29:英雄の再臨
「ハーヴィー……お兄様……?」
恐る恐る声を掛ける。
長い睫毛がピクリと揺れて、ゆっくりと、瞼に覆われたヘーゼルブラウンの瞳が姿を現す。
くすんだ金髪の下で、数度瞳が瞬く。
薄ぼんやりとしていた瞳が焦点を取り戻した頃、ハーヴィーお兄様が突然ガバッと上体を起こした。
「ルーシー!? どうしてここに……」
「う……っ」
驚きに目を見張り、声を掛けてくる様は、私がよく知るハーヴィーお兄様そのものだ。
優しくて面倒見が良くて、従兄弟の中でも一番年上な彼は、いつも私とジェロームお兄様の面倒を見てくれていた。
気付けば、大好きな姿が霞んでいた。
いや、違う。
これは私が涙を零しているからだ。
そう気付いた時には、もう我慢は出来なかった。
「うわああぁぁぁぁっっ」
まるで子供のように泣きじゃくり、ハーヴィーお兄様の胸に飛び込む。
彼はどこか呆然としながらも私を受け止め、優しく背中を撫でてくれた。
「ルーシー、お願いだから泣かないでおくれ。君に泣かれたら、私はどうしたら良いか……」
「だっ、だって、だってハーヴィーお兄様が死んじゃうかもってっっ」
「そうか……」
ハーヴィーお兄様が私を抱きしめな、あやすように髪を撫でる。
「私は……一度、死んだのか……」
「そうだな、死んでいたと言っても過言ではなかろう」
独りごちた声に応えたのは、黒猫のバールだ。
嗄れた声で頷き、ニヤリとハーヴィーお兄様を見上げる。
「もう意識はハッキリとしてきたか?」
「はい、バール様」
身体を起こしたハーヴィーお兄様が片膝を付き、バールの前に跪く。
猫の前に膝を折る騎士の図は見ようによっては滑稽かもしれないが、そうは思わせないだけの奇妙な雰囲気がこの黒猫には纏わり付いていた。
「もう一人の私の記憶も、知識も、確かにこの身に受け継いでおります」
「ならば、話は早い」
私の膝にひょいと飛び乗ったバールは、髭をピンと張ってハーヴィーお兄様を見下ろした。
「さっさと片付けてくるがいい。お主なら、容易いであろう?」
「はっ」
偉そうにふんぞり返る黒猫の喉元を撫でてやれば、ゴロゴロと喉を鳴らす。
確かに凄い悪魔なのかもしれないけど、どうもこの姿だと威厳も何もあったもんじゃないんだよなぁ。
まぁ、可愛いから良いんだけどさ。
タウナー王国とペンフォード王国の国境には、長い紛争期間に築かれた古い石塀が続いている。
ヒントン辺境伯家が守護する砦は、その石塀の丁度中央に位置している。
砦から両翼に長く塀を延ばした形は、幾度となくタウナー王国からの侵略に耐え続けたヒントン辺境伯家の歴史を物語っているようだ。
山間の道を塞ぐように築かれた石塀。
ペンフォード王国に侵攻する為にはこの石塀を破壊するか、砦を突破するか、あるいは石塀を迂回して山野部を抜けて国内に侵入するしかない。
現在、砦門の前にはおよそ二万にも及ぶタウナー王国の軍勢が押し寄せていた。
対して、辺境伯軍は総勢七千。
これでも一領地で動員出来る軍勢としては、我がペンフォード王国の中でも群を抜いていた。
間の悪いことに現在魔の森で起きた大恐慌に多くの軍勢が動員されている為、周辺の領地に応援を求めたところで、そう多くの手勢は割けないだろう。
こと戦に関して最も頼りになる悪魔アビゴールも、ティアニー公爵家からの援軍として派遣している。
状況だけ見れば、なかなか絶望的と言えよう。
だが、バールが呼び出した魂。
その名を聞いた時に、私は既に勝利を確信していた。
前世では、歴史の授業でも聞いた名前だ。
名前の意味は、確かバールの恵み。
かつて豊穣神であったバールを主と崇め、その名を冠した偉人。
カルタゴの英雄ハンニバル。
後世では戦略の父と称えられた名将だ。
突然ハーヴィーお兄様が意識を取り戻したことで、戦場は騒然となった。
驚きは喜びに、そして士気へと変わっていき、今では兵士達の熱意は最高潮に達している。
チェスターなどは、安置所での出来事を訝しんでいるに違いない。
でも、彼は余計な詮索はしない。
そういうところが好きで、護衛騎士として傍に居てもらっているのだけど。
「ルーシー、ジャールの屋敷で待っていてくれるかい」
ハーヴィーお兄様との対面を終えた私は、当たり前だが戦場からは退いて、街にある辺境伯邸で待っているようにと言われてしまった。
お兄様に会いに行ったのだって、相当我儘を言ってのことだ。
これ以上の迷惑は掛けられない。
「大丈夫ですか、ハーヴィーお兄様」
彼ならば不安はないだろうと思いつつも、やはり言葉にせずにはいられなかった。
安置所で一人寝かされていたハーヴィーお兄様を目にした瞬間の、心臓が凍り付くような感覚が今でもまだ身体に刻み込まれている。
「勿論」
柔らかく微笑んだハーヴィーお兄様が、そっと私の目元を拭う。
まだ涙で濡れていただろうか。
少し恥ずかしい。
「ずっと、待っていますから……どうかご無事で」
「ああ」
砦からジャールの街まで、私を護衛の為の小隊まで手配される始末だ。
道中でハーヴィーお兄様が襲撃されたことを思えば当然なのかもしれないが、なんだか気恥ずかしい。
護衛なんてチェスターとバールだけで十分だよとは、辺境伯家に仕える騎士達の手前、流石に言えなかった。
そんな彼等が、どうしてか前線を離れる私とそれを見送るハーヴィーお兄様を、ニコニコと見守っている。
皆ハーヴィーお兄様が無事でそんなに嬉しかったのかしら。当たり前よね。
「ルーシーも、気をつけて」
「はい」
長身で逞しいハーヴィーお兄様に抱きしめられると、心臓がうるさく騒ぎ出す。
前世でも異性に慣れていなかった私にとって、親戚からのハグとはいえ、あまりに刺激が強い。強すぎる。
カァァッと、顔が赤らむのを感じる。
そんな私を見下ろして、ハーヴィーお兄様はくすくすと笑いを噛み殺していた。
「イチャついてないでさっさと行くぞ、お嬢」
「イチャついてないって!」
チェスターに抱えられて、馬に跨がる。
最初に砦に来た時の焦げ臭さは、今はもう感じられない。
馬が駆けるにつれて、戦場の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。









