幕間:兄は妹を想う
妹が生まれたあの日、公爵邸は悲しみに包まれていた。
真っ先に思い出すのは、憔悴しきった母上の姿。
いつも美しい母上が目は落ち窪み、まるで話に聞く骸骨のようだった。
部屋に控えた侍女達は、皆目元を押さえるハンカチをぐっしょりと濡らしている。
しきりに恐縮する医師より先に、年老いた産婆が口を開いた。
「申し訳ございません、最大限手は尽くしたのですが、我等の手が及ばず……」
ワッと、侍女達が声を上げる。
だが、母上は涙を零すことも無かった。
生まれてくるはずだった新しい命を亡くした母上は、あの時確かに全ての感情を失っていた。
それが、どうだ。
翌朝起きた時の我が家――公爵邸は、お祭り騒ぎだった。
前日の悲しみが、全て嘘だったかのように。
事実、嘘だったのだ。
母の手には、生まれたばかりの子供が抱かれていた。
嘘なのは、この景色か。
それとも、僕の記憶の方か。
屋敷中がこの子供に騙されているのではないか。
最初はそう思い、赤子を警戒した。
しかし、赤子は赤子。
ベビーベッドから出ることも、動くことも出来ない。
何の力も持たない、非力な子供だ。
赤子に手を伸ばす。
驚くほどに小さく、そしてか弱い。
もしこの小さな身体を抱いたまま、うっかり手を離してしまったら――この命は、あっという間に地に落ちてしまうのだろう。
僕みたいな非力な子供にも、簡単に摘み取れそうな命。
それがまるで恐ろしい化け物であるかのように感じていた自分が、少しおかしかった。
伸ばしかけた僕の指を、赤子が掴む。
指一本を掴むのがやっとなくらいの、小さな掌。
あの記憶を、憔悴しきった母上の姿を、忘れることは出来そうにない。
出来ないはないが、赤子と接するうちに、少しずつ恐怖が薄れていくのを感じる。
僕の妹と言われているこの子が、一体何者なのか。
僕には分からない。
ただ、一緒に居るうちに少しずつ情が移っているのは、間違い無さそうだった。
そんなルーシーが王太子殿下の婚約者にと求められたのは、彼女が六歳、僕が九歳の頃。
六歳の子供とはいえ、ルーシーの可愛さは群を抜いていた。
長い黒髪は艶やかで、彼女が動く度にふわりと舞い上がる。
子供とは思えぬ知性を秘めた夜色の瞳は、年相応の大きさ、円らさでもってくるくると表情を変える。
気付けば、僕の目はいつもルーシーの姿を追っていた。
別によこしまな気持ちがある訳ではない。
可愛い妹として、守るべき対象として、目が離せないだけだ。
そんなルーシーを、マモン商会とのパイプ欲しさに婚約者にするだって?
ふざけるな。
僕は従弟であるライオネル殿下に、初めて怒りを覚えた。
どんな令息も、ルーシーを知れば我が婚約者にと望むことだろう。
彼女には、それだけの魅力がある。
それは分かる、分かるのだが、圧倒的な権力を持って強引に彼女を手に入れようだなんて。
実の兄と言われている僕には、その資格すら無いと言うのに。
それが酷くもどかしい。
せめて、これ以上彼女に悪い虫が付かないように。
兄ならば兄として、出来る限り彼女の傍に居よう。
相手が王族だろうが何だろうが、ルーシーの笑顔を奪われる訳にはいかない。
此度の婚約騒動で、僕はそう誓ったのだ。









