吹き抜ける風の王国『フラッグ』
デボラがコバルト王国へやって来てから、一週間が経ち。
デボラはアレックスと一緒に、コバルト王国の一画にある、白く輝く美しい海藻の森を、ゆるやかに泳いでいた。
「すっごくきれいね!」
「シルクウィードって言うんだよ。肌触りもいいし、水も弾くから、高級な服の素材としてよく使われるんだ」
サハギンの服は、王族から一般市民まで、様々な海藻で作られている。
そのおかげで、水に入ったり出たりを、何の気兼ねなしに日常的にできるのだ。
「もしかして、アレックスの服、この海藻で出来てるの?」
「うん、そうだよ。デビーのドレスもね」
「えっ?これもそうなの?色が全然違うけど……」
デボラは、自分のドレスのスカートを摘まむ。
サハギン式のドレスは、水中でスカートがめくれても下着が見えないよう、スカートの下に、ひらひらしたズボンを着るようになっているのだ。
「イカの墨で染めてあるのさ」
「水を弾くのに、墨には染まるの?」
「数日間、墨に漬けっぱなしにしておいて、ようやく染まるくらいかな。
他の色も一緒」
デボラは、絹のカーテンのような、シルクウィードの群生地の間を、海藻に触れながら泳ぐ。
「大変なのね」
「染め物の技術を持ってる人があんまりいないから、なおさらね。
下手な人がやると、ムラが出来ちゃうんだ」
そこでデボラは思い出す。
自分が生まれ育った、浮き木の国『フロート』では、何十もの船が連結されて出来上がっている国だが、その船ごとに、特色が違う。
中には、糸と布づくりや、染め物が得意な区画もあると、学園の授業で習っていた。
「ねえ、アレックス。フロートとの交易、まだやってるの?」
「ああ。僕としては非常に不本意だけどね。
土と石は交易品から除外したけど、貝殻や鉱石はまだ取引してるよ」
「コバルト王国は、それの対価に何を貰ってるの?」
「海上で育った野菜とか果物だね。本当は、コバルト王国の水上区画でも作れるんだけど、僕達はほら、海上人と違って、水の上では動きにくい身体の構造だから」
海上人というのは、デボラたちのような、陸地に住まう人間のことである。
「えっ?こっちは貴重な鉱石をあげてるのに、作物しか貰ってないの?」
デボラは世間に顔を出す機会が少なかったが、決して無知ではない。
むしろ、学園では一人ぼっちだったため、ひたすら勉学に励んでいたので、そこらの貴族よりも、ものを知っている。
鉱石と作物では、明らかに価値が釣り合っていないのも、すぐに分かった。
確かに、栄養豊富な土を必要とする作物は、フロート王国などの海上では大切なものだ。
だが、サハギン側からしてみると、自作可能な野菜や果物は、大して価値が無い。
サハギン側にメリットが薄すぎるのだ。
アレックスは、ゆったりと泳ぎながら、困った顔で笑う。
「仕方ないんだよ。海上国家は、サハギンに売れそうなものが他にないからね」
「そっか」
自身も海上人であるデボラは、思い当たる節ばかり。
改めて、サハギンからの恩恵の大きさというものを知る。
「アレックス。染め物が出来る人が少ないっていうのは、何か特別な理由があるの?」
「いいや。単に人手不足」
「それ、海上人にやってもらうって、どう?
交易でやりとりするのは、品物だけとは限らないじゃない。
コバルト王国は、貝殻や鉱石とかの貴重な品物を渡す。
フロート王国は、労働力を提供するの」
アレックスが、水かきのついた指先で、デボラの浅黒い肌の手を、そっと握る。
「へえ。それは面白い。たしかに、品物だけで考えたら、コバルト王国に足りない物は無いけど、人手不足だけは、突然解消できるようなものじゃないからね」
「でしょ?」
「でも、大問題がある」
「なに?」
「僕が、フロート王国のこと、死ぬほど嫌いってこと」
アレックスは、デボラに無実の罪を着せた、あの卒業パーティのことを、絶対に許せなかった。
むくれる、アレックス。
デボラが、アレックスの横顔を見る。
「奇遇ね。私も、あの国、大っ嫌い」
「ふふっ」
思わず吹き出すアレックス。
「じゃあ、今の話は無しだね」
「うん!無し無し!自分で思いついておいてなんだけど!」
白く輝くシルクウィードの森を、揺蕩うふたり。
アレックスがデボラを抱きしめ、額にキスをする。
「あの国がした唯一のいいことは、デビーを僕にくれたこと」
「うん。本当に、来てくれてありがとう」
「デビーのためなら、なんだってできるよ」
デボラはアレックスの胸の中で、幸せにひたる。
かつては、夢の中でしか味わえなかった。
いまもまだ、現実味が感じられない。
ひょっとしたら、これもまだ夢ではないかと思ってしまう。
だから、確かめるのだ。
アレックスの肌に触れ。
アレックスと手を繋ぎ。
額や頬に口づけをしてもらう。
アレックスの存在を確かめるための、毎日の儀式。
すると、アレックスが顔を上げた。
「チェリーが来た」
デボラもアレックスの視線を追うと、ピンク色のイルカがこちらにやって来るのが見えた。
アレックスの友達の、イルカのチェリーだ。
サハギンは、イルカと会話ができる。
人間と話す時とはまったく別の発声方法で、音を発してコミュニケーションを取る。
そして、水の中は、空気中よりも、音がずっと遠くに伝わる。
驚くことに、何十キロメートルも離れたイルカと、音のやりとりをできるらしいのだ。
デボラたちが幼い頃、アレックスのプロポーズの見届け人となったクジラを呼び出すのも、これと全く同じ方法らしい。
ピンク色の体表のイルカのチェリーは、手紙を咥えていた。
防水処理を施された手紙。
アレックスはチェリーの頭をなでると、その手紙を受け取る。
差出人の欄には「吹き抜ける風の王国『フラッグ』」とあった。
「デビー、知ってる?」
「ううん。知らない」
アレックスは封を開け、手紙を取り出す。
「へえ。浮き木の王国『フロート』から、新しく独立してできた国らしいよ」
「あ。この国王になった人、会った事は無いけど、名前は知ってるわ」
「デビーへのいじめに関わってる?」
「ううん。この人は全然。何の用事?」
「えっとね……。コバルト王国と、国交を結びたいって」
★
吹き抜ける風の王国『フラッグ』の上空には、まるで旗のように、色とりどりの布が、張り巡らされたロープに掛けられて、風に吹かれていた。
デボラは、パステルカラーの大空を仰ぎ見て、アレックスに笑いかける。
「すごいね!」
「ああ。圧巻だな」
フラッグ王国の手紙には、コバルト王国の近くの海上か海中で、一度顔合わせを、と書いてあった。
だが、新しく作られたという王国を、デボラが見てみたいと希望を出したのだ。
アレックスは、サハギンの陸上用の靴を履いている。
それでも、アレックスの歩みは遅い。
サハギンは、泳ぎに長けている分、徒歩で歩くのは苦手なのだ。
デボラはアレックスの歩く速度に合わせて、ゆっくりと進む。
アレックスの隣にいた、片眼鏡をかけた、細身の紳士が、解説する。
「我がフラッグでは、独立前は元々、糸と布を作るのが主産業の区画でして。
そこから派生して、染め物や裁縫なども手掛けるようになったのです」
彼が、このフラッグの国王だ。
数日前までは、この区画を治める伯爵だった。
つい数日前に、浮き木の国フロートとは縁を切り、独立をしたのだ。
なんと、全く同じタイミングで、他にも幾つかの区画が独立したとのこと。
浮き木の国フロートの貴族たちは仲が悪いことが多いが、幸いなことに、今回フロートから独立した国家群は、みんな仲がいい相手のようだ。
今回フラッグへとやって来たのはデボラとアレックスだけではない。
コバルト王国の染色職人。
そして、仕立て屋たちと、マダム・タイドだ。
サハギンは、誰もが陸上での動きは苦手なはずだが、自分の専門分野の店を見かけると、驚くほど素早く動いていた。
とある染物屋の前では、サハギンの一団が、ざわざわと品物を見ては、意見を交換している。
「親方、見てください。この紫色、親方でも出せないんじゃないですか?」
「むむむ。正直に言うと、お前の言う通りだ。
店主殿、この紫はどのように染めておられるのだ?」
「ああ、これは、いい色を出す木の実があるんですよ。
海藻にも染まるんで、サハギンの旦那方でも使いやすいんじゃないですかい?」
「木の実か!どうりで、コバルト王国では見た事の無い紫色のはずだ」
「サハギンの旦那方とは、これからもいい関係を築きたいんで、もし用入りでしたら、少しお安く提供させていただきますよ」
「本当か、店主殿!では、この紫の木の実と……。
むむむ!なんだ、この鮮やかな赤色は!」
「親方!早くしないと、殿下たちに置いて行かれますよ!」
また、とある洋服屋の前では、マダム・タイドたちが、騒いでいた。
「あらあら!ちょっとこのドレス素敵じゃない?」
「お、わかります?これ、ボクの自信作なんですよ
この、スカートのふんわり感が大事です」
「まあ!あなたがお作りになったの?」
「ええ。ボク、これでも仕立て屋なんです。
ところで、あのお姫様の黒いドレス、シルエットが綺麗すぎません?
まるで、珊瑚礁に住む魚のように美しい」
「あっらー!なんて嬉しいお言葉なのかしら!
でもね、あれはデビーちゃんの体に合わせたら、自然とああなったのよ!
素材がいいのね!」
デボラは、妹のシェリーのように、胸が大きい訳でもない。
だが、マダム・タイド曰く、全体的なバランスがいいらしいのだ。
その言葉が耳に入り、顔を赤くするデボラ。
隣のアレックスが、デボラを見て囁く。
「だってさ。黒姫様」
「もう、恥ずかしいわ」
黒髪黒目で肌も浅黒いデボラは、コバルト王国では黒姫と呼ばれていた。
それが既に、フラッグでも認識されているらしい。
フラッグ国王は、にこりと笑う。
「我が国は、服飾職人の国なのです。
素材があれば、様々なアクセサリーの作成も可能です。
もちろん、海でも着れるような、海藻で出来た服も。
殿下。黒姫様。
吹き抜ける風の王国『フラッグ』は、ファッションの国として、ここでしか作れないものを提供することができます」
アレックスは、フラッグ国王に相対する。
「国王陛下。我が臣民たちも、驚嘆するばかりのようです。
僕は、交易と言えば、ただ原材料のことしか考えておりませんでした。
培われてきた技術と、それにより作られる品物の数々は、素晴らしい」
「ほっほっほ。嬉しいお言葉です」
「デビー。どうだい?
この国は、浮き木の国フロートと縁を切った国でもある。
僕は、交易を是非してみたいと思っているけれど」
「私も賛成!
ほら、私、自分の家と学園から外には出たことがなかったから、この場所のことは、教科書の上でしか知らなかったの。
でも、こんな素敵なところだったなんて!」
「それじゃあ、決まりだね」
すると、後方に控えていた、執事長のメイルが、フラッグ国王と取引の詳細を詰め始める。
彼は、執事長であると同時に、宰相のような役割もこなしているらしい。
デボラは、フラッグの街並みを歩く。
色とりどりの染め物の下で売られている、鮮やかな服や宝飾品の数々。
今までの人生では、全く縁のなかった品々に、興味が尽きない。
その時、デボラは宝飾品の店の前で立ち止まる。
「わあ、きれい!」
金銀の土台の上に、様々な色の輝く宝石。
ネックレスにブローチに指輪。
デボラの背後から、アレックスが顔を覗かせる。
「そういえば、まだ決めてなかったね。結婚指輪。
どれか欲しいのある?」
「えっ。全然考えてなかった……。
私に似合うのって、どんなのかしら」
宝飾店の女性店員が、声をかける。
「結婚指輪をお探しですか?」
「ああ。彼女に似合いそうなものはあるかい?」
「コバルト王国の黒姫様ですね。でしたら、こちらなどはいかがでしょうか」
店員が、深い青色の宝石の埋め込まれた、プラチナの指輪を取り出した。
目を輝かせるデボラ。
「うわ、きれい!これ、サファイアですか?」
「これは、ブルーダイアモンドですわ、黒姫様。
王子殿下の瞳と髪の色をしております」
アレックスが尋ねる。
「黒い宝石もある?」
「はい、ございます」
次に女性店員が取り出したのは、同じくプラチナの指輪。
黒い宝石が埋め込まれてあった。
「こちらはブラックダイアモンドです。
黒姫様の瞳と髪の色です。
王子殿下は指に水かきがお有りですので、水かきの先に着けれるよう、小さめのサイズがよろしいと思われます」
「おおっ!これはコバルト王国でも見たことが無いな!
デビーの目と髪の色の宝石だなんて!
気に入った!
これ以上、結婚指輪に相応しいものはない!」
「ありがとうございます。
それでは、サイズ調整を致しますので、試しに着けて頂きたいのですけれど……。
せっかくですので、王子殿下。
黒姫様には、是非王子殿下の手で」
店員はそう言って、指輪の入った小さな箱を、アレックスに差し出す。
ブルーダイアモンドの指輪を箱から取り出すアレックス。
ネイビーブルーの瞳に、ブルーダイアモンドが映って、合わせ鏡のようだ。
「デビー。左手出して」
「う、うん。なんか、緊張するね」
「僕も」
デボラの左手をとる、アレックスの左手。
薬指に差し込まれる、プラチナの指輪。
「え、えへへ。どう?似合う?」
デボラの浅黒い肌の手に光る、プラチナの白金。
そして、まるでデボラは自分のものだと主張するかのような、アレックスの色のダイアモンド。
独占欲が満たされ、ついニヤけてしまう、アレックス。
「う、うん。似合うよ。すごく」
「にしし」
笑う、デボラ。
デボラの幸せのためなら、何だってできる。
改めて、アレックスは心に決めた。