幸せな一歩へ <柚香の災難>
詩冬の体がぶるっと震える。鳥肌が立った。
怪しげな視線を感じる。誰かに見られているようだ。
辺りをキョロキョロと辺りを見回した。
ようすのおかしい詩冬に、柚香が気づく。
「詩冬、どうかしたの?」
「ちょっと寒気が……」
きゃああああああああああああああああ!
とつぜん絶叫したのは柚香だ。
いったい彼女に何があったのだろう。
詩冬が柚香の視線の先を確認する。そこは公園の中のようだ。滑り台のついたコンクリート山の横穴に、奇妙な人影を発見。公園で遊ぶ可愛い子供たちではない。一人のオッサンだ。
乱れた髪に長い髭、そして奇抜な腰巻。ぎょろっとした目を詩冬に向けている。
間違いない。きのう道を訊いてきた男だった。
その男の怪しい風貌に、柚香が大声をあげたのも理解できる。
なんと彼は詩冬に手招きを始めたではないか。
柚香が耳元でささやく。
「きのうの人じゃない?」
胡散臭そうに男を眺めている。
「ああ、そうみたいだな」
「本当に詩冬の知り合いとかじゃないの?」
詩冬は声を大にして答える。
「当然だ! ただ道を訊かれただけだ」
「ねえ、ほら。こっちに歩いてくる」
確かに詩冬たちの方に向かっているようにも思える。
詩冬は祈った――。
どうかこっちに来ないでくれ。
そんな願いも虚しく、男の足は詩冬の前で止まるのだった。
「おぬし、きのうは世話になったのう」
柚香が眉をひそめて、詩冬に確認する。
「世話したの?」
詩冬は首を激しく振った。
誤解なんてされたら堪ったもんじゃない。
少なくとも、こっちとしては関わりたくないのだ。
「してない、してない。オレ、世話なんか一切してないから!」
男が豪快に笑う。
「謙虚よのう」
別に謙虚な気持ちで言ったわけではない。ただ関わりを認めたくなかったのだ。
男が大声をあげる。
「ややっ」
驚愕する彼の眼差しは、柚香に送られていた。
もしかして霊である柚香が見えているのか。
柚香は気味悪そうに顔を引きつらせている。
彼女に代わって詩冬が尋ねてみた。
「オッサン、コイツが見えるんですか?」と柚香を指差す。
「コイツって何よ!」
柚香は詩冬の指を払った。
男は柚香の姿を眺めながら、感慨深そうにうなずいている。
「見えるとも。会いたかった。どれほど再会を願ってきたことか……」
再会を願ってということは、すなわち柚香を知っていたことになる。
詩冬は柚香に『記憶が戻るための協力』を約束していた。それで手掛かりになりそうなものを探すことになっていた。しかしこんなにも早く見知り越しの人物が現れるなんて、夢にも思っていなかったことだ。
これで柚香の生前の記憶がいよいよ戻るかもしれない――目標達成が現実味を帯びてきた。
「すごいぞ! 柚香、よかったな。知り合いの登場だ!」
詩冬は満面に笑みを湛えながら、柚香のこめかみを指先で小突いた。
ところがまったく不可解なことに、彼女の顔には喜びの片鱗も見られなかった。
「どうしたんだよ、柚香? 記憶を戻す手掛かりがすぐそこにあるんだぞ」
「い、いえ。やっぱり記憶戻らない方がいいかも」
詩冬には、まるで理解できない――。
はあ? どうしちゃったんだ。記憶をとり戻したかったのではないのか。よくわからないヤツだ。女心とはやはり難しい。
とりあえず男に確認する。
「ねえ、オッサン。再会ってことは、この柚香の知り合いってことですよね」
男は眉間にシワを寄せた。
「これはユウカではない。ユズカと言うのじゃ。それにワシはオッサンではない。畏れ多くもこのワシは、高潔無比たる高僧にして名僧と呼ばれた犀鶴という名前がある」
男の名前はともかく、柚香の正しい読み方が判明。
詩冬はまるで自分のことのように喜んだ。
「よかったな、本当の名前がわかったぞ。ユズカだってさ」
「あ……あたしはユウカよ。人違いね」
柚香は過剰なまでに頭を大きく振っている。
「オッサ……じゃなくて、えっと、なんとかムヒたる匂僧にして迷僧と呼ばれた犀鶴さん。あなたはコイツとどんな関係だったんです? コイツは犀鶴さんのなんなのですか?」
犀鶴はもったいぶるようにゴホンと咳払いした。
「わが妻じゃ」
きゃああああああああああああああああああ
柚香の悲鳴は二度目となる。
嬉しさのあまり意識が朦朧としてしまったのか、彼女は足をふらつかせ始めた。
「ユズカっ。よかったな、よかったな。旦那さんに会えて本当によかったな!」
詩冬は大興奮だった。
柚香も頭を抱えて……喜んで? なんだか変な喜び方だ。
悲嘆しているようにも見えなくもない? いやいや、まさか。
だって喜んでないわけがないじゃないか。きっと大喜びしているんだ!
「う……、う……、う……」
体まで震わせ始めた。そんなに嬉しかったか。
ギョロッとした犀鶴の目が、優しく柚香を包み込んでいる。
柚香のうめき声は、いつの間にか泣き声に変わっていた。
ようやくここで詩冬は、彼女のようすがおかしいことに気づき始めた。
なんだか嬉し泣きでもなさそうだ。
「おい、ユズカ。どうした?」
反応がない。
犀鶴も困惑した顔をしている。
そうだろう。当然だ。何故なら柚香は……。
詩冬は犀鶴に彼女の現状を話すことにした。
「犀鶴さん。実は、コイツ……もとい奥さんは記憶を失っているんです。それで奥さんの記憶が戻るように、いろいろ手掛かりを探してたんですけど、なかなか見つからなくて……。こんな状況ですので、いきなり旦那さんが現れても、混乱するだけだと思います。あと、こんなことを言うのは心苦しいんですけど、いま目の前にいる奥さんは幽霊なんです」
「見ればわかる、幽霊くらい。じゃが、ユズカよ、ワシを思いだせぬのか……」
犀鶴はガックリと肩を落とし、悲愴感を漂わせていた。
しかしそれ以上に衝撃を受けているのは、なんといっても柚香のようだ。
「認めない。あたしはこの男の妻なんかじゃない! それにあたしの名はユウカ」
耳と鼻先をピンク色に染めて涙を流している。
「あの。オッサ……犀鶴さん。そのボサボサの長い髪と髭、なんとかならないんですか。服装にしたって、もっときちんとしたのを身につけるべきです。旦那さんがそんな格好してたら、奥さんは嫌がるに決まってますよ」
柚香が可哀想な気がしてきたので、詩冬は率直な気持ちを述べたのだった。
「誰が奥さんよっ!」
柚香のグーのパンチが、詩冬の顔面をヒットした。
いてててて。詩冬が手で顔面を押さえる。
なんて理不尽な。こんなに柚香のことを気遣ってやってるのに。
犀鶴の長く吐く息の音が聞こえた。
その面持ちは実に寂しそうだった。
「ユズカは他人を外見で判断するような人間ではなかったのじゃが」
「するわ、あたし。外見で人を判断するっ。だから人違いよ。残念でしたね!」
犀鶴が首を横に振る。
「いいや、おぬしはユズカじゃ。間違いない」
「認めない。絶対にありえない」
このあと延々と人違いか否かで議論が続いた。
「あのさ。立ち話もなんだから、喫茶店でも入らないか? 柚香、いや、ユズカさんも、さっきオレに何か奢れとか言ってたじゃん。仕方ないからきょうは奢るよ、珈琲くらい」
「誰がユズカさんよ!」
「落ち着いてくれ。そういえばすぐそこにカフェ・ラナとかいう店があったっけ」
詩冬は柚香をなだめながら、二人をカフェ・ラナに連れていった。




