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もう引退したい魔力切れのエセ魔術師、なぜかツンデレ令嬢と旅に出ることに

作者: 雲越はる

私の中では味変みたいな作品です。

 老けた魔術師レガロスは、椅子に座ったまま深いため息をついた。

 ――自由を謳歌するはずだったのに、なぜこんな地獄が始まっているのか。

 彼の眼の前には、腕を組んで値踏みをするかのように琥珀色の目で彼を見つめる少女がいた。

「ちょっと。なんですか、そのため息は」

 彼女の名はリゼット・レルマイア。わずか十六にして、オリーバル魔術学院1年生の首席に座していた少女である。そう、今は違う。

 今や彼女は破産した貴族の娘。没落貴族の令嬢であった。父が商売に失敗し、しかもそれがいたく王の機嫌を損ねたため、伯爵から男爵に降格されたらしい。貴族には学費援助もなく、学費を払えないレルマイアの令嬢はあえなく退学となった。

 しかし、腰まで伸ばした紺青の髪を揺らし、彼女は抗議する。

「こんなくたびれた男が私の師匠? ふざけないで」

 レガロスはまたため息をつく。

「リゼット! レガロス様に失礼だぞ。謝りなさい」

「父上、事実を申し上げたまでです。こんな人に敬称は必要ありません」

 リゼットは自信満々に続ける。

「それに、私はこの人を知っています。最近オリーバル学院を追放された、()()()()()()()()()()()()ですよ。あの魔術発現理論の大家、テンデル先生の研究を盗んだって聞きました。魔術師の風上にも置けない卑しい俗物です。私もこのひとの授業を受けていましたが、正直、低質でありきたりで、退屈な授業でした」

「リゼット!」

 ああ、なんてことだ。レガロスはこれ以上落ちないくらいに肩を落とした。そもそも、魔術の師匠なんてやるつもりではなかった。冤罪で学院を懲戒免職になった時は小躍りして喜んだのに。

 そう、彼は懲戒免職の旨を聞くなり、退職金で隠遁生活をする計画を立て始めたのだ。それまでは金を使う暇もなかったのでもとより金は十分にあった。これだけあれば、これから一生は仕事をしなくてもなんとか生きていけるだろう。

 さあ、まずは郊外に一軒家を買おう。木造りの、温かみのある家に、暖炉をつけよう。昼は家庭菜園でもして、夜は葡萄酒を飲みながら本を読む。これ以上何を望むこともない――そう、思っていたのに。

 レガロスの目は、眼の前で仁王立ちして啖呵を切る少女の顔へと移る。

「とにかく、私はこんな人が私の師匠だなんて認めません」

 甲高い声が耳の奥に突き刺さり、レガロスは思わず目を瞑った。ああ、もう勘弁してくれ。

「こんな人とはなんだ! おいリゼット、待ちなさい!」

 こんな娘を持っては父親も苦労するだろう、と思いつつ、レガロスは腰を上げる。

「レガロス様、本当に申し訳ありません。出発の日までには、私がなんとか娘を説得いたしますので……」

「はは、お気になさらず。急にこんなことになって、お嬢さんも何かとお悩みなんでしょう。……それに、私の実力が未熟であるのも間違いではありません」

「とんでもない!! レガロス様の魔術の素晴らしいことは私もよく存じております。それをあの娘と来たら……」

 リゼットの父、トルゼンは彼女が去った扉の方を見てため息をつく。

 レガロスは、その瞳の中に僅かな悲しみが滲んでいるのを見た。

「まあまあ、そう堅く考える必要はありません。娘さんもお年頃ですし……」

 彼はくたびれた革の鞄を持ち上げ、一礼する。

「では、また3日後にお伺いします」

 玄関扉を開き、また一礼してレガロスは扉を閉める。

 邸宅の庭を歩き、彼は門をくぐって外へ出た。

 門を出て少し歩くと、レガロスは外套の前を開き、襟元を緩めて長く、白髪の多く混じった髪を掻き上げた。

「まったく……面倒臭いな」

 下穿きの腰袋から葉巻を一本取り出し、指先に発現させた小さな炎で火を点けて、一口吸った。

 ふーっ、と煙を吐く。

 もういい加減、隠居するつもりだったのだ。魔術なんてもうたくさんだと、常々思っていた。まともに授業を聞く気のない学生たちのために何時間もかけて授業の準備をするのにはうんざりしていた。

 あのリゼットとかいう少女も、確かに授業に来ていたことは覚えている。いつも退屈さを隠そうともしない冷たい表情で授業を聞いていた。

 だが、その彼女がトルゼンの娘だとは知らなかったし、そうでなければ彼女を説得するために二度もこの屋敷を訪れてはいなかっただろう。

 彼女が放った、「ろくに魔力もない似非教師」という言葉が、今も頭の中にこだましている。しかし、テンデルとかいう魔術師の研究を盗んだというのは初耳だった。噂にはここまで尾ひれがつくものなのか。

「あのくそ忌々しいガキめ……」

 悪態をつきつつ、レガロスは葉巻の吸い殻を腰袋にしまった。道端にゴミは捨てないという信条だ。

「そもそも、私がいつまでもあんな地位にいることがおかしいんだ……」

 レガロスはだんだんと、数ヶ月前の授業でのことを思い出していた。






「つまりだ、空気の中に存在していると思われる微細な粒を、魔力によって振動させ、粒子の摩擦によって火を起こす――これが、火魔術の基本だと言われていいます」

 彼は極めて重要な事実を教えているつもりだったが、真面目に彼の授業を聞いている学生は数えるほどしかいない。オリーバル学院に入ってくる学生たちはみな優秀なのだ。皆、魔術の基礎を心得た上で入学してきている。入門水準でしかないが必修のこの授業は、学生たちの睡眠時間確保のためにあるとさえ言われている。彼は彼自身の魔力量の少なさから、毎学期そんな授業を任されていた。

 百人規模の講義でもレガロスに目を向けているものは数人だった。その中には……リゼットもいた。しかし、その目は冷たく、飽き飽きしたと言わんばかりの表情を隠そうともしない。

「――では、今から火魔術を実演します」

 燃え移らないように教卓の上から教科書をどけ、唱文を唱える。

「フランマ・イルト・レアリーサ」

 小さな炎が、レガロスの手の上に灯る。温かな光を持った炎がわずかに揺らめいている。

「これが魔術師の間で通称、”灯火”と呼ばれる火魔術の基礎です」

 後方に座っている一人の女子生徒がにやりと唇を歪め、講義に口を挟む。

「そんなの知ってますよ、先生。ここはオリーバル学院でしょ? もっと大きい火とか、火柱くらいは見せてくれないと」

「……ここは教室です。危険な魔術は行使できない」

「先生、嘘は良くないですよ。先生は魔力が足りないからそんな魔術は使えないんですよね? 正直に言ってくださいよー」

 また、どこからか声が上がる。それに呼応して、あちこちでくすくすと押し殺した笑いが起こった。

 突然、最前列の男子生徒が練習用の杖を掴み、何か唱文する。すると、水がレガロスの火の魔術に向かって飛んできた。

 水は教卓の上に落ち、咄嗟に火を消したレガロスの服に水が飛び散る。幸い、教科書には水はかからなかった。

「そこの貴方、あとで私の部屋に来なさい」

「おいおい、平民風情が貴族に命令していいのかよ」

 呆れたため息をつき、レガロスはまた言う。

「……講義を続けます」

 もう誰にも何も教えてやる気はなかった。レガロスは濡れた服のまま、淡々と抑揚のない声で、鐘が鳴るまで授業を続けた。


 その日のことだった。

 書斎で別の日の授業の準備をしていると、教務担当の職員が扉を叩いて入ってきた。

 彼が軽蔑の目でレガロスの方を見つつ、なんとなく重苦しい雰囲気を醸しているのを感じ、レガロスはなんとなく察した。

 彼は書状を掲げて読み上げた。なんてことはない。ありもしない罪による懲戒免職の通知だった。

 罪状は複数の生徒に対する恐喝および猥褻行為――レガロスは呆れてものも言えなかった。

 彼は退職金の半分の減額と明日中の書斎からの退去、および授業の引き継ぎを言い渡され、十二年勤めたこの学院をあっけなく去ることになったのだった。

 しかし、彼はこれを小躍りして喜んだ。もともと、今の学長は貴族指向と平民軽視で知られる悪名高い魔術師で、ここのところずっと肩身が狭かったのだ。それに加え、身体の衰えもあって近頃はこの激務についていけなくなっていたところだったのだ。まったく、そうしてこの学院はこんなになってしまったのやら。

「こうなったら、とことん余生を満喫してやろう」

 もとより多くを望まない質だった。思いつくままにペンを走らせる。「起きたらまず二度寝」「半日は睡眠」「ずっと寝られる魔法」「毎日、最高級の肉とワイン」「仕事は絶対にしない」――。

 半ば冗談で書いたものも多かった。魔法なんて、夢物語だ。

 暫くの間、紙を見つめたまま、その項目を次々に書き出していった。

 うわっ、という声が聞こえ、顔を上げるとそこには件のリゼットが居た。

 レガロスは思わず頭を仰け反らせ、尋ねる。

「――なんで居るんだ」

 ゴミを見るような目で、リゼットはレガロスのことを見下ろしていた。

「魔術論入門の課題を提出しに参りました」

「扉を三度叩くのが礼儀ですよ」

「十二回叩いても先生がお返事をなさらなかったので。ところで先生、失礼ですがそれは……?」

 言われて、レガロスは手元の紙を見た。無数の項目のうち一つが目に飛び込んできた。


――「人と関わらない(特に面倒な奴)」


 レガロスはちらり、とリゼットを見た。

 彼女はそれはもう、蛆虫を見るような目つきで、レガロスのことを見下していた。

 レガロスは両手を差し出して課題の用紙を受け取った。

「……ええと、ありがとうございます。リゼットさん、でしたね。提出はあなたが一番ですよ! どうぞ、夏季休暇を楽しんでくださいね~」

 レガロスは知らなかったが、実家が破産して”楽しむ”どころではなかった彼女には、その言葉が余計に気に障ったのかもしれない。

「はい。先生もどうかお元気で」

 レガロスは、彼女がどうやってそんな地の底から響くような、凍てついた声音で話すことができるのか不思議だった。

 その時はまさか思いもしなかった。旧友であるトルゼン・レルマイアから、彼の娘と魔術修行の旅に出て欲しいと頼まれるなんて。





 これで、レルマイア家の屋敷を訪れるのも三回目だった。

「――またいらっしゃったんですね」

 今日、家の扉を開けてレガロスを出迎えたのはほかでもないリゼットだった。

 今日も琥珀色の目が美しい――レガロスは呑気にそんなことを考えていた。魔術師にとって目の色は重要なのだ。

「こんにちは、リゼットさん。お元気でしたか?」

「おかげさまで。たった今扉を開けるまでは元気でした」

 露骨に嫌そうな顔をして、彼女は憎まれ口を叩く。

「どうぞ、お入りください。今父を呼びます」

 彼女は廊下の奥に歩いていこうとして、途中でレガロスの方を振り向いた。

「紅茶しかありませんが、よろしいですね?」

「ああ、お構いなく。今日は座ってお話をするために来たわけではありませんので」

「そうですか。それは嬉しい」

 早く帰ってくれるのが嬉しいとでも言いたいのだろうか。

 少しして、リゼットとトルゼンが奥の部屋から一緒に出てきた。

「こんにちは、トルゼンさん」

「レガロス様、ようこそいらっしゃいました」

 トルゼンは恭しく一礼するが、レガロスは手を振って言う。

「よして下さいよ。そんな堅苦しい呼び方はやめてくださいといつも言ってるのに」

「いえいえ、そういうわけには行きません」

 リゼットは不快そうに腕を組み、そっぽを向いている。

「さあぜひお上がりに――」

「いえ、お気遣いはありがたいですが、今日は外で……」

「おや、そうですか。承知いたしました。リゼット、来なさい」

 リゼットは小さく頷く。父の言葉には基本的に素直に従うらしい。

「ああリゼットさん、外套と魔杖をお忘れなく」

 リゼットは小さく舌打ちをして、自分の部屋にそれらの道具を取りに戻った。

 しばらくして、彼女は玄関から出てきた。深緑の外套がよく似合う。しかしそれを着る当人はいかにも面倒くさそうに、仏頂面をしている。

 レガロスは構わず話し始める。

「今日はリゼットさんと簡単な魔術対決のようなことをしたいと思っています」

「対決?」

 リゼットは怪訝な顔をした。

「ああ、対決と言っても戦うわけではありません。お互い、自分の最高技量だと思う魔術を見せ合うんです。私が勝ったらリゼットさんはお父様の言いつけ通り、私と共に修行の旅に出ること。リゼットさんが勝ったら、私は...そうですね、何でも一つ、あなたの頼みを聞きましょう。どうです?」

 何でも、と聞いてリゼットは少し笑みを浮かべた。この似非魔術師にどんな屈辱的なことを命令してやろうかと、少し楽しく思えた。

「でも、勝敗の判定はどうするんですか?」

「トルゼンさんに判断していただきます。オリーバルの卒業生とお聞きしていますので」

「それは公平性に欠けます。父上は私に旅をさせたいんでしょう? なら当然私に敵対するに決まっています」

 リゼットはにやりと笑って、馬鹿にしたような口調で言う。

「……それとも、戦うのが怖いの? 魔術師の対決と言ったら魔術の撃ち合いでしょう? 学院の決闘制度だってそう」

 しかし、レガロスはにこやかに笑い返す。

「いえ、戦うのは怖くありません。しかし、未来の弟子を傷つけるわけにはいきませんので……」

 厭味ったらしいレガロスの言葉を聞き、リゼットは猛烈に腹が立つのを感じた。

 今すぐに、この男の虚勢をへし折ってやらなければならない。

「馬鹿にしてるの? 私が魔力量で劣っている貴方に負けるはずありません。そんなの魔術師の間では常識です。結局負けるのが怖いんですよね?」

 リゼットの主張にも一理ある。体内を循環し得る魔力量が多ければ、魔術の出力の上限も比例して上がる。

 しかし、レガロスは待っていましたと言わんばかりに笑みを深くする。

「では、こういうのはどうでしょう。リゼットさんが私に向かって全力の魔術を打ち込むんです。それを私が防ぎ切ることが出来たら私の勝ち。少しでも、傷を与えればリゼットさんの勝ちです」

「ふん、大きく出ましたね」

 言いつつリゼットはほくそ笑む。攻撃魔術には自信があった。

 魔術師同士の戦いというのは、結局のところ力と力のぶつかり合いだ。力というのはすなわち魔力量。それに、こちらは元学年首席なのだ。技量も申し分ない。

 この男に負ける道理はない。

 一方、最もこの状況を案じているのはトルゼンのようだった。

「レガロス様、それは余りにも……こう見えてリゼットは魔力量が豊富なんです。万が一にも先生の身を危険にさらすわけには――」

「父上、心配無用です。手加減して差し上げますので」

「問題ありませんよ、トルゼンさん。絶対に」

 二人に揃って心配無用だと言われれば、トルゼンも黙るしかない。

 リゼットは胸を張ってレガロスに言う。

「さて、いいでしょう。その勝負を承諾します」

「ええ。遠慮なさらず全力で来て下さい」

 にこやかに笑う男を見て、リゼットはまた舌打ちしかけた。この笑み――この薄っぺらい笑みが、とにかく気に入らない。この男は、すぐにその言葉を後悔することになるだろう。そう思いつつ、リゼットはレガロスに対峙する。

 レガロスは杖も持たず、ただ丸腰のまま立っているだけだ。

「いつでもどうぞ」

 魔術師同士の対決で杖を持たないなど、全くもって理解できない行動だった。

 何を企んでいるのかは知らないが、魔杖が無いならそれはそれで好都合だ。

「フランマ――」

 リゼットが掲げる杖の先に、一瞬の火花の後、炎が形を成す。

「――ランザ・ロッショ――」

 炎は姿を変え、空気の力を以て回転する槍の形を成す。

 速く、もっと速く。もっと大きく、鋭く。

「ラピーシュ・アセーレ!」

 加速の呪文と共に、火槍が魔杖の先から放たれる。

 次の瞬間、リゼットはもちろん、トルゼンまでもが目を疑った。

 レガロスはただ飛来する火槍に向かって手を伸ばしただけのように見えた。

 ところが、その手に触れるよりも前に、火槍は空中で崩れ、わずかに渦巻き状を維持しながら光って、ばらばらという小爆発の音とともに霧散したのだ。

「……あり得ない」

 リゼットは呆然としていた。当然ながら、魔杖もなしに防がれるとは思っていなかったのだ。それも、彼女にとって全く未知の方法で。

 この状況を、受け入れられない。

「どうしました? これだけですか?」

 リゼットは唇を強く結び、平静を装って答える。

「……いいえ。まだこれからです」

 彼女は即座に、次の唱文に移る。ドゥース・フランマ・ランザ・ロッショ・ラピーシュ――。

 リゼットはにやりと不敵に笑う。空中で練り上げられる二本の火槍。これを避けられるものか。

 一方、相対するレガロスは小さく息をついた。

 ――少し、落胆していた。

 魔術の弱点はこれだ。唱文が長く、しかも遅いと、知見のある魔術師にはすぐに、相手が放とうとする魔術が何なのか分かってしまう。

「――アセーレッ!」

 二本の火槍がレガロスに迫る。

「――ダスヴィア」

 リゼットは目を丸くした。今度は、火槍が二本とも空中で向きを変え、空の彼方へ飛び去った。

 術師の手を離れた火槍は魔力を失い、空に消えていった。

 何も見えなかった。何も感じなかった。魔力の波動さえも。

 一方、レガロスは顎に手を当て、独り言のようにぶつぶつと呟く。

「唱文が遅い上に不安定だ。それに火槍が一本では敵わないからと同じものを二本に増やすなど、愚策もいいところだ。二本に増えた結果、双方の練度が落ちた。まだ最初の方が評価できる」

 実際、独り言のつもりだった。しかし、それがリゼットの耳にはしっかり届いた。

 彼女が受けた衝撃は大きかった。渾身の魔術を二度も、いとも容易く受け流され、しかもそれを酷評された。

 なんだ。なんなんだ、こいつは。わけのわからない、魔術かどうかさえ怪しい技を使う。

 人の努力も知らないで。

 こうなったら、もっと上の等級の魔術を使うしか無い。

 リゼットは歯を食いしばる。大丈夫。まだ魔力は尽きていない。あと一回分なら、なんとか工面できる。

 槍が分解され、目標から逸らされるのであれば、一度では防ぎきれない炎で焼き尽くしてしまえばいい。

「――フランマ・ライグ……」

 その言葉を聞いて、レガロスは身構えた。

 ”ライグ”は高出力の炎の塊を線にして継続的に放出する”光線”の魔術。すさまじい威力だが、魔力の消費量も半端ではない。

 レガロスの額から汗が流れる。

――おいおい、俺の二の舞いになるぞ……。

 言葉を一つ唱えるごとに、リゼットの表情は険しくなる。

 レがロスは違和感を感じた。彼女の体内の、魔力の流れが僅かに見える。その流れは均一でも一定でもない。

「やめなさい。リゼットさん。それ以上は――」

「――――うっ」

 リゼットは急に、苦しそうに胸を押さえて膝を折る。杖は手に握られたままだが、制御を失うのも時間の問題だ。

「トルゼンさん、リゼットさんを押さえて!」

 彼女の魔杖の先には、まだ炎の塊が揺らめいている。制御を失った魔術がどうなるか――それはわからない。周囲の様々な条件に左右される。

 最悪、魔術が暴発してこの二人が死ぬ。

 間に合わない。相殺できる魔術を――いや、計算する時間もない。

 レガロスは走ってリゼットに近づく、彼女の魔杖の先端の、炎の塊に手を突っ込み、唱える。

 高温の炎に手が焼かれ、袖が燃える。

「ぐッ……ガラン・バハル!」

 その言葉を唱えた途端、炎の塊は急速に勢いを失くし、小さくなって消えた。

「リゼット! 大丈夫か!? ――レガロス様、魔力暴走です!」

「承知しています」

 レガロスは焼け焦げた袖を歯で噛み切り、赤く腫れた掌は後ろに隠した。「動かないで。魔力の流れを抑える」

 指先でリゼットの手首脈に触れると、皮下でばち、と火花が走る。

「ああっ!」

 リゼットは苦痛の叫び声を上げる。彼女の呼吸は早く、浅い。額に脂汗が滲み、身体も熱くなってきている。杖を握る右腕から右肩にかけてが痙攣している。

 レガロスは自分の魔力をリゼットの身体に流し、その流れを観察する。

――なんだ、この不自然な流れは……?

 普通の人間にはあり得ない場所に、魔力の流れがある。これが琥珀眼の特徴だとでも言うのか? いや、そんな前例は見たことがない――。

 レガロスの表情はいつになく険しいものになっていた。いつの間にか彼の額にも汗が滲んでいる。

「リゼットさん。少々痛みますが、我慢してください」

 レガロスは流し込む魔力の量を増やす。ひとまずはこうするのが最善だ。多量の魔力を押し込んで、正常な流れに戻す。

「ああああああ!」

 彼が力を込めると、リゼットは一際激しい悲鳴を上げる。

「もう少しです、頑張って」

 レガロスがリゼットの口元に手ぬぐいを差し出すと、彼女はそれを精一杯噛んで痛みに耐えた。


 ――――やがて、その応急処置は終わった。

 リゼットは目元を腕で隠し、震えていた。

「……ごめんなさい、母さん」

 リゼットは口の中で小さくそう呟いた。

 レガロスは知らなかったし、知ろうとも思わなかった。

 ――彼女の母親が、何を彼女に残したのか。





 リゼットは自分の寝台で目を覚ました。

 いつの間にか日は落ちかけていた。

 寝台の傍らに、心配そうな顔をした父と、今にも眠りこけそうに船を漕ぐレガロスがいた。

「起きたのか、リゼット。すまない、私が見ていながらあんなことに」

「いえ……父上、申し訳ありません。すべて私の落ち度です」

「誰にでも失敗はある。お前が無事なら、それでいい」

 リゼットは押し黙った。

 二人の間にしばしの沈黙がある。

「ええ、気にしても仕方ありません。しかし酷い対決でしたね」

 いつの間に目を覚ましたのか、レガロスがまぶたを擦りながら言う。

「……どういう意味ですか?」

 反駁気味にリゼットが聞き返す。するとレガロスは呆れたように言う。

「もちろん、貴女の魔術が酷かったという意味です。最初のはまだ良かったですが、火槍を二つ作ったのは浅はかでした。同じ魔術の数を増やすだけというのはあまりにも短絡的です。三つ目はもう、全部駄目です。自分の実力を過信しましたね。技量も魔力残量も足りないのにあんな魔術――あれは絶対にいけませんよ。下手したら死にます」

 酷評するレガロスを、リゼットは鋭い目で睨んではみたものの、何も言い返せない。すべて事実だった。

 自分の浅はかさも、自信過剰も、技量不足も――全て、リゼット自身が一番良く分かっているつもりだ。

 母との約束も守れず、父の期待にもこたえられず、今こうして寝台に横たわる自分があまりにも惨めで。リゼットは下を向いて、目の中に溜まって溢れない涙を隠した。唇が震えていた。

 ふと、彼女はレガロスの左手に目を留めた。垂れ下がった手は、焼け爛れて酷い有様だった。

「――あの、手が」

 レガロスは、はっとして右手を身体の後ろに隠した。

 それから、表情を柔らかくして、リゼットに笑いかける。

「この程度、すぐに治ります。()()()()でも、未来の生徒を焼死させないくらいの理屈は知ってるということです」

「生徒……」 

 それを聞いて、彼女は思い出した。そうだ。確か、彼が対決に勝ったら――自分は、旅に出なければならないという約束ではなかったか。

 リゼットがやっとそこまで気が回り始めたのだと分かると、レガロスは一層、笑みを深くする。

「勝負は私の勝ちです。ですからリゼットさん、私と共に修行の旅に出てもらいます」

 リゼットは唇を噛み、肩を小刻みに震わせる。しかしそれでもリゼットは、まだ認めたわけではなかった。

()()()()とは関わりたくないのではなかったのですか?」

 レガロスは怪訝な顔になって考えていたが、リゼットが何のことを言っているのか気付いてまた笑顔になった。

「ああ、あれは変更しないといけませんね。”面倒な奴を一人連れて歩く”って」

 苦笑するしかなかった。どうしてこの男はいちいち癇に障る言い方をするのか。結局、この男には何を言っても無駄なのだ。リゼットは今更そんなことに気付いた自分も馬鹿らしいと思った。

 そこで、今度は父に尋ねる。

「そもそも何故なんです? なぜ旅に出る必要が?」

「お前には魔術の才能がある。それは決して無為にすべきものではない。でも、これから父さんは色々と家の面倒事を処理しないといけないんだ。だから、そんなことにお前を巻き込みたくないんだよ。分かるだろう?」

 リゼットは俯く。もっともらしいことを言って、結局自分にレルマイアの家を継がせる気はないということなのだろう。

「才能なんて……私には」

 さっきまでの威勢はどこへやら、リゼットは視線を落として呟く。レガロスは迷わず口を挟んだ。

「才能は間違いなくありますよ。さっきので十分わかりました」

「……そうですか」

 リゼットの声は未だ暗い。

「ええ……ところで、今日はもう遅いので、私はこの辺で失礼します。出発は五日後の早朝ということで」

 ――五日間。レガロスは彼女に、身辺整理と旅の準備をして、父との別れを惜しむのに十分の時間を与えるつもりだった。そのために、過不足のない日数を。

 レガロスはレルマイア家の屋敷を出ると、しきりに咳をした。

「――さて、魔力切れのろうそくは、いつまで燃えられるだろうか」

 彼は自嘲するように笑い、どこかへと去っていった。





 ――――五日後。

 レガロスが屋敷に到着すると、すでに魔術師の格好に着替えたリゼットとその父親であるトルゼンが門の前に立っていた。

「やあ、おはよう」

「おはようございます」

 リゼットは革製の上着と深緑の外套に身を包み、ヴァレタもしくはヴァレータ等と呼ばれる中くらいの長さの杖を腰に差している。肩から大きめの革の鞄を下げて、足には頑丈そうな長靴を履いている。服装には全く問題なしと言っていいだろう。

 リゼットの顔立ちはかなり整っている。目鼻立ちはくっきりとしているが、琥珀色の目は大きく、愛らしさと美しさを兼ね備えている。そんな彼女が、頑丈さに重きを置いて作られた旅の装いに身を包むと、絶妙に不釣り合いな感じがなんだか面白い。

 レガロスは上から下までリゼットの姿を確認すると、大げさに頷く。

「うん、なかなか様になっていますね」

「そうですか」

 不貞腐れているのは明らかだった。先程から、レガロスに目を合わせようとしない。

「リゼット。これから長い間お世話になるんだから、もっとちゃんと挨拶しなさい」

 トルゼンにそう言われると、彼女はぶすっとした顔のままレガロスに向き合う。

「よろしくお願いします」

「うん、よろしくお願いします」

 レガロスはトルゼンに向き直る。トルゼンの目の奥には、まだ不安と切望の色が見えた。

 彼を安心させるように、レガロスは言う。

「心配は無用です。私が責任を持ってリゼット嬢をお守りしますよ。彼女を立派な魔術師に育て上げると約束します」

 レガロスは右の手袋をとり、手を差し出す。

「ええ、娘をよろしくお願いします」

 二人はしっかりと握手を交わした。温かく、堅い皮膚に覆われたレガロスの手を握ると、トルゼンの肩の緊張が少し緩んだ。

「それじゃあ――――行こうか」

 レガロスはリゼットに呼びかける。

 彼女は小さく頷き、レガロスの後ろに着いて歩き始める。

 しかし、彼女の背後から彼女を呼ぶ声があった。リゼットは振り返って、父親の姿を見る。

「リゼット」

 トルゼンはまだ門の前に立ったままだった。

「いいか?」

 彼は躊躇いがちに、ゆっくりと手を伸ばす。

 リゼットはきゅっと唇を結び、踵を返して父親の元へ駆け出す。抑えきれない涙が溢れ出す。

「父さんっ!」

 飛びつくようにして、父親と抱擁を交わす。堅く抱き合ったまま父は言う。

「リゼット。頑張れよ。父さんはいつまでもお前のことを愛してる」

「うん……私も」

 父の声も震えていた。

 どれくらい抱き合っていたのか分からない。しかし、別れは必然のことだった。二人はどちらからともなく体を離す。

 それ以上、言葉を交わすことはなかった。二人の間には、それで十分だった。

 リゼットは再びレガロスの元へ走り出す。

「さよなら、父さん」

 彼女は振り返って手を振る。やがてレガロスに追いついた。

 レガロスもトルゼンに向かって大きく手を振る。

 トルゼンは、娘と友の姿が見えなくなるまで、門の前で見送っていた。


 ――リゼットは、前を向く。

「私は……ちゃんと、強くなる」

 まだ消えない涙を拭って、彼女は前へ進む足を緩めなかった。

よければぜひリアクション・評価・感想等よろしくお願いします。

好評であれば、続編も書きたいです。

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