表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/12

アレクサンダー・コバルト

 その場の誰もが、静まり返っていた。


 アレクサンダー・コバルト。


 その名を知らぬ者は、この場にいない。


 この王国『フロート』の最大の交易相手であり、貴重な土や石を売ってくれる命綱でもある、コバルト王国の第一王子。

 そのような重要人物が、忌まわしき魔女である、デボラ・コルクス公爵令嬢を婚約者にすると言ったのだ。


 アレックスは、黒いドレスから海水を滴らせている、デボラに優しく(ささや)く。


「デビー。もう大丈夫。今日からは、僕がいる。

 本当は、君に婚約者ができたと知って、死ぬほど辛かった。

 今日、ここに来たのも、これから他の男のものになってしまう君を、最後に一目見たかっただけなんだ。

 でも、あいつは宝物を、自分から手放した。

 君は、僕のものだ。

 僕は、君を放すつもりはない」


 フロートの皇太子シグナスは、混乱しながらも、アレックスへと告げた。


「アレクサンダー殿下。

 その女は、邪悪な魔女です。

 自分の妹を、執拗(しつよう)(いじ)め抜くような女です。

 もし、婚約者をお探しならば、他にいい相手をご紹介しましょう」


 アレックスは、シグナスを睨みつける。


「ご心配は無用です。シグナス殿下。

 僕は婚約者が欲しい訳じゃない。

 デビーが欲しいだけだ。

 デビーとは、貴方との婚約以前に、約束を交わしている。

 十八歳になっても、婚約者がいなければ、僕と結婚すると」

「こ、婚約は家同士を繋ぐものでもある!

 当人同士での約束など、何の意味もなさない!」

「貴方がそうおっしゃるならば、今回のデビーとの婚約破棄と、シェリー・コルクス公爵令嬢との婚約は、双方の家同士が、既に納得済みということでよろしいですね?」

「うぐっ……。わ、我が父と母にはまだ伝えてはいないが……。

 し、しかし!この天使のように愛らしいシェリーを見れば、必ず納得するはず!」


 アレックスは、溜息をひとつ、ついた。


「はあ。言ってることが、無茶苦茶だよ。

 まあいいです。

 それならば、なおさら、デビーは僕が貰って行っても構わないですよね」

「そ、それは……」

「まさか、シェリー嬢を正妻にして、デビーを(めかけ)にしようとか思ってましたか」


 黙りこくってしまう、シグナス。


「ああ、図星なんですね。

 (めかけ)と言っても、どうせ愛しもせずに、労働を全てデビーに押し付ける気だったんでしょう」


 (そら)の魔法使いであるデボラは、海底まで(もぐ)ることができる。

 サハギンに頼らなくとも、石や土を取りに行くこともできるのだ。


 デボラは、アレックスの首に手を回し、その胸に顔を埋めていた。

 誰にも期待などしていなかった。

 それでもやっぱり、心のどこかで思っていたのだ。

 シグナスは、自分の事を少しでも愛してくれるだろうと。

 だが、それもまた、ただの夢だった。


 しかし、それとは反対に、ただの夢だったはずの幼い約束が、現実となったのだ。


 デボラの頬に、ひとしずく、涙がこぼれる。


 本当は、シグナスなどよりも、ずっとアレックスに愛して欲しかった。

 アレックスとの思い出があったから、今日まで生きてこれた。

 デボラは、愛しい水色の肌に、頬をつける。




 アレックスは、デボラに問いかけた。


「デビー。僕は、君を妻に(むか)えようと思ってる。

 でも、君の気持ちは尊重したい。

 もし、ここに残るのを選ぶのならば……」

「連れて行って。

 ここじゃない、別の場所へ。

 あなたと一緒に。

 お願い、アレックス」


 アレックスは、その一言さえあれば、十分だった。

 デボラの頬に、そっとキスをする。


「魔法の泡で、頭を包んで。

 一緒に、海へ行こう」


 デボラは(そら)の魔法で、大きな空気の泡を作り、自分の頭にかぶせた。


 そこに、かかる声がひとつ。

 デボラの妹のシェリーだ。


「アレックス様!姉に(だま)されてはいけません!

 姉は、男を毎晩のようにとっかえひっかえ……」

「それはお前の方だろう。シェリー・コルクス公爵令嬢。

 僕が何も知らないとでも思っているのか?」

「な、何を言って……」

「まあ、どうでもいい。

 だけどお前には、僕を名前で呼ぶことを許可してはいない。

 身の程をわきまえろ、シェリー・コルクス公爵令嬢」


 鋭い、ネイビーブルーの瞳が、シェリーを射抜く。


 シェリーの顔が、醜く歪む。


「だめよ!だめっ!

 お姉様が私より幸せになるなんて、ゆるせない!」

「それが本音か。

 残念だけど、お前の願いは、かなわない」


 デボラの濡れた黒髪を、水かきのある指で、そっとなでるアレックス。


「行くよ、デビー!」

「うんっ!」


 アレックスは、デボラを抱えたまま、庭園の端から宙に身を踊らせる。


 そして、そのまま大海へと飛び込んだ。







 デボラは、蒼い海へと沈んでいきながら、天を見上げる。

 何十隻もの巨大な船や(いかだ)が、鎖で連結されている。

 海の中では、何百もの長い鎖が、海底に沈んだ(いかり)に繋がっていた。


 たった今まで、住んでいた『フロート』の王国。

 ゆっくりと、遠ざかって行く。


 デボラは、自分の頭にかぶせた大きな泡から、全身の表面へと、薄く空気を張り巡らせる。

 これにより、水圧による死亡を防ぐのだ。

 しかし、油断は禁物。

 水圧による圧死や、潜水病など、海を深く泳ぐには、注意しなければいけないことが沢山ある。

 一応、全てが(そら)の魔法で対処可能だが、逆に言うと、対処を間違えると死に繋がるのだ。

 海の種族であるサハギンですら、急激な水圧の変化の前では、命を落とす。


 デボラが海に潜れるのは、魔法により、約一時間。

 サハギンであるアレックスは、約二時間ほど。

 どちらにしろ、必ず呼吸が必要となる。


「ねえ、アレックス。これからどこへ行くの?」

「僕の『コバルト王国』だよ」

「それって、海の中にあるのよね?呼吸はどうしてるの?」

「厳密には、海の中ではあるけど、水の中じゃないんだ。

 海の中に、大きな洞窟があって、そこには空気もある。

 それを活用して国を作ってるんだ」

「私、すっかり水の中に住んでるんだと思ってた」

「ははは。僕たちは(えら)呼吸じゃないから、そんなの溺れちゃうよ」


 デボラは、アレックスと手を繋ぎ、泳ぐ。


 フロートの敷地を離れ、海中に鎖が見えなくなって来た頃、ふたりの元に巨大な影が近づいて来た。

 デボラがアレックスと結婚の約束をした時、隣にいたクジラだ。


「あっ!もしかして、あの時のクジラ?」

「そうだよ。僕の友達で、僕達の約束の見届け人だ」


 クジラは、ふたりと並走して泳ぐ。

 大きな丸い目が、ふたりを見て笑った気がした。




 光るクラゲの群れを横切り、数十メートルの海藻であるジャイアントケルプの森を抜けると、大きななだらかな山があった。

 その中腹には穴が空いていて、その周りには光る何かで「コバルト王国」と書いてある。


「わあっ!すごい!あの光ってるのは、何なの?」

「あれは、洞窟の中の光源にもなってる、太陽石だよ。

 洞窟の天井に太陽石の大鉱脈があるから、コバルト王国は、真夜中でも明るいんだ。

 植物もちゃんと育つから、洞窟の中には森林もあるよ」


 ふたりが、王国の入り口へと向かうと、何十人ものサハギンの人影が、こちらへやって来た。

 鋭い甲殻類の殻の槍を持ち、頑丈な分厚い貝殻の鎧を身に纏った、兵士だ。


 その中の一人、武装をせずに海藻の礼服を着た、髭を生やした壮年のサハギンの男性が、アレックスに声をかける。


「殿下。そちらのご婦人が?」

「ああ。僕の婚約者になった、デボラ・コルクス公爵令嬢だよ」

「執事長を務めております、メイルと申します。お見知りおきを」


 メイルは、水の中でゆるりとお辞儀をした。

 デボラもスカートの裾を摘まんで礼を返そうとしたが、水中で裾を摘まむと、下着が見えてしまう。

 貴族式の礼(カーテシー)は諦めて、ただのお辞儀を返した。


 執事長のメイルは、あご髭をなでながら、アレックスを横目で見る。


「いやあ、それにしても、殿下。

 昨日までとはまるで別人のようにお元気になられて」

「う、うるさい!」

「コルクス公爵令嬢が、十八歳になられる本日、別の婚約者がいらっしゃれば、殿下との約束は無しとなりますからな。

 ここ最近は特に、日に日に荒れていらっしゃったのですよ」


 顔をうっすらと赤く染め、そっぽを向くアレックス。

 デボラはそれを見て、なんだか嬉しくなってしまった。


 ひとりじゃなかった。

 想ってくれる人がいた。

 その事実が、何十着のドレスよりも、目が飛び出るほど高額な宝石よりも、ずっと嬉しい。


 サハギンの兵士たちが、二手に分かれて、中央に道を作る。


 デボラの手を引くアレックス。

 恥ずかしがっているせいか、こちらを見てくれない。

 でも、デボラと繋いだその手は、今までの人生で繋いだ誰の手よりも、温かかった。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 二話めにして早くも軽くざまぁ 童話テイストが新鮮 [気になる点] メイル=鱗? [一言] 更新ありがとうございます 読んでいるとなんだかこちらまで ゆったりとした水に包まれているような感…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ