【妹シェリー視点】あ、あれがお姉様……?
「水上舞踏会?」
シェリーは一糸まとわぬ裸のままで、隣でシャツを着る皇太子シグナスに聞き直した。
シグナスは、チラシをシェリーに渡す。
シェリーは、そのチラシを、まじまじと見つめる。
「今日の午後から、デボラが、あの魚の王子と、開催するそうだ。
水上ってがよくわからんけどな。
船の上でやるのか?」
「ふふっ。あのお姉様が?
あのひと、ダンスなんて踊ったことないはずよ。
なにせ、相手がいませんでしたから」
「俺も、あいつ相手なんぞ、ごめんだったからな」
デボラが半魚人の王子と婚約してから、二週間が経つ。
最近では、姉は『黒姫』などと呼ばれているらしい。
薄汚れた姉にはぴったりの呼称だ。
「きっと、無様な姿を晒すに決まっているわ。
ねえ、シグナス様。
お姉様の晴れ姿、見に行きません?」
シャツのボタンをとめたシグナスは、シェリーの寝ているベッドに腰かける。
「いいな。でも、招待状なんて貰ってないぞ?」
シェリーは、チラシをシグナスに見せる。
「誰でも自由に参加可能らしいですよ」
「それ、本気か?庶民に混じって踊るのか!デボラらしいな!」
シェリーからしてみると、庶民と触れ合うなど、汚すぎて絶対にごめんだ。
庶民と貴族は、決して混じり合うことなどないのだ。
シェリーは、サイドテーブルに置いてあった、オレンジジュースの入った銀の盃を手に取り、ひとくち含む。
(お姉様が不幸になればなるほど、私が楽しく幸せになるのよ。
ああ、早く見たいわ!大勢の前で、お姉様が恥をかくのを!)
★
シェリーと皇太子シグナスは、金に縁どられた小船を従者に漕がせ、水上舞踏会が開催される、珊瑚礁の浅瀬へと向かう。
「見えてきました。すごい人だかりね」
「……ん?みんな、水の上に立ってるぞ?」
「たぶん、お姉様の空の魔法か何かで、海の上に空気の床を作っているんだと思います」
海の上に立つ集団の周りに、停泊している多くの小船。
シェリーたちも、その小船に混じり、自分たちの船を停める。
シグナスが、目の前の海に張られた、空気の塊の床に触れる。
「これ、本当に乗っても大丈夫なのか?
壊れたりしないか?」
「お姉様はグズで頭の回転が鈍い人でしたが、空の魔法だけは唯一の取柄ですので、これだけは大丈夫だと思います」
シェリーは、小船から降り、海の上に立つ。
空気の床は、石の地面のように頑丈で、まだまだ多くの人数が乗っても、びくともしなさそうだ。
それにしても、なかなかの観客だ。
観客が多ければ多いほど、面白いことになるだろう。
「ん?あれは……」
シェリーの目の先には、つい先日、フロートから独立した国々の重鎮が揃って木の椅子に座っていた。
吹き抜ける風の王国『フラッグ』の、片眼鏡の王。
情熱の音の王国『フォルテ』の、シルクハットの王。
踊るジョッキの王国『チアーズ』の、もじゃひげのドワーフ王。
みな、浮き木の王国フロートを裏切った者たちだ。
「見てください、シグナス様!
王を騙る恥知らずどもがいますわ!」
「あいつら……!
よくもまあ、公式な場に顔を出せたものだな!」
新たなる王たちを見て、憤る皇太子シグナス。
だが、逆もまた然り。
フォルテ王は、群衆の中に紛れた、シグナスとシェリーを見つけ、嘲る。
「見てください、フラッグ王、チアーズ王。
愚かにも黒姫様を追放した、空の魔法も使えぬ、名ばかりの皇太子とやらが来ておりますぞ」
チアーズ王は、腹を抱えて笑う。
「がっはっは!
なんと、アレクサンダー王子殿下主催の舞踏会へと来やがったのか!
俺も面の皮は厚いと思っとるが、あいつに比べたらペラペラよ!」
フラッグ王は、モノクルを着けなおし、その目に湛えた怒りをなんとか鎮める。
先週から正式な交易が始まった、フラッグ王国とコバルト王国。
新たに開発された、海藻を素材にした服や、錆びない金属類で作られたアクセサリーは、コバルト王国のサハギンたちには非常に好評だった。
もともと独立前から、サハギンとの交流は他の区域よりも深かった、フラッグ王国。
今では、サハギンたちは頻繁にフラッグ王国へと遊びに来る、ただの顧客を超えた友人となりつつある。
サハギンたちを侮辱する皇太子シグナスのことは許せなかった。
また、黒姫デボラは、フラッグ王国でも大人気なのだ。
身分を一切気にせず、誰にでも笑顔の、褐色の肌の美しき黒姫。
しかも、空の魔法の達人でもある。
このような逸材がなぜ埋もれていたのかを調べるうちに、デボラが実の家族から、どのような扱いを受けて来たのかを知った。
フラッグ王の怒りは、皇太子よりも、デボラの妹シェリーへと向かっている。
こめかみに血管を浮かばせ、歯を噛みしめるフラッグ王。
そこに、シルクハットをかぶったフォルテ王が、フラッグ王の肩を軽く叩く。
「気持ちはわかりますぞ、フラッグ王。
しかし、奴らはすぐに思い知ることになるでしょう。
黒姫様の本当の姿を。
そして、後悔したところで、もう遅い、ということを」
フォルテ王は、木製の椅子から立ち上がると、シルクハットを脱ぎ、観客へとお辞儀をする。
そして再びシルクハットをかぶりなおし、王たちの隣に陣取っていた、オーケストラへと向かう。
懐からは、銀のタクトを取り出して。
フォルテ王は、王であると同時に、指揮者でもあるのだ。
フォルテ王が、タクトを掲げると、オーケストラの面々が、楽器を構える。
フォルテ王は、銀のタクトを、そっと動かす。
静かに、静かに始まる、バイオリンの音色。
そして、オーケストラの脇から登場したのは、流線型の細身の黒いドレスを着たデボラと、その手を取るタキシードを着たアレックス。
デボラとアレックスは、空気の塊で出来た舞台の中央へと足を運ぶ。
広い舞台には、デボラとアレックスのふたりきり。
周囲には、満員の観客。
「デビー。だいじょうぶ?」
「うん。とっても楽しみ」
ふたりに注目する、観客たち。
デボラとアレックスは、向かい合わせに立つ。
ゆるやかなバイオリンの音色に合わせて、ゆるやかにステップを踏むデボラ。
それをしっかりと支える、アレックス。
ダンスは、女性が主役なのだ。
女性が花。
男性は、女性の美しさを引き出す、花瓶。
デボラを輝かせるのが、アレックスの役目だ。
「デビー。遠慮はいらないよ」
デボラがアレックスと目を合わせ、にこりと微笑む。
くるりとターンをする、デボラ。
ドレスの裾が、ひらりと舞う。
徐々に、オーケストラに他の楽器も混ざる。
トランペットにフルート。
銀のタクトをしなやかに振る、フォルテ王。
音の色が、鮮やかになってゆく。
そして、デボラの動きも一気に広がる。
くるくると回る、デボラ。
袖とスカートについた、黒いレースが、まるで魚のヒレのよう。
長い黒髪が、宙を舞う。
ステップは、海の中で踊るように軽やかだ。
陸上での歩行が苦手なサハギンであるアレックスは、特別製の靴を履いていた。
歩くのには向かないかわりに、しっかりと地面に立てるように作られた靴を。
デボラが自由に踊るため、何があってもデボラを支えるための靴を。
珊瑚のように直立するアレックスの周りを、優雅に舞うデボラ。
それはまるで、珊瑚礁に泳ぐ、漆黒の美しき魚。
観客の誰もが、デボラに見惚れていた。
皇太子シグナスさえも。
デボラの妹、シェリーは、混乱していた。
(えっ。あ、あれがお姉様……?
なんで!なんであんなに踊れるの!?
あのトロいお姉様が!
空の魔法以外、何にもできないはずのお姉様が!)
デボラは、ドレスを靡かせ、優雅に舞いながら、子供たちにウインクをした。
子供たちも、にっこりと笑う。
デボラは、まだコルクス公爵家に居た頃は、納屋の中でひとり、ずっとダンスの練習を欠かさなかったのだ。
皇太子の婚約者として。
いつ、皇太子と踊ることになったとしても、大丈夫なように。
ずっと、ひとりで。
結局、皇太子と踊る機会は訪れなかったけれど、巡り巡って、アレックスの手を取ることができた。
これもまた、運命だろうか。
デボラは舞う。
大勢の観客の中心で。
空気を固めて作った、透明な地面の下では、色とりどりの魚の大群が、デボラの足元を泳いでいた。
先ほどまではシェリーに怒り狂っていたフラッグ王も、今では、デボラを見つめるばかり。
「……美しい」
今、デボラが着ている漆黒のドレスは、フラッグ王も作成に携わっていた、思い入れの強い品。
物作りを生業とする人間からすれば、作った品物は、我が子同然。
きっと、デボラでなければ、あのドレスも、真の美しさを引き出せなかったであろう。
「黒姫様。ありがとう。そのドレスをここまでの物にしてくれて」
フラッグ王の、モノクルの端から、涙が頬を伝った。
フォルテ王が、銀のタクトを振る。
ちらりとデボラを見た。
デボラは、数回のターンを決めながら、アレックスと距離を取る。
そしてデボラも、フォルテ王に目で合図をする。
フォルテ王が、タクトを一振りすると、その瞬間、音が止まった。
完全なる、無音。
観客たちも、声一つ上げなかった。
チアーズ王も、フラッグ王も、目を見張る。
アレックスと距離を取っていた、デボラ。
無音の空間を、アレックスに向かって全力で駆ける。
アレックスは、右手を握って、前に差し出した。
そのアレックスの右手を足場に、跳び上がるデボラ。
空の魔法で、大きく空中に浮かび上がる。
デボラが、アレックスの頭上を舞う。
そして、背筋を伸ばしたまま、空中を一回転。
ドレスの裾が、魚の尾びれのように、ひらひらと靡く。
そのまま、透明な地面へ、ふわりと降り立つ、デボラ。
その姿は、まさに漆黒の天女だった。
フォルテ王が、パーカッション組へと、タクトを振る。
たった一発だけ、大きく鳴る、ドラムとシンバル。
その音を最後に、デボラとアレックスのダンスは終了する。
観客たちに、優雅に礼をする、デボラとアレックス。
観客たちからは、拍手と大歓声の嵐が巻き起こった。
チアーズのドワーフ王が、大笑い。
「がっはっは!黒姫様、てっきり箱入り娘かと思ってたが、ありゃあ、相当なお転婆だなあ!俺は気に入ったぞ!」
その隣では、フラッグ王が、片眼鏡を外して大泣きしていた。
そして、海上に響き渡る、デボラの声。
空の魔法で、音量を上げているのだ。
「皆さま、ありがとうございました!
水上舞踏会、これより開催です!
みんなで踊って、楽しみましょう!」
フォルテ王のタクトの一振りと共に、先ほどとは打って変わって、ド派手なオーケストラの演奏が始まる。
それをきっかけに、まず動いたのは、子供たちだった。
デボラに殺到する、子供たち。
「黒姫様、とっても素敵でした!」
「私も黒姫様みたいになりたい!」
「黒姫様、いっしょに踊ろう!」
大勢の子供たちがデボラの手を取る。
アレックスにもまた、子供たちに囲まれていた。
「王子殿下、このタキシード、いい作りだな!」
「フフフ……。ボクにはわかってますよ。黒姫様の動きは、王子殿下のサポートがあってのこと……」
「殿下、サ、サインをください!このハンカチに!」
子供たちと一緒に踊るデボラ。
ハンカチにサインをするアレックス。
ふたりは、お互いを見合うと、自然と笑顔がこぼれる。
会場に来ていた一般市民たちも、オーケストラに合わせて踊り出した。
スタンダードなワルツを踊るカップルもいれば、ブレイクダンスの対決をしている少年たちもいる。
フラッグ王と、その妻が、感動の涙を流してゆるやかに踊っている。
チアーズ王が、ブレイクダンスの少年たちに混ざり、逆立ちしながら身体を高速で回転させていた。
誰もが、ダンスを楽しんでいた。
誰もが、笑顔で。
透明な床の上で。
カラフルな珊瑚礁の真上で。
シェリーは、観客に混ざり、鬼の形相をしていた。
「なんで!なんでなんで!
あのグズでノロマなお姉様が!
なんであんな幸せそうな顔をしてるのよ!
絶対に許せない!
お姉様は不幸じゃないとダメなのよ!」
その隣では、シェリーとデボラを交互に見つめる、皇太子シグナス。
「デ、デボラ、あんなに綺麗だったか?」
シグナスの記憶では、ボロボロのドレスを着て、ぐしゃぐしゃの長い黒髪の、陰気な女だったはず。
今、目の先にいる、美しい黒髪と、黒く輝くドレスの似合う美女は、一体誰なのだ。
シェリーは、シグナスの手を取り、自分たちの小船へと向かう。
「シグナス様!もう行きましょう!
こんな、こんなはずじゃ!」
シグナスは、シェリーに手を引かれながらも、明らかにデボラに目が行っている。
「シェ、シェリー。もうちょっとだけ……」
「シグナス様!」
シェリーは、シグナスの手を思い切り引っ張った。
その途端、シェリーたちの足元の、透明な床が消失する。
「……は?」
その勢いのまま、シェリーは顔面を、シグナスは後頭部を、小船の角にぶつける。
「ふぎゃっ!」
「ぎゃあっ!」
そして、大きな波音を立て、海に沈んでゆく二人。
「がぼぼぼぼっ!」
ひたすら海水を飲んで、死にかけたところで、ようやく小船に控えていた従者に助け出されたシェリーとシグナス。
船の上で、白目を向いて、海水を吐き出しているシェリー。
(なんで、私がこんな目に……!
全部、お姉様のせいよ!)
海の上の透明な床の上で、くすりと笑うデボラ。
(まあ、これくらいは、ね?)
シェリーとシグナスの足元の床を消したのは、もちろん、床を作っていた張本人であるデボラ。
しかし、笑っているところを、チアーズのドワーフ王に見られてしまった。
(あ、バレちゃったかな?)
だが、チアーズ王は、シェリーとシグナスが溺れるさまを見て、デボラに向かって親指を立てる。
「あはっ!」
デボラも、チアーズ王に向かって、親指を立てて、思い切り笑った。