16:魅惑のクラーケン
「な、なんだこれ……」
流石のお兄様でさえ、白い巨体を見上げて呆然としている。
それもそのはず、広い海岸線を埋め尽くすような白い物体。
私の身長は勿論、長身の護衛騎士チェスターの身長よりも遙かに高い。
「これが、クラーケン……?」
キャロルが怖々と呟く。
海辺の領地に住むキャロルにとって、イカやタコみたいな魚介類は馴染みがあるのだろう。
だからといって、こんなに巨大なイカは規格外だ。
「これ、どうする……?」
「クラーケンって、そもそも食えるのか……?」
地元の漁師達も、唖然と打ち上げられた巨大イカを見上げている。
砂浜を埋め尽くす巨体をどうしたものか判断しあぐねて、領主の館に連絡を入れてきたのだろう。
「クラーケンって、イカだったのね……」
そう。目の前にあるのは、馬鹿でかいイカだ。
馬鹿でかいなんて規模ではないが、とにかくイカだ。タコには見えない。
もっと小さければ捌いてみようと思うのだろうが、これだけ大きいとどこから手を付けたものか。
そもそも、キャロルもお兄様も漁師達もドン引きしていて、食べるなんて思考は持っていなさそうだ。
「あらぁ、どうして誰も手を付けないのぉ?」
そこにのんびりとした声が掛かる。
野太いくせに、どこかしなを作ったような声。
一度聞けば忘れられない、リヴィヤタンの声だ。
「手を付けるって……?」
キャロルが小さく首を傾げる。
「なんで食べないのかってことよぉ!」
リヴィヤタンの言葉に、砂浜に集まっていた人々にざわりと動揺が広がった。
長年クラーケンに悩まされていた人々にとっては、そのクラーケンがこんなに簡単に退治されて、しかも食べられるなんて言われたところで、すぐに頭は切り替えられないよね。きっと。
この世界でもイカやタコは敬遠されていて、食べられているのは一部の漁村のみ。
デイヴィス領も港町ではあるが、漁師さん達が浜辺で食べることはあっても、貴族のキャロルには馴染みはないようだ。
イカやタコを食べたことがある漁師さんでも、クラーケンの大きさに恐れおののいている。
「美味しいの?」
仕方なく、私が歩み出た。
ギョッとして、後ろからお兄様が着いてくる。
「ルーシー、もしクラーケンが動き出したらどうするんだ」
「そうなったら、どうせここら一帯大変なことになるわ」
まぁ、そもそも海に打ち上がってる時点で死んでいるんだろうけど。
イカの活き作りでさえピクピク蠢いているだろうに、このクラーケンときたら、砂浜に横たわってピクリともしない。
「勿論、味は保証するわ。こんな極上の身、食べなきゃ罰が当たるわよぉ♪」
レヴィヤタンがしなを作るが、それ以外は全員引いている。
レヴィヤタンに引いているのか、それともクラーケンを食べるという彼女?の言葉に引いているのか……きっと、両方かな。
それにしても、大きい。
とても包丁で捌ききれる量ではない。
「ねぇ、チェスター。その剣でこのクラーケン、切れる?」
「……は?」
護衛騎士に声を掛けたら、呆れた声が返ってきた。
「け、剣でクラーケンを切れと……?」
「少し小さくしたら、包丁でも捌けないかなぁって」
「いいアイデアね。足の一本でも切ってくれたら、食べやすくなるじゃなぁい」
私のアイデアに、レヴィヤタンも手を叩いて喜んでいる。
ただ一人、憮然とした表情でチェスターが腰の剣に手を掛ける。
「一応やってはみるが……切れるかどうかは、知らねぇからな」
そう言いながらもチェスターは剣を抜き放ち、正眼に構える。
狙うは、大きな胴体を守るように前方に突き出た一本の足。
「ハッ」
かけ声と共にチェスターが踏み込めば、続いて斬撃の音が響いた。
「やった!」
ドサリと、クラーケンの足が一本砂浜に落ちる。
足の一本が、巨大なウミヘビを思わせる大きさだ。
この足に絡み付かれたら、そりゃ船なんてひとたまりもないだろう。
「うへぇ……」
切った感触が気持ち悪かったのか、チェスターは剣を手にしたまま背筋を震わせている。
そんなチェスターに、笑顔で一言。
「休憩している暇はないわよ。次もお願いね♪」
「なんで俺が!?」
レヴィヤタンの指示によって、哀れチェスターは死したクラーケンと格闘する羽目になったのでした。
がんばれ、チェスター。
皆で美味しいイカ料理を食べる為だ。
チェスターが一人解体作業に勤しんでいる間、漁師達はクラーケンの足を取り囲んで相談していた。
「見れば見るほど、イカみてぇだな」
「食べて問題はないのか……?」
「ちぃと焼いてみるか」
「んだんだ」
巨大なクラーケンの足を一部切り分けて、ハマグリを焼いた時のように網の上で炙る。
潮の香り漂う港町が、香ばしく食欲をそそる匂いに包まれた。
「塩だ、塩持ってこい!」
「胡椒もな!」
漂う匂いに、皆「これはいける」と確信したのだろう。
味付けに必要な塩だけではなく、貴重な胡椒まで持ち出して、本格的な浜焼きパーティーの始まりだ。
「うんめぇっっっ」
「なんだこれ、イカとは比べものにならねぇぞ!」
味見をした漁師さんの言葉につられて、他の人達も恐る恐るクラーケンに手を伸ばす。
貴族令嬢であるキャロルも、イカ自体口にしたことのないお兄様も、怖々とイカ焼きもといクラーケン焼きを口に運んだ。
「……!!」
「すごっ、これがクラーケンの味……」
私も焼きたてのクラーケンを一つ切り分けて、かぶりつきました。
大きすぎるのが難点だけど、それは切ってしまえば良いだけだからね。
「ん~~~~~~!!!」
クラーケンの味は、予想以上。
弾力があり、噛む度にじゅわりと濃厚な汁が滲む。
日本で食べたイカより美味しいんじゃない? これ。
惜しむらくは、この世界には醤油がないということだ。
いや、あるかもしれないけどこの国ではいまだ出回っていない。
こんな美味しいイカ、醤油を付けて焼いたら絶品なのに……あぁ、勿体ない。
勿体ないけど、醤油がなくても美味しいことに変わりは無い。
皆がもっともっとと手を伸ばすものだから、切り分ける人も網の上で焼く人も大忙し。
もう一人、せっせとクラーケンの解体作業を進めるチェスターのことも、忘れてはならない。
こうして突発的な浜焼きパーティーが賑わう浜辺に、クラーケン退治にと出航した一団が戻ってきた。
一隻も欠けることなく、皆無事に港へと戻ってこれたみたい。
「おかえりなさい!!」
船を下りた騎士達は皆、砂浜でクラーケンを解体しながらバーベキューをしている光景を見て、目を丸くしていた。









