73:死の匂い
この森が“魔の森”と呼ばれるのは、その陰鬱な空気と、魔獣の発生率の高さからだ。
魔の森に一歩足を踏み入れた時から、騎士達の顔つきが目に見えて険しくなっている。
油断すれば、命を落とす。
ここはそういう場所なのだ。
しかも、今回は公爵令嬢が一緒。
彼等にとっては、一瞬たりとて気が抜けない状態なのだろう。
別に守ってもらわなくても、大丈夫なんだけどなぁ……。
とはいえ、こちらの戦力を知らぬ彼等にとっては、私は第一級保護対象なのだろう。
「マルコシアス、来て」
思い立って、翼ある狼――悪魔マルコシアスを召喚する。
護衛役を傍に置いておけば、彼等の緊張も少しは解けるのではないかと考えたのだ。
マルコシアスが現れた瞬間、騎士達の間に緊張が走った。
あれ、逆に警戒させちゃったみたい……?
「なるほど、それが噂の召喚獣か」
そんな中飄々とした声をかけてきたのは、マクラーレン団長だ。
「なるほど、こりゃ立派なもんだ」
マルコシアスのまわりをぐるぐると回っては、つぶさに観察しているようだ。
ジロジロと見られて、マルコシアスは借りてきた猫のようにちょこんとお座りしている。狼だけど。
「しかも、大人しい。召喚獣が勝手な動きをしたり、暴走したりってことはないのか?」
「ありません」
悪魔は基本自分勝手で我が強いものだが、ここにはバールがいる。
地獄の大公爵を前に好き勝手に振る舞えるのは、同じくらいの格を持つ一部の大悪魔くらいなものだ。
何より、彼等は彼等で私のことを案じてくれているのだ。
だからこそ、異世界にまで一緒に来てくれている。
悪魔と呼ばれてはいても、元々は各地で信仰されていた神も多い。
彼等の性質は、必ずしも悪とは言い切れないのだ。
「そりゃ頼もしい。本当に飛べるのかい?」
「はい」
団長の言葉に頷くと、それを証明するかのようにマルコシアスがバサリを翼を広げ、宙を駆け上がった。
上空から騎士達を見下ろし、再び地面に着地する。
「なるほど、なるほど……見ている物を共有したり、意思の伝達は?」
「えーと、この子がいれば出来ます!」
慌てて黒猫のバールを抱きかかえる。
悪魔達は、元々人語を理解している。
とはいえ、人前で話すのは流石に違和感を持たれるだろう。
バールを通じてマルコシアスの話を私の耳に届けてもらったり、彼が伝えたいことを教えてもらった方が確実だ。
それに、マルコシアスが見えているものなら、遠方を探る能力を持つバールにも分かるはず。
「それは助かる。魔の森奥地の様子を偵察してもらえるか?」
「はい!」
マルコシアスが空高く舞い上がり、上空から魔の森の様子を観察する。
森というだけあって木の葉に遮られ、上空から地上の様子はよく分からない。
とはいえ、ゼフの偵察結果で先遣隊が全滅した場所は既に分かっているのだ。
「あちらに何かあるようです」
方向を指させば、騎士達の顔に緊張が走る。
「行くぞ。ルーシー嬢は……俺の傍を離れるなよ」
「はい!」
本当は、私を安全な後方に下げたいのだろう。
だが、場所を案内出来るのは私だけ。
苦肉の策か、マクラーレン団長が苦い表情を浮かべた。
イケオジからの「俺の傍を離れるなよ」宣言とか、女性が喜びそうなセリフだよね。
とはいえ、ときめいている場合ではない。
ここはもう、危険な魔の森。
いつ獰猛な魔獣に襲われるかも分からない場所なのだ。
マルコシアスが降り立った場所に騎士達が駆けつけた後、すぐに団長から指示が飛んだ。
私とジェロームお兄様――特に私を近付けないように、護衛を命ぜられた騎士達が周囲を取り囲む。
気を使ってくれる彼等には申し訳ないが、私はその現状を既に知っている。
先遣隊は既に全滅し、一人残らす食い荒らされていた。
血の匂いにつられてか、時折現れる魔獣と騎士達が切り結ぶ音が聞こえる。
濃密に立ち込める死の匂い。
ここは紛れもない戦場なのだ。
私に出来ることは、ただ彼等の冥福を祈ることだけ……。
ふと、髪を撫でる感触がした。
見れば、ジェロームお兄様が無言で私の頭を撫でている。
「大丈夫ですよ」
そう言って笑いはしたものの、上手く笑えていたかは自信がない。
魔獣が居て、魔王が存在するこの世界。
医療も発達しておらず、前世よりも死はもっと近くに感じる。
それを分かっていたはずなのに――いざこうして誰かの死に直面すると、恐怖がじんわりと滲んでくる。
亡くなった先遣隊の中には、ギルドで雇われた冒険者達も多く居る。
きっと見知った顔も居るに違いない。
ぎりりと、胸が締め付けられるように痛む。
話に聞いていたのと、こうして噎せ返るような臭いがする場所にやってくるのとでは、まったく違う。
それを察してだろうか、お兄様が優しく私の肩を抱いてくれていた。
先遣隊が見付かったことで、今回の出征目的の一つは達成された。
残るもう一つの目的は、先遣隊の彼等が成し遂げられなかったこと――魔の森奥地で何が起きているかの調査だ。
「すまないな、ルーシー嬢。またも君の召喚獣に頼ることになる」
「分かっています」
申し訳なさそうなマクラーレン団長に首を振って、マルコシアスの頭を撫でる。
翼ある狼は、目を細めて私の手に鼻先をすり寄せた。
「またお願いね」
私の声に応えるように、バサリと羽音が響く。
巨大な狼が、空高く舞い上がる。
誰もがその姿を目で追うように上空を見上げ――突然飛来した衝撃波がマルコシアスの翼を貫く様子に、皆が息を呑んだ。









