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特効薬はガンでした。  作者: 百花
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1.亮二その1

 ……私は不快感を覚え寝苦しさから目が覚めた。

 今日はいつもより暑い朝だ。パジャマは汗でぐっしょりと濡れていた。

 薄暗い中で時計に目をやるとまだ7時を回ったところだった。

 にもかかわらずその時間にしては明るい陽光がカーテンの隙間から刺していた。

 下着を取り換え半袖ワイシャツとパンツに着替えた後、1階のリビングへと階段を降りる。

 途中、妻がせわしなく家事をする音と味噌汁の匂いがした。


 「早く食べてね。今日も早いから」

 いつも通りの妻の言葉で、いつも通りの朝がはじまる。

 5年前、わが家の前に新築のマンションが建ってからというもの、なかなか陽の光が入らず薄暗いためリビングでは蛍光灯をつけていた。

 その光のもとにいると今が朝であることがわからなくなる。

 いつも通りリモコンでテレビをつけ、お馴染みのニュース番組にチャンネルを変えた。

 「いえ、僕はね不倫はするときにはすると思っていますよ。ただやるならバレないようにしないと。当事者たちの危機管理能力の問題ですよ」

 画面には少し白髪が混じっているが、とても清潔感があり美丈夫なキャスターがボード前に立っている姿が映った。

 まるで不倫を肯定するかのように聞こえる意見だ。

 いつも通り視聴者の大半から反感を買いそうな意見を言っていた。

 堂々とした発言で歯に衣を着せない物言いが心地よい。私は彼に好感をもっていた。

 自分の意見に対してどう言われようが自分の意見に自信をもっているのだろう。

 どうやらある俳優が一般女性と結婚間近で人気女優と男女関係であったことが報道されているようだ。

 さらに美丈夫のキャスターと、同席していた芸能リポーターとのやりとりが続いた後、しばらくして今日の天気予報になった。

 どうやら梅雨が明け、本日から本格的な夏日になるとのことだった。

 私はリビングの窓から空を眺めた。

 新築のマンションの端から真っ青な空が顔を覗かせている。

 窓からわずかに刺した光が棚の上に置いてある写真立ての私、妻、美海の3人が笑顔で写った写真を浮き上がらせていた。


 美海は無邪気な顔で歯を見せてこちらに笑いかけていた。懐かしい笑顔だ。

 5年前にいった沖縄旅行への家族旅行のときの写真だ。


 「美海はもう出かけたのか?」

 「ええ。なんでももうすぐ引退だから悔いを残さないよう練習するそうよ。

 私はそんなことよりも受験勉強に集中してほしいんだけどね。それよりも早く食べちゃってね」

 妻は私が食べ終わるのを待てないといった風に洗面所へと姿を消した。

 私は妻を不機嫌にさせないため、急いで飯を口の中に駆け込んだ。

 手早く朝食を済ませ洗面を済ますと家を出た。横目で妻の部屋を覗くと、妻は自分の部屋の鏡台で化粧をしていた。

 三和土に美海の靴はなかった。


 家の前の路地から大通りに出ると突き刺すような陽光で一瞬目がくらんだ。

 通り沿いのバス停へ向かう途中、朝日を体いっぱいに浴びた親子が手を繋いで前を歩いていた。

 まだ20代と思えるワイシャツ姿の父親が黄色い幼稚園帽を被った女の子の手を握っていた。

 大通りは車の通りが激しく、飛び出さないように気をつけているのだろう。どうやら出勤の途中で娘を幼稚園に送るようだ。

 「今ねー、大きくなったらなりたいものを描いてるのー」

 女の子は今日の青空にこれ以上ないくらいマッチした笑顔で父親を見ながら

 「大きくなったらパパのお嫁さんになるの。今度見せてあげるね!」

 父親は娘の目線に合わせるように腰を低くし

 「そうか。パパうれしいな」

 女の子の頭を優しくなでた。

私は懐かしいものを見るように目を細め、颯爽と親子のそばを通りすぎた。


 「大きくなったらパパのお嫁さんになる」

 あのときは家族3人で幼稚園に美海を送っていたっけ。その道中は美海の幼稚園での話を聞くことが恒例となっていた。

 「先生に褒められたんだよ。よく描けてるねって」

 「本当に美海は絵が上手ね。美海はきっといいお嫁さんになるわね」

 「パパ楽しみにしてるね」

 そんな会話をしていた気がする。

 妻は娘のことをよく褒め、私は美海の話に喜んだり、悲しんだりと聞き役に徹していた。

 受け身なのは仕事でも家庭でも同じことだった。

 それでも美海はいつも楽しそうに自分の話をしていた。それももう遥か遠く昔のことのように感じる。

 本当にあったことなのか。今では身に起こっていない、遥か昔のおとぎ話のように感じている。

 それを悲しいとは思っていない。物事は変化するもの、自分はただそのときの状況に合わせていけばいいと思っている。

 美海は今では私に関心を持っていない。むしろ嫌悪しているように見える。

 ……最後に声を聞いたのはいつのことだったか。

 それも年頃の女の子には当然のことだろうと思っている。干渉する気はない。

 妻も同様だ。最近はほとんど会話らしい会話をした記憶がない。

 お互い夫、妻、父親、母親の役割を淡々とこなし、役割上どうしてもコミュニケーションを取る必要が出たら取るという具合だ。

 それでもいいと思っている。時間が経つとはそういうことだ。

 ただ父親として、夫としての義務を果たしていれば問題ない。


 屋根付きのバス停で自分を含め4人で列を作って待っていると、真っ青にカラーリングされたバスがブレーキをかける音とともにやってきた。

 車内はとても混みあい、席は空いていなかったので、入口から一番近い座席の前で立つことにした。

 車窓から並木をなんともなく見ていると、立っている前の座席から見上げるような視線を感じ、

 目を落とすと同じ課の有村結衣が控え目に見上げていた。

 「課長、おはようございます。私立ちますのでお座りください」

 「おはよう。大丈夫だよ。有村さんバスで出勤していたんだね。しかも同じバスでなんて驚いたよ」

 「はい。先月までは電車で通勤していたのですが通勤ラッシュがひどくて。今月からバスに変えました」

 そういえば先月定期代の変更の申請が来ていて承認していたのを思い出した。


 有村結衣は1年前新入社員として入社してきた。

 最初こそ学生から社会人への環境の変化に苦しんでいたが、今ではとても頼もしい社員になっている。

 それまでは上司としてよく悩みを聞いたものだ。

 しばらくは混雑の中、お互い言葉を交わさぬままバスは進んだ。

 ふと見降ろすと、彼女はうつむき加減に目を伏せた優しい目で少し口角を上げた表情をしていた。

 会話が途切れたとき彼女がする表情だ。


 この表情を初めて見たのは、彼女が初仕事で甘く見積を取ってしまい係長に叱られ、私が彼女が面談をしたときだ。

 係長の横井君から、これからのことを考え、一度課長から言葉をかければより一層励んでくれるのではないかという進言があり面談することとなった。

 彼女は自分の失敗にうなだれていた。私は社会人になって半年余り、このくらいのミスは予想内のことだったが彼女は私も驚くほどショックを受けていた。

 顔はやつれ、目にクマができていた。


 社内の来客用の応接間のテーブルで彼女と向かい合った。

 「課長、この度は誠に申し訳ございませんでした。お忙しい課長に多大なご迷惑をおかけしてしまいました」

 「いや。有村さんはよくやってくれているよ。それにまだ半年だ。気にすることはない」

 それでも彼女は今にも泣きだしそうな表情をしていた。

 しばらく話をした結果、彼女の強い責任感と自責の念を強く感じ、今はどんどん失敗を恐れず挑戦してほしいとアドバイスした。

 私らしくないアドバイスだ。

 私はどちらかというと失敗しないよう石橋を叩きながら渡るタイプだ。

 

 一通り話終えたそのとき、彼女は感慨深げにその表情をしていた。

 私はハッとなった。なぜならその表情は妻が良く見せていた表情だったからだ。5年前までよく見ていた表情。

 彼女と妻の外見は似ていない。

 どちらも美人だと思うが妻は色白で線が細く、透明感のある肌が特徴であり、彼女は健康的で小麦色の肌をしていて、少女のあどけなさが残っているのが特徴であった。

 それでも同一人物であるかのようにとてもよく似た表情をしていた。

 その面談をした日を境に彼女はメキメキと仕事の腕を上げていった。先月は上半期MVPに選ばれたほどだ。


 出社後、すぐに営業部長である豊田がじっと私を見つめながら席までやってきた。

 「おはよう、鳴沢君。昨日新規での営業先からお話をいただいた仕事で話があるんだが会議室に来てくれ」

 NOと言う余地がないほど高圧的な態度だった。予定はなかったがきっと来客以外の予定があっても「こっちが優先事項だ、調整しろ」と言ってきただろう。

 会議室に入ると豊田は右手を出し座れと合図してきた。

 「早速だがこれを見てくれ。昨日訪問した新規の案件だ」

 「拝見いたします」

 それは見積書だった。約一千万の案件。売上的には問題はなかったが利益率の低さが問題だった。

 社で目標とされている利益率を10%下回っていた。

 「利益率が低いようですがこちらは何かお考えがあるのでしょうか?」

 「それは問題じゃないんだ。ここは将来的にいい金のなる木になる。目の前の利益は多少目をつぶっても引き受けるべきだと判断している。後程詳細なデータを送る。確認したまえ」

 こちらの案件はコンペ式になるらしい。それに参加するには課長である私が了承し、さらに部長の承認が必要になるが、既に豊田はコンペに参加することは決まっていて私の意思は関係なくあくまで事後報告、という意識で話している。

 「…そうですか。承知いたしました。最低利益率はクリアしていますし豊田さんの先見の明を尊重しようと思います」

 「そうか。では資料確認後改めて返事をくれ。先方への返事もあるからなるべく早く頼む」

 侮蔑の色をたたえた目で一瞥をくれた後豊田は部屋を後にした。


 豊田は私を目の敵にしていた。それは6年前豊田が懇意にしていた案件を私が断ったときからだ。

その時はちょうど大きな案件を抱えたためリソース確保が難しかったことと、その相手が付き合いが長い企業だったため断るほかなかったためである。

 それからは利益率が低い案件や、売り上げが低いにも関わらず大きなリソースを必要とする案件ばかり回してくるようになった。


 間もなくして辞令が出た。

 異動先の課は人員が少なく、管理者である私も手を動かさねばならず、それから残業が多くなっていった。所謂島流しというやつだ。

 このときからあまり豊田を刺激しないよう気を付けている。

 もちろん課長としての責任は果たすが、それさえ果たせれば無用な争いは避けたかった。


 そうだ。あの日はこうして少々気が重い朝からはじまったんだ。


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