【皇太子シグナス視点】怒り狂うフロート国王と、破滅の足音。
皇太子シグナスは、上機嫌に城の廊下を歩いていた。
ようやく、あの陰気なデボラを追い出して、美しいシェリーと婚約できたのだ。
昨晩もまた、シェリーの肉体に溺れていた。
これも婚約者たる特権である。
デボラは婚約者だというのに、指一本触れさせてくれなかった。
元々、あの貧相な身体に興味など無かったが。
すると、向こうから父が歩いて来た。
父。つまり、この浮き木の国フロートの国王だ。
丸い体形に、口ひげを生やした、初老の男性。それが王。
周囲を、何人もの兵士で固め、どしどしと歩いてくる王。
その顔は、怒り狂っていた。
「シグナス!」
「は、はい?どうなさったんですか?」
「貴様、どういうつもりだ!」
「何がでしょう?」
「デボラ嬢のことだ!」
「デボラがどうかしましたか?」
「勝手に婚約破棄をしたらしいな」
「ああ。相手がいなくなったからお怒りなんですね。
ご心配なく。シェリー・コルクス公爵令嬢と婚約をしましたから」
これを聞けば、父も当然、機嫌を治すだろう。
なにせ、魔女デボラを排除して、素晴らしいシェリーを次期王妃にできるのだから。
だが、王の顔は、ますます赤く茹で上がる。
「この、馬鹿者が!あの猫かぶり女に、デボラ嬢の代わりが務まる訳なかろうが!」
「は、はい?」
「今、この国にデボラ嬢以上の、空の魔法の使い手はおらん!
あの愚か者のコルクス公爵の娘とは思えんがな。
幼少から、その片鱗を見せておったため、貴様と婚約させた。
その頃から既に、深い海に一時間は潜っていられるほどの才覚。
さらには、サハギンの王子とも友好関係にあるそうだ。
そんな逸材を!貴様は!
せっかく儂がコルクス公爵ごときに頭を下げて、お前の婚約者にしたというのに!
貴様は、同じ学園に通っていたくせに、何を見ていたのだ!」
全く予想していなかった話の内容に、戸惑うばかりの皇太子シグナス。
「陛下?たかが空の魔法がそんなに大切で?」
「な、なんだと?
貴様、まさかデボラ嬢から空の魔法を教わっていないのか?」
「はははっ。それはそうですよ。
そんなもの、王族の仕事ではないでしょう」
「使えないのか?まったく?少しも!?」
「え、ええ。それがどうしたんですか?陛下」
すると、国王は、眩暈がしたかのように、ふらりと後ろに倒れ込んだ。
近衛の兵士が、あわてて国王の身体を支える。
「へ、陛下!」
「お気を確かに!」
国王は、兵士にぶつかった衝撃で外れた王冠を、かぶり直す。
あれほど真っ赤だった顔色が、今度は青くなっていた。
「……まさか、これほどの馬鹿者だったとは。
おい貴様。我が国の土や石が、どこから来るのかは、さすがに知っておろう?」
「魚人間どもに、海底から取ってこさせているのでしょう」
「サハギンと呼べ!
それに取ってこさせているのではなく、取って来てもらっているのだ。
それを塩の魔法使いの手により、塩分を取り除いたものが、我が国の農業や林業の地盤となっている」
土は、補給しなくては無くなる。
風雨にさらされ、海へと流れていくのだ。
この国の最重要区画である農業区や林業区は、壁で囲われてはいるものの、どうしても隙間から流れ出て行ってしまう。
そもそも、栄養豊富な新しい土を入れなければ、土は枯れていくばかりなのだ。
土も、なんでもいいわけではない。
農業に向いている土と向かない土がある。
サハギンは、海底の泥の質を見極め、良質な土を提供している。
また石も、家屋や道路を作るための、重要な建材。
土も石も、どちらもこのフロートの王国には無くてはならないもの。
王は、皇太子シグナスを睨みつける。
「貴様、次期国王になった際には、空の魔法無しで、どのようにしてサハギンの王国と国交を結ぼうと思っていたのだ」
今はまだ、空の魔法の使い手である、王も王妃もいる。
だが、彼らも年齢のためか、もう若い時のように、深い海に潜れるほどの力が無い。
コバルト王国との会議も、相手側の理解を得た上で、浅瀬で行なっているほどである。
しかし、今の話を聞くと、皇太子シグナスは、空の魔法を一切使えないようだ。
「そんなの、半魚人どもをこの国に招待すればいいだけでしょう?
奴らは所詮、魚。
素晴らしい文明を持つ、我が国に憧れを持っているはずです」
国王は、頭が痛くなってくる。
「大事な土や石を取って来てもらってる上に、我が国に足を運ばせろと?」
「はい!きっと喜んで来ることでしょう!」
「貴様、サハギンのコバルト王国には行ったことがあるか?」
「まさか!そんなの興味ありませんよ!どうせ原始人みたいな暮らしぶりでしょう?」
それを聞いて、国王は気絶しかけた。
どこで教育を間違えたのだろう。
幼少の頃に付けた教育係が悪かったのか。
学園の教師が悪かったのか。
それとも、自分が悪かったのか。
「いいか。言っておく。
一度コバルト王国を見たら、我が国が文明的だなどと、口にできなくなるぞ。
それが分かったら、さっさとデボラ嬢に詫びを入れて、一緒にコバルト王国を見て来い!」
「え?それは無理ですよ、陛下」
「何が無理なんだ!」
「デボラのやつ、半魚人の王子と婚約して、そのまま海の中に消えていったんですよ。
まあ、あの魚に対しても、一応は貴人扱いはしておきましたから、ご安心ください。
この俺だって、あの魚どもが、そこそこ大切な交易相手だという事は、分かってますので。
それにしても、デボラめ。せっかく妾にでもして、海底の泥あさりにでも使ってやろうと思っていたのに、あの恩知らずが」
その言葉に、国王は、とうとう失神してしまった。
「陛下っ!」
「お、おい、医者を!」
慌てふためく近衛兵。
気絶した国王をよそに、シグナスは考える。
(ふむ。あのデボラにも、活用方法があるようだな。
仕方ないから、連れ戻して使ってやるか)
シグナスは、国中の名だたる空の魔法使いを集めて、聞いた。
「お前たち、海には潜れるだろう?」
「ええ。できますが」
「なら、サハギンの国とやらに行って、デボラを連れ戻してこい」
「それは無理です」
「なんでだ!」
「深さと水圧の問題があります。
海の深い場所にある、サハギンのコバルト王国まで無事に辿り着くためには、ただ空気の泡で頭を包めばいいという訳ではございません。
全身を魔法で包み、水圧の問題にも対処しなくては死にます。
そこまで高度な技が使えるのは、今この国では、デボラ・コルクス公爵令嬢ただ一人のみです」
「水圧?要するに、外からかかる力に負けなければいいのだろう?
そんなもの、気合で耐えろ!」
当然、筋肉だけで耐えられるような問題ではない。
内臓や血液の成分が、水圧の影響を受けるのだ。
魔法使いたちは、白けた表情で皇太子を見る。
全員が、同じことを思っていた。
(この国は、次の王で滅びるな)
そして、全員が決意する。
自分の所属する領土の船をフロート王国から切り離して、独立するよう、領主を説得せねばと。
そこに、伝令の兵が走って来る。
「さ、最重要伝令です!陛下はどこにいらっしゃいますか?」
皇太子シグナスは、伝令に促す。
「陛下は今、気分がすぐれない。私が代わりに聞こうじゃないか」
「ハッ!それでは、申し上げます!
コバルト王国が、我がフロート王国への交易品から、土と石を除外致しました!」
その場にいた魔法使いたちが、伝令を聞いて顔を青褪めさせる。
これは、最重要伝令などという、生易しいものではない。
だが、皇太子シグナスは、その重要性を理解していなかった。
「なんだ、半魚人どもが調子に乗りやがって。
そんなもん、こっちから破棄してやれ!
そもそも、わが国には、十分な土と石が既にある!
あの魚どもはもう用済みだ」
フロート国王が、あれだけ土と石の重要性を説いていたのだが、全く伝わっていなかった模様である。
土も石も、様々な要因で劣化するという事が、皇太子シグナスの頭の中には無かったのだ。
伝令の兵も「マジかこいつ」といった引き攣った表情で皇太子を見る。
一部始終を聞いていた魔法使いは、認識を改める。
この国は、次期国王で滅びるのではない。
今まさに、滅びの道を大爆走しているのだと。