デボラの夢とアレックス
デボラ・コルクス公爵令嬢は、納屋の中の藁の山で、目を覚ました。
いつもの藁のベッド。
これがあるおかげで、地面に直接寝なくとも済むのだ。
デボラの視界に、ぱさりとかかる、長い黒髪。
「うふふ。寝ぐせ、すごい」
その黒い目を、ぱちくりと瞬かせると、自分自身の黒髪を、指で梳かす。
デボラは立ち上がると、着ているボロボロの、真っ黒な細身のドレスのスカートの、砂ぼこりを叩いて落とす。
本当ならば、ドレスを着て寝るなど、服をダメにしてしまうため、良くはない。
しかし、デボラは他に着るものが無いのだ。
他のドレスは、全て妹に斬り裂かれたか、取られてしまった。
デボラの持っている服は、今着ている黒のドレスの一着のみ。
真夜中にこっそりとドレスと下着を洗濯しては、デボラの『空の魔法』で乾燥させる。
それが、デボラの日々。
デボラには、自室が与えられなかった。
部屋が足りていないという事は、決して無い。
使用人たちですら、邸宅の中に自室を持っている。
その上で、なお部屋が余っている。
だが、デボラには自室を持つことを許されなかった。
継母からの、ただの嫌がらせだ。
デボラが納屋から出ると、外は快晴だった。
太陽がまぶしい。
しかし、デボラは帽子など持っていない。
そのせいで、肌は浅黒く日焼けしていた。
ここは、コルクス公爵邸の庭の端にある、納屋。
何人かの使用人が庭を行き来しているが、デボラに挨拶を交わす人間は、皆無である。
緩やかに、揺れる地面。
これは、この国では日常だった。
この国は、大きな船や筏を何十隻も繋げて作られた、浮き木の王国『フロート』。
石造りの地面の下は、海だ。
いや、海ではない場所など、この世界のどこを探しても存在しない。
数百年前の天変地異で、陸地は全て沈んでしまった。
土や石は、海の底まで潜れる、海の種族であるサハギンの王国と、交易で手に入れるしかないのだ。
サハギンとは、半魚人とも別称される、水色の肌をした、海に適応した人間。
半魚人と呼ばれてはいるものの、哺乳類であり、紛れもない人間だ。
鰓や鱗は無く、イルカやクジラと同じく、肺呼吸。
このフロートでは、サハギンの『コバルト王国』との交易によって成り立っている部分もある。
今日は、学園の卒業パーティ。
そしてデボラは、今日で十八歳になる。
しかし、コルクス公爵家では、デボラの卒業や誕生日を祝う者など、誰一人としていなかった。
わかっていたこと。
いつものこと。
だけれど、ほんの少しだけ、期待していた。
せめて、ひとりくらいは、おめでとうと言ってくれるのを。
「はあ。これが、現実よね」
そう、これが現実。
さっきまで見ていた、夢のようにはいかない。
デボラはたった今まで、眠りの中で、幼い頃の思い出を夢として見ていた。
あれはまだ、病で亡くなった、実の母が生きていた頃。
この国の、浜辺区画で泳いで遊んでいた頃に知り合った、サハギンの少年がいた。
水色の肌に、深いネイビーブルーの髪と目。
両手両足の指の間には、水かきがあって。
長いしっぽが生えていて、その先にはイルカのようなヒレがついていた。
きれいな白い海藻で作られた、ゆったりとした服を着た、美しい顔立ちの少年だった。
デボラは彼を、アレックスと呼んでいた。
デボラも、アレックスからはデビーという、あだ名を付けられていた。
「ねえ、デビー。デビーは、空の魔法が使えるんだよね?」
「ええ。それがどうかしたの?」
「空気を操る空の魔法なら、顔の周りに泡を作って、海に潜れるんじゃない?」
「一時間くらいなら。海の中に連れて行ってくれるの?」
「うん!きれいなところが、いっぱいあるんだ!デビーにも見て欲しい!」
その日から、デボラはアレックスと一緒に、海中散歩をするのが日課となっていった。
デボラとアレックスは、水の中でも会話ができる。
デボラは、大きな空気の泡で、頭を丸ごと包んでいるため。
サハギンであるアレックスは、特殊な発声方法で、水の中でも話すことが出来た。
色々なものを見ながら、沢山のお喋りをした。
光るクラゲの群れ。
何十メートルもある、長い昆布。
比較的浅瀬では、カラフルな珊瑚礁もあって、カラフルな熱帯魚が、ものすごい群れをなしていた。
アレックスは、巨大なクジラの友達を呼び出して紹介してくれた時に、デボラに呟いた。
「ねえ、デビー。デビーは、婚約者はいるの?」
「まだ決まってないわ」
「ほんと?じゃあ、もしデビーが十八歳になっても、婚約者がいなかったら、僕と結婚してよ!」
「ええっ!?それ本気!?」
「本気!」
「だ、だったら、……いいわよ」
「やった!約束だからね?」
アレックスは、幼いながらに美しい顔で、ニンマリと笑う。
デボラも、顔を赤くしながら、ニンマリと笑った。
そう、これは、今は遠い過去の、ただの夢。
確かに、昔は現実だったはずの、ただの夢。
デボラは、重い足取りで、本当は自宅のはずの、コルクス邸へと向かう。
もうこの世にはいない母を想いながら。
「遅い。何をしていたんだ」
「納屋から歩いてきただけです」
「私を待たせるな!このグズが!」
デボラのドレスに、ワインがかかる。
リビングルームでデボラにワインをかけ、恫喝しているのは、実の父。
コルクス公爵である。
公爵令嬢であるデボラが、なぜ納屋で寝ているかなど、聞きもしない。
興味が無いのだ。
「お父様、仕方ないですわよ。だって、お姉様ですから」
庇っているようで、まるで庇っていないのは、半分だけ血のつながった、妹のシェリー。
黒髪黒目のデボラと違って、金髪碧眼のシェリー。
今や公爵夫人となっている、二番目の母から生まれたシェリーは、デボラとは全く似つかなかった。
その二番目の母である、金髪碧眼のコルクス公爵夫人も、笑いを浮かべる。
「ほんと、シェリーとは違って、なんてトロいのかしら」
「お姉様の頭が鈍いのは、今に始まったことではないですよ、お母さま」
父が、デボラを睨みつける。
「さっさと卒業パーティの支度をしろ。
お前のような奴でも、一応は皇太子殿下の婚約者なんだからな。
まったく。皇太子殿下も、かわいそうに。
もしシェリーが先に生まれていれば、あんな陰気なやつじゃなくて、明るく美しいシェリーを婚約者にできたものを……」
デボラは、父にお辞儀をして、リビングルームから出る。
支度と言われても、たった今ワインをかけられた、黒のドレスを洗濯して、魔法で乾かすだけだ。
なぜならば、アクセサリーも他のドレスも、デボラは何も持っていないから。
父も継母も、妹のシェリーにばかり、愛を注いでいた。
シェリーには、溢れんばかりの金銀や宝石の装飾品を与えて。
しかし、デボラは黙って部屋を出た。
朝食すら食べずに。
それほどまでに、これ以上、あの部屋には居たくなかったのだ。
どうせ、用意される朝食も、デボラだけが使用人よりもさらに粗末なものなだけ。
使用人たちも、虫でも見るかのように、デボラをジロジロと眺める。
(でも、今日でここともお別れ。明日からは、皇太子殿下のお家)
そう自分に言い聞かせる。
デボラは、決して贅沢を好む質ではない。
豪勢な邸宅など、望まない。
ただ、自分を虐げない、小さな家庭があればいい。
デボラは、皇太子とは、あまり仲が良くなかった。
というよりも、皇太子がデボラを露骨に避けていたのだ。
危害を加えないだけ、コルクス公爵邸よりも、まだマシだったが。
(それでもいい。せめて、ここから逃げ出せることさえできれば……)
皇太子とは、愛のない夫婦になるだろう。
だから、もし自分に子供ができたら、精一杯の愛を込めよう。
何もかもを奪われ続けてきた、デボラの人生だが、やっと授かるかもしれない、宝物。
それがデボラの、ひそかな夢。
「デボラ・コルクス公爵令嬢!俺は貴様との婚約を破棄する!」
波間に漂う庭園区画で、皇太子シグナスは、ステージの上からデボラを見下ろして、その場の全員に告げた。
皇太子は、白鳥座の名の通り、髪も肌も真っ白な、それは美しい青年であった。
その瞳だけが、金色に輝いている。
黒髪黒目で、肌も浅黒いデボラとは、真逆の青年。
皇太子はステージの上で、なぜかここにいるシェリーの肩を抱き寄せた。
「そして、シェリー・コルクス公爵令嬢を、新たな婚約者として迎えよう!」
庭園区画から、大歓声が上がる。
卒業パーティに出席した、ほぼ全員が、拍手喝采をしていたのだ。
デボラの視界が、くらりと回る。
(……えっ?えっ?)
倒れそうになるデボラを抱きとめたのは、庭園区画の端に通された、デボラの腰ほどの高さの、木製の手すりだった。
背中のすぐ後ろでは、水が波うっていて、その下は深い海。
皇太子シグナスは、シェリーを抱き寄せ、デボラを睨む。
「貴様。この魔女め。よくも、シェリーを虐めてくれたな」
デボラは、何とか声を上げる。
「わ、私!いじめてなんか……」
「黙れ!シェリーから、全て聞いている。ドレスを斬り裂き、宝飾品を盗み、あまつさえ、階段から突き落としたそうだな」
「はっ?はあああっ!?」
あまりにも意外過ぎる発言。
それは全部、デボラが受け続けてきたこと。
デボラのドレスは、シェリーに斬り裂かれ。
学園の階段から突き落とされたのも、シェリーではなくデボラの方。
デボラは、必死に弁解した。
「シグナス様!み、見てください!私、いつも同じドレスで!
ネックレスも指輪も!何も着けてない!」
両手を広げ、主張する。
だが、シグナスの目は、胡散臭げな眼差しを見せるだけだった。
「それもシェリーから聞いている。
普段は、被害者面するために、何も着けていないと。
そして、いかがわしい夜会に行く時だけ、身を飾ると。
もう何人の男と寝たのかを数えるのに、両手両足の指では足りないらしいな」
「な、なにそれ……」
デボラは、男と肌を重ねるどころか、まだキスすらしたことが無い。
ただ、目を丸くすることしかできないデボラ。
シェリーが、皇太子シグナスへと抱き着く。
「わ、私、それも言うなって脅されてたんです!
もしシグナス様に言ったら、他の男に襲わせるって!
でも、シグナス様が守ってくれるって言ったから、勇気を出して!」
シェリーを抱きしめるシグナス。
「もう大丈夫だよ、シェリー。
俺が付いている。
誰にも襲わせたりなど、させはしない」
本当ならば、その言葉を捧げるのは、婚約者であるデボラのはず。
しかし、皇太子シグナスの金色の目には、妹のシェリーしか映っていなかった。
シグナスは、デボラを指差す。
「衛兵!その魔女を捕らえよ!」
庭園区画を警備していた鎧姿の衛兵が数人、剣を抜く。
「え、ちょっと、まってよ……」
のけぞる、デボラ。
その背中を支えていた木製の手すりに、全体重がかかる。
元々、潮風に吹かれ続けて脆くなっていたのか、デボラの細い身体ですら、受けきれずに、折れる手すり。
バキリという嫌な音と共に、デボラはそのまま、後ろへ倒れた。
「えっ?」
海の上に、デボラの身体が放り出される。
「……あ」
手を伸ばすも、デボラは、何も、誰も、つかめない。
あまりにも急すぎて、魔法で空気の泡を作ることも出来なかった。
ただ、海へと落ちて行く。
最後に見えたのは、悲しそうな表情で、でも笑う目の、シェリーの顔だった。
(私の人生、なんだったの……?)
ただ、虐げられ、奪われるだけの人生。
デボラの黒い瞳が、絶望に染まる。
そして、デボラは海に落下し、沈む。
その時、猛烈なスピードで、海中から何かが泳いで浮上してきた。
その何かは、デボラを抱き上げ、その勢いのまま、海から上空へと跳躍する。
高く上がる、水しぶき。
その場の誰もが、それを仰ぎ見る。
デボラを抱きかかえ、水中から飛び出してきたのは、水色の肌の人間だった。
水色の肌の、イルカのようなヒレのついた長い尾の、背の高いサハギン。
ネイビーブルーの髪と瞳。
ゆったりとした、きれいな白い海藻の服を着た、美しい顔の、青年のサハギンだった。
彼は、庭園の端へと着地する。
その衝撃で、海に浮かぶ庭園が、大きく揺れる。
彼は、両腕で抱きとめたデボラを心配そうに見た。
「デビー。だいじょうぶ?」
「ごほっ!がほっ!」
海水を飲んでしまったせいか、むせるデボラ。
サハギンの青年は、庭園の石畳の上に、デボラを優しく寝かせる。
皇太子シグナスは、驚愕していた。
「貴様!い、いや、貴方は!」
サハギンの青年は、デボラの背中をなでながら、ネイビーブルーの瞳で、シグナスを睨む。
「話は全部、海の中で聞いていた。
婚約破棄、したんでしょ?
だったら、デビーは僕が貰う」
海水を吐き出したデボラは、涙で滲む視界で、サハギンの青年を見た。
「あ、あなたは?」
「久しぶりだね、デビー。約束、覚えてる?」
「……アレックス?」
そのサハギン、アレックスは、デボラを見て、ニンマリと笑った。
「十八歳の誕生日、おめでとう。そして、婚約者もいなくなった。デビーは僕のお嫁さんだ」
アレックスは、デボラを再び抱き上げると、長大な尾を振る。
ヒレのついた尾からは、水滴が舞い散った。
アレックスの眼差しが、シグナスを鋭く貫く。
そして、その場の全員に聞こえるように、宣言した。
「コバルト王国、第一王子。
アレクサンダー・コバルト。
今、この時より、デボラ・コルクス公爵令嬢を婚約者とする!」