神州丸 ~陸軍の船~
日本は四方を海に囲まれた島国であり、海外への輸送は船舶によっておこなわれる。軍隊が外国へ展開する場合、必然的にこの「船舶による輸送」と「敵地への上陸」がついて回る訳だが、このうち「敵地への上陸」に関して、日本陸軍はあまり深刻に考える機会がなかった。
というのも日本陸軍初の海外に対する大規模出兵となった日清戦争、つづく日露戦争の両戦役においては上陸地点で攻撃を受ける事もなく、輸送船から手漕ぎのボート等に移り上陸、また輸送船も港に停泊して兵員や物資を降ろすという、単なる軍隊の上陸というべきのんびりとしたものであったからである。もちろん作戦として敵陣付近における奇襲上陸は経験しており、これは貴重な戦訓となる
この状況は、第一次世界大戦の勃発によって一変する。第一次世界大戦では様々な新兵器が実戦に投入されるが、中でも日本陸軍を震え上がらせたのが潜水艦と航空機であった。
このような兵器が跋扈する戦場において、今までのように泊地に停泊して悠長に上陸などしていたらどうなるか。爆撃と雷撃によって上陸前に部隊は全滅、上陸できたとしても揚陸器材の効率が悪ければ後が続かない。こちらが体制を整える前に、長射程化した火砲によって吹き飛ばされ、機関銃に薙ぎ払われるという悪夢のような状況に陥りかねない。
この将来戦における敵前上陸が如何に困難なものかを示したのが1915年4月よりおこなわれたガリポリ上陸作戦だった。連合軍はオスマン帝国の首都コンスタンティノープル陥落を目指し、戦艦の艦砲射撃を含む圧倒的な支援の下に敵前上陸を敢行。しかしオスマン軍陣地からの激しい反撃にあい上陸すればするほどに被害が続出する状況となって攻勢は頓挫。膨大な犠牲を払ったのにも関わらず、最終的には軍事目標を達成できないままガリポリ半島から撤退することとなる。
日本陸軍はこの上陸作戦を戦訓として研究し、海岸に直接乗り上げ艇首をそのまま歩板とすることで迅速な揚陸が可能な「大発動艇」、より小型で取り回しのいい「小発動艇」を開発する。また、上陸部隊に対し艦砲射撃よりもきめ細かな支援ができる「装甲艇」、高速性能をもって偵察や連絡を行う「高速艇甲」の実用化にも成功した。
しかし陸軍はまだ満足してはいなかった。確かに海岸における敵前上陸の効率は大幅に改善された。しかし輸送船側に目を移せば、空の状態で積んだ舟艇をデリックによって海上へ卸し、これに縄梯子を伝って一人ずつ乗り込んでいる。これには落下の危険もあり、また火砲も車両もいちいち吊り上げて載せていくのでは時間がかかりすぎる。そもそも民間の船舶ではこのような兵器の運用自体に制約があるという、根本的な問題もあった。
そこでこれらの問題を一挙に解決すべく『軍隊輸送及び上陸作戦専用の船』、つまり陸軍の旗艦を自前で持つという発想に至る。これこそがR1、そして世界初の本格的強襲揚陸艦である神州丸へと繋がっていく記念すべき第一歩となったのである。
ここで大きな疑問が出てくる。「なんで海軍に陸戦隊があるのに、陸軍がこんな事してるの?」という、陸戦隊を知っている人なら当然出てくるであろう疑問だ。確かに日本海軍陸戦隊はその知名度の高さから、アメリカ海軍における海兵隊のような扱いを受ける事が多い。だが、実はそもそも日本軍における上陸作戦の主体は陸軍というのが正解なのである。これは自衛隊においても同様で、上陸作戦を行う「水陸機動団」は陸上自衛隊の部隊である。
陸戦隊も日露戦争頃までは比較的大規模な上陸作戦をおこなっていた。当時の名称は「陸戦隊」ではなく「海兵隊」であった
しかし第一次世界大戦を経て兵器の近代化が急速に進むと、陸戦にまでには中々手が回らなくなっていく。
取り扱う兵士の育成、新戦術の研究、兵器の維持等々、前述のように一変した戦場への対応は膨大な費用と手間が掛かる。これを陸軍が引き受けてくれるならば、その分のリソースを新兵器たる航空機や艦隊整備等に充てる事ができ、海軍は万々歳という訳である。戦訓を元に自分たちが考案した上陸作戦を展開したい陸軍としても、この流れは好ましいものであった。海軍でも陸戦の研究や教育自体は続けられる。あくまで上陸戦の主役が陸軍にうつったということである
ここに至り上陸は陸軍、船団護衛及び上陸援護をするのが海軍という、日本軍の近代上陸戦における役割分担が明確に示された。陸軍が揚陸艦を保有したという事実は「陸軍なんか載せられるか!」「海軍なんぞに頭を下げられるか!」といった子供じみた理由からでは決してない。陸海軍の方向性が一致し、実情を理解しあった結果お互いが望んだことであり、陸軍が持つべくして持った船といえるのだ。
かくして陸海軍共同の道は開かれた。もはや我々に敵はない。帝国陸海軍万歳!神州は不滅の帝国として、歴史に名を刻み続けるだろう…。
とはならなかったよ…。
なんと海軍は、この段階で陸軍の上陸作戦から一歩引くべしと内心考えていたのだ。
ガリポリ上陸戦は大規模な艦隊が上陸する地上部隊の支援を行った初の戦闘であり、当然日本海軍もこの戦いを研究していた。
いざ研究してみると、戦艦ですら対地支援のための艦砲射撃中、潜水艦や駆逐艦の攻撃を受けて撃沈されているではないか。加えて、あれだけ事前砲撃を加えても敵陣地が健在で上陸部隊が大損害を受けた事により、「これ陸上砲台と打ち合ったら勝ち目ないんじゃね?」とする意見も少なからずあった。
「艦隊決戦の花形が輸送船の護衛なんて地味な仕事できるか」という感情論、というかわがままではなく、これは立派な戦訓の一つであり、元々艦隊決戦思考の強かった海軍がこう考えたのも仕方ないといえよう。仮想敵国であるアメリカと比べただでさえ少ない戦力を輸送船に張り付けたくない、艦隊決戦のチャンスを逃したくないというのはもっともではある。
もちろんこんな事を陸軍に言えばブチ切れられるので陸軍には秘密だ。護衛するしないより、むしろこれが一番の問題だったのでは……。敵地のど真ん中に突っ込んで戦う陸軍と輸送船からすれば、「約束が違う、裏切られた!」としか映らないわけで。
しかし、「じゃあ海軍は何もしなかったのか!」と言われると、それは否である。ここで神州丸も参加した『杭州湾上陸作戦』の例を紹介する。
昭和12年、第二次上海事変の拡大により日中全面戦争が勃発、強大な中国軍の攻勢により大苦戦が続いていた。同11月5日、陸軍は上海方面の戦況を打開すべく、杭州湾に大発81隻・小発94隻・特大発9隻・装甲艇3隻・高速艇甲14隻その他多数の舟艇を結集。およそ3個師団に及ぶ大兵力を一挙に上陸させるという、当時の軍事的常識からすれば離れ業といっても過言ではない大上陸戦をやってのけた(この成功の裏に神州丸の揚陸能力があったことは言うまでもない)。
海軍はこの作戦において陸軍と密接に協力し、艦砲射撃及び航空兵力によって常に陸軍を援護した。輸送船上や上陸を果たした陸軍の将兵が上空の海軍機に手を振れば、海軍機も翼を振って応えるといったような情景も見られただろう。
このような陸海空の戦力を総合的に運用する、それこそ各国軍隊を驚嘆させるような近代的上陸戦を、日本軍は日中戦争初期に何度も行っていたのである。
「海軍さんがこんなに守ってくれるなら安心だ」と陸軍は信頼を強め、海軍もまた「可能な限りの戦力で、最大限の援護をする」という姿勢を崩さなかった。日本版上陸戦の理想は、ここで既に達成されていたのである。
ちなみに、なんで海軍がこんなに陸軍に協力できていたかというと、答えは簡単である。中国はアメリカではないからだ。当時の中国海軍、ここでいう中国とは「中華民国(Republic of China)」、つまり現在の台湾政府のこと。雪風や対馬が戦後渡ったのもこちら。
2019年現在空母の建造や駆逐艦の大量産など海軍の強大化を進めているのは戦後に中華民国との内戦に勝利して成立した共産党政権「中華人民共和国(People's Republic of China)」である。中華民国(台湾)海軍は大戦中に比べればかなりマシになったが、アメリカやフランスからの中古が多くを占めている。
だからこそこの致命的な問題は、日中戦争では表面化しなかった。そして結局、本来守るべき対象であったはずの輸送船団に対する海軍の姿勢が曖昧なまま、日本は太平洋の戦いに突入する。その結果どうなったかは…陸軍が輸送用潜水艦やら護衛空母を持っていたっていうことで、全てを察しよう。
「神州」とは日本そのものを指す雅称。つまり扶桑や秋津洲などとルーツは同じである。
建造時の仮名称は「R1運送船」であった。このRは「Rikugun(陸軍)」の意。つまり「R1」=「陸軍最初(1号)の船」ということになる。これは陸軍最初の『特種船』という意味合いであり、神州丸以前から陸軍は軍隊輸送船「宇品丸」を保有している。昭和4年に陸軍省所属船となった「宇品丸」は陸軍における上陸作戦や水上・船上兵器の研究にも大きく貢献しており、この手の関係者の中ではその名を知らないものはいない「海の陸軍」の顔であった。存在を秘匿していた神州丸の場合、「遠目で見たことはあるが名前は知らない」「変わった船を造ったとは聞いたが見たことはない」という事が多かった。神州丸は秘密兵器扱いであったため、いちいち「陸軍の船」と呼んでいては不都合があった。令和元年でも乳酸菌でもないよ
「R1運送船」の他に「G.L.」や「M.T.」という秘匿名称もあった。「G.L.」は「神州」の直訳(God Land)。「M.T.」は「軍隊輸送船」(Military Transport)、または命名当時の初代・第1船舶輸送司令官である松田巻平中将(Matsuda)及び2代目司令官の田尻昌次中将(Tajiri)のイニシャルからとられたものであった。
上陸用舟艇を船内の全通式格納庫に多数搭載し、後部のスロープから迅速に展開する能力を持った陸軍特種船の第一号。非常に紛らわしいのだが『陸軍特殊船』ではなく『陸軍特種船』である。
陸軍による初期設計では艦橋(船橋)の下がアーチ状になっており、ここから船首まで続く滑走路によって航空機が自力で離陸する。さらに船体後部にも航空機格納庫があり、エレベーターによって甲板上に運び込み2基のカタパルトで射出するという中々にとんでもない計画だった(んな無茶な…)。もちろんこれに加え、兵員や物資を満載した状態の搭載舟艇を迅速に出撃させる船尾のスロープ式発進装置や両舷に多数設置されたボートダビット等、上陸作戦に必要と思われる要素をこれでもかと詰め込んだ、まさに奇想天外な船であった。
この陸軍による設計案があまりにも現実離れしていたため、海軍艦政本部によって手直しを受けることとなる。一体何が気に入らないというんだ!
しかしそれでも特異な形状である事には変わらず、この後建造された陸軍特殊船はあきつ丸を除き一見普通の貨物船と変わらない外観をしている(神州丸と同様、船内に全通式格納庫を持つ点は変わらない)。
なおこの形状は必然か偶然か、現用のドック型揚陸艦に非常によく似ている
神州丸は陸軍における『第一級秘密兵器』としてその存在を厳重に秘匿していた。そのために『馬匹及び重材料輸送船』と称され新聞・雑誌を始めとする公刊印刷物への記載はもちろん禁止、日本の保有するあらゆる船が登録される筈の日本船舶名簿にもその名はない。極一部の関係者を除き見学や写真撮影、写生に研究のための模型作成など神州丸に対する事柄は全て原則として陸軍大臣の許可が必要であり、陸軍部隊にすらその性能は知らされていなかったのである。
その余裕ある設計により、上陸作戦時には揚陸団司令部及び上陸部隊の上級司令部が設置される『司令部指定船』の一隻。そのためマレー上陸戦では山下奉文中将、ジャワ上陸作戦では今村均中将など、日本陸軍の名だたる将軍を乗せて数々の上陸戦に参加した。
艤装ではクレーンが確認できる。これは船体前部甲板に装備される『トラス式大型クレーン』であり、神州丸の大きな特徴となっている。トラス式、つまり三角形の骨組みで構成された容量30tの巨大なクレーンである。前部甲板の大型倉口を開放することで、このクレーンで吊り上げた舟艇を直接船内の全通式格納庫に収容する事が可能であった。*基本的には船尾舟艇発進口から収容する。神州丸は前部甲板にも舟艇を搭載可能であるため、クレーンもその際に使用する事が多かったようだ
またカタパルトへ航空機を搭載する際にも使用される。
船体両舷、全通式格納庫の側面に『中門扉』が存在し、その上部には『ガントリークレーン』が折り畳まれる形で収納されている。このクレーンにより格納庫内の『中門扉』から大発を吊り上げ泛水、または収容する事ができる。これは量産型特種船にはない*(単純に手間であったのか、船体強度に不安があったのか、思いのほか有用でなかったのか、理由は不明である)、神州丸唯一の装備である。
船体後部甲板にも前部甲板にあるものと似た三脚のデリックポストが立っており、ここに『後部大型デリック』が存在する。通常は船体に対して水平に倒れているためあまり目立たないが、このデリックが可動し立ち上がると容量50tに及ぶ強力なデリックとなる。これにより装甲艇や高速艇甲を吊り上げ後部甲板へ搭載、または泛水をおこなう。
この強力なデリックを装備しているという点は陸軍特種船共通の特徴である。これがどれ程重要な事であったか、我ら陸軍の主力戦車、愛すべき「九七式中戦車チハ」で考えてみよう。
チハは軽い。それこそあのアメリカ軍が運用していた宿敵「M4シャーマン中戦車」の半分くらい、と言っていいくらいに軽い戦車であった。他国中戦車の半分くらいしか重量のない中戦車……。しかし日本にとってはこれでも重かった。チハをそのデリックによって吊り上げられる輸送船は、日本では非常に限られていたのだ。
このデリックなら吊り上げられる、とされていた船でも実際にやってみると「なんか凄い音してるぞ!ひん曲がってる!」「折れる折れる!俺達のチハが!」となる光景はありふれたものだった。搭載している主砲や無線機、機関銃など重量物を片っ端から降ろして何とか…、というのは日常茶飯事。重いものを積んで運べる、これだけでも陸軍特種船は陸軍にとって非常にありがたい存在だった。
さらに陸軍が開発した対潜水中音響兵器『す号装置』を搭載している。陸軍船舶における『す号装置』や『タセ号』の運用は船舶情報連隊が行う。ただ、この部隊が連隊として編成されるのは大戦後期の事であった。それまでは他の部隊から抽出し、乗り込んでいたのだろう。
これはフランス製のコピーであった海軍の九三式水中探信儀と異なり、西村式潜水艇を用いた研究で完全独自開発された、日本初の国産アクティブソナーである。
『す号装置』は元々太平洋方面を重視していた海軍にかわり、日本海方面に出没するであろうソ連潜水艦隊への対策、つまり海岸要塞に配備された砲台との連携によって潜水艦を攻撃する拠点防衛のために開発されたソナーであり、探知範囲は海軍の三式などと比べても広い。
ただし装置自体は非常に大掛かりな物であり、生産にも船舶への搭載にも手間がかかり、そもそも積める船は搭載を前提としていた陸軍特種船くらいに限られていた。
日本陸軍は船舶用の電波警戒機、『タセ号』を実用化していた。これは『吉備津丸』など量産型特種船には搭載されたが、神州丸は最後まで搭載しなかったようである。
「タ」は陸軍において電波兵器の研究・開発を行っていた多摩陸軍技術研究所、「セ」は船舶を表す。
艤装には二本の煙突があるが、前部の太い煙突は航空機用の格納庫を隠すためのダミーであり、実際は見えている部分しかない。
ちなみにこの煙突、実は海軍の戦艦日向が改装時に不要になったものを譲り受けたものだったりする。基本的には乗せているだけであるので、いつでも取り外し可能であった。
神州丸の最大速力は20.4kt。海軍艦に見慣れた方は「えぇ、遅い…。」と思われようが、実のところこの速力は輸送船としてはめちゃくちゃ速い。当時日本が保有していた最優秀貨物船、いわゆるニューヨークライナー(日本の誇る最優秀貨物船としてニューヨーク航路に投入されていたため、このような愛称がついていた)と同等、もしくはそれを上回るほどであった。当時は10ktでるかでないかという貨物船がざらだったのだ。えぇ! 陸軍がやっとの思いで編成した最優秀輸送船団にその半分の速力も出ないような護衛艦を張り付けていた海軍があるだって!?
また磁気機雷対策として舷外消磁電路を装着しており、対魚雷防御として二重の25mmDS鋼板により舷側を守っている。このためのちの蘭印作戦で最上による魚雷誤射を受けた際、防雷隔壁は一層目を破られたものの二層目で浸水を食い止めていた。(参考文献「日本陸軍の航空母艦: 舟艇母船から護衛空母まで」著:奥本 剛氏 出版:大日本絵画)
だが基本的に、神州丸を含む陸軍特種船は喫水線付近に巨大な舟艇格納庫が存在する事によりいざという時に浸水を防ぐ隔壁が少なく、そのため魚雷をはじめとする喫水線以下の攻撃に対して非常に脆い。もっともこれは神州丸に限らず、揚陸艦の宿命というべき弱点ではあるが……。
神州丸以下陸軍特種船の特徴の一つに、船内の居住性が非常に高いことが挙げられる。大戦当時、日本が所有する船舶はその多くを貨物船が占めており、とりわけ日本陸軍が徴用して軍隊輸送を行うとなるとその割合が大きかった。これがなにを意味するかというと、極端に言えば軍隊は「人」ではなく「貨物」として劣悪な環境の船倉に押し込まれ輸送されるのである。もちろん輸送船側も応急的な設備を甲板に備えるなどして必死に対応するのだが、元が貨物船ではどうしても限界があった。
これが大兵力の輸送を目的として建造された陸軍特種船ではどうなるかというと、まず船内の冷房・換気・照明が完備され、一人一人がとれるスペースも格段に広い。軍隊をまかなえるだけの調理施設や大人数に対応できる厠(トイレ?と思われるかもしれないが、船上では極めて大切な事である。貨物船の場合、仮設のものを作っても数が全く足りなかった…)、更には兵員用の浴室まであったという。輸送される将兵からすれば「着いてからが本番」であり、そこに至るまでの環境やコンディションは軍の士気に直結する非常に重要な要素であった。
やはり目を引くのが艤装に多数搭載された大発動艇であろう。
前線部隊にして「これとこれを扱う工兵がいなければそもそも戦えない」とまで言わしめた縁の下の力持ち、それこそがお馴染み大発動艇、通称大発(LB艇)である。秘匿名称LBはLanding Boatを表す。
これは第一次世界大戦中、連合軍が急造した歩板付き舟艇からヒントを経て陸軍が開発したものである。安定して海岸に固定できるW型の艇底、推進装置として岩礁など障害物に衝突しても壊れにくいスパイラルプロペラ、艇首をたおしてそのまま歩板とする(いわゆるランプゲート)機能など、開発当時は世界の先端を行く上陸用舟艇であった。
手順としてはまず着岸と同時にゲートを開き、大発に繋がれたロープを持つ2名が飛び出して艇を海岸に固定する(伏せながらロープを引っ張る)。これに続くように乗り込んでいた部隊が一斉に上陸するのである。上陸後は落としていた碇を巻き上げ、大発を離岸させる。
舟艇母船である神州丸が画期的であったのは、最大23隻(参考文献「日本陸軍の航空母艦: 舟艇母船から護衛空母まで」著:奥本 剛氏 出版:大日本絵画)もの大発を兵員・戦車を始めとする軍用車両、火砲や物資を満載したままの状態で全通式格納庫に搭載し、船尾舟艇発進口によって迅速に展開できるという点であった。
猛訓練を重ねた神州丸は支援舟艇を含むこれら舟艇を一時間足らずで全て発進させたという。大発1隻におよそ70名を搭載するとしておよそ1500名もの完全武装の軍隊を展開可能という訳だ。発進手順は以下の通り。(参考文献「揚陸艦艇入門―敵前上陸するための数多くの艦船」著:大内 健二氏 出版:光人社NF文庫 「日本の軍用船 (歴史群像シリーズ)」著:学研パブリッシング 出版:学習研究社)
・大発は格納庫内に敷かれたレール上に台車に載せられた状態で格納され、各舟艇はこのレールにそって張られる架線から降ろされた牽引用ワイヤーによって繋がれている。
・発進用意の号令が下ると、まず4枚で構成された船尾泛水扉を放射状に開放する。
・続いて神州丸は後部のトリムタンクに注水。船尾の喫水を下げる事で、滑走台を着水させる。
・さあ出撃だ!格納庫天井に設置された特殊ウィンチが巻き上げられると、ワイヤーに繋がれた大発がガラガラとレール上を進む。まず後部牽引ワイヤーが外れ、反転台手前で前部ワイヤーによる牽引を解除!
・そのままの勢いで反転台の上に到達すると大発は後方へと傾き、滑走台を滑りながら海面へ。発進完了!
なおこの船内に格納されているという事が非常に大きな利点となっている。通常の輸送船の場合は甲板上にそのまま舟艇を積み込む訳だが、このために敵機の攻撃に直接晒され「敵機に追い立てられながら死に物狂いでここまで来たのに舟艇が破壊されてて全然物資運べない…」という悲劇が起きていたのである。船内に格納されていれば、ある程度攻撃は防げる。また露天より遥かに整備がしやすいという点も便利であった。
船体の上部甲板には小発動艇、通称小発(SB艇)も搭載されていることが確認できる。
小発は大発とほぼ同時期、小型軽量であるという運用面に考慮して設計されたものであった。秘匿名称SBはSmall Boatを表す。
小発は大発と異なり歩板はなく、兵員はそのまま飛び降りる形で上陸する。思いのほか使い勝手が良くなかったのか大発が便利すぎたのか、小発の生産数は大発に比べ格段に少ない。大発は陸軍のみでも5000隻以上生産しているが、小発は1000に満たない程度であった。
神州丸において小発は上部甲板に搭載され、ボートダビットによって降ろされるようになっていた。
小発は並列2隻で配置され最大20隻の搭載が可能であった。だがどうにもこの小発、次第に搭載数は少なくなっていったらしい。神州丸の上部甲板は「ぜひここに対空火器の放列をしいてください!」と言っているような平面構造で、実際大戦後期にはここに8門もの高射砲が配置され空を睨んでいる。小発用のボートダビットも取り払われていったのではないかと思われる。
これら上陸用舟艇の他にも、護衛艇である装甲艇(AB艇)、陸軍が研究のために輸入したイギリス海軍魚雷艇をベースに独自開発した高速艇甲(HB-K艇)を搭載している。
艤装の上の方に載っている砲塔がある艇が装甲艇で、神州丸は最大四隻搭載可能である。秘匿名称ABはArmored Boatを表す。
こちらは上陸時に浅瀬に接近して搭載銃砲により対地支援、また上陸援護のための煙幕展張を行う支援艇であり、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲1基と八九式旋回機関銃塔2基(7.7mm双連式機銃)、煙幕展張装置などを備えている。これもガリポリ上陸戦の戦訓である。「陸海で離れているため連携が難しく且つその大火力により味方をも巻き込みかねない艦砲よりも、上陸部隊と共に敵陣に近接して正確に敵を制圧する適切な火力こそ必要」という陸軍の判断から、装甲艇は誕生した。
基本的には二隻で「装甲艇隊」を編成し、上陸作戦はもちろん河川における警備や船舶の護衛など、様々な任務を行う。その名の通り艇全面が装甲化されていて頑丈という特徴を生かし、障害物に体当たりしてこれを破壊、舟艇隊の進路を開くといった運用もなされた。
この手の兵器としては非常に小型かつ軽量で輸送船の甲板などにもそのまま積み込むことが出来、また吃水が浅い(大人の肩ぐらいの水深があれば問題なく行動可能)という特徴から非常に使い勝手がよく、大陸戦線に満ソ国境、さらにビルマ・インド方面からニューギニアをはじめとする南方各地にいたるまで広く運用された。
この様に開発当時は他国に類を見ない先進的な舟艇であったが、本来の任務はあくまで「低速である上陸用舟艇の護衛」であり、太平洋方面に出没する高速重武装の連合軍魚雷艇にはとても太刀打ちできず、これが駆逐艇(カロ艇)の開発を推し進めていく事になる。ただ、四式37mm舟艇砲や九八式二十粍機関砲を搭載しつつ37ノットの高速を発揮できるカロ艇は昭和十九年中頃から量産が開始され陸軍海上駆逐大隊で運用されたものの、神州丸他船舶への搭載は考慮されていない
装甲艇は改修を繰り返しながら十年以上生産され続けたため、建造時期によって兵装等の仕様が異なる。例を挙げれば、戦車砲塔を2基に増強したものや八九式旋回機関銃座を両舷に追加したもの、兵員や物資輸送のために艇体を若干拡大したものなどが存在する。(参考文献「日本陸軍の船艇: 上陸用、輸送用、護衛用、攻撃用各船艇から特殊船まで」著:奥本 剛氏 出版:大日本絵画 「『丸』2008年4月号 『陸軍船舶隊』の知られざる記録」著:藤田 昌雄氏 出版:潮書房)
高速艇甲も四隻搭載可能。秘匿名称HB-KはHighspeed Boat Kouを表す。
この高速艇はイギリスソーニクラフト社製の魚雷艇を原型として陸軍が開発したもので、その高速を利用して上陸地点の強行偵察及び部隊間・船舶間の連絡を主な任務とする。海軍が同じく高速艇として運用していたものより遥かに性能が高く、陸軍船舶関係者はこれを指して「海軍のいわゆる高速艇」と区別していたという。仲良くしろよ…。
こちらは装甲艇のような固定武装はなく、せいぜい歩兵用の軽機関銃を据え付ける程度である。
海軍はこの様な高速艇の開発に難航しており、陸軍から高速艇甲やカロ艇の技術提供を受けることになる。海軍ェ…。
これら舟艇の発進作業は神州丸に所属する泛水作業隊が行うが、舟艇を運用するのは独立工兵連隊となる。独立工兵連隊は日本陸軍において上陸戦や河川戦闘に従事する部隊であり、編成は部隊によって差はあるものの将兵約千名、小発・大発・特大発など上陸用舟艇百隻前後、装甲艇・高速艇甲などの支援舟艇十隻前後で構成される。
この独立工兵連隊から部隊が派遣され、揚陸艦たる神州丸での任務に就く事になる
あれ、特大発動艇は? いう方もいるかもしれないが、実は神州丸に特大発を搭載する事はできない。
特大発動艇は八九式中戦車に代わる新式中戦車に対応するため陸軍が開発した上陸用舟艇。基本的には大発の拡大版だが、大型化によりエンジン及び推進装置を2基に増設、歩板の開閉も電気駆動式となった。これにより最大16.5tの物資を輸送、武装兵なら120名、九七式中戦車チハなら1両、九五式軽戦車ハ号又はトラックなど軽車両の場合は2両までの搭載が可能となっている。
というのも特大発は大きい。その全長はおよそ18mもあり、これはだいたい某連邦の白い悪魔と同じくらいと言えばわかりやすい。開発時期の違いもあって格納庫と舟艇発進装置が対応できないのである。
陸軍特種船における全通式格納庫への特大発の搭載は、あきつ丸の妹たる『にぎつ丸』の完成まで待たなくてはならない(昭和18年3月竣工)。
なお、特大発の秘匿名称はN-LB。LBはLanding Boatとして、このNがなにを示しているのか定かではない。いままであまりにも単純ストレートな秘匿名称だったのに、どうしちまったんだ陸軍……。
神州丸は、船上砲兵陣地に展開する対空火器により陸軍船団の防空を担う『防空基幹船』である。文字通り防空の基幹を務める、というわけだ。最上による撃沈からのサルベージ後には八八式七糎半高射砲11基、九八式二十粍高射機関砲6基、対潜中迫撃砲1基など更に武装の増強がなされた。
主力の八八式七糎半高射砲、これはまあ……本土防空戦の際、国民から「敵機に届かぬ高射砲」と散々陰口を叩かれていたあれと言えば「あぁあれか……」となるかも。
とにかく地上への爆撃ならまだしも船に対してそんな高度から攻撃を加えることはない。それどころか米軍の爆撃機はスキップ・ボミングなんぞやってくるから…。
スキップ・ボミングとは、日本陸軍が跳飛爆撃と呼んだ恐るべき爆撃法である。超低空から雷撃機の魚雷のように爆弾を投下、大威力の爆弾を魚雷などより遥かに早い速度で輸送船の横っ腹に叩き込んでくるので恐怖の対象であったのだ。手ごろな形の石を水面に投げると水の上を切って飛んでいくようなあれ、と考えるとよい。こうなると高射どころか、時には俯角(マイナス角)までつけて迫りくる敵機に撃ちまくる事となる。なお船団の高高度を飛行する偵察機には手も足もでない模様。
そんなわけでこの高射砲、船の上ではけっこう「使える」兵器であった。それこそ「護衛する海軍の高角砲なんかより、俺たちの方がよっぽど敵機を落としてる。」なんて豪語する船砲隊員がいた程であった。確かに元が野戦用の軽量砲なだけあって狭い船上でも取り回しが良く、旋回も発射速度も速いとはいえる。
よく訓練を積んだ部隊は毎分15〜20発の射撃が可能だったという。(参考文献「日本陸軍の火砲 高射砲―日本の陸戦兵器徹底研究」著:佐山 二郎氏 出版:光人社NF文庫)そんなに撃ったら壊れそう? まあ確かに壊れやすい砲ではあるが……。日本陸軍は海上輸送に不便だとかトラックが少ないとか色々な理由でとにかく軽さを追求するため、特に火砲はあまり頑丈にできていないのだ。
船舶に搭載される場合、基本的には船首・船尾に陣地を設け2〜4問ずつ配備される。神州丸の場合は舟艇の搭載スペースや大型クレーンが存在するため、高射砲11基のうち8基を上部甲板に集中配備していた。この陣地と対空戦闘指揮所を有線電話で繋いで防空戦をおこなう訳だが、乱戦となるといちいち指揮など仰いでいられずもっぱら目測とベテランの勘で射撃していたという。
ちなみに八八式七糎半野戦高射砲は軽量化を求めすぎた結果、平射したらいとも簡単にぶっ壊れるという大問題を持った火砲であった。数発耐えればよい方である。
陸軍もこんな問題を放置なんてできないので、多少の重量増加に目をつむって各部を補強したマルトク(〇の中に特と書く)というタイプを開発する。輸送船に搭載されたものは全てこのマルトクであったという。これなら平射でも、対潜水艦射撃のために俯角をつけてもまったく問題ない。浅深度潜航中潜水艦攻撃用として、水中弾も開発された。水中弾とはその名の通り水面で跳ねないよう砲弾の形状に工夫をした特殊砲弾である。日本陸軍はやたらとこの水中弾を開発していた。なにしろ砲の元々の数がないから何でもかんでも引っ張り出して輸送船に載せようとするのだ……。
しかしこのマルトクは要塞などの固定用として元々開発したので、一般の部隊は八八式七糎半野戦高射砲のままであった。これがのち、南方での戦闘で問題となる。我ら陸軍の怨敵、にっくきM4シャーマン戦車に攻撃できないのだ。せっかくの火砲、せっかくの高初速……。ドイツ軍の、いわゆるアハトアハトのような運用ができなかったのである。いちおう対戦車用の徹甲弾も少数ながら生産していた。ただ、部隊からすれば「最後の手段」であったと思われる。一応、水平にしっかりと固定し爆風除け等の措置を講じれば平射も可能とされてはいたが……。
九八式二十粍高射機関砲は昭和16年に正式採用された、日本陸軍初の本格的国産20mm機関砲である。「九八式」が示すように砲自体は前から完成していた。いや初の二十粍機関砲が昭和16年って遅くね? と思われるかもしれない。陸軍も十年近く前から研究していたのだが……。それまではフランスのホチキス式とかドイツのラインメタル式とか雑多な機関砲を装備していたのだそっちの方が良さそうとか言わないで!
この九八式二十粍高射機関砲も基本的な任務は八八式七糎半高射砲と同じである。全周射界と俯角10度、仰角80度の射撃範囲を生かして対空近接防御および対潜水艦射撃を行う。
船舶に搭載されたものはやはりマルトク型である。1門につき20発入りの弾倉6個、射撃速度は毎分300発(参考文献「日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲 続―日本の陸戦兵器徹底研究」著:佐山 二郎氏 出版:光人社NF文庫)と性能的にはまあ平均的、とみてよいだろう。使用弾種には曳光自爆榴弾、そして対空・対装甲車両兼用の曳光徹甲弾がある。実際の運用では曳光自爆榴弾(「曳光」の名の通り、光の尾を曳きながら放たれる弾丸。これは射撃側の指標とするため、そして敵機に脅威を与えるためである。一定距離を飛翔すると曳光剤が切れ自爆する。)が多用された。大戦中期以降は空気信管式の炸裂榴弾も開発され、威力の向上が図られた。「信管」は弾薬や爆弾を炸裂させる機構を指す。攻撃目標によって起爆させたいタイミングは異なるので、様々な種類がある。例えば着弾の瞬間に起爆させる「瞬発信管」、コンクリートや鋼板といった硬目標を貫通してから起爆する「延期信管」等がある。「空気信管」は渡辺三郎陸軍技術少佐の研究の元、昭和18年4月頃に陸軍において実用化された新型信管。従来の複雑な機械式と異なり、着弾時の断熱圧縮によって炸裂する。機構そのものの単純化により生産効率と信頼性が大幅に向上し、空いたスペースに炸薬を増やす事で弾丸威力も向上した。使用弾丸を変更するだけで火力向上を図れるため、砲や航空機の生産ラインを変更したり改修する事もなく、整備員と空中勤務者等に特別な教育を施す必要もない。これは陸軍にとって非常に大きな利点であった。
こちらも船首・船尾に配備される事が多かったが、敵機の攻撃が船橋に集中するという戦訓の元、この高射機関砲も次第にその周辺に置かれる事が多くなったようだ。神州丸の場合、前部甲板に2基、船橋上部に2基、後部甲板に2基配備された。なお、神州丸とおなじ『防空基幹船』であった『ありぞな丸』は八八式七糎半高射砲を6問、この九八式二十粍高射機関砲を10門配備していた。
さて、八八式七糎半高射砲が案外評判のいい火砲だったと前述したが、この九八式二十粍高射機関砲、船砲隊では非常に評判の悪い火砲であった。
なんでもやたらと壊れやすいらしい。確かに地上で放列をしいた本砲の鮮明な写真を見ると、言ってしまえば「しょせん二十粍」であるのにやたらごてごてしているというか、量産性考えてるのか?といいたくなる。そこがかっこいいんだけどなぁ…。
まあそんなわけなので陸軍の船舶高射機関砲隊はよく海軍の九六式二十五粍機銃を装備している。陸軍はこの砲を「海式二十五粍機関砲」なんて呼んで、けっこう大々的に運用しているのだ。ご丁寧にきちんとした車輪までつくって陸の上を引っ張っているぞ。やはり陸軍である。
日本陸軍は対潜兵器として各種対潜用迫撃砲を開発し、船舶に搭載している。神州丸は船首先端部に対潜中迫撃砲を1基配備していたという。陸軍が装備した本格的対潜迫撃砲としては口径12cmのものと15cmのものがあるが、ここでは量産が開始された昭和18年以降の砲生産数から考えその主力を対潜中迫撃砲、すなわち口径15cmのものと仮定し解説する。
まずなんで迫撃砲を対潜攻撃に使うかというと、普通に水面に向けて打ち込むと水切り石みたいに跳ねていくかもしれないからだ。迫撃砲の曲射弾道で、上から水面に砲弾を落とし込めば跳ねようがないから安心である
では肝心な口径15cm対潜中迫撃砲の性能というと、砲操作は九人でおこない、25kgの砲弾を毎分10〜15発発射する。この水中弾は15m、30m、45mいずれかの水深で爆発するよう設定され、着水後は毎秒10mの速度で沈降、その爆発によって200〜300mの範囲内に大衝撃を与える、というものであった。(参考文献「日本陸軍の火砲 迫撃砲 噴進砲他―日本の陸戦兵器徹底研究」著:佐山 二郎氏 出版:光人社NF文庫)
「でも対潜攻撃に迫撃砲なんて……」と思われよう。無論あのヘッジホッグなどとは比べるべくもないが、実はこの兵器、少なくとも陸軍の身の丈にあった「隠れた良兵器」なのだ。
まずこの砲は小さい。曲射砲だから長い砲身を振り回すこともないし、狭い甲板上でも簡単に設置できる。
旋回式砲床の上に設置されているため1門でも全周囲に対応できる。攻撃の為に船の向きを大きく変える必要がないから、攻撃と回避を両立できるのだ。発射速度も速いのでやろうと思えば面制圧攻撃もある程度ならできる。
なにより爆雷投射機等よりも射程が長い。その射程はおよそ4kmあり、これは陸軍船舶の対潜ソナー『す号機』の探知範囲を完全にカバーできた。もちろんそんな遠距離の潜水艦に撃っても当たりはしないだろうが、潜水艦は案外脆いから「なにやら攻撃されてる!」という事実だけでけっこう動揺するものだ。ちなみに最小射程は200mである。
この迫撃砲によって実際に潜水艦を撃沈できていたのかは実際のところ分からない。だがないよりは遥かにましな陸軍にとって心強い兵器であった、という事は間違いないのではないだろうか。対潜水艦兵器として迫撃砲を使い始めたのは陸軍だが、のち海軍の護衛艦などにも搭載される事を考えると、ある程度その有用性も認められていたのだろう。海軍艦が運用した迫撃砲は、陸軍の歩兵大隊が大隊砲として運用していたような8mmクラスのものが多かったという。実際の威力はない、音で敵潜水艦に恐怖を与える事を目的とした「音響弾」を多用したらしい。陸軍としては、ただでさえ数の少ない、そして守るべき輸送船は多かったため貴重な対潜用迫撃砲を海軍に譲る事は出来なかったのではないか。
その他の対潜兵器として、神州丸は船尾に爆雷投下機と爆雷格納庫を有している。
陸軍が運用した爆雷は主に海軍から譲り受けたものだが、陸軍はこれを威力不足であるとして連結して使用したり、新たな爆雷を独自開発して実戦に投入していた。
輸送船は基本的に軍艦のそれより遥かに足が遅く、船体も脆い。投下したは良いがうっかり爆雷の水中爆発に巻き込まれ船体損傷……なんて事にならないよう、自分たちに都合よく調整された爆雷を必要としていたのだろう。
陸軍船舶は明治時代の野砲山砲をはじめとにかくあるものを何でも輸送船に積み込んでいた。陸軍が南方で鹵獲したボフォース対空機関砲を搭載した輸送船まであったのだ。本職の船舶砲兵でなくとも、乗り込む砲兵隊が所有する火砲を甲板に設置して戦地に着くまで自衛するというのもありふれた光景であった。
なおこれら火砲や弾薬、測高機、算定具が配備される船上砲兵陣地は爆弾の破片や機銃掃射の流れ弾などから身を守る応急の防弾版こそあれ、基本的に敵機の直接攻撃に耐えうるような構造ではない。輸送船に慌ただしく乗り込んで武装化し、出港していった船舶砲兵などはそれこそ「まるで家庭菜園のような陣地」で任務に就く事すらあったという。(参考文献「戦時輸送船ビジュアルガイド」著:岩重 多四郎氏 出版:大日本絵画)いざ敵機来襲となれば、彼らはまさしく肉弾をもって輸送船を守るべく敵機に立ち向かうのである。
艦橋の下に当たる部分にキャンパスが張られている。これは甲板構造物に隠された航空機の格納庫への搬入出口になっておりためだ。
カタパルトで射出可能に改造された戦闘機と、爆装も可能な偵察機を最大12機搭載する事が出来る。
甲板構造物が二層構造となっており、下層は兵員室で上層は航空機の格納庫である。格納庫は表向きは『馬欄甲板』(つまり馬の輸送に使われるスペース)として秘匿されていた。
実際には設計時点で採用になっていた旧式の小型機の使用しか考慮しておらず開戦時には事実上廃止されており、将兵の居住スペースまたは物資用の倉庫として活用されていたという。
この装備を語るにあたり、「帰還する設備のない航空機載能力なんて必要なの?危ないだけじゃない?」という意見がある。確かにその通りといえばその通りなのだが、少なくとも陸軍が想定していた運用方法から見れば誤りともいえる。
まず、神州丸の設計された1930年代初期における日本の航空機は航続距離が短く、渡洋飛行など非常に難しい話であった。海軍ならば空母に搭載する事で解決できるが、空母なんて持っていない陸軍はそうはいかない。
ではどうするかというと、航空機を分解して輸送船に積み込み、現地で降ろして再び組み立てる事になる。それから試験飛行などを行った後に「さぁようやく実戦だ!」となるのだが、陸軍はこの段階に至るまでどうしても数日はかかるだろうと試算していた。もちろんこれは「ある程度攻略してから」である。砲弾の飛び交うような戦場で飛行機を組み立てる事はできないし、そもそも輸送船から降ろすことができない。迅速さが求められる軍事作戦においてはこれは致命的なタイムロスになりかねない。
そこで登場するのが神州丸の航空機搭載能力なのだ!要するに陸軍は、海軍が空母に見るような「母艦」としての能力を神州丸にそもそも求めておらず、航空機をそのままの形で運び、状況に応じて即座に戦場へ航空戦力を送り込む事ができる「発進地点」としての能力を神州丸に求めていた。
こう聞くと確かに有用そうな機能ではあるのだが、実際のところ問題は山積みであった。あくまでも臨時で搭載するだけであるのに航空機はカタパルトに対応させるため一機一機改修しなければならず、空中勤務者に対する教育も行うとなると非常な手間と費用がかかる。また、発進した後に上陸部隊が反撃を受けるなどして飛行場が確保できなくなれば、結局不時着するしかなくなってしまう。実戦では一度しか利用されていないという悲しい現実が、全てを物語っている……。
しかし陸軍は特種船における航空機の運用を諦めていなかった(ある意味振り切ったというべきか)。「カタパルトがダメなら滑走路だ!」と言わんばかりに空母型の飛行甲板を求め、これがあきつ丸の航空艤装へつながっていく。
ちなみに神州丸に搭載されたカタパルトはKSと呼称されていた。これは呉射出機(Kure Syasyutuki)を意味していると思われる。KS及び航空機搭載に関連する器材は特に秘匿に注意する事とされていた。そのため普段は外しており、部隊の教育や訓練、運用法の研究など必要とされる時のみ装備していたという。
陸軍は神州丸にすっかり惚れ込んでいた。何しろ初めての艦種であるのでいくらか不具合こそあったがカタパルトとか、大陸戦線で実施される数々の上陸作戦、その成功と共にもたらされる神州丸大活躍の報、迅速な輸送と揚陸能力……。彼らこそは「海国陸軍」の軍人。これに惚れるなという方が土台無理な話なのだ。そして陸軍の募る想いは、ある意味当然の結果へと帰結する。すなわち
『神州丸を量産して大揚陸艦隊を編成するぞ!』
まず当時の背景として、複雑化の一途を辿る国際情勢、米英を中心としたアジア地域に植民地を持つ国々との急速な関係悪化、資源確保の必要性等々により、陸軍はいよいよ東南アジアに目を向けていた。
もっとも神州丸の建造理由の一つとしてフィリピン攻略があり、特に海軍は当時から意識していた。だからこそ海軍は神州丸建造に協力した、とも言える。アメリカと事を構えるとなると、いざという時その拠点たるフィリピン、前衛と成りうる南方諸島を上陸戦によって攻略するのは陸軍となるからだ
大陸での戦いは陸戦が主体であるから何とかなっているが、いざ太平洋となればそうはいかない。はるばる海を越えて敵地へと踏み込む完全な海洋作戦である。しかも東洋におけるアメリカ及びイギリスの拠点というべきフィリピン、シンガポールを攻略するとなるとちょっとやそっとの兵力では無理だ。どう見積もっても数個師団の、大兵力が必要となる。
しかも出来る限り迅速に、かつ同時多発的にに行わなければならない。ドイツ軍のポーランド侵攻のような電撃戦、あれの海上版ととらえればよい。なお海軍はフィリピンを絶対的目標(元々仮想敵国がアメリカなので、当然といえよう)としていたが、陸軍はシンガポール・インドネシア方面を重視していた。理由はもちろん、こっちが本来の目的とみていた主たる『資源地帯』だからだ。
海軍「アメリカ潰すアメリカ潰すアメリカ潰すアメリカ」
陸軍「大東亜共栄圏〜♪」
分かりやすく誇張もいれるが、この結果壮大な「帝国無双」が陸軍の一部で語られることになる。建造費や部隊編成教育等々、非現実的な点だらけだが、「こんな事いいな、できたらいいな♪」計画としてうけとるべきだろう。
開戦と同時に欧米列強の植民地に対し、我が陸軍の誇る大揚陸船団をもって奇襲上陸戦を敢行、敵に増援の暇など与えず一挙に占領するのだ! これぞ世界戦史に見ざる海洋電撃戦なり!
さて、占領後は自給自足体制の確立である。その輸送能力を生かし本土と南方資源地帯を結び、国力の増大とより強固な防衛線を構築するぞ! 大東亜共栄圏万歳!
そして捲土重来を期して迫りくる敵を、陸海空の総力にて迎え撃つ! 資源を得て生まれ変わった我ら、もはや敵はなし!
ちなみにこの構想、海軍の短期決戦思想とは180度逆の持久戦となる。この構想も、海軍の苛烈すぎる防衛的攻勢で簡単に破綻する事になるのだが。
「大東亜共栄圏も形になってきたな!(なお実態)」「ああーー!ガダルカナルの飛行場がーーー!」
これにも様々な理由があるだろう。開戦時、陸軍は「資源地帯の占領」、海軍は「敵艦隊への第一撃(あわよくば撃滅)」を目指す。この段階では、無論程度の差こそあれ護衛に力をいれるいれないはあまり問題とされない。有力な敵艦隊が泊地に突っ込んできて大損害を受けるなんて事がないとも限らぬ、この憂慮を断つのだ、と陸軍もある程度理解は見せる。日本海軍が本来、本当の意味で自分たちの思うままに動けるのは、この僅かな時間だけであったのかもしれない……。海軍がこれを把握していたのであれば、短期決戦艦隊決戦に異常に執着したのも理解でき……理解……やっぱ現実はつれぇわ……。
まあ占領するのは陸軍が主体なのだから、その後の事を考えるのは当然という訳だ。陸戦と海戦という違いもある。陸軍も国力的に短期決戦で済むならそれが一番とは考える。しかし、南方での陸戦(すなわち島嶼争奪戦を指す)はどうも「戦艦撃沈!」とか「空母を沈めたぞ!」といった華々しさ、というか明確さに欠ける。必死に攻略したとてそこは敵国本土から遠く離れた植民地。「やっと占領したぞ……。でも米国本土の奴らは毎日コーラ飲んでビフテキ食ってるぜ(偏見)。」みたいな、いつ体制を立て直して領地を奪い返しにくるか分からぬという不安を拭い去ることができないのも納得できよう。
とにかく思い立ったが吉日、陸軍は早速この揚陸艦量産計画を始動する。考案された揚陸艦、即ち『陸軍特種船』には以下の3タイプがあった。
「甲型」…8000トン級。船体そのものは一般的な貨物船と同様とする。全通式格納庫と船尾舟艇発進装置を持つ。
「乙型」…4000トン級。砕氷能力を有する北方作戦仕様。船体そのものは一般的な貨物船と同様とする。全通式格納庫と船尾舟艇発進装置を持つ。(のち甲小型と変更)
「丙型」…8000トン級。船体そのものは一般的な貨物船と同様とする。全通式格納庫と船尾舟艇発進装置を持つ。状況に応じて上部構造物を取り払い、飛行甲板を設置する。
さて、大々的に構想を掲げたのは良いが、陸軍は当たり前の問題に直面する。建造する為の資金がないのである。
神州丸は陸軍省の直轄であるから、建造費に改修費、維持費や船員の確保などは当然陸軍が取り計らう。一隻ならまだしも、数が増えれば到底賄いきれない。
そもそも日本陸軍は師団のみでも51個もの大兵力を有する『陸軍』なのである。歩兵・砲兵・工兵・戦車・航空・鉄道・騎兵・輜重・衛生……あげればきりがないが、とにかくこれらも疎かにできない。上陸したはいいが装備で圧倒されて敗北したのでは、元も子もないのだ。
そこで陸軍は海運会社に助成金を出して建造してもらおうと考えた。
これはいざ戦争となれば徴用する事を前提とする代わりに軍が民間会社を援助するものである。日本海軍の軽空母などにもこのような経緯で誕生した艦があるので知っている方は知っているであろう。
こうして陸軍は大手海運会社を前に交渉を始める訳だが、ここで陸軍を待っていたのは、彼らからの大ブーイングであった。
「軍隊輸送用の特殊船舶ってこれ、絶対軍事機密ですよね?」「平時の海運業に使えないんじゃ儲けにならない!」「我々は陸軍の下請けじゃないんだが……」「会社として建造したい船があるのにこんなものを造っては負担が大きすぎる」「なんで陸軍が船造るんです?」彼らの不満はもっともである。
さすがの陸軍もこれには反省した。彼らは海国日本の経済を担う者たちなのだ。だいたい民間海運会社がなければ軍隊は外に行く事もできない。
陸軍とていつも威張り散らせるわけではない。むしろこの手の事に関してはいろいろな意味で国民と密接に関わっているだけあり、少なくとも海軍などよりは遥かに「物分かりのいい」組織であった。
結局交渉の度に減少を続けた要求総屯数は8万トンで決着する事となる。
ここまで紆余曲折あり、苦難あり。而してここに揚陸艦の量産という我ら帝国陸軍の夢は達成された。閣下殿なんてご機嫌で、「揚陸艦できるまでちょっと風呂入ってくる。」だってよ! この余裕、もはや勝った! これで南方作戦も安泰だ!
陸軍「いや少なすぎぃ!!!」
排水量数万トンとか、今までそういった数値の海軍艦に触れてきたであろう皆様方はお気づきになるかもしれないが、この『陸軍用揚陸艦8万屯建造』。実は陸軍本来の要求とは程遠い、のちに控えた南方作戦の前途多難を如実に示すとんでもない数値だったのだ!
さて、ここで重要となるのが日本陸軍における『師団』という考えだ。今までさんざん文章ではでてきたが、いまいち掴めていない方もおられると思うので簡単に説明する。単純にするために兵員数などどんぶり勘定になる点もあるが、目安としてとらえてほしい。
『師団』は日本陸軍における最小の戦略単位である。割り砕いて言えば、「陸軍がでっかい事をする時に送り込む最小の部隊」という事だ。南方作戦はこのでっかい作戦だから、「こっちに〇〇師団を、あっちに〇〇師団と〇〇師団を…」みたいな感じで、少しずつ攻略戦の計画を組み立てていく事になる。
そんな大きな部隊だから『師団』内には砲兵隊がいて、戦闘を支援する工兵隊、通信隊、輜重隊、大規模な衛生隊もいる。いわゆる「諸兵科連合」であり、『師団』一つあれば軍隊で求められる事は一通りできる位の認識をもってくれればよい。
簡単に『師団』について理解できた所で、この『師団』と陸軍がとりつけた『陸軍用揚陸艦8万屯建造』を組み合わせて考えてみよう!
神州丸は1万トン揚陸艦。つまりこの計画によって「神州丸級」の揚陸艦がおよそ8隻建造される事になる。「ハーフサイズ揚陸艦」である乙型も建造計画に入っているため実数はもう少し多いのだか、小さい分搭載量も少ない
では神州丸はどれくらいの部隊を一度に輸送できるかというと、ざっと1200〜2000名であった。これはまあ、ひとまず一個連隊は無理することなく輸送できよう、という数値である。実際にはだいぶオーバーするのだが、特種船が元々少なすぎるししょうがないと考えるだろう、と割り切ってほしい。それこそ大戦後期には、特種船に4000人以上押し込み輸送という事もあったのである。日本陸軍の『師団』はだいたい4個連隊から編成されるので、およそ1/4を運べるという訳だ。戦前の軍縮やら戦時対応のための混乱やらいろんな影響で3個連隊編成だったり、そもそも部隊ごとに人数が違ったりするのでどんぶり勘定で考えようそうしよう。案外少ない……少なくない? なんていってはいけない。完全武装の2000名に十分な環境を提供しつつ輸送できる、というのはこの時点で凄い事なのである
「うーん……、じゃあこの揚陸艦4隻で1個師団、合計8隻だから2個師団運べる、ってわけか…。同時にいろんな所で上陸は無理としても、何とかいけそうじゃない?」
これは早合点である。『師団』、一万前後の人が動くというだけで途方もない物資が必要なのだ。しかも彼らはひと度戦いが始まれば何万もの銃弾、何千もの砲弾があっという間に吹っ飛んでいく戦争に赴くのである。また、上陸戦第一波を担当する特に装備優秀の『師団』は、大量に自動貨車を持つ『機械化師団』でもある。これだけで大幅に貨物を圧迫する。
そもそも近代の陸戦をそのまんまの『師団』で戦う軍隊などない。目標は米英の一大拠点。「ジャングルに隠された幾線もの陣地帯、これを突破するには戦車の装甲と機動力がいる。」「師団砲兵の7糎級野砲じゃあ撃ち負けるぞ!こっちも重砲をもってこい!」「もっと工兵がいないと南方地帯の踏破はできん。橋がなきゃ人も車も動けん。」etc……。これらを連隊規模で次々投入するとなると、万など軽く超える。この部隊のための食糧、医薬品、銃砲弾、火砲、戦車、牽引車、弾薬車、自動貨車、燃料、予備部品……現地に飛行部隊が進出する手筈となれば、そのための物資も必要だ。なんかとんでもないことになってきた、という事にお気づきだろうか
「でもでも、日本陸軍は『杭州湾上陸作戦』で一気に3個師団を上陸させたって説明してたじゃないか!」……確かにその通りである。だがこれは、陸軍が神州丸を旗艦として実に177隻に及ぶ輸送船を杭州湾に集結させた事によってなしえた、いわば「荒業」なのである。たった一度の上陸作戦のために、日本海運業保有船の2割に相当する船舶を動員する。軍は「杭州湾を圧する我が帝国の大輸送船団」などと景気のいい言葉で称えるが、『海国』である日本の経済にこれがどれ程の影響を与えるか、考えるまでもないだろう。あまり触れられる事はないが、軍隊の「海洋機動」とはそれほどに労力がかかるものなのである。
だが、幸いにも中国大陸は近い。だから民間船舶でもあまり手間がかからず上陸作戦に参加し、思いのほか早く軍による徴用を解除され平時の海運業に戻る事ができた。加えてこの時はまだ海軍の艦隊と航空隊ががっちり守ってくれているため、損害ともほぼ無縁だったのだ。
太平洋はそれとは全く違った。はるばる海を越えて作戦に参加する。あっちで上陸作戦だ、こっちに輸送だ、やれガダルカナルだニューギニアだと軍が手当たり次第に手を付けるものだから一向に徴用が解除されない。「揚陸艦量産して上陸戦も物資輸送もたくさんするぞ!」という陸軍の夢物語が露と消えた今、占領した資源地帯から資源を届ける主力は民間の輸送船であったはずなのに、軍に振り回されてそれができない。資源確保の為に戦争をしたのに、なぜこんな本末転倒な状況に……。戦争目的どこ……。とりあえず海軍は詐欺まがいの事までして貴重なタンカー奪ってくのやめて
「仕方ないからタンカー2隻返すぞ」
「やったー!!これでパレンバンから石油運べるぞ!いつ帰ってくるんです僕たちのタンカー!」
「しらん、でも約束はしたぞ」
「……」
「あ、沈んだ…。えぇ、2隻とも…?おのれ鬼畜米帝(憤怒)!」
なんとなく、雰囲気だけでも掴めていただけたであろうか。陸軍は戦前から、少なくとも『軍隊輸送』と『物資輸送』について、今の状況はおかしい、異常だと気づいてはいた。だからこそ陸軍は自分たちが自前で使える揚陸艦、『陸軍特種船』を量産しようとした。だが気づいたところで、日本にはそれを造る程の国力も、そもそも南方作戦をまかないきれるだけの船も体制も存在しなかった。
しかし日本は、なんの対策も代替案もないまま、太平洋での戦争に突入する。そして輸送船団は地獄を見る事になった。本来人など積めぬ貨物船に軍隊を押し込む。また船が沈められた、もう船がない、だからもっと押し込むのだ。これが更なる悲劇を生む。日の丸の旗に送られて戦いに赴いた陸軍の将兵達は、敵の顔を見る事もなく、一発の弾も撃つことなく、たった一発の魚雷で3000人4000人と海に沈んでいく。戦いに駆り立てられる民間船員もまた、同じであった。
陸軍は「時局への対応」として『陸軍用揚陸艦8万屯建造』決定後も交渉を続け、最終的に『陸軍用揚陸艦15万屯建造』にまで計画は拡大される。しかしすべて遅すぎたのである。戦場は開戦前の陸軍の想定をはるかに超えていたのだ。緒戦の上陸作戦後、続々と竣工した神州丸の妹たちはこの破滅的な南方への決戦輸送へと参加、何千という将兵と共に1隻、また1隻とその船歴を終えていく事となる。
なおこの「日本軍は軍隊輸送に本来人を運べぬ貨物船を使った」という点、敵対するアメリカからすれば多少の例外こそあれまずありえない事であった。彼らは軍隊輸送に「貨客船」を使う。貨物船を使うとしても数があるから無理やり押し込む事はしない。
そして戦争が始まると、アメリカは軍隊輸送船、そして日本陸軍が熱望してやまなかった揚陸艦の大増産をおこない、太平洋での反攻作戦を推し進めていく。一つ上陸作戦を終えれば、次の上陸作戦でその改良型もしくは全く新しい上陸戦用兵器を運用している。これがどれ程恐ろしい事か! 日本軍守備隊が決死の思いで戦い送った戦訓も、米軍は「わが軍の弱点見つけたり!」と改善しているから生かされないのだ……。
こうして完成されていくアメリカ大上陸艦隊は、開戦当時世界トップレベルの上陸作戦能力を持っていた日本陸軍などあっという間に追い越し、太平洋の日本軍をひねりつぶしていくのである
ざっとこんな感じである。陸軍が船をもっていた、という事はすっかり物笑いの種になっているが、どんな物事にも背景がある。必要だから持っていたし、もっと必要になるだろうからもっと造ろうとしたのだ。ちなみにアメリカ陸軍にも船舶部隊はあったし、それこそとんでもない量の船をもっていたぞ。まああれだけの水上兵器を独自開発して大規模に運用できる体制をもっていた陸軍なんてのは、世界広しといえども日本陸軍だけなんですけどね。
我が陸軍は陸上、空中、水上、そして水中をも制覇していたのだ!
最後に、もうひとつだけ。「そういえば陸軍って8万トンで少ない少ない言っていたけど、じゃあどれくらい要求していたの?」という疑問について。陸軍が海運会社に要求したのは456万トンである。
………………456万トンである。
「俺達用の船、やっぱ500隻はいるよね〜」
「いや多すぎぃ!!!」
456万トンが8万トンになる。ここだけを見ても、日本にとって南方作戦がいかに無茶なものであったか、ご理解いただけるのではないか。
もしも神州丸型に500もの姉妹艦がいたら、太平洋戦争はどうなっていたのだろうか。
神州丸の艦歴
昭和8年(1933)4月8日、播磨造船所にて起工。
当時、海軍の息がかかっていた造船所は、いずれも外国船が自由に出入り出来る港か、連絡船や海岸を走る列車から丸見えであった。そこで前述の条件に当てはまらず、かつ掃海艇や敷設艇などの建造、中華民国の巡洋艦寧海の受注建造と実績のあった播磨造船所に白羽の矢が立った。
昭和9年(1934)2月、「神州丸」と改名。3月14日進水式を迎える。
同12月15日、竣工式。陸軍の所属であることを示す標記を掲げ陸軍船舶部隊の拠点である広島県宇品港へ向かう。
昭和10年(1935)1月、航空機射出機(KS)及び関連装置を搭載するため、呉海軍工廠に廻航。改修工事が行われる。
以降、日中戦争開戦まで上陸戦闘演習、射出機の発射速度調整などの上陸作戦に関する訓練や研究、細かな改修に励んでいた。
昭和11年(1936)10月及び12月、陸軍航空本部との合同による、船上・洋上における航空機運用に関する研究及び試験に参加している。
昭和12年(1937)8月、第二次上海事変の勃発により日中の抗争は急速に拡大、日中戦争がはじまる。
当時神州丸はバルジの取付け工事のため舞鶴工廠にいたが、急遽作戦に参加するために工事を中止、工事前の状態に復元したうえで中国方面に緊急出動する事となる。
ちなみにこの復元作業に舞鶴工廠の造船工が多数動員されたため、当時同じ工廠で建造中であった霰が影響をうけ進水が1ヶ月遅れている。
これまで神州丸と共に猛訓練に励んでいた工兵第五連隊第三中隊は独立工兵第六連隊へと改編。神州丸には鬼頭将方工兵大尉が率いる第一中隊が配属され、8月9日までに装甲艇4隻、高速艇甲4隻、大発12隻、小発26隻を搭載。10日、輸送司令官松田巻平中将の乗る司令艇と宇品港に停泊している輸送船の汽笛に送られて、神州丸は初陣へと向かった。
8月14日、「太沽上陸作戦」に参加。この日は台風接近の影響もあって海は大シケであった。まず装甲艇、高速艇甲が湾内の偵察のために出撃。続いて大発・小発全艇を僅か一時間程で泛水。悪条件の中、猛訓練の成果を遺憾なく発揮して初陣を成功させた。しかし装甲艇の収容中、乗員一名が海に転落。作業隊は直ちに救助活動をはじめるが彼は大波に飲まれて行方不明となり、神州丸における初の戦死者となってしまった。(参考文献「日本陸軍の航空母艦: 舟艇母船から護衛空母まで」著:奥本 剛氏 出版:大日本絵画)
作戦終了後、宇品港へと帰投した神州丸は、これまで搭載していた「九一式戦闘機」にかわる「九五式戦闘機」を搭載するための射出機に関する研究・試験を行っている。
同9月23日、白河々口から乗船した独立飛行第四中隊が神州丸のカタパルトから上海に向けて発進、これが実戦において射出機が使用された唯一の例となった。
同11月5日、日本陸軍は頑強な中国軍の抵抗により大苦戦の続く上海方面の戦況を打開すべく、「杭州湾上陸作戦」を発動。神州丸は輸送船団の中核として177隻に及ぶ輸送船を率い作戦に参加した。大発81隻・小発94隻・特大発9隻・装甲艇3隻・高速艇甲14隻その他200以上もの舟艇を結集したこの作戦は、日本陸軍が大戦を通しておこなった中で最大規模となる大上陸作戦である。舟艇隊主力を搭載した神州丸は、上陸第一陣として舟艇を発進。濃霧による混乱、そして上陸地点での攻撃などの困難を、舟艇隊と上陸部隊はよく克服して上陸を成功させた。
上海市街に高々と掲げられた『日軍百万上陸杭州湾北岸』、そして快進撃を続ける上陸部隊に動揺した中国軍は一挙に潰走。日本陸軍史上最大の上陸作戦は、3カ月に及んだ上海方面の激闘に終止符を打つというこれ以上ないほどの大成功に終わった。(参考文献「陸軍船舶戦争」著:松原 茂生氏 遠藤 昭氏 出版:戦誌刊行会)
以降、中国大陸で行われる数々の上陸作戦、そしてその高速輸送能力をいかした輸送作戦に参加。それらを成功させていく。
ちなみにこの従軍中、神州丸の特異な姿に注目した現地滞在中の米海軍兵(米国スパイ団とするものもある)は、ある時こっそり盗撮至近距離からの写真撮影を行った。またとある英国駆逐艦は神州丸を目撃して「剣崎型給油艦じゃないのか?」とのコメントを残している。
昭和13年(1938)10月21日、日本軍は要衝広東を攻略するべく「バイアス湾上陸作戦」を発動。この作戦で神州丸には第五師団長安藤利吉中将が乗船し、上陸の指揮を執っている。
広島で編成された第五師団「鯉」兵団は陸軍船舶部隊の拠点たる宇品港にほど近く、関わりの深い部隊であった。師団内に上陸作戦用器材を保有する工兵隊をもち平時から上陸戦の訓練を積んでいた日本陸軍における「上陸作戦特化師団」であり、その点では神州丸ともつながりがあった。
10月24日、神州丸以下日本軍輸送船は泊地に突入、上陸を成功させた。また、この作戦において初めて陸軍で船舶砲兵隊、船舶通信隊が編成され、実戦に参加している。
昭和15年(1940)9月、「仏印進駐作戦」に参加。神州丸は陸軍部隊の旗艦となり、他の輸送船とともに陸軍部隊を乗せてベトナム・ハイフォン沖に向かった。護衛には川内以下第3水雷戦隊(藤田類太郎少将)が参加している。
上陸直前になってフランス側からは上陸延期の申し入れがあった。日本側はこれを受け入れ、大本営も現地部隊にくぎを刺していた。しかし陸海軍の間で取り決められていた筈の上陸が急遽予定変更され結局中止、再開されて一度合意が成された筈の日仏交渉も中断、現地での情報の錯そうといった混乱が重なり、この状況にしびれを切らした派遣軍司令官西村少将はついに上陸を強行。最終的に3水戦は陸軍部隊の護衛をやめて先に帰投してしまった。この事は後に「ハイフォンの船団置去り事件」と呼ばれる事になる。*参考文献「なぜ日本陸海軍は共に戦えなかったのか 確執の根源に迫る」著:藤井 非三四氏 出版:光人社NF文庫
昭和16年(1941)9月、電撃的上陸戦に対応すべく独立工兵連隊・碇泊場司令部・船舶工作廠及び勤務中隊を統合運用する上陸作戦を専門とした陸軍揚陸団が発足。第一、第二の2個揚陸団のうち、神州丸はマレー・シンガポール方面の上陸作戦を担当する第二揚陸団に配属された。『開戦劈頭の上陸作戦における軍司令部揚陸』という大任を担う神州丸は、猛訓練と対空火器の増設といった改修に明け暮れつつ開戦を迎える。第二揚陸団は神州丸泛水作業隊、独立工兵第十一・十四・十六連隊、第四十六・四十九碇泊場司令部、第一・第二船舶工作廠、六個勤務中隊より編成され、第二十五軍の指揮下に入った。なお開戦時に比島と蘭印方面を担当した第一揚陸団団長、伊藤忍陸軍中将は、この人なくては上陸戦は語れないと言われるほど日本版上陸作戦の構築に多大な貢献をしており、陸軍内では「上陸戦の神様」と名の知れた存在であった。最上の誤射によって神州丸が撃沈された際、「神州丸をサルベージせよ」との命令を発したのも彼である。彼はその後、ガダルカナル島からの撤退作戦「ケ号作戦」の指揮を執ることとなる。(参考文献「陸軍船舶戦争」著:松原 茂生氏 遠藤 昭氏 出版:戦誌刊行会)
射出機を取り払い航空機格納庫を兵員居住区及び物資用倉庫へ改装した、というのはこの頃ではないかと思われる。陸軍はシンガポールのイギリス空軍が『スピットファイア』を投入してくると考えており、まだ数の少なかった『一式戦闘機 隼』、のち『二式戦闘機 鍾馗』として採用されるキ44試作機をこの方面に集中投入している。歯が立たないであろう旧式機しか運用できないこの機能より輸送に特化させた方が良い、と考えたのではないか。
昭和16年(1941)12月4日、ついに日本軍輸送船団が第二十五軍を乗せて、上陸地点マレー半島を目指し三亞を出港。
特に優秀な輸送船によって構成されたこの船団に乗りこむ部隊は、上陸戦第一波の主力となる「上陸作戦特化師団」たる神州丸の顔なじみ広島第五師団「鯉」兵団。そして、「我が国最初の戦車隊 一連隊に幸あれや~♪」の部隊歌で知られ幾多の戦場で武功をうち立ててきた戦車第一連隊である。第五師団は自動貨車などの車両を大量に保有する「機械化師団」でもあり、まさに精鋭の陣営であった。開戦時、第二十五軍は軍司令官山下奉文中将のもと第五・十八・近衛の3個師団、第三戦車団、1個山砲連隊、第三・十八野戦重砲連隊、3個独立工兵連隊を主力として編成された。輸送船団は海軍部隊、そして陸軍飛行第64戦隊の上空援護を受けつつ、マレーへと向かった。
昭和16年(1941)12月8日、開戦。日本陸軍はシンゴラ、パタニ、コタバル、ターペのマレー半島4地点に同時上陸を開始した。神州丸(この頃から秘匿名称「龍城丸」を使い始めたという)は輸送船10隻を率いて「シンゴラ上陸作戦」に参加する。コタバルは完全な敵前上陸となり激しい地上戦が発生、そして敵機の空襲により「淡路山丸」が炎上、のち雷撃により撃沈された。パタニ、ターペの上陸を担当した輸送船も連合軍潜水艦により3隻が撃沈されてしまう。雷撃により撃沈されたのは「金華丸」「阿蘇山丸」「東山丸」の三隻である。(参考文献「戦時輸送船ビジュアルガイド」著:岩重 多四郎氏 出版:大日本絵画)
このような厳しい戦闘が繰り広げられる中、シンゴラ上陸船団は無事上陸作戦を遂行。この日の海は大荒れでその波は実に2mに上ったというが、舟艇隊員も上陸部隊も戦車など軍用車両も、みんなずぶ濡れになりながら上陸を成功させた。のち「マレーの虎」として全国民の知るところとなる山下軍司令官も、神州丸所属舟艇からマレー半島への一歩を踏み出した。
第二十五軍司令部揚陸という大任を果たした神州丸だが、まだマレーの戦いが終わったわけではない。その後シンゴラ、コタバルへの輸送・揚陸任務に参加している。まだ敵は健在、いつ潜水艦の襲撃を受けるかもわからない危険な海域で、ジャングルで戦いながらマレー半島1千キロを踏破せんとする陸の戦友たちを陰ながら支えていたのである。
昭和17年(1942)1月18日、マレーでの任務を終え本土に帰還。神州丸には再び重大な任務が与えられる事となる。第十六軍及び第一揚陸団の指揮下に入り蘭印攻略「バンタム上陸作戦」に司令部船として参加、今村均中将率いる第十六軍司令部をジャワに揚陸するのだ。
ジャワ島攻略作戦に当たり、日本側は未だこの海域には重巡2隻からなる有力な艦隊が存在すると判断しており、船団の護衛を担当する第5水雷戦隊原顕三郎少将は「このような状況で上陸作戦は危険である」と今村軍司令官に相談した。
今村軍司令官は理解を示し、南方軍(東南アジア地方の日本軍の総司令部)経由で海上戦力の増援を連合艦隊に要請しようとしたのだが、第1南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将は「そんな事をせずとも、自分が艦隊を派遣する」と約束した。この時派遣されたのが3水戦、由良および第7戦隊である。自分の艦隊は直接上陸援護と関係ないにもかかわらず、このような姿勢を見せてくれた事に対して今村軍司令官は大いに感激したという。このように陸海軍共同の体制が強まったことで、蘭印攻略作戦自体は非常に順調に進むこととなる。*参考文献「なぜ日本陸海軍は共に戦えなかったのか 確執の根源に迫る」著:藤井 非三四氏 出版:光人社NF文庫
昭和17年(1942)2月18日、56隻からなる第十六軍上陸船団はカラカム湾を出港。この時、神州丸は第三船隊第二分隊に所属していた。蘭印攻略戦が初陣となった『あきつ丸』は第二船隊で「メクラ上陸作戦」に参加していたので別行動となった。
2月27日、日本軍艦隊とジャワ島守備のABDA連合軍との間でスラバヤ沖海戦が勃発。日本軍はこの戦いに勝利するも、重巡「ヒューストン」と軽巡「パース」を捕り逃してしまう。これが翌日神州丸が最上から誤射を受ける一因となる。
翌28日夜、前日捕り逃した2隻と日本軍との間でバタビヤ沖海戦が勃発。
ほぼ同時刻、神州丸以下の上陸船団はバンタム湾に入泊した
3月1日、神州丸から発進した舟艇隊は第一陣の上陸に成功。
そして深夜1時35分、悲劇が起きた。陸軍船団の護衛として参加していた第2号掃海艇が突然轟沈。陸軍病院船「蓬莱丸」にも魚雷が命中、続いて神州丸も右舷中央に被雷してしまう。防空基幹船「佐倉丸」、輸送船「龍野丸」も瞬く間に転覆してしまったのである。
当時龍城丸では第16軍司令部が上陸のため舟艇に乗り換えている最中であったが、この被雷により彼らは甲板から海に転落。今村軍司令官以下、司令部要員は神州丸からあふれ出した重油の海を漂うことになった。この時の状況を、当時神州丸泛水作業隊であった方はこのように語っている。
『何事であろうかと、部下を指揮して急ぎ引換してみると、龍城が大きく右舷に傾斜している。「あ!しまった」と思いながら乗艇を右舷二番辺りに回航してみると、重油の海に多数の将兵が泳いでいるので手当たり次第救いあげながらも、軍司令官閣下の安否が気遣われた。「軍司令官閣下!軍司令官閣下!」と大声で連呼していると、他の艇から「軍司令官閣下を救助した」という声がかえってきた。』
『なおも懸命に救助活動を続け、海面にまったく遭難将兵のいない事を確認してからようやく陸岸に回航し、上陸軍の将兵を揚陸しましたが、この海戦と悲運の状況はついこの間の出来事のように思い出します』*参考文献「陸軍特殊船」著・出版:渦潮会
救助後無事に上陸を果たした陸軍部隊は快進撃を続け、3月10日にはジャワ島西部をほぼ制圧した。
戦闘後の調査で、神州丸ほかの被雷は最上(三隈とする説もある)がヒューストンを狙って撃った魚雷が、射線上にいた龍城丸たちに当たってしまった、ということが判明した。サルベージ作業中の神州丸船倉からも「九三式」と刻印の入った魚雷の破片が見つかっているが、これは陸軍の配慮によりその場で投棄、証拠隠滅がなされた。
当時神州丸では第1次部隊がすでに上陸完了しており、また月が明るく救助がしやすい状況だったため人的被害は少ないものだったが、それでも徴用船員や陸海軍将兵など合わせて約100名が死亡している。
その後陸軍は、この海戦での海軍の勝利に傷がつかないようこの事件における責任を不問とし、「『敵軍の攻撃にやられた』という事にする」という形で決着をつけた。
神州丸沈没により第16軍司令部はあわや全滅、無線機が海没したことで他部隊との連絡も一時的に取れなくなり作戦そのものが崩壊しかねない状況だった。そもそもとどめを刺すためとはいえ上陸船団が密集しているような海域で超射程超威力の魚雷を放つという時点で海軍の重大な失態だが、「人情将軍」として知られる第16軍司令官今村中将は後日揃って謝罪に訪れた海軍司令部を笑って許している。
実はこの神州丸の沈没によって今村均中将らと共に重油の海を泳いでいた人々の中には、のちに三式潜航輸送艇まるゆの設計開発に深く携わる事となる陸軍技術将校、塩見文作少佐がいた。塩見少佐は陸軍製対潜ソナー『す号装置』の研究・開発した陸軍における潜水艦研究の第一人者だったのだが、この一件で「輸送船の対潜水艦問題に対して、ぼんやりとした一つの考えを得た。」「敵勢力内において洋上の船舶は絶対に不利であり、輸送は空中か水中が良い。」「制空権を取られるならば、水中の方が有利だ。」という構想を持つに至ったと自らの手記で語っている。
そして誤射とはいえ、乗船を雷撃によって撃沈されるという経験をした今村均中将も、ガダルカナル戦中に第八方面軍司令官に任命され同島撤退作戦の指揮を執っていた際、内地から視察に来た参謀次長に対して「今こそ陸軍にも輸送用潜水艦や駆逐艦が必要」と熱く語っていたという。(参考文献「陸軍潜水艦―潜航輸送艇マルゆの記録」著:土井 全二郎氏 出版:光人社NF文庫)
ガダルカナル撤退作戦が終了したのは昭和18年2月初め頃、そして塩見少佐は自分に「我々陸軍が使える輸送用潜水艦を造れないか」という話が持ち掛けられたのは昭和18年3月初めだと語っている。もしかしたらこの神州丸の沈没が、まるゆ誕生への大きな転換点になっていたのかもしれない……。
海へ投げ出されて漂流するはめになった今村均中将。しかし深夜の戦場で、しかも重油まみれで誰が誰だか見分けがつかない状態の時である。救助された今村中将が「俺は今村だ」と救助艇の兵へ声をかけたところ「今村も昨日村もあるか!このクソ忙しい時に黙っとれ!」と怒鳴られ、一説によればブン殴られたなんて噂話もある。
また今村中将はこの漂流で自慢の愛刀を海没させてしまった。南北朝時代の正宗十哲の一人である志津三郎兼氏の作で、今現存していたならば国指定重要文化財級の刀だった。まさに踏んだり蹴ったりである。
余談だがその後、朝日新聞の村山長挙社長がこのことを聞いて気の毒がり、人間国宝高橋貞次刀匠に代わりの新しい軍刀を打たせ、蘭印作戦成功のお祝いとして今村司令官に贈った。
この新しい愛刀は戦後武装解除の際にアメリカへ渡り、その後巡り巡って1991年に里帰りして漫画家松本零士氏が入手、所蔵しているという。
神州丸のすぐそばでもろともに撃沈されてしまった「佐倉丸」、この船は神州丸と同じ『防空基幹船』であった。しかも日本の最優秀貨物船、ニューヨークライナー……。その能力を生かし、やはり神州丸と同じ『司令部指定船』でもあり、ある意味神州丸の同僚といってもいい船だったのである。
ちなみにこの「佐倉丸」には当時『フクちゃん』で知られた大人気漫画家、横山隆一氏が陸軍報道班員として乗船していた。彼も海に投げ出されてしまうのだが、周りが「危ない」「転覆に巻き込まれるぞ」と声をかけているのに、どういう訳か中々船から離れようとしない。彼曰く「船の沈没というものをどうしても一度見たかった」のだとか…。
その後、無事ジャワ島へ上陸を果たした横山氏は、陸軍飛行隊の爆撃機に『フクちゃん爆撃隊』のマークを描いたりして、現地の陸軍部隊を大いに喜ばせたという。帰国後はこの時の経験をもとに『ジャワのフクちゃん』を新聞に掲載、これも大人気となった。
また横山氏は現地で鹵獲されたアメリカ軍の大型爆撃機B-17にも『爆弾に乗って空をかけるフクちゃん』を描いている。このB-24は完全稼働状態に復元され日本に輸送。その後は陸軍航空審査部の下で様々な研究や防空戦闘訓練に使用されるのだが、このフクちゃんはずっと描かれたままであったという。陸軍も「せっかくのフクちゃん、消してしまってはもったいない」と考えていたのかもしれない。
神州丸のサルベージに当たった静波丸なのだが、静波丸はこの件の直前までマレー沖海戦で沈んだ英戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの潜水調査に従事していた。
すでにレパルスの船体から機銃弾や広角砲弾、双眼鏡などの引き揚げに成功、次はいよいよ最大の関心事である最新式電探の引き揚げにかかろうとしていた。ところがちょうどそのとき「龍城丸沈没」の報が入り、サルベージ作業を打ち切ってジャワ海へ急行することになってしまったのだった。もしこのとき電探の引き揚げに成功していれば、日本製電探の開発事情にも少なくない影響を与えていたかもしれない。
「あのとき、もし龍城丸の件さえなければ」と、関係者たちは戦後悔やんでいたという。
陸軍の対応により現地においてはなんとか丸く収まったものの、軍全体となるとそうはいかない。陸軍船舶部隊の旗艦的存在である神州丸の損失は今後の軍事輸送に重大な影響をもたらすと判断され、3月4日には早くも神州丸のサルベージが決定。初めは日本サルベージ株式会社所属の静波丸が担当したが、調査のうちに「静波丸の手には負えない」と判断されたため、日本郵船から「大隅丸」が派遣されることとなった。
9月下旬には船体の浮揚が完了。その後12月まで応急修理を受けた後、シンガポールまで回航され翌年4月末まで本格的な修理を行った。
この頃には名前も「龍城丸」から本来の「神州丸」に戻している。
こうして神州丸は1943年5月に日本へ帰投。7月〜10月にかけて播磨造船所で修繕・調整工事を行った。
1943年11月から、完全復帰した神州丸は各地で輸送作戦に従事することになる。
1944年4月からはヒ57/58船団(旗艦:擇捉)(行きが「ヒ57船団」、帰りが「ヒ58船団」である。)に参加。途中米軍潜水艦に襲われるというアクシデントはあったものの、無事にシンガポールへの輸送を完遂し5月3日に日本へ帰投した。
同年5月29日、ヒ65船団の一員として門司港を出発。6月2日、護衛の海防艦「淡路」(御蔵型3番艦)が米軍潜水艦に撃沈される。その余波で、魚雷を回避しようとした輸送船・有馬山丸が神州丸の船尾に激突。有馬山丸は損傷軽微だったものの、神州丸では対潜用に積んでいた爆雷に誘爆し航行不能、約200名が戦死している。
その後船団メンバーである練習巡洋艦・香椎に曳航されて基隆に入港。積んでいた資材及び陸兵を後続のミ05船団に託し、自身は7月まで同地で修理を受け、8月に日本へ帰投した。
同年11月14日にはヒ81船団の一員として日本を出発。翌日、米軍潜水艦の攻撃により、妹分ともいえる存在であるあきつ丸を失ってしまう。その後もヒ81船団は米軍潜水艦から連日攻撃を受け続け、最終的にあきつ丸・神鷹を含む3隻が戦没、死者は計6200名を数えた。
11月26日、ほうほうの体で高雄港に到着。「タマ33船団」に改編され、30日~翌月4日にかけてフィリピンへの輸送作戦を無事に成功させた。
12月末よりタマ38船団として高雄~ルソン島の輸送を行う。途中に米軍航空機の攻撃で輸送船1隻・護衛の第20号海防艦が沈められるも、輸送自体はほぼ成功裏に終っている。
神州丸の最期は1945年1月3日、輸送作戦中のことだった。
2日前の1日、神州丸はマタ40船団の一員としてフィリピン・サンフェルナンドを出港し高雄に向かった。
3日深夜0時半、高雄沖に到着した船団は第38任務部隊(ハルゼー中将)により高雄が空襲されているのを目撃。これをかわすため中国本土へと進路を変更した。
朝7時50分に索敵機2機に見つかってしまい、直後艦爆3機が飛来するものの対空射撃で撃退している。
午前11時30分、今度は約50機からなる大編隊が飛来。特異な船型をしていた神州丸は優先的に狙われることになった。
巧みな操船と船砲隊の奮戦により十数発の爆撃・雷撃をかわしたものの、ついに艦橋および煙突付近に被爆、火災が発生してしまった。敵襲自体は15分ほどで終ったが、火災を消し止め切れず12時過ぎには「総員退船」の命が下る。戦死者は船員・便乗者合わせて382名、護衛の海防艦が生存者を収容した後、神州丸は放棄された。
その他マタ40船団の被害は輸送船1隻が爆弾を喰らって損傷していたものの健在であり、残った船団メンバーはその後高雄に無事入港した。
神州丸の船体は水線下に被害がなかったためそのまま炎上しつつ漂流した。半日後の夜11時37分、夜間で炎に照らされる姿を目標とした米軍潜水艦に雷撃され沈没。ここに艦歴を終えた。