4:向けられるのは愛情ばかりでは無さそうな気配
あれから、時の流れはあっという間だった。
この世界に転生して、早六年。
今ではすっかり公爵家の一員としての生活にも慣れ、言葉も文化も違和感なく馴染んでいる。
今の私は公爵令嬢ということで生活に不自由することもなく、贅沢な暮らしをさせてもらっている……と思う。
あくまでこの世界の基準で考えたらの話だが。
トイレなんかはあまりに不衛生だった為に、早々に公爵であるお父様に進言して、魔法を組み込んだ水洗トイレを実装してもらった。
おかげでペンフォード王国の貴族家では、今や水洗トイレが標準装備とまで言われている。
今はまだ一部のお金持ちだけにしか浸透していないけど、やがてこれが一般家庭にも普及していくといいなぁ。
衛生面から生じる病気なんてのも、少なくないからね。
細かいことはともかくとして、六歳になった私は今日も公爵邸でのんびりと過ごしている。
「はいルーシー、あーん」
「あーん」
上機嫌でスプーンを私の口に運んでくれているのは、ウィレミナお母様だ。
白銀の髪を靡かせ、深い海のような瞳に笑みを湛えている。
十人居れば十人中百人が美人と答えるだろう。
妖精のような美しさを持つ公爵夫人として、広く知れ渡っているらしい。
そんなウィレミナお母様だが、初めて見掛けた時は死産の直後で心身共に疲弊し、憔悴しきっていた。
待ち望んでいた我が子はこの世に生を受けた時から一度も産声を上げることなく、徐々に冷たくなっていった。
そんな悲惨な体験の直後だから、まるで骸骨のように生気が無かったのも当然と言えよう。
それが、今はどうだ。
痩せ細っていた手足には肉が付き、ふっくらとした頬は薄紅に色付いている。
出産のダメージでこれ以上の子供は望めないだろうとのことだったが、そんなことを気にする様子もなく、私と兄の面倒を見てくれている。
本当言うと、少し……いや、かなり心苦しい。
ごめんなさい、お母様。
私は貴女が産んだ子供ではないのです。
皆の記憶を改竄し、死んだ子供が居るはずだった場所にすっぽりと収まった迷い子――それが私だ。
私が抱く心苦しさを知ってか知らずか、お母様は今日も溢れるほどの愛情を注いでくれる。
罪悪感は確かにあるけれど、それ以上に、この人を笑顔にしたいと思えるくらいには、私はお母様が大好きだ。
「今日は貴重なジェネラルオークのお肉が手に入ったんですって」
お母様がステーキを切り分け、私に食べさせてくれる。
もう六歳だから自分で食べられるのだけど、どうもお母様は世話を焼きたがる性分らしい。
「ジェネラルオークのお肉って、貴重なのですか?」
オークと言えば、ファンタジー世界の定番。
豚に似たモンスターで、今では私も大好物の一つだ。
「上位種になればなるほど、高品質で貴重な素材が採れるのよ」
なるほど。
この口の中で蕩けるような脂は、ジェネラル様々と言うわけか。
ファンタジー世界、万歳!
食事の後は、のんびりティータイム。
侍女達が手早く食器を片付け、お茶の準備をしてくれる。
いやー、元日本人としては申し訳ないよね。
こんなにあれこれやってもらうことに慣れていないから、少し前まではつい自分も動くべきかと考えていた。
どうやら、仕えるべき相手にあれこれ動かれると、侍女を始めとする使用人達の方が困ってしまうらしい。
そう学んでからは大人しくお世話されることにしているけど、まー落ち着かない。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがと、ブレンダ」
私に紅茶の入ったティーカップを差し出してくれたのは、侍女のブレンダだ。
六歳の誕生日を境に私の専属となった、栗色の髪と緑色の瞳を持つ美人さん。
お母様のような線の細いタイプではないが、テキパキとした所作はキャリアウーマンを思わせる。
出来る女性って、格好いいよね。
「もう、御礼を言う必要は無いといつも言っておりますのに」
御礼なんて必要無いと言われていても、つい言ってしまうのは、きっと日本人の性なのだろう。
「それだけ、ブレンダに感謝を伝えたいの」
「お嬢様……」
そういうことにしておこう。
何やらブレンダが涙ぐんでいる気がするけど、悪いことをした訳ではないから、別にいいよね?
侍女として働いてはいるが、ブレンダは十七歳。
二十一世紀の日本なら、まだ学校に通っている年齢だ。
マッキャロル男爵家の三女である彼女は、花嫁修業も兼ねてティアニー公爵家で働いている。
とはいえ、男爵家の家計はかなり苦しいようだ。
良い嫁入り先が見付かればともかく、そうでなければこのまま高給な公爵家で働いていてほしいというのが本音らしい。
世知辛い世の中だよね。
せめて私が良い縁談をお世話出来れば良いのだけど、六歳児にそんなこと出来るはずもなく、逆に十以上年の離れたブレンダに、お世話される毎日です。
ブレンダ曰く自分は末っ子で誰かの世話をすることはなかったから、こうして私の世話が出来ることが楽しいと言う。
私が姉のように慕ってしまうのも、仕方ないと思うんだ。
「ルーシーは本当、ブレンダと仲が良いのね」
「へへー」
少し拗ねたような口調で、お母様が笑う。
ルーシーというのは、私の愛称だ。
ルシールだから、ルーシー。
当然、そんな風に呼ぶのは家族だけだけれど。
「お嬢様が大きくなられるまで、私もここで頑張らないといけませんね」
「え、ブレンダ、私が大きくなるまでずっと一緒に居てくれるの?」
私の言葉に、ブレンダがにっこりと微笑む。
「もちろんですよ。お嬢様の花嫁修業も、私がお手伝いいたしますから」
「それはちょっと気が早すぎるわ」
にこやかに微笑む様子は、本気なのか冗談なのかよく分からない。
私より先にブレンダの縁談だと思うのだけど……ブレンダが居なくなるのは寂しいから、もう少しこのままでもいいかなぁなんて、そんな甘えたことを考えてしまう。
「にゃーん」
食事を終えたとみて、のそりと黒猫が歩み寄ってきた。
ひょいと私の膝上に飛び乗っては、丸くなる。
黒猫のバールは、今ではすっかり公爵家の愛猫として受け入れられている。
その実態は、この子も悪魔だったりします。
地獄の大公爵、東の軍勢を率いる王。
そんな異名を持つ大悪魔が猫の姿で日がな一日ゴロゴロしているのだから、平和なものだ。
バールは私の護衛役として、特に執事のゼフことベルゼブブが傍に居ない時は、私の身辺を警戒してくれている。
と言っても、膝の上で丸くなって喉を鳴らしている光景は、ごく普通の猫だ。
おかしな点と言えば、鳴き声が少し嗄れていることくらい?
それもまたチャームポイントとして、家族だけでなく使用人達からも可愛がられている。
猫を膝に乗せたままでの、優雅なティータイム。
平和だ。平和そのもの。
唯一、視界の隅でチラチラするお母様譲りの白銀色の髪さえ目に入らなければ。
「…………」
「…………」
やばい、目が合ってしまった。
一瞬硬直した後、妙に慌てた様子でバタバタと走り去っていったのは、私の兄でありティアニー公爵家の嫡男であるジェロームお兄様だ。
他の皆はとても良くしてくれているのだけど、ジェロームお兄様とはいまだ打ち解けられずに居る。
とはいえ、こちらが何かした訳ではない。
お兄様の態度は私がこの屋敷に来た時からあんな感じだ。
お兄様が走り去る気配に気付いてか、バールがのそりと顔を上げる。
何でもないと言うように黒猫の背を撫でたら、再び膝の上で丸くなった。
そう。虐められているわけでも、無視をされる訳でもないのだ。
ただ、話しかけてもぎこちない。
時折あんな風に一方的に監視されては、それがバレると逃げるように走り去って行くだけ。
私、お兄様に何かしましたっけ。
その謎が解けたのは、公爵邸の庭が夜の闇に包まれた頃。
侍女のブレンダが辞した後の、寝室でのことだった。
「あの小僧、おそらく蝿の王の術が効いておらぬな」
「ええ……!?」
バールの言葉に思わず声を上げてしまい、慌てて口元を抑える。
深夜に猫と話し込んでいるなんて、傍から見ればおかしな奴だよね。
それを言ったら、嗄がれた声で喋る黒猫の方が、よっぽどおかしいんだけど。
「ゼフの術が効かないなんて、そんなことあるんだ……」
「稀に術を受け付けない体質の者が居ると聞く。あの小僧がそうなのだろう」
体質。体質かぁ。
薬や麻酔が効きにくい人が居るという話は聞いたことがあるけど、魔法もそれと似たような感じなんだろうか。
「幼子の頃など、覚えているかも分からぬが……一応、警戒しておくべきであろうな」
そう重々しく言い放つバールだったが、話し終えた途端に喉を鳴らしてゴロゴロし始める。
声はやけに掠れているし、声も口調もおじさんそのものなんだけど、姿形は猫なんだよなぁ。
威厳もへったくれもない。
いや、一部の人には「猫の姿こそ至高!」とか言われそう。
それにしても、ゼフの術が効いていない可能性かぁ。
私がこの屋敷に来たのは、六年前。
お兄様が三歳の頃だ。
三歳児の記憶って、どんな感じだったっけ。
ダメだ、前世の記憶が残っていた分、乳児期から意識がハッキリしていて、三歳児の頃の記憶と言われてもいまいちピンと来ない。
もしお兄様が、あの公爵邸が悲しみに包まれた日を覚えているとしたら……。
自分の妹が死んだことを知っているのだとしたら……、
私は、彼にどう思われているのだろう?
想像するだけで、背筋が寒くなる思いだった。