28:魂の融合
「そんな……っ」
ぐらりと、身体が傾ぐ。
私の腕から逃れるようにして、黒猫がひらりと飛び降りた。
私がお兄様の元に向かうより先に、チェスターとバールがお兄様の前に屈み込む。
チェスターはお兄様の口元に手をあてて、呼気と脈を確認しているようだ。
「ハーヴィー卿は、まだ生きておられます。が――…」
チェスターの言葉に、ドクンと心臓が鳴った。
ハーヴィーお兄様は、まだ、生きている。
死んではいない。
だが――…、
その後に、どんな言葉を続けようとしたのか。
今は、たとえチェスターの言葉でも聞きたくはない。
「砦襲撃の報を受け、すぐにハーヴィー様が指揮を執る為にこちらに向かわれました。その道中を、忍び込んでいた敵兵に待ち伏せされて……」
私の背後に控えた騎士が、悔しげに歯噛みする。
「すぐに砦に運び込んで治癒魔法を施したのですが、外傷は手当出来たものの、いまだお目覚めにならず……」
目を閉じて横たわるお兄様は、まるで眠っているかのようだ。
しかしその肌は青白く、病人以上に生気を欠いて見える。
――それでも、まだ、生きている。
生きているなら、採れる手はあるはず。
よろける足取りでハーヴィーお兄様に近付き、ぺたんと傍らに座り込む。
手を伸ばして、そっと頬に触れる。
体温は低下しているが、まだ死者の冷たさではない。
治癒魔法が存在するこの世界、ある程度の怪我ならば魔法の力で癒やすことが出来る。
だが、それはあくまで肉体だけ。
どれだけ外傷を癒やしたところで、それだけで生命を繋ぎ止めることは出来ないのだ。
前世の知識で言うならば、脳死状態なのだろう。
こちらの世界では『魂が肉体から離れた』と表現される。
こうなってしまえば、どんな手を尽くそうとも再び目を覚ますことはない。
緩やかに肉体が朽ちていくのを待つのみだ。
砦の兵士達も、それを分かっているのだろう。
だからこそ、お兄様は死んだなんて話がまことしやかに流れてしまっているのだ。
「……お願い。ハーヴィーお兄様と、二人きりにして」
顔も上げぬままに、案内してくれた騎士とチェスターに声を掛ける。
二人が顔を見合わす気配があった。
「失礼します」
騎士が一礼して、安置所を出ていく。
「すぐ外に居るからな」
最後にチェスターの声が響いて、パタン、と扉が閉められた。
暗く黴臭い安置所に、私と、ハーヴィーお兄様と、黒猫のバールだけが残された。
どれだけ頬を撫でても、彼が目を開けることはない。
「バール」
部屋の外に居るだろうチェスターに聞こえないように、声量を潜めて傍らの黒猫を呼ぶ。
「この者、既に魂が薄れておる。このままでは魂と肉体を繋ぐ糸が途切れるのも、時間の問題だろう」
黒猫の低く嗄れた声が、無情な現実を叩き付けた。
ぎゅっと唇を噛んで、涙を堪える。
「どうにか……出来ないの?」
「ふ、誰に物を言っている」
黒猫が得意げに顔を上げて、鼻を鳴らす。
こんな時だと言うのに、可愛いと思ってしまう。
当人は大悪魔のつもりで言っているのだろうけど、その姿では威厳も何もあったものではない。
「我の中に取り込んだ魂がある。その中の一つを、こやつと融合させよう」
「魂を、融合……?」
まさかの、ファンタジーちっくな回答だった。
いや、神だの悪魔だのが居るのだから、医療に依らぬ解決も有り得るのかもしれないけど。
「消えかけた生命を、補強すると思えばいい。存在が消えかけているなら、そこに魂を追加してやれば良いのだ」
「それって……ハーヴィーお兄様がハーヴィーお兄様ではなくなるということ?」
別の魂を注ぎ込んだなら、それはもはや別人ではないのか。
そんな疑問に、黒猫が小さく髭を揺らした。
「二千年以上も昔の魂だ、既に自我は薄れ、知識と経験だけが残っておる。戦場となったこの地であれば、きっと役に立つぞ」
バールはふふんと得意げな表情だ。
それほどに、自信があるのだろうか。
「それで……お兄様が、助けられるの?」
「ああ。助けてみせよう」
「なら……お願い」
私の言葉を受けて、黒猫がぺたんと前足をお兄様の額に当てる。
窓も無いのに、ふわりと風が舞い上がった気がした。
「まさか、異なる世界に来てこやつを呼び出すことになろうとはなぁ」
沸き起こる風で、黒猫の姿がブレて見える。
小さな猫が、まるで蟇蛙のように。
いや、年老いた人間のように。
時には、蜘蛛のようにも見えてくる。
「この人間に宿り、蘇るがいい――… 我が僕よ」
風が収まった後。
そこにはちょこんとお座りする一匹の黒猫と、静かに胸を上下させて眠るハーヴィーお兄様の姿があった。









