アレクサンダー・コバルト
その場の誰もが、静まり返っていた。
アレクサンダー・コバルト。
その名を知らぬ者は、この場にいない。
この王国『フロート』の最大の交易相手であり、貴重な土や石を売ってくれる命綱でもある、コバルト王国の第一王子。
そのような重要人物が、忌まわしき魔女である、デボラ・コルクス公爵令嬢を婚約者にすると言ったのだ。
アレックスは、黒いドレスから海水を滴らせている、デボラに優しく囁く。
「デビー。もう大丈夫。今日からは、僕がいる。
本当は、君に婚約者ができたと知って、死ぬほど辛かった。
今日、ここに来たのも、これから他の男のものになってしまう君を、最後に一目見たかっただけなんだ。
でも、あいつは宝物を、自分から手放した。
君は、僕のものだ。
僕は、君を放すつもりはない」
フロートの皇太子シグナスは、混乱しながらも、アレックスへと告げた。
「アレクサンダー殿下。
その女は、邪悪な魔女です。
自分の妹を、執拗に虐め抜くような女です。
もし、婚約者をお探しならば、他にいい相手をご紹介しましょう」
アレックスは、シグナスを睨みつける。
「ご心配は無用です。シグナス殿下。
僕は婚約者が欲しい訳じゃない。
デビーが欲しいだけだ。
デビーとは、貴方との婚約以前に、約束を交わしている。
十八歳になっても、婚約者がいなければ、僕と結婚すると」
「こ、婚約は家同士を繋ぐものでもある!
当人同士での約束など、何の意味もなさない!」
「貴方がそうおっしゃるならば、今回のデビーとの婚約破棄と、シェリー・コルクス公爵令嬢との婚約は、双方の家同士が、既に納得済みということでよろしいですね?」
「うぐっ……。わ、我が父と母にはまだ伝えてはいないが……。
し、しかし!この天使のように愛らしいシェリーを見れば、必ず納得するはず!」
アレックスは、溜息をひとつ、ついた。
「はあ。言ってることが、無茶苦茶だよ。
まあいいです。
それならば、なおさら、デビーは僕が貰って行っても構わないですよね」
「そ、それは……」
「まさか、シェリー嬢を正妻にして、デビーを妾にしようとか思ってましたか」
黙りこくってしまう、シグナス。
「ああ、図星なんですね。
妾と言っても、どうせ愛しもせずに、労働を全てデビーに押し付ける気だったんでしょう」
空の魔法使いであるデボラは、海底まで潜ることができる。
サハギンに頼らなくとも、石や土を取りに行くこともできるのだ。
デボラは、アレックスの首に手を回し、その胸に顔を埋めていた。
誰にも期待などしていなかった。
それでもやっぱり、心のどこかで思っていたのだ。
シグナスは、自分の事を少しでも愛してくれるだろうと。
だが、それもまた、ただの夢だった。
しかし、それとは反対に、ただの夢だったはずの幼い約束が、現実となったのだ。
デボラの頬に、ひとしずく、涙がこぼれる。
本当は、シグナスなどよりも、ずっとアレックスに愛して欲しかった。
アレックスとの思い出があったから、今日まで生きてこれた。
デボラは、愛しい水色の肌に、頬をつける。
アレックスは、デボラに問いかけた。
「デビー。僕は、君を妻に迎えようと思ってる。
でも、君の気持ちは尊重したい。
もし、ここに残るのを選ぶのならば……」
「連れて行って。
ここじゃない、別の場所へ。
あなたと一緒に。
お願い、アレックス」
アレックスは、その一言さえあれば、十分だった。
デボラの頬に、そっとキスをする。
「魔法の泡で、頭を包んで。
一緒に、海へ行こう」
デボラは空の魔法で、大きな空気の泡を作り、自分の頭にかぶせた。
そこに、かかる声がひとつ。
デボラの妹のシェリーだ。
「アレックス様!姉に騙されてはいけません!
姉は、男を毎晩のようにとっかえひっかえ……」
「それはお前の方だろう。シェリー・コルクス公爵令嬢。
僕が何も知らないとでも思っているのか?」
「な、何を言って……」
「まあ、どうでもいい。
だけどお前には、僕を名前で呼ぶことを許可してはいない。
身の程をわきまえろ、シェリー・コルクス公爵令嬢」
鋭い、ネイビーブルーの瞳が、シェリーを射抜く。
シェリーの顔が、醜く歪む。
「だめよ!だめっ!
お姉様が私より幸せになるなんて、ゆるせない!」
「それが本音か。
残念だけど、お前の願いは、かなわない」
デボラの濡れた黒髪を、水かきのある指で、そっとなでるアレックス。
「行くよ、デビー!」
「うんっ!」
アレックスは、デボラを抱えたまま、庭園の端から宙に身を踊らせる。
そして、そのまま大海へと飛び込んだ。
★
デボラは、蒼い海へと沈んでいきながら、天を見上げる。
何十隻もの巨大な船や筏が、鎖で連結されている。
海の中では、何百もの長い鎖が、海底に沈んだ錨に繋がっていた。
たった今まで、住んでいた『フロート』の王国。
ゆっくりと、遠ざかって行く。
デボラは、自分の頭にかぶせた大きな泡から、全身の表面へと、薄く空気を張り巡らせる。
これにより、水圧による死亡を防ぐのだ。
しかし、油断は禁物。
水圧による圧死や、潜水病など、海を深く泳ぐには、注意しなければいけないことが沢山ある。
一応、全てが空の魔法で対処可能だが、逆に言うと、対処を間違えると死に繋がるのだ。
海の種族であるサハギンですら、急激な水圧の変化の前では、命を落とす。
デボラが海に潜れるのは、魔法により、約一時間。
サハギンであるアレックスは、約二時間ほど。
どちらにしろ、必ず呼吸が必要となる。
「ねえ、アレックス。これからどこへ行くの?」
「僕の『コバルト王国』だよ」
「それって、海の中にあるのよね?呼吸はどうしてるの?」
「厳密には、海の中ではあるけど、水の中じゃないんだ。
海の中に、大きな洞窟があって、そこには空気もある。
それを活用して国を作ってるんだ」
「私、すっかり水の中に住んでるんだと思ってた」
「ははは。僕たちは鰓呼吸じゃないから、そんなの溺れちゃうよ」
デボラは、アレックスと手を繋ぎ、泳ぐ。
フロートの敷地を離れ、海中に鎖が見えなくなって来た頃、ふたりの元に巨大な影が近づいて来た。
デボラがアレックスと結婚の約束をした時、隣にいたクジラだ。
「あっ!もしかして、あの時のクジラ?」
「そうだよ。僕の友達で、僕達の約束の見届け人だ」
クジラは、ふたりと並走して泳ぐ。
大きな丸い目が、ふたりを見て笑った気がした。
光るクラゲの群れを横切り、数十メートルの海藻であるジャイアントケルプの森を抜けると、大きななだらかな山があった。
その中腹には穴が空いていて、その周りには光る何かで「コバルト王国」と書いてある。
「わあっ!すごい!あの光ってるのは、何なの?」
「あれは、洞窟の中の光源にもなってる、太陽石だよ。
洞窟の天井に太陽石の大鉱脈があるから、コバルト王国は、真夜中でも明るいんだ。
植物もちゃんと育つから、洞窟の中には森林もあるよ」
ふたりが、王国の入り口へと向かうと、何十人ものサハギンの人影が、こちらへやって来た。
鋭い甲殻類の殻の槍を持ち、頑丈な分厚い貝殻の鎧を身に纏った、兵士だ。
その中の一人、武装をせずに海藻の礼服を着た、髭を生やした壮年のサハギンの男性が、アレックスに声をかける。
「殿下。そちらのご婦人が?」
「ああ。僕の婚約者になった、デボラ・コルクス公爵令嬢だよ」
「執事長を務めております、メイルと申します。お見知りおきを」
メイルは、水の中でゆるりとお辞儀をした。
デボラもスカートの裾を摘まんで礼を返そうとしたが、水中で裾を摘まむと、下着が見えてしまう。
貴族式の礼は諦めて、ただのお辞儀を返した。
執事長のメイルは、あご髭をなでながら、アレックスを横目で見る。
「いやあ、それにしても、殿下。
昨日までとはまるで別人のようにお元気になられて」
「う、うるさい!」
「コルクス公爵令嬢が、十八歳になられる本日、別の婚約者がいらっしゃれば、殿下との約束は無しとなりますからな。
ここ最近は特に、日に日に荒れていらっしゃったのですよ」
顔をうっすらと赤く染め、そっぽを向くアレックス。
デボラはそれを見て、なんだか嬉しくなってしまった。
ひとりじゃなかった。
想ってくれる人がいた。
その事実が、何十着のドレスよりも、目が飛び出るほど高額な宝石よりも、ずっと嬉しい。
サハギンの兵士たちが、二手に分かれて、中央に道を作る。
デボラの手を引くアレックス。
恥ずかしがっているせいか、こちらを見てくれない。
でも、デボラと繋いだその手は、今までの人生で繋いだ誰の手よりも、温かかった。