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忘れられた真実と約束の時

作者: chie katayama
掲載日:2025/08/17

三奈がゆっくりとまぶたを開けると、白い天井がぼんやりと視界に広がった。鼻腔をくすぐる消毒液の匂いと、どこか遠くから聞こえる機械の規則正しい電子音。


乾いた喉がひりつき、頭は重く、体の節々にだるさがまとわりついている。


視線を動かすと、見知らぬ女性がベッド脇の椅子に腰掛けていた。長い髪をきっちりと巻き上げ、濃い化粧を施したその顔は、無表情で何かを見下ろすようにこちらを見ている。


「誰ですか?ここはどこ…何処なんですか?」

 声はかすれ、喉の奥で掠れた音になった。自分でも驚くほど弱々しい。


 枕元のベッドネームに目をやると、そこには「白田 三奈」と書かれている。

(…白田三奈?これが私の名前?)記憶の奥を探ろうとするが、霞がかったように何も浮かんでこない。


 見知らぬ女性は、ため息まじりに口を開いた。

「もう、やっと目が覚めた。いつまで眠っていれば気が済むの?私はあんたの、お母さん。警察だとか役所だとかがわずらわしいから、退院まであんたの面倒はみてやるよ」

 “お母さん”と名乗ったその声には、親の温もりも安堵もなかった。

 三奈の胸に、冷たい波が静かに押し寄せる。


「私のお母さんですか?どうして、私は入院しているんですか?お父さんは来ていないんですか?」

「そうよ。一応、私がお母さん。お父さん?あんたにお父さんなんているわけがないでしょ。私たちは火事で火傷して運ばれたのよ。目が覚めたなら、もういいわよね。全く世話のかかる子ね。また明日顔を出すから!早く退院してよね」

 吐き捨てるように言われ、胸の奥で何かが小さく軋んだ。


 そのとき、扉が開き、白衣の若い主治医が入ってきた。柔らかな眼差しが三奈に向けられる。

「三奈ちゃん、やっと目が覚めたんだね。どこか痛いところはある?煙を多く吸い込んじゃっていて目覚めるのに時間がかかったね」

 優しい声に、わずかに肩の力が抜ける。三奈は小さく首を振った。右腕と足に包帯が巻かれており、そこから微かな熱とひりつきが伝わってくる。


「先生、本当に先生のお陰です。なんとお礼を言えばいいか分かりません」

 さっきまでとは明らかに違う、媚びるような口調でその女性、恵子が言った。その変化に、三奈は違和感を覚える。

「お母さんの看病のおかげですよ。あと、三奈ちゃんの回復したいと願う力のお陰だね。一安心だ。そろそろ部屋も移れそうだね」


 主治医が去ると、恵子の声は再び冷たく尖った。

「いい?体調が悪い振りは早くやめて、さっさと退院するのよ。あんたに構ってる時間はないの。

 私の時間を無駄にしないでよ」

 言葉の一つひとつが、鈍い刃物のように胸に突き刺さった。


 恵子は三奈を振り返りもせず、足早に扉へ向かっていった。

 廊下からはワゴンの車輪が床を擦る音や、ナースコールに応える看護師の足音が響く。

 主治医の指示で三奈は4人部屋へ移動した。


新しい病室は、窓から淡い光が差し込み、外の木々が風に揺れているのが見えた。

消毒液の匂いの中に、他の患者の漂わせるわずかな薬草のような匂いが混じっている。

 恵子は腕を組んだまま、三奈の枕元に立ち、冷ややかに言った。

「あーっもう耐えられないわ。見て見なさいよ。あんたの隣のベッドの子なんて片足がないんだよ。縁起悪いったらないわ。こんなところにいつまでも居られない。じゃあね」

 その言葉は、体よりも心を重く締めつけた。


 三奈は何も言えず、ただ布団の端を握りしめる。


 恵子は踵を返し、ハイヒールの音を響かせながら病室を出て行った。

 廊下に出るとすぐ、彼女の鋭い声が耳に飛び込んできた。

「危ないじゃない!目が見えないなら一人で歩き回らないでよ。こっちが迷惑するんだから。気をつけなさいよ!!」

 声のする方を向くと、白杖を突きながら歩く男性が立ち止まり、深々と頭を下げているのが見えた。


 あれが、お母さん?火事?

 思い出そうとした瞬間、こめかみの奥で鋭い痛みが走る。


その女性、恵子には、火事の負傷を物語る痕跡はない。

化粧は完璧で、全身をブランド物で飾り、爪先まで隙なく整えている。

その姿は、病院という場所にあまりにも不釣り合いだった。


記憶の扉に手をかけても、重く閉ざされたまま開かない。その閉塞感に胸がざわめく。

入院中、三奈はふと気づくことがあった。

病室の扉の外から、こちらを心配そうに覗く青年がいる。数度、目が合ったが、三奈はきっと他の患者の知り合いだろうと考え、深くは気に留めなかった。


母と名乗る女性は、2~3日おきに現れては、5分も経たぬうちに帰っていく。その背中を見送るたび、

心の奥で何かが静かに冷えていくようだった。


 そして一か月後。

 三奈は退院の日を迎えた。


病院を出ると、秋の風が頬を撫でる。空は高く澄み、冷たい陽射しが影を長く落としている。

恵子に連れられて戻った“家”は、全く記憶のない場所だった。

家具は最小限で、壁は白く、どこか人の温もりを拒むような殺風景さ。

「いい。これからここが、あんたの家」

恵子は靴を脱ぎながら、ぞんざいに言い放った。

「私は以前、ここに住んでいたんですね?」

「馬鹿なの?昔住んでいた家は全焼したから、もうないの!仕方なくここを借りてやったの!

 分かる?どれだけ私に迷惑をかけたか。もう、いいからさっさと荷物は自分で整理してね」

言葉の端々から、冷たい刃のような苛立ちが滲んでいた。


 そのとき、恵子の携帯が鳴る。

瞬間、彼女の表情と声色が変わり、甘く艶やかな響きに変わった。

「もしもし、会長。こんにちは。どうも、お世話になっております……」

 その豹変ぶりに、三奈は胸の奥で確信する。

 やはり、この人にとって私はただの厄介者なのだ。


恵子は電話口で、相手のご機嫌を取るような声を器用に操りながら、リビングを歩き回っていた。

「Mコーポレーション会長の件でしたら順調に進めさせて頂いております。

 他ならぬ会長のためですから……いえいえ、とんでもございません。

 オーナーも喜んで協力させて頂きたいと申しております。」

その口調は滑らかで、聞く人の心をくすぐるような響きを帯びていた。だが、受話器を置くと同時に、その柔らかさは嘘のように消え失せた。


「あんたには父親はいないし、私も今日で母親役は終わりにするから。人はね、生きていくためにはさ、手段なんか選べないのよ。自分の幸せは自分でつかまないと。それじゃあ、元気でね」

 その言葉と同時に、恵子はバッグから分厚い封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「あっそうだ、くれぐれも学校の先生に一人暮らしってばれるんじゃないよ。面倒だから。歳なんか誤魔化したらバイトだってできるんだから。自立して生きていきなさいね。」

 

封筒の中には、現金50万円が無造作に詰められていた。

三奈は、冷たい硬貨のようなその光景をただ黙って見つめた。

十五歳の秋。母を名乗った人間と過ごす最後の日。


玄関の扉が閉まると、部屋は一気に静まり返った。

時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。


 人は産まれを選べないと言う。

 でももし、自分の意志で棘の道を選んで生まれてきたのだとしたら、

 私は、何をすべきなのだろう。


そう思いながら、重たい封筒を机の引き出しに押し込み、深く息をついた。

 

退院の日以来、恵子とは一度も会っていない。どこにいるのかも分からない。

そんな中、通っていたはずの中学校の門をくぐった。校舎の壁は午後の光を浴びて淡く輝き、グラウンドからは掛け声とボールの音が聞こえてくる。

「おはよう。白田さん、お母さんから事情は聞いているよ」

 担任の先生は柔らかい笑みを浮かべて立っていた。

「記憶がないそうだね。お母さんはとても心配されていたよ。

 今日はお母さんは出張なんだってね。帰りも遅いとか……病み上がりなのに大変だろう。

 みんなも心配していたから、あまり急に刺激を与えないようにっとお母さんから、

 くれぐれも頼まれているからね」


 お母さんが私を心配?


 その言葉は、胸の奥で乾いた笑いに変わった。私にはお母さんと呼べる人はいない。それでも、この場では担任の話に合わせるしかない。

 記憶のない自分にとって、母を名乗るあの女性と気を使って生きていくより、この穏やかな空気に身を委ねる方がはるかに楽だった。

 少なくとも学費は払ってくれている。仕送りも、月々4万円が現金書留で送られてくる。だが、それは生活を支えるには足りず、食事はもちろん自分で用意しなければならなかった。

 退院の日から、期待という感情は胸からすっかり消えていた。

 

 一日の始まりは、目覚まし時計の甲高いベル音。

 仕送りだけでは生活が厳しい。水道光熱費、食費、学習用品、生活必需品、数字に置き換えると、すぐに赤字が見える。現金が底をつく前に、バイトを探さなければ。

 テレビから流れるニュースの向こう側では、笑い声や愚痴、喜びや怒りが交錯している。

私はどちらにも属さない。

(私は大丈夫。住む家があり、学校にも通えている。命を脅かされる環境ではないのだから)

 そう自分に言い聞かせることで、胸の奥の不安をかき消していた。

 

生活のために始めたアルバイト先は、駅から少し離れた路地にある小さなお惣菜屋だった。

 夕方になると、店先には湯気を立てる煮物や揚げ物がずらりと並び、醤油と油の混ざった香ばしい匂いが通りに漂う。

 店主の女将さんは、丸顔に優しい笑みをたたえた女性で、客一人ひとりに必ず声を掛ける人だった。三奈の初出勤の日も、柔らかな声で迎えてくれた。

「残り物で悪いけど、よかったら食べてね」

 紙袋に入った温かいコロッケと煮物を差し出され、三奈は胸がじんわりと温まった。

 この人は、私に初めて人の優しさと温もりをくれた人だ。


 それから三奈は、女将さんの役に立ちたくて、慣れない仕事にも一生懸命取り組んだ。夕方の仕込みの音、店先で客と交わす軽い冗談、閉店後の片付け……どれもが彼女にとって新しい日常になっていった。

 そんなある日、女将さんが声を掛けてきた。

「三奈ちゃん、申し訳ないんだけどコンビニで切手を買ってきてくれない?110円切手を20枚。お願いできるかしら?」

「はい。喜んで。行ってきます」

 時刻は夕方の19時前。外はすでに群青色の空が広がり、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。

 コンビニの自動ドアをくぐると、レジの前が騒がしかった。

 アジア系のスタッフが、二十歳前後と思われる男性客に絡まれている。

「ろくに日本語も話せないのに何で日本に来てんの?仕事で散々疲れるっていうのに無駄なカロリー消費させないでくれる?聞こえてんのかよ!馬鹿にしてんの?」

 大声でまくし立てるその様子は、明らかに仕事での苛立ちをぶつけているようだった。スタッフは俯き、困惑の色を隠せない。


 三奈の胸に熱いものがこみ上げた。

 許せない。でも、この人に直接言える勇気は……。


 その時、奥から店長が出てきて間に入り、事態は収まった。三奈は胸をなでおろし、レジへと進む。

「大変ですね。でも直ぐに慣れます。頑張ってください。私も頑張りますから」

できるだけ穏やかに、はっきりと伝える。

 スタッフは少し緊張した様子で、片言の日本語でお礼を言った。

その言葉が、胸の奥に静かな温かさを残した。

 コンビニを出ると、夜風が頬を冷やした。

 帰り道、募金を募る小さな集団が目に入る。「災害復興へ協力ください」と書かれたボードを手に、声を張り上げていた。スピーカーはなく、通りすがりの人にただ真っ直ぐ訴えている。

 三奈はポケットから財布を取り出し、500円玉を握りしめて募金箱に入れた。

「ありがとうございます」と返ってきた声に、一礼してその場を後にする。

 小さな行動だったが、心の奥が少しだけ軽くなった。


 それから五日後。

 夕方の街は、通勤帰りの人々や買い物袋を提げた主婦たちで賑わっていた。商店街を抜け、バイト先へ向かう道の途中、耳に不快な声が飛び込んでくる。

「前みろよ。スタイルよくない」

「お嬢さん、時間ある?」

 声の方向を見やると、前方を歩く人が振り返った。

 スラリとした体躯に、整えられたショートヘア。その顔立ちは女性的でもあり、どこか中性的でもあった。

「お前男だろ。気持ち悪いぞ」

「おかまかよ。空気汚すんじゃないよ。さっさと消えろ!」

 耳に刺さるような侮辱の言葉。

 三奈の胸に、瞬間的に熱が走った。

「何がいけないのよ。人にはね、自分を自由に表現する自由があるの!!!犯罪を犯したわけでもないのに余計なお世話よ!!!」

 声を張り上げた自分に、次の瞬間はっとする。だが、その人の肩は小さく震えており、何かを堪えているのが見えた。恥じることなどないはずだ、むしろ堂々としてるべきだ。

「なんだ、お前生意気だな。殴られたいか?」

「本当のことを言って何が悪いんだよ」

「私からしたらあなた達二人の方が空気を汚してるのよ」

「本当に生意気だな」

 男の一人が拳を振り上げた、その瞬間だった。

「あんたたち何してんのよ。大の大人が子供を殴ろうとするなんて」

 振り返ると、息を切らせた女将さんが立っていた。目は鋭く光り、背筋は真っ直ぐ伸びている。

「警察には通報したから、そこでおとなしく警察の到着を待ちなさい」

 男たちは顔色を変え、そそくさとその場を離れた。

 安堵と同時に、全身の力が抜けそうになる。

 三奈は事情を説明した。

「三奈ちゃん凄いよ、正しいことを言ったと思うわ。誇らしい。本当はね、警察なんて呼んでなかったのよ。ちょっと配達があって外出していたの。帰りを急いでいたら見えちゃって。間に合ったからよかったけど、あまり無茶をしたら駄目よ」

「そうだったんですね。とっさに声が出てしまい、自分でも驚いています。私にもこんな一面があったなんて。あんまりにも頭にきてしまって」

「危険を顧みずに、とっさに他人を思って怒れるなんてすごいことよ」

 女将さんは、遠い昔を思い出すように視線を落とした。

「私はこの年でしょ。幼い頃、私達はね男は男らしく、女は女らしくって教わって育ってきたの。だから性別は男と女の二種類しか存在しないって思ってた。でも中学の頃にね、ある女生徒が他のクラスの女生徒に告白したの……」

 そこから語られたのは、いじめに追い詰められた少女の話だった。教室での陰口、無視、授業中の嫌がらせ、そして、ある日突然の自殺。

「自殺をしたって聞いた時にすごく後悔したの。なんで守ってあげれなかったんだろう。なんで相談にのってあげれなかったのかって。だからさっきの、三奈ちゃんを見て、感動しちゃった」

「そんなことがあったんですね。きっと、親にも相談できなくて苦しかったでしょうね。ずっと孤独だったんだろうな」

 夕暮れの街灯が、二人の影を長く伸ばしていた。

 女将さんの話を聞きながら、三奈の胸の奥に小さな炎が灯った。


 小さいことから始めたら、何かが変わるかもしれない。

 それは大げさなことではなくていい。日々の中で、少しずつ誰かのためになることをしていこう。そう決めた。

 その日から、三奈は「一日一善」を心がけるようになった。

 通学路で目についた空き缶やペットボトルを拾い、ごみ箱に捨てる。

 電車やバスでは、老人や妊婦さん、小さな子ども連れの人に進んで席を譲る。

 募金箱を見つければ、必ず財布から小銭を取り出して入れた。

 お金に余裕があるわけではなかった。むしろ生活は常にギリギリだ。

 それでも「どうか少しでも誰かの役に立ちますように」と心の中で願いながら募金すると、不思議と胸が軽くなった。

 募金のたびに返ってくる「ありがとうございます」という言葉は、三奈に生きている実感と、小さな誇りを与えてくれる。

 こんな私だけど、少しでも誰かの助けになれているのかな。

 その思いは、やがて確かな希望に変わっていった。

 自分よりも弱い立場の人の力になれる仕事に就きたい……。

そんな夢が日に日に大きくなっていく。

 

 学校生活にも、少しずつ変化があった。

 クラスメイトが以前からの友達のように気さくに話しかけてくる。記憶がない三奈は、相槌や愛想笑いで会話を合わせるが、それだけでも大きなエネルギーを使った。

 昼休みには、運動場の明るい声を窓越しに眺め、授業中は穏やかな時間が流れる。

 いつの間にか、太陽の傾きと影の伸び方で、おおよその時間がわかるようになっていた。

 春……桜の花びらが舞う季節。

 中学2年になった三奈は、ようやく心から話せる友達を得ていた。

 アンナ、小百合、彩、慎太郎、太一、学。性別を問わず仲が良く、休み時間も昼食もいつも一緒。くだらない話で盛り上がり、笑い声が絶えない。

 家に帰れば独りぼっちでも、学校には仲間がいる……。それが支えになっていた。

 将来についても、仲間たちと語り合った。成績優秀な小百合や太一のアドバイスは、漠然としていた夢を具体的な形に変えてくれた。志望校が定まり、バイトの後は毎日4時間、机に向かって勉強に取り組むようになった。

 

 新学期が始まって間もなくの道徳の授業。

 「差別と区別」というテーマで、クラスはいくつかのグループに分かれた。

 教室の空気は静かで、ページをめくる音やマウスのクリック音が響く。

「区別って、それぞれの違いを正当な理由があって分けることで、差別っていうのは正当な理由もなく批判したり卑下する事でしょ」

 アンナの言葉に、みんなが頷く。

 すると、学が少し身を乗り出し、熱を帯びた声で語り始めた……。

 学は、机の端に肘をつきながら、みんなの視線を真っ直ぐ受け止めて口を開いた。

「部落差別ってしってる?」

 声は落ち着いていたが、その奥には何かしらの重みが潜んでいた。

「昔、江戸時代に士農工商ってランク付けされた社会階級、その下には、えた・ひにんって階級があって、明治時代に入っても差別され続けたんだって。そんな人たちが住む地域を同和地区って呼んでいたらしい。同和地区の人たちは結婚や就職に影響を受けたり、日常生活でも偏見や差別的な言動はあからさまで、耐え難い嫌がらせを受けたりしたんだって」

 言葉の一つひとつが、教科書には載らない現実を突きつけるようだった。

 クラスの空気が少し重くなる。

「例えば、そこの地区の子はろくでもなくて野蛮な人種だから関わるなとか、自分の子供に教えていたから、その子供たちの虐めの標的にもなっていたんだって」

 士農工商という言葉は聞き覚えがあっても、部落差別という言葉は多くの生徒にとって初耳だった。もちろん、三奈も知らなかった。

「なにそれ?ただそこの出身だったからって子供には関係ないじゃない。酷い話だね。好き好んで産まれてきたわけでもないのに。結婚や就職にまでって社会ぐるみの虐めだね。でも学、やけに詳しいね」

 アンナの疑問に、学は小さく息をついて答えた。

「俺は、そこの地区の出身なんだ。だから、詳しいんだ。未だに陰口を言ってる人もいるんだってさ。俺はよく分からないけど。父さんたちのまだ幼かった頃はまだ少し残っていたみたいなんだ。母さんの両親から、母さん側の母さんの祖父母に、初めは結婚に反対してたんだって。でも、じいちゃんたちが、父さんの味方になってくれて説得してくれたんだって」

 学の表情は穏やかだったが、その瞳の奥には過去から受け継いだ静かな痛みが宿っているように見えた。

「でもそんなの、もう死語だよ。学は学だ。出身なんて関係ないよ。俺はそんなことで親友を見捨てたりしない」

 湊の言葉が、張り詰めた空気を少し和らげた。

「俺はこの時代に生まれてこれたからよかったと思う。でも、どうしても消えないんだよ。そんな教育を受けたら、そんな思想になるのは当たり前だから」

「でも確かに差別って存在するよね。上手く言えないけど、人から欲求がなくならない限りずっと続くんだと思うの。だって、それって自分の方が優位な立場に居たいからだけでしょ?」

 三奈の言葉に、アンナが頷く。

「そうだね。障害者っていう表現もその一つなのかもしれないね」

「確かに。五体満足じゃなくてもハンデを持ってるだけで障害者っていうのは、なんか下に見てる表現な気がするよ」

 湊が続けると、学は少し身を乗り出した。

「こんな差別もあるよな。体は男性のつくりで産まれてきても心は違ってたりもするし。逆に女性もそうだ。それが罪だと考えるやつらいるだろ?性ってなんなんだろうな。ただの個性だろって思うけど」

「そう言われたら、そうだね。いろんな考え方があるのは仕方ないけどね。あと三奈の言ってる事も理解できる。確かに誰かに期待したり褒められたい気持ちは私にもあるな。私の方が努力してるのに何でよって誰かを妬ましく思う気持ちもある」

 アンナは真剣な表情をしていた。

「差別って、考えれば考えるほど奥深いテーマだね。今じゃバリアフリーのほか、ジェンダーとか外国人の事が問題視されてるけど、否定的な人はゼロじゃないもんね」

 隆美の声が静かに教室に響く。

「結局、人間って欲深い生き物なんだと思うの。特に怠惰欲や承認欲求なんか到達点ってというか頂点とかはなくて、常にその上を求めてしまうでしょ。そんな愚かな生き者なんじゃないかって。他人と自分の違うところを粗探しして、見下したり足の引っ張り合いをしたりする。そんな大人たちのニュースとかよく流れてるけど、結局少なからず私たち子供たちも、そんな大人の影響を受けてるよね。だからいじめもなくならないんじゃないかな。私はね、そんな心を持ってる人たちこそが障害者なんじゃないかって思うの。心が貧しい人こそが障害者なんだよ。偉そうに言ってる私も、少なからずアンナと同じ感情をいだく時もあるけどね」

教室の空気が、ほんの一瞬静まり返った。

「三奈、なんか悟りを開いた人みたい」

「アンナ大げさ過ぎるよ。それとも馬鹿にしてる?」

「違うよ。本当に共感できたからさ」

「でも俺だって同じだよ。大人たちは子供の虐めについて偉そうにTVとかで意見いってるけど、大人の世界を小さくしたのが、子供の世界なんだなよ。子は親の鏡って言うしな。弱音や愚痴や不満を言わない人間なんていないんだし」

「ちょっと、論点が、ずれてきたような感じがするんだけど……」

「要はどうすれば少し他人に対して寛大になれるのか?ってことじゃないか。共感して共存する。難しいけどな」

「生きていく上での永遠のテーマかもしれないね。全く同じ考えの人なんていないんだし、立場の強い権力のある人達は考えもしないだろうし。立場の弱い人達は平和を願う気持ちが大きいんだろうね」

 窓から差し込む春の光が、机の上に柔らかな影を落としていた。

その議論を、教室の後方から静かに見守る視線があった……夏目蓮。三奈の幼馴染で、命の恩人でもある人物だった。

 夏目蓮は、教室の後方の席から皆のやり取りを静かに見つめていた。

 目立つタイプではないが、整った顔立ちに落ち着いた雰囲気をまとい、どこか頼りがいを感じさせる存在だった。

 三奈がまだ記憶を失う前、彼は三奈の隣人でもあった。

 その記憶が今の三奈には無いことを、蓮だけが知っていた。


三奈はマンションの前で、ゴミ置き場をあさるホームレスの男性を見つけた。

その姿は、最後に見かけたときよりも一層やつれ、背中は丸く、衣服は薄汚れていた。

夜風に揺れる細い腕が、何かを探すようにゴミ袋の中をかき回している。

三奈の胸に、言葉にならないざわめきが広がった。

気がつけば、足が勝手にそちらへ向かっていた。

そして、口が先に動く。

「お腹、空いてるんですか? よければ、これ…どうぞ」

差し出したのは、女将さんが「試験頑張ってね」と持たせてくれたお弁当だった。

本当は三奈の夜ご飯だったが、家には食パンが一斤残っていることを思い出す。

今、この人の方がきっと、このお弁当を必要としている。

「バイト先の女将さんがくれたんです。お気になさらず受け取ってください」

ホームレスの男性は、驚いたように顔を上げ、そしてゆっくりと両手で受け取った。

頬をつたう涙が、街灯の光で一瞬だけ輝く。

何度も、何度も「ありがとう」と繰り返す声が、夜気に溶けていった。

三奈は胸が詰まる。

夕食がなくなったことよりも、明日からこの人はどう過ごすのだろうかという思いが離れなかった。

「一週間後から試験なので、明日からは渡せませんが……どうか、元気で」

深く一礼して、三奈は背を向けた。

背後で、まだ礼を言う声が追いかけてくる。

それを振り返らず、三奈は夜道を歩き出した。

家に着くと、食パンを一枚だけ口にして、机に向かう。

今は試験に集中しなくちゃ。

胸の奥で、先ほどの男性の表情が静かに焼きついたままだった。

それからは、バイトを休んで試験勉強に取り組んだ。食事も三食まともに取らず、睡眠も削って取り組んだ。

やっとの思いで臨んだ試験がようやく終わった。


張りつめていた糸が切れたのか、教室を出る足取りが少しふらつく。

階段を下りながら、視界の端がじわじわと白く霞み、耳の奥で自分の鼓動が響くのを感じた。

あれ? なんだか遠くなる…

机に向かっていたときの集中力が嘘のように、意識が沈んでいく。

身体が鉛のように重くなり、瞼が落ちていった。

その暗がりの中で、映像のような光景が現れる。

優しいおじいさんが、幼い私を膝に抱き、穏やかに語りかけてくる。

「三奈、知識や経験は決して人には盗まれないし、裏切らないよ」

「人には嘘をついたらいけないよ。親切でないとね。その親切は必ず返ってくるからね」

その言葉は何度も、何度も繰り返された。

窓から差し込む春風が、ほのかな土と草の匂いを運んでくる。

頬をなでるその風が、あたたかく、やさしい。

包まれるような心地よさに、胸の奥がじんわり熱くなる。

ああ、この匂い、知ってる。懐かしい……。

次の瞬間、まぶたの裏が光に満たされた。

ゆっくりと目を開けると、そこは保健室。

白い天井と消毒液の匂いが現実へ引き戻す。

ベッド脇には、見知らぬ…いや、どこかで見たことのある男性が座っていた。

優しそうな眼差しが、まっすぐにこちらを見つめている。

その瞬間、記憶の奥底から、病室のドア越しに私を見ていた人の姿がよみがえった。

目が合った瞬間、頭を締めつけるような激しい痛みが襲う。

こめかみを押さえながら、息をのむ。

「大丈夫? まだ具合悪い?」

懐かしさを含んだその声が、胸に響く。

言葉にしづらい感覚――懐かしいのに、思い出せない。

でも、この声を私は確かに知っている。

頭痛をこらえながら、首を小さく横に振る。

これが…フラッシュバックというものなのだろうか。


そのとき、別の声が耳の奥で囁いた。そして忘れていた記憶が映像化して見えてきた。

「行ってらっしゃい。あなたの世界へ。勇気を出して、さあ行くのよ」

私の誕生を喜び笑い合う見慣れない人達。

でも直観でパパとママだけはわかった。この人達が私のパパとママだ。

パパとママは優しい人だった。とても温かな家庭で育った。

私は昔明るく活発でよく笑う子だった。

「三奈はいつも楽しそうね。」ママは嬉しそうにパパに話していた。

「三奈の笑顔には癒しの効果があるね。」とパパは言った。

パパとママにこんなにも愛されていたんだ。

楽しいバースデーパーティー美味しそうなごちそうが並ぶ食卓。

映像を見て三奈は涙があふれてくる。


ママとの買い物の帰る道、交通整理をしていたおじいさん。

強い日差しを浴び真っ黒に日焼けし首から汗が流れていた。

そんなおじいさんを見て高校生ぐらいの人たちが小さな声で話をしているのが

聞こえてきた。

「あれ見て。ヤバくない。真っ黒だよ。汚い。しかも、もう爺さんでしょ。」


「あんな仕事にしか付けなかったんじゃない。ろくに勉強もしてないんだろうしね。

     朝から晩まで働いて一体月にいくら稼げんの?」

     

「だね。あんなに汗かいて。あの年でまだ仕事しないといけないなんて終わってるね。あんな人とは結婚したくない私は。」


「あたしは土木作業員とかも無理。」


「ゴミ回収の人もパスだね。だってなんか臭そうじゃない。」


そんな言葉に対してママは怒りを露わにしていた。

「なんてことを言うの。あの子たちは働く厳しさも知らない癖に

あの年まで一生懸命に頑張って働いている人に対して失礼極まりないわね。

この世に必要無い仕事ってないのに。あの方のお陰で私たちは安全に

通れているって分からないのかしら。全く信じられないわ。」


始めてママの怒った顔を見た。だからかすごく印象に残っていた。

ママはその後、冷えたお茶を買いその人に渡していた。


「まだまだ暑いですね。ご苦労様です。よければ、これどうぞ。」

まだ、日差しが強く汗の匂いのある湿度とコンクリートのやけた匂いが混ざった夏の日の事だった。

交通整理のおじさんは照れ笑いしながら受け取った。

家族でよくキャンプにも行っていたな。パパとおじいちゃん達は川で釣りをしてたっけ。

楽しい日々が続いていた。


でも三奈が4歳のある日突然、

見知らぬおじいさんとおばあさんに引き取られたんだった。


まるで扉が開くように、これまでの人生の情景が映像となって押し寄せてくる。

記憶の欠片が一つひとつつながっていく。

そして、忘れていたすべてのピースが、心の中でひとつになった。


目の前にいる男性を見つめながら、胸の奥がざわめいた。

心臓が早鐘を打つように鼓動を響かせる。

そして、口から自然に言葉がこぼれた。

「おにいちゃん? おにいちゃんだったの?

 おじいちゃんとおばあちゃんは?」


彼は静かに頷き、少し切なげな表情を浮かべた。

「そうだよ。記憶が戻ったんだね。三奈、遅くなってごめんね」

「遅くなって?」

「もっと早くに姿を現していたら、こんな苦労なんてせずに済んだのに。

 でも、白田さん、三奈のおじいさんとおばあさんだよ。

 二人との約束があったから、こっそりと近くで三奈をいつも見てた。」

その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

確かめずにはいられなかった。

「おじいちゃんとおばあちゃんは?」

蓮はうつむき、短く息を吐いた。

少しの沈黙の後、ゆっくりと、まるで言葉を選ぶように声を落とす。

「あの火事で…二人は亡くなったんだ…。

 二人を助けられなくて、ごめん」

その一言で、息が止まったような感覚に襲われる。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、もういないの? 会えないの?」

胸の奥から込み上げてきた悲しみが、一気に溢れ出す。

蘇ったばかりの鮮明な記憶が、逆に刃のように心を切り裂いた。

三奈は床に膝をつき、声を殺して泣き崩れる。


蓮は何も言わず、ただ黙ってその傍らにいた。

窓の外から、突然、大粒の雨が落ち始める。

まるで空までが、三奈の心を映すかのように。

やがて、少しずつ呼吸が整い、三奈は袖で涙を拭った。


顔を上げると、蓮が真っ直ぐにこちらを見ていた。

「三奈、お母さんっていう人は三奈の本当の母親じゃない。偽物だったんだ」

その言葉に、胸の奥が再び波立つ。

蓮は淡々と、しかし慎重に話を続けた。

「あの火事も、白田さん夫妻の部屋が一番ひどかったから、

 最初はたばこの不始末が原因とされた。

 確かにたばこと灰皿はあったけど、俺の知る限り白田さんはたばこは吸わない」

「二人ともたばこなんか吸わなかったよ。でも…なんでたばこと灰皿があったんだろう?」

「だから再調査を依頼したんだ。父さんが警察に掛け合ってくれてな。

 そしたら、灯油を撒かれた形跡があることが分かった」

息を呑む。

「どういう事? 放火だったって事?」

蓮は力強く頷く。

「まだ証拠は不十分だけど、お母さんを名乗る恵子って人が絡んでる。

 あの日、僕が三奈を助け出した時、恵子はすでに外にいた。

 しかも、逃げた様子もなく化粧も身なりも整えて、

 燃えている家を腕を組んで見ていたんだ。

 でも救急隊が到着した時には、泣き崩れて“まだ父と母がいるんです、助けてください”って…

 僕は自分の目を疑ったよ」

蓮の声は低く沈み、そこには怒りが滲んでいた。

私は思わず問いかける。

「でも…そんなことしても、あの人には何の得もないんじゃないの?

 放火したら住む家もなくなるんだし…」

「三奈は知らないだろうけど、白田さんは資産家だったんだ。

 恵子はそれを知って近づき、本当の母を装った。

 白田さんはそれに薄々気づいていたけど、

 三奈に優しく接する姿を見て、死んだあとも面倒を見る条件で3億円を渡したんだ。

 ただし、本当の親じゃなければ返金するように伝えて…

 火事はDNAの結果が出る前日に起きたんだ」

胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる。

「私は優しくされたことなんて一度もないよ。おじいちゃん達の前でだけ嘘の優しさは、  あったけど…ずっと無視されてた。

 でも…本当にお金のために私の大切なおじいちゃんやおばあちゃんを殺したってこと?

 許せない…お金なんかより命の方が大切でしょ?

 なんで…結局は私のせいだね。私がいなければ、もっと長生きできたのに…

 私なんかを引き取らなければよかったのに…」

「三奈、それは違うよ」

蓮の声は、強くも優しかった。

「悪いやつは、あたかも本当かのような嘘を平気でつける。

 だから三奈のせいじゃない。

 …話が長くなるから、帰りながら話そう。これからは我が家に住むんだ。

 学校も近くなるし、恵子から三奈を守らないといけない。

 学校にも許可を得てるし、父さんが三奈の身元引受人だ」

その言葉に、小さく頷く。

守られているという実感が、ほんの少しだけ心を温めた。

蓮の運転する車に乗り込み、シートベルトを締める。

窓の外を流れていく街並みを見ながら、まだ胸の奥では先ほどの会話の余韻がくすぶっていた。

ハンドルを握る蓮が、ふと口を開く。

「実は白田さんには、まだまだ資産があったんだ。

 恵子が現れてすぐ、父さんに依頼して遺言を残してたんだよ。

 資産の管理も父さんと僕でしている」

「確か、おじさんは弁護士だったよね。おばさんは女医さん」

「よく覚えているんだね。一応、僕も弁護士なんだ。

 まだまだ経験を積まないといけない身分だけどね」

「凄いね。頑張ったんだね。

 私、ずっと忘れないよ。私が病気になると、おじいちゃんは私を背負って

 夏目クリニックに行ったの。

 何時だろうとおばさんは嫌な顔せず、丁寧に診察してくれてた。

 感謝してもしきれない、忘れることなんてできないよ」

蓮は小さく笑みを浮かべた。

「大げさだね。でもありがとう。母が聞いたら喜ぶよ。

 …さあ着いた。荷物をまとめるんだ」

三奈の部屋は、制服と学校用品、衣類が数着と生活用品だけ。

キャリーケースひとつに収まってしまう荷物を見て、胸の奥が少しだけ虚しくなる。

「準備は出来た? それじゃあ行こうか」


車はやがて見覚えのある道を進み、広い更地の前で止まった。

そこは、おじいちゃんの家があった場所だった。

今は何もなく、ただ風が通り抜けるばかりだった。


三奈は静かに目を閉じ、頭を垂れ、手を合わせた。

「おじいちゃん、おばあちゃん…」

心の中で冥福を祈り、そして復讐を誓う。


「三奈、家に入ろう」

蓮の声に顔を上げ、夏目家の玄関をくぐる。

そこには懐かしい笑顔があった。蓮の父・守と、母・ゆかりだ。

「お久しぶりです。あの頃のお礼も言えずにすみませんでした。

 今日からお世話になります」

守は柔らかな笑みで迎えた。

「待っていたよ。三奈ちゃん、久しぶりだね。元気にしてたかい?」

ゆかりも頷き、言葉を添える。

「お礼なんていいのよ。それよりも、記憶が戻ってよかったわ」

二人の優しさに、胸の奥が少しずつほどけていくのを感じた。

守とゆかりは、白田家と三奈の過去を静かに語り始めた…。

守は、ゆっくりと思い出すように語り始めた。

「三奈ちゃんはね、4歳の時に本当のご両親とその祖父母たちとキャンプに行っててね。

 そこに熊があらわれたんだ。ご両親は必死で三奈ちゃんを岩場に隠し、

 わざと熊の注意を引いて、熊に殺されたんだ。

 死体は5体。父親と思われる人と、ご両親の親たち、つまり君の祖父母たちだった。

 母親と思われる人は、どんなに捜索しても見つからなかった。

 当時はこのニュースで持ちきりだったよ。まだ三奈ちゃんは4歳になったばかりだった」

ゆかりも静かに続ける。

「白田さんは三奈ちゃんを不憫に思って、施設を探して引き取ったの。

 本当に情に厚くて心優しいご夫婦だったわ。

 目に入れても痛くないほど三奈ちゃんを愛していたのよ」

守はうなずきながら言葉を添える。

「自分を犠牲にしても人のために尽くす人でね。

 決して人に優劣をつけず、誰に対しても分け隔てなく、

 そして絶対に見返りを求めなかった」

蓮も思い出すように口を開く。

「ウチの父さんと母さんも白田さんの援助を受けて今があるんだ。

 夢が叶ったときは、自分のことのように喜んでくれたそうだよ。

 返済しようとしても、『そんなお金があるなら自分の将来に投資をしなさい』って言ってくれたらしい」

守は、少し微笑んで三奈を見た。

「だから遠慮することはないんだよ。白田さんたちは心の底から三奈ちゃんを可愛がっていた。

 僕たちが唯一できることは、三奈ちゃんを守ることなんだ」

三奈は、胸の奥から絞り出すように言った。

「そうだったんだ…。私はずっと貧乏だと思っていたの。

 でも、貧しくても心は豊かな人だった。おじいちゃんとおばあちゃんは私の自慢だった」

ゆかりは頷きながら続ける。

「白田さんは質素な暮らしをしていたけど、若い頃は実業家だったみたい。

 都心にいくつもの土地を持っていて、バブル期に全部売ったのよ。

 先を見通す力があったのね」

守は机の引き出しから一枚の書類を取り出し、三奈に差し出した。

「遺言を見せるよ。僕が任されて作成したんだ」

そこには端正な文字でこう記されていた。


――――――

遺言書

自信の財産のすべてを三奈に相続させる。

ただし、三奈がそれに値する人間性を養っていることを条件とする。

その条件に見合わない場合は、財産のすべてを慈善団体に寄付することとする。

2020年5月15日 白井新一

――――――

蓮が説明を加える。

「これがあったから、三奈を見極めるための時間が必要だったんだ。

 入院中も、退院してからもずっと見守ってた」

三奈は、入院中に病室の外から自分を見ていたあの姿を思い出し、胸が温かくなった。

守は少し声を落として言った。

「実は白田さんから預かっている財産は18億円ほどある。

 3億は恵子って女に騙されて失ったが、残りは無事だ。

 もし三奈が裕福な生活をしていると知れば、また狙ってくるかもしれない。

 月々の仕送りも現金書留でその中から送っていたんだ」

「退院の日、お母さんって名乗る人とは一度も会ったことはなかったけど…

 仕送りをしてくれるだけ、まだマシかと思ってた。

 でも違ったんですね…。

 やっぱり時々、お母さんに似てる人を見かけたのは気のせいじゃなかったんだ。

 私のことを観察してたんですね」


蓮の瞳に決意が宿る。

「あの火事からずっと恵子に関する証拠を集めている。でもまだ足りない。

 そろそろ金も尽きるだろうし、経営しているクラブも何とか続けられている程度だ。

 だから姿をくらます前に、絶対に逃げ切れないだけの証拠を集める。

 そうしないと三奈が安心して暮らせないからね」


三奈は強く拳を握った。

「許せない…本当に怠惰欲の塊のような人間だ。酷すぎるよ。

 自分の快楽のためなら人の命だって平気で犠牲にするなんて…」

蓮は頷き、まっすぐに三奈を見る。

「もうすぐ全ての証拠が揃う。それを持って警察に行く。必ず極刑が言い渡されるはずだ」

守が静かに問いかけた。

「三奈ちゃんは、この財産をどうしたい? 望むように使えばいい」

三奈は少し考えてから、言葉を選んだ。

「財産って言われても、いまいちピンとこないんです。

 しかも、18億円だなんてなおさら…。

 でも、私は大学に行きたい。そしていつか誰かの役に立つ仕事をしたい。

 それまではアルバイトも続けたいんです。稼いだお金は募金やホームレスの人たちのために使いたい。

 何より、いきなり辞めると女将さんが困ると思うし、とてもお世話になった方だから」


蓮は微笑んだ。

「三奈の将来の夢って何? 俺にできることはあるかな?」

「最初は漠然としていたけど、今は医者か弁護士で迷ってるの。

 どの道に進むか決まったときに困らないように、高校は志望校を決めてあるの。

 だから…お兄ちゃん、勉強を見てほしい」

「もちろん。喜んで引き受けるよ。こう見えて家庭教師でも人気だったんだ」

その言葉に、守もゆかりも優しく頷いた。

「白田さんの教えをしっかり受け継いでるね。三奈ちゃんは凄いよ」

胸の奥に、温かくて力強い灯がともるのを三奈は感じていた。

その夜に三奈は思った。私の本当のママも育ての祖父母も心の豊かな優しい人だったんだ。そんなママの選んだパパも優しい人だった。私の大切な人達は、みんな優しい人だった。


みんなが三奈の心に撒いてくれた優しい種はしっかりと芽吹かせ根をはり伸びていた。



秋の気配が少しずつ深まり始めた頃、蓮が神妙な面持ちで三奈に声をかけてきた。

「三奈、恵子の証拠はすべて揃った。どう足掻いても言い逃れができないほどだ。

 父さんと明日、警察署に行ってくるよ」

三奈は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとう、お兄ちゃん。これでおじいちゃんとおばあちゃんの仇がうてるね。

 恵子さんにはしっかりと反省してほしい。決して許すことはできないけど…」

翌日、蓮と守は、用意した証拠一式を警察署に提出した。

分厚いファイルを前に、刑事たちの目が鋭く光る。

「山波恵子だね。これは逮捕状だ。罪名は放火殺人と詐欺だ」

「何を言ってるの? 私は知りません。そんなことしていません!」

恵子の声は、震えるどころか逆上したように大きかった。

「こちらには十分すぎる程の証拠が揃っている。おとなしくしなさい」

逮捕は、彼女が経営していたクラブで接客中に行われた。

酒をあおっていたせいか、取り押さえられる際に激しく暴れ、

公務執行妨害罪まで追加されることになった。

その知らせを蓮から受けたとき、三奈の胸には、安堵と同時に、

重く沈むような悲しみと怒りが入り混じっていた。

どんなに極刑が科されても、失われた命も、あの時間も、二度と戻らない。

心の奥で、静かに呟く。

「恵子さん…私はあなたを一生許すことはできないでしょう。

 どうか、同じような犠牲者が二度と出ませんように」

窓の外では、夕暮れの光が長く影を伸ばしていた。

その影は、やがて夜の闇に溶けて消えていった。


恵子が逮捕されてからも、日々は容赦なく進んでいった。

学校での友人たちとの時間、バイトでの接客、そして何より新しい家族との食卓――

そのすべてが、まるで火事以来の空白を埋め合わせるように、温かく、きらきらと輝いていた。

もちろん、受験に向けての勉強も全力だった。

蓮の教え方は的確で、今まで苦手だった問題も次第に解けるようになっていく。

高校受験まで、あと3か月。

この日はバイトが休みで、三奈は女将さんへ挨拶をするため、お惣菜屋へ向かった。でも何故バイト最終日に挨拶を済ませられなかったんだろう。と三奈は自分でも不思議だった。こんなに、私はうっかり屋さんだったかな?今日はしっかり挨拶をすませよう。三奈は足早にバイト先に向かった。

「女将さん、これから受験にむけて頑張ります。

 長期にお休みを頂きありがとうございます。必ず合格してみせますから、祈っていてください」

女将さんの顔がぱっとほころぶ。

「よかった、ちょうど渡しに行こうと思ってたのよ。合格祈願のお守り。

 私だけじゃなくて、常連さん達からも預かったの。だから、きっと大丈夫よ。

 田中さん、仁科さん、南さん、高橋さん、高瀬さん、春さん、渉君からよ。

 最後の日に揃っていなくてね、私がみんなにまるで自分の娘のように興奮して喋ってしまったの。

 みんなも三奈ちゃんの笑顔に癒されてるんだって言ってくれたわ。

 みんなで祈っているから、自分を信じて挑むのよ」

そう言って、女将さんは8つのお守りをそっと手渡してくれた。

その温もりが、指先から胸の奥まで染み渡る。

物事のすべてには理由がある。おじいちゃんとおばあちゃんに引き取られたことにも、きっと理由があったのかもしれない。

そう心の中で呟きながら、三奈は店を後にした。

それからは、蓮の学習プログラム特訓!!びっしりと受験前日まで続いた。

そして迎えた受験本番の日。

緊張で手が冷たくなりながらも、最後の一問まで集中して解ききった。


数週間後。

志望校の合格発表の日、掲示板に自分の番号を見つけた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

「やった…!」

涙がにじみ、視界がかすむ中、蓮や夏目家のみんなの顔が次々に浮かぶ。

ここまで支えてくれた人たちの笑顔を思い出しながら、三奈は心の中で何度もつぶやいた。

ありがとう。絶対に、この恩を忘れない。

高校生活が始まり、三奈はこれまで以上に学びに向き合った。

毎日が新しい知識と出会い、そして人とのつながりで満たされていく。

蓮の助言もあり、大学進学のための準備は順調に進んだ。

大学2年の終わり頃、三奈はようやく自分の進むべき道を決めた。

「お兄ちゃん、私…やっぱり弁護士になる。

 おじいちゃんとおばあちゃんみたいに、困っている人の力になれる人間になりたい」

蓮は笑みを浮かべた。

「そう言うと思ってたよ。じゃあ俺と一緒に勉強だな」

そこからの道は決して平坦ではなかった。

法律の条文を覚え、判例を読み込み、時には自分の未熟さに打ちのめされることもあった。

それでも、支えてくれる家族や友人の存在が、三奈を前へと押し出した。

そして迎えた司法試験本番。

膨大な時間をかけて積み重ねた努力を信じ、最後の一筆まで集中して書ききった。


結果発表の日。

掲示板に「三奈」の名前を見つけた瞬間、胸の奥で長い年月分の想いが弾けた。

「やった…! ついに…!」

その場で蓮に電話をかける。

「お兄ちゃん、合格した! 本当にありがとう」

「おめでとう、三奈。お前はやっぱりやると思ってたよ」

食卓には温かな笑い声が満ち、窓の外では春の夜風がそっと花の香りを運んできた。

これからは、この人たちのように、強くて優しい人を守れる弁護士になりたい。

三奈は強くそう思った。


修習期間も無事終え、守の法律事務所で弁護士としての一歩を踏み出した日々は、想像以上に密度の濃いものだった。

机の上には分厚いファイルと資料の山。電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、相談者の不安げな声…。

「もっと経験を積まなきゃ」

そう自分に言い聞かせながら、昼も夜も学びを積み重ねていった。

気づけば、あっという間に一か月が経っていた。

(初めてのお給料…)

封筒を手にした瞬間、これまでの道のりが鮮やかによみがえる。誰かのために、自分の力で買うプレゼント。それは初めての経験だった。

中学時代からの仲間たちに相談して、久々の再会を果たす。

「これ似合うんじゃない?」

「おばさんにはこういう色、似合いそう」

笑い声と会話が飛び交い、時間はあの頃に巻き戻ったかのようだった。

選び抜いたのは、守と蓮にはネクタイとタイピン、ゆかりにはプリザーブドフラワーと小物。

包装された袋を手にすると、胸の奥が温かく満たされた。

(喜んでくれるといいな…)

夕方、夏目家に戻ると、台所から包丁の小気味よい音と、煮込みの香りが漂ってきた。

「ただいま」

玄関を開けると、ゆかりがエプロン姿で振り返り、優しく笑う。守と蓮も帰ってきて、家の中が一気に賑やかになった。

食卓につく前、三奈は胸の奥に込めた思いをそっと口にした。

「突然ですが、皆様に心からお礼を伝えたいです。今の私がいるのは、この宝物の家族のお陰です。本当にありがとうございます。今日は初給料だったから、ささやかながら、みんなにプレゼントを用意したの。受け取ってください。おじいちゃんとおばあちゃんにはお花の苗を買って植えてきたの」

守の目が少し潤み、蓮は口元を緩め、ゆかりは両手で口元を覆いながら笑った。

部屋に広がったのは、静かな喜びと、確かな絆の空気だった。

(まだまだ返しきれない。でも、これから少しずつ…)

三奈はそう心の中で誓った。


守は、包みをそっと撫でながら深く息をつき、柔らかな声で言った。

「ところで三奈は財産をいつ受け取る予定なの?三奈が欲しいならいつでも手続きはするよ」

三奈は少しだけ視線を落とし、指先で湯飲みの縁をなぞった。

この話題は、ずっと心の中で何度も反芻してきたものだ。

「ずっと考えていたんだ。でもね、一つだけ財産でしたいことを見つけたの。私を引き取ってたくさんの愛情をくれたおじいちゃんやおばあちゃんみたいに、私も里子を引き取って愛情をいっぱい与えて育てるの。仕事では、まだまだ経験不足だから今じゃなくて一人前になってからの夢」

その言葉に、ゆかりは箸を置き、目を細めて微笑んだ。

「三奈らしい素敵な夢ね」

守も、静かに頷いた。

蓮は湯気の向こうから、妹を見るようなまなざしを向ける。

「三奈って本当に白田さんの孫だね。白田さんの生き写しみたいだ」

三奈は、胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。

それは、誇らしさと同時に、自分に託された思いの重みでもあった。

外は夕暮れから夜へと移り変わり、窓ガラスには温かな家族の光が映っていた。

この場所、この人たちと過ごす日々こそが、何よりの財産だ……。

夕食後、リビングの明かりは柔らかく灯り、湯気の立つマグカップからハーブティーの香りが漂っていた。

守は新聞をたたみ、蓮はソファに腰をかけ、ゆかりは三奈の隣で編み物をしている。

その何気ない光景が、三奈にとっては何よりも贅沢な時間だった。

蓮がふと顔を上げて言った。

「これからは本当の意味で、三奈の新しい人生が始まるね」

三奈はその言葉を胸の奥でゆっくりと噛み締める。

火事で奪われた日常、記憶の断片、そして何度も感じた孤独。

それらすべてが、今の自分を形作っている。

(おじいちゃん、おばあちゃん、そして本当のパパとママ…

みんなが私に託してくれた優しさを、私は今度は人のために使う)

机の上には、翌日取り組む案件の資料が積まれている。

被害者の心情に寄り添いながら、法の力で解決に導く……簡単なことではない。

けれど、胸の奥から湧き上がる「やるべきだ」という強い確信があった。

「もっと経験を積んで、必ず一人前の弁護士になる。

そして、夢だった里子を迎えて、あの頃もらった温もりをそのまま返していく」

三奈はそう心の中で誓い、視線を上げた。

家族の温かな笑顔と、リビングに満ちる穏やかな空気が、その決意を静かに包み込んでいた。


それは初めて一人で任された案件だった。

午前10時。

約束の時間ぴったりに、事務所のドアがノックされた。

「どうぞ」

扉が開き、外国籍と思われる女性と、小さな男の子がそっと入ってきた。

女性は日本語がたどたどしく、ぎこちなく頭を下げる。

深い茶色の瞳が揺れ、緊張と不安が入り混じっていた。

男の子は母親のスカートの裾を握りしめ、人見知りするように三奈を見上げている。

「本日は、お越しいただきありがとうございます。どうぞ、お掛けください」

ゆっくりと、できる限り優しい声で促す。

女性は椅子に腰を下ろし、バッグから一枚の紙を震える手で差し出した。

そこには、勤務先の社員から送られたメッセージが印刷されていた。

『外人は信用できない』『お前の国に帰れ』『日本人の仕事を奪うな』――

読んだ瞬間、三奈の胸に怒りがこみ上げる。

けれど、感情を表に出さぬよう深く息をついた。

「…これは、職場で言われたのですね?」

女性は小さく頷き、片言で答える。

「はい…毎日…言われます。上司も、何も…してくれない」

男の子が、不安そうに母親の顔を見上げる。

その小さな瞳には、すでに恐れと諦めが滲んでいた。

(こんな年齢の子まで、不安を背負わされてしまうなんて…)

三奈はまっすぐ女性を見つめ、はっきりと言った。

「大丈夫です。これは明らかに違法な差別行為です。必ず、力になります」

女性の目に、初めて安堵の色が差す。

背筋を伸ばし、三奈はファイルを開いた。

「事実を一つひとつ整理して、証拠を集めましょう。差別は、許してはいけません」

その言葉は、自分自身に対する誓いでもあった。

過去に見てきた不当な偏見や心ない言葉――

あの日、女将さんに褒められた「正しいことを口にする勇気」を、今度は法廷で示す時だ。

面談を終えた後、三奈は机の上に広げたメモを見つめた。

被害者の証言、残されたメッセージ、同僚の証言者の可能性…。

だが、現時点では裁判で有効とされる証拠はまだ足りない。

(まずは事実を裏付ける材料を集めないと)

その日の午後、三奈は依頼者の勤務先周辺を歩いた。

通用口の近くに立っていた配送業者の男性に、さりげなく話しかける。

「失礼ですが、こちらの会社で外国籍の従業員の方が差別的な扱いを受けている、という話をご存じですか?」

男性は一瞬ためらった後、周囲を確認し、小さく頷いた。

「…ああ、よく耳にしますよ。ひどい言葉も何度か聞いた」

その証言をメモに書き留めながら、胸の奥に小さな炎が灯る。

さらに、依頼者の元同僚にコンタクトを取り、当時の状況を詳しく聞いた。

「彼女は仕事も真面目だった。なのに、国籍を理由に昇進の話も外されたんだ」

声の端々に悔しさが滲む。

帰宅後、集めた証言とメッセージの写しを守の机に並べた。

守は一つひとつ目を通し、頷く。

「悪くない。これだけでも相手を追い詰められるが…録音があれば決定的だ」

翌日、依頼者と再び面会し、小型のICレコーダーを手渡した。

「もしまた差別的な発言があったら、この機器で録音してください。それが、真実を証明する力になります」

女性は不安げにレコーダーを見つめたが、やがて小さく頷いた。

数日後、依頼者から電話が入る。

「…撮れました。証拠、あります」

三奈は受話器を握る手に力が入る。

(これで…戦える)

録音データには、同僚が発した明確な差別発言と、上司の黙認する態度が記録されていた。

その瞬間、三奈の中で案件の行方が大きく動き出したのを感じた。


録音データと証言をそろえ、三奈は守と共に相手企業の代理人と交渉の席に着いた。

相手側は初め強気だったが、証拠を提示すると表情が一変する。

「…この件は、社内で適切に対応します」

沈黙の後、代理人は深く頭を下げた。

結果、企業は依頼者への正式謝罪と慰謝料の支払い、再発防止の研修実施を約束。

依頼者は涙を浮かべ、「ありがとう…」と三奈の手を握った。

席を立った帰り道、三奈は心の中でつぶやいた。

(差別は根強く残る。それでも一つずつ、正しい形に変えていきたい)

その足取りは、初めて担当した案件の達成感と、次への決意で軽やかだった。


事務所に戻った三奈は、椅子に深く腰を下ろし、大きく息をついた。

守が微笑む。

「よくやったな。初案件でここまでまとめたのは立派だ」

蓮も頷きながら言う。

「依頼者の笑顔、忘れるなよ。それがこの仕事の原点だ」

三奈は静かに頷いた。

(法は人を救える。そのために、私はもっと強くならなきゃ)

胸の奥に、新たな使命感がしっかりと根を下ろしていた。


事務所を出ると、外は夕暮れ。オレンジ色の光が街を包み、柔らかな風が頬を撫でた。

依頼者の安堵した笑顔が、まだ脳裏に鮮やかに残っている。

(きっと、これであの子も少しは安心して眠れる)

夏目家に帰ると、リビングから夕食の支度の音と香りが漂ってきた。

「おかえり、三奈」

ゆかりの声に迎えられ、靴を脱ぐ手が自然と緩む。

食卓には守と蓮も揃っていた。

「初案件、無事解決おめでとう」守が笑顔を向ける。

蓮も軽くグラスを掲げた。

「おめでとう。これからも一歩ずつだ。乾杯!!」


三奈は箸を置き、静かに言った。

「…私、もっと経験を積んで、一人前になったら里子を迎えます。あの時もらった温もりを、次は私が渡す番だから」

その言葉に、守もゆかりも蓮も、言葉なく頷いた。

外はすっかり夜になり、窓の向こうに星が瞬く。

三奈の胸には、もう迷いはなかった。

過去の痛みも、試練も、すべてが今の自分を形作る礎。

(私は歩いていく、弁護士として、人として)

その瞳には、未来を見据える確かな光が宿っていた。

夕食後、庭に出ると夜風が心地よく頬を撫でた。

見上げた空には、無数の星が瞬いている。


(パパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゃん…

私、やっとここまで来ました)


胸の奥から、温かく穏やかな感情が広がる。

失ったものは多かった。それでも、その空白を埋めてくれた人たちがいる。

そして今、自分は誰かの空白を埋められる側になろうとしている。

「ありがとう…」

声に出すと、夜空は静かにそれを包み込んだ。

星々が瞬くたび、未来への道が少しずつ照らされていくように思えた。


~おじいちゃんとの約束~

「三奈、知識や経験は決して人には盗まれないし裏切らないよ」

「人には嘘をついたらいけないよ。親切でないとね。その親切は必ず返ってくるからね」

これからもっと強くなって、おじいちゃんの志を受け継いでいくからね。

天国から見守っていてね。


三奈に撒かれた優しい種はいつしか成長し花を咲かせようとしていた。

     

(私は歩いていく。

弁護士として、人として、そして、誰かの家族として)

その決意は、夜空に描かれた無数の光とともに、確かに輝き続けていた。








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