彼女の口癖
その日はそのまま家に帰り、両親とは一言も言葉を交わさないまま眠りに着いた。
だが、家を飛び出た時みたいに苛立ちもしなかったし、悲しくもなかった。
俺の気持ちは完全に、明日も美雪さんに会えることのほうに向いていたのだ。
すぐに眠りについて翌日を迎えたが、昨日と同様、身体の芯から冷えてしまうほどに寒い日だった。
幸いなことに昨日の雪は積もることはなくやんでいたが、今日は夜から大雪が降るらしい。
三寒四温、ってヤツなのかもしれない。
先週は二十度近くまで上がっていたのに、昨日と今日は真冬のように寒い。
季節は春に分類されてはいるが、三月の気温は、まだまだ不安定なのだ。
白い息を機関車のように吐き出しながら坂道をのぼり『外交官の家』の庭に行く。
すると、すでに美雪さんはそこにいて、手を振ってくれた。
そこから“ある意味デートのようなものだから”と昨晩必死になって考えたプランを、次から次へとこなしていく。
広い公園をちょっとだけ歩いて、氷川丸という博物館でもある船を見たあとは、赤レンガ倉庫の中を散策する。
赤レンガ倉庫の前でやっているイベントブースは、残念ながら“ワイン博覧会”。
未成年の俺や酒が飲めない美雪さんは参加できなかったけれど、それでもお祭りみたいな雰囲気が楽しかった。
そのあとは、大きなショッピングセンターに行って、買いもしないのに二人で服を見立てあったり、ゲームセンターに行って、ゲームを楽しんだりもした。
美雪さんは大学生のような見た目をしているのに、中身は俺と同じ高校生みたいで、明るく楽しく話してくれる。
それが居心地がよくて、嬉しくて。
もっともっと彼女のことが知りたいと、自然とそう思うようになった。
「ねぇ、啓太くん。私、あれ乗ってみたい!」
夕方になり、町の灯りが付きはじめた頃、美雪さんがはしゃぎながら指を差す。
その先にあったのは、横浜の町の中にある小さな遊園地の大きな観覧車。
無邪気な笑顔に、わずかに胸の奥がどくんと跳ねる。
観覧車は俺の中で、恋人同士で乗る乗り物のイメージ、トップスリーには入る代物だ。
そんなものに乗りたいだなんて、美雪さんはどうしたんだろう。
何か意味があるのだろうか。
……と、あれこれ勘繰っていたのに。
「昨日はあれから、お父さんお母さんと、美容師のこと、話せた?」
実際、乗ってすぐに話しかけられた言葉は、俺の進路に関するものだった。
あまりにも色気のない内容にがっくりとしてしまうが、こういうところが美雪さんらしいと笑う。
「話してないよ。聞く耳持ってくれないだろうし」
「どうだか。どうせ君も聞く耳持たないで、言葉尻だけとらえて、荒っぽい言葉で言い返してるんじゃないの?」
にやりといたずらっぽく笑う美雪さんにたじたじとする。
完全に図星で何も言い返せない。
「あのさ、このままだと一生後悔するよ。いろいろ考え過ぎちゃったせいで、何も言えなかった私みたいに」
美雪さんは困ったように笑っている。
きっと、亡くなった“あの人”とのことを言っているのだろう。
不思議と胸の奥が重苦しくなり、もやもやしてきてしまって、視線をそらした。
窓の向こうでは、もう雪が降りはじめている。
しんしんと降る白い雪と、下に見える横浜の町灯りとで、世界がぼんやりと滲んでいるように見えた。
「もうすぐ春が来るね」
また、美雪さんは呟くように言う。
「雪降ってんのに、何言ってんすか」
きゅっと締め付けられている胸の奥を隠すために、小馬鹿にするように笑った。
春が来る。
それは、美雪さんの口癖みたいになっていた。
昨日と今日だけでもう、何度か聞いている。
どうやら、庭師の“あの人”が亡くなったのが、桜が咲き乱れる春だったらしい。
春に引っ越しをしなければならなかった美雪さんは、彼に会えないままお別れになってしまったようなのだ。
今年の桜の満開予報は、二週間後。
美雪さんはこれまでどんな気持ちで桜を見てきて、どんな想いを抱えながら今年の桜を見るのだろう。
何年たっても、桜を見るたび、春が来るたびに“あの人”のことを、想い返すんだろうか。
誰といても、どこにいても。
悔しさにも、寂しさにも、悲しさにも似た気持ちを押し込め、ももの上にのせたこぶしをぎゅっと握って、誤魔化すように笑った。
「このままずっと、春なんかこなきゃいいのに」