52:公爵邸の日常
「ただいま」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
馬車を降りれば、門番が深々と頭を下げる。
「お兄様は?」
「ジェローム様は、まだアカデミーからお戻りになってはおりません」
「そう……」
門番の言葉に頷いて、公爵邸の中へ。
すぐさまブレンダが近付いてきた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、ブレンダ」
侍女のブレンダも、もう二十五歳。
男爵家の三女である彼女は、一応は貴族令嬢だ。
既に行き遅れと言われる年齢だが当人は気にする素振りも見せず、私の心配ばかりしているのだから、困ったものだ。
「そう言えば……」
ブレンダは、お兄様の好きな人を知っているのだろうか。
キャロルの別れ際の言葉が、今も耳にこびり付いている。
「? 何でしょうか、お嬢様」
「ううん、何でもないの」
聞くに聞けず、つい誤魔化してしまった。
こんなことで、お兄様と直接お話なんて出来るのだろうか。
前途多難だ。
「何か悩みがあれば、いつでもお聞きしますよ」
「うん、ありがとう」
ブレンダの心配そうな声。
つい甘えるように、身を寄せてしまう。
「今日のお嬢様には、ミルクたっぷりの紅茶がお似合いでしょうか」
「お砂糖も足してね」
こうやって甘やかしてくれるから、甘えてしまうんだ。
ブレンダだって、いつかはお嫁に行く。
そう自分に言い聞かせてはいるけれど、今はまだ姉のような彼女が離れることなんて考えたくはない。
「ねぇ、ブレンダ。ブレンダには、好きな人って居る?」
私の言葉に、ブレンダの動きがピタリと止まる。
「お嬢様……?」
まるで機械のようにぎこちない動作で、ブレンダがギギギ……と顔をこちらに向ける。
「ブレンダにはということは……お嬢様に、どなたか……!?」
「ち、違うの! そういうのじゃなくって」
どうやら、ブレンダを誤解させてしまったらしい。
慌てて首を振って、彼女を安心させるように笑顔を浮かべる。
「アカデミーで色々噂になっていたことがあって、ふと、ブレンダはどうなのかなぁって……」
いまだしっくりいかない様子だが、それでもブレンダは渋々と引き下がってくれた。
危ない、危ない。
お兄様の噂なんて、追求されたらなんて言えば良いのやら。
「もしどなたかとご縁を結ぶ必要が出てきたならば、下手に実家の両親を頼るより、奥様にお見合いの席を設けていただこうかと考えております」
「え……」
お見合い。
ブレンダはお見合い結婚をするつもりなのだろうか。
「男爵家に持ち込まれる縁談など、たかが知れておりますからね。それよりは、公爵家に関わる方と一緒になった方が、これからもお嬢様のお側に居られる可能性が高いですし」
「ブレンダ……」
結婚よりも、私の傍に居ることを優先してくれるということなのだろうか。
胸が熱くなるほど嬉しい反面、申し訳なさもこみ上げてくる。
ブレンダに抱きついた腕に、力を込める。
彼女がふ……と笑った気配がした。
「なんだ、相変わらず二人は仲がいいなぁ」
そんな空気を引き裂くような、下卑た笑いが響く。
護衛騎士のチェスターだ。
彼もブレンダと同じように、私に付き従って王都まで来てくれている。
「ブレンダは私の大事なお姉様だから」
「そりゃいいな、俺のこともお兄様って言ってくれてもいいんだぜ、お嬢」
ガハハと笑うチェスターに、ブレンダが白い目を向ける。
「ジェローム様がいらっしゃるのに、何を言いますか」
「それはそうだ」
私がお兄様と呼ぶのは、ジェロームお兄様と従兄のハーヴィーお兄様だけ。
それを分かっていて、チェスターは私とブレンダの仲の良さを揶揄っているのだろう。
「誰が誰の兄だって?」
笑い声を上げていたチェスターが、一瞬で硬直する。
扉が開いて、その向こうから姿を現したのは――ジェロームお兄様だ。
美しい目元を鋭く細め、チェスターを睨み据えている。
「ああ、いや、これはつい冗談で……」
「ルーシーは、お前にとっては主家の令嬢だ。軽口を叩けるような相手だとでも思っているのか」
お兄様の底冷えするような声。
あーあ、これは完全に機嫌を損ねてしまったわね……。
「チェスター卿はいつも調子に乗り過ぎですから、良い機会です。ジェローム様にこっぴどく絞られると良いのですわ」
ブレンダは完全にジェロームお兄様側に付いたらしい。
こうなっては、私が何を言ってもジェロームお兄様は止まらないだろう。
「ちょっ、お嬢、助け……!!」
「いいから、来い」
お兄様に引き摺られていくチェスターには、これからたっぷりとお説教が待ち受けていることだろう。
おかしいなぁ、お兄様が帰ってきたらお話しなきゃって緊張していたはずなのに、その緊張感が見事に吹っ飛んでしまった。
ある意味では、チェスターに感謝するべきなのだろうか。
窓から西日が差し込む公爵邸の一室。
窓際でひなたぼっこをしていた黒猫が、大きな口を開けて欠伸をしていた。









