだ。
玄関で意味もなく泣きじゃくり、お世辞にも美しいとは言えない顔で鼻をかむ女。
鼻の通りも良くなって、私はとうとう手持ちぶさたになってしまう。かといって、今更どんな顔で彼を見れば良いのだろう?
「ふふ」
ただし、頭上から聞こえたそれには、反応せざるをえない。デフォルトが無表情な彼が、どうやら笑ったらしい。しかも、声を上げて。一般のひとにとれば、まるで静かな部類に入るだろうその笑いは、それが彼なのだとしたら、途端に天変地異レベルの大問題。
「いま」
「ん?」
目を見開いて、可能な限り驚いた顔をしているであろう私を、衝撃のあまり言葉に詰まる私を、彼は見つめ返す。メガネは綺麗に磨かれていて一片の曇りもなく、その両の瞳は負けず劣らず透き通っている。
「わらった?」
「かもね」
「なに、かもねって」
もったいぶった彼の言い方に、私がくってかかると、彼はしれっと、
「見逃した、君のせいだよ」
「見逃した?」
「そう。ちゃんと、見てなくちゃ」
「なにを」
「僕を」
「は?」
「そんなにかっかしちゃうとね、見えるものも見えないよ」
話の見えない言葉ばかりを紡ぐと、彼はおもむろにメガネを外した。そして、あっという間に、それを私にかけさせる。
「ほら」
何が、ほら、よ。そう言い返そうとしたのに、みるみる間に曇っていくメガネで、私の視界は濁っていく。最早、彼のメガネの度がどれくらいなのかも、分からないくらい。
「うわ」
「泣くとね、体温が上がるでしょう? 今、君の頬はいつもよりも大分熱くなってるんだよ。だから、メガネをかけようとすると曇るの。何も見えなくなっちゃった?」
彼の言葉に、素直にうなずくと、ややサイズのあっていないそのメガネは、少しだけ鼻を滑って下に落ちた。
「私が、見えるものも見てないって?」
挑戦するように言えば、メガネの位置を直している彼が振り返る。やっぱり、彼にはメガネをかけていて欲しい。
「そうは言っていない」
「じゃあ、どういう意味?」
「くもったメガネでは、見えるものも見えなくなってしまうってこと。見えないことと、見ないことは同義ではないよ」
「でも」
「でも?」
手を伸ばせば触れられる距離で、彼が言った。
「私、今まで、泣き顔を誰かに見せたことはなかった」
てっきり、接続語が接続されていない、なんて言われるかと思っていたのに、意外にも彼は黙り込む。
「だから」
「だから?」
さっきよりはややぎこちなく、彼が問い直す。
「くもった視界にだって、意味はある」
普段は、慌てたりすることなんてない彼の瞳が、一瞬だけ、見逃してしまいそうなほどの一瞬だけ揺らいだ。それから、薄く口を開けると、浅い息を吐いて、視線を逸らす。それから、ゆっくりと口唇の片端を持ち上げると、いつもの言葉はなしに、そのほんの少し底意地の悪そうな笑みをこちらに向けた。
私は、人前で泣けないのだと思っていた。いや、今だってそう思っている。
今この場で泣いてみろなんて、頼まれたってごめんだとも思っている。
でも、私は、人前でも泣けることを学んだ。
涙が連れて行ってくれる、私の何かを、それが蒸発して消えていくその課程を、一緒に見てくれるひとがいることを知った。
これは、退化か? それとも、怠惰?
確実に言えるのは、私の視界は、曇ったままだということ。
それから、その向こうに何やら、綺麗なものがあると感じるということ。
いまは、それだけで良い。そう、思えること。
私はまだ、私でいられている。