姥捨の山
一部残酷でグロテスクな描写があります。苦手な方はご注意下さい。
お袋……お袋やぁぃ……
どこに行っちまったんだい?
あっしが、あっしがみぃんな悪かった
だからよぅ……戻ってきておくれぇ……
わが心なぐさめかねつ更科や
おばすて山に照る月を見て
*****
「あなた、お茶が入りましたよ」
松五郎の朝は、志乃の入れた一椀の白湯から始まる。
それは真夏であっても変わらない。汗だくの顔で、ふぅふぅいいながらも湯を飲むのだ。そのくせ、暑い暑いと冷たい水を飲む。自分でも馬鹿げたことだと思うのだが、習慣というものはそうそう変えられない。
そんな松五郎の楽しみは、思わぬ時に妻が煎れてくれる茶である。
今朝も、その思いがけない朝だった。
質素な茶碗から白い湯気が新茶の甘い香りをのせて立ち上り、松五郎の少し膨らんだ鼻をくすぐった。
普段は安い煎茶で済ますのだが、新茶の季節は例外だ。なんせ江戸っ子は初物には目がないのだ。
やはり新茶は格別だ。奮発して取り寄せた逸品を、志乃と二人で味わうのが、松五郎の楽しみの一つだった。
「まぁ、今年の新茶は甘みが強いのですね」
相伴にあずかる志乃。もう四十路だというのに、その表情は生娘のように初々しい。決して美人という類ではなかったが、切れ長の目を糸のように細めて笑む顔は愛くるしいものだった。
「あぁ……うまい」
松五郎がこぼした一言に、志乃は口元を隠して忍び笑いを漏らした。
無口で不愛想な松五郎だが、多くを語らないところが町人から好かれている所以だ、と志乃は知っている。聞き上手の話し下手、とはまさに松五郎のことだった。
何故志乃が笑っているのか。松五郎にはさっぱり分からなかったが、一向に意に介する様子はない。松五郎は湯呑みに口をつけ、熱い茶をずずず、と啜った。
タタタダダダダ……ガタンッ!
「お早うございます! 岡崎様、伝七にございます! 岡崎様ぁ、お早うごさいます!」
勝手口の方から騒々しい足音が響いた。聞きなれた声が、屋敷中にこだまする。せっかくのお楽しみ、朝の爽やかな気分は、その大音声にあっけなくぴゅうと吹き飛ばされてしまった。
「はぁ……なんだい。朝から喧しい」
応対に立とうとした志乃に、庭へ通すよう伝える。苦笑いをする松五郎に、志乃ははい、と微笑んだ。
「はぁはぁ……岡崎様、朝っぱらから、はぁ、申し訳ございません」
からげた裾をおろし、伝七は松五郎の前に現れた。額に汗が光っているところを見ると、よほど慌てて駆け付けたのだろう。薄汚れた手拭いで汗を拭って、ぜいぜいと息を切らせていた。
伝七は、松五郎が配下にしている御用聞きである。女房ともども煮売り屋を生業としながら、奉行所の手先となっていた。
「構わん、ここへ掛けろ」
松五郎は濡れ縁を指さす。伝七は躊躇いがちに腰を下ろした。
「あら、伝七、ちょうど今お茶を入れたところなのですよ。さっ、一杯おあがりなさい」
「あぁ、これは奥様。もったいねぇ。遠慮なくいただきやす」
伝七は縁に置かれた湯呑みをがっと掴む。その勢いに、嫌な予感を感じた松五郎はすぐさま口を挟んだ。
「おい、伝七、それは新茶……」
「うっぷ、あちちち……。あぁ、岡崎様、どうかされましたか?」
松五郎が言い終わる前に、伝七は一気に茶をあおった。熱すぎたのか、伝七は顔を背けて舌を出し、はたはたと扇ぐ。
せっかくの新茶を堪能することなく飲み干した伝七に、松五郎は顔をしかめる。しかし、伝七の慌てようを思い出し、松五郎は鈍色の袖に手を突っ込み、すっと姿勢を正した。
「それで、一体どうしたって言うんだい。朝から鬼気迫った顔で怒鳴り込んできたんだ。ただ事じゃあないんだろう?」
伝七はそうだそうだ、と言わんばかりに膝をぽんと一つ叩き、足を組んだ。身振り手振りを交えながら、大仰にまくしたてる。
「今朝方、ある下手人をひっ捕らえたんでさぁ。引きずり出して問いただしたんですがね、私らなんぞには目もくれず、口を割らない、と来たもんで」
「そいつぁ、一体何をしたんだい?」
伝七はきょろきょろと辺りを見回し、近くに誰もいないことを確かめると、ずいと松五郎に近づいた。
「それが……どうも気がふれているようなんで。神社にお参りに来た娘に狼藉をはたらいたんでさぁ。しかし、ただ乱暴しただけじゃねぇ」
側にいた志乃が袂で口を覆った。細い肩が小さく震えている。
松五郎の役目柄、血生臭い話には慣れっこの志乃ではあった。武家としてのたしなみも身につけているから、刀傷沙汰自体に顔色を失うことはない。
だが、同じ女として、この手の話はやはり心に痛いのだろう。うっすらと目尻が赤らんでいた。
「娘はどうなったんだい?」
松五郎は目を細めて問うた。
「娘は……喰われやした。下手人に……」
「喰われた?」
「へぇ。腿に腹、胸に尻……。肉の柔いところが悉く喰い千切られていやした。仏さんを見た親の嘆きようと言ったら……」
人の亡骸を見慣れている伝七ではあったが、娘の惨状をひとしきり語り終えると、ぶるりと体を震わせた。その腕にはびっしりと鳥肌が立っている。
松五郎は眉根をひそめ、むぅ、と唸った。松五郎夫婦に子はなかったが、それでも親の無念を思うと、何とも言えない気持ちになった。
「しかし、伝七。下手人はとうに捕えられたんだろう。なぜそんなに息せき切って家に来たんだい」
気になるところはそこだった。
確かに、血生臭い事件ではある。しかし、下手人が口を割らないことなどそう珍しくはない。
それに、伝七の様子も何時もと違った。
どんな時でも、志乃が入れた茶をゆるりと啜り、事件の顛末を事細かに話してくれる伝七。松五郎はそんな伝七を重宝していたし、信頼していた。
それが、今日に限って伝七らしくないのだ。
「ひっ捕らえた時は気狂いだった下手人が……正気を取り戻したんで」
そして、伝七は松五郎の目を真っ直ぐ見据えた。
「話をしたい、と。八丁堀南町奉行同心・岡崎松五郎様以外には話す気はないと、そう言うんでさぁ……」
その言葉を聞き、松五郎の目が鋭く光った。
いつの間にか志乃が黒染めの羽織を手に、松五郎の後ろに控えている。
「伝七、どこの自身番だ。表へまわれ、今から行くぞ」
松五郎は黙ってそれに袖を通すと、下手人が捕えられている番屋へと向かった。
*****
通りでは、気の早い小間物行商人やら髪結いやらが少しずつ姿を見せていた。すでに職人たちは仕事場へ出払った後のようだった。
町がむくりと目を覚まし、活気づき始めている中、番屋の入り口だけがぴったりと閉ざされている。
下手人を逃がさぬよう、用心のために閉め切っているのか、とも思ったが、松五郎はすぐさまその考えを打ち消した。番屋の薄っぺらい戸板など、その気になれば何枚でも蹴破ることができるのだ。
「おい、この陽気なのになんで……」
松五郎は入り口を指さし、伝七に問いかける。ふと伝七を見やると、なぜだか真っ赤な顔をして鼻をつまんでいた。
「旦那ぁ、息を詰めて開けておくんなさいやし。深く息なんかしたらいけやせんよ」
「あ、ああ? 分かった」
消え入りそうな声で伝七が言った。松五郎はとりあえず頷き、戸に手をかけた。
番屋の入り口を開けた途端、肥溜めのような臭いが押し寄せた。あまりの臭気に驚いて伝七を振り返ると、すでにそっぽを向いていた。
「こ、この臭いはなんだ。開けろ、開けろ、今すぐ戸を開けろ」
「しかし、旦那。そんなことをしたら、往来を行く人に迷惑でしょう?」
町中に肥溜めができた、そしてその大元は番屋である。確かにそれは少々情けなかった。
松五郎はひとまず合点すると、下手人に会うため、番屋に足を踏みいれた。
冷え切った土間の中央、男が後手に縛られたまま、筵の上で静かに正座していた。
骨と皮だけのやせ細った体にざんばら髪。糞尿を垂れ流していたのか、男の着物の裾には汚物の染みがべっとりとついていた。汗の饐えた臭いと糞尿の臭いが混じりあい、松五郎の鼻をつく。気を抜くと、朝餉が喉元まで上がってきそうだ。
「おのれが……平吉かい」
松五郎はその背に向かって問いかけた。ぴくりと肩が揺れ、男がゆっくりと振り向いた。松五郎の後ろに控えていた伝七がごくりと息を呑む音が聞こえた。
「はい、手前が平吉で。もしかして……岡崎様で?」
「そうだ。平吉、お前さんの話を聞きに来た」
平吉はふと寂しげに笑うと、松五郎に向き直り、深々と頭を垂れた。平吉の目には、知性的な光が宿っている。決して単なる気違いなどではない、と松五郎は思った。
「この度は、ご迷惑をおかけいたしました。娘さんのご両親には何と申し上げたらよいか。手前の命で娘さんが還ってくるのなら、喜んで差し出すんですが……」
平吉は嗚咽を漏らした。むせび泣き、言葉も出ないようだった。
松五郎はぱん、と手を一つ打ち、平吉の話を一旦止めた。
「まあ、待て。落ち着いて話をするには、まず臭いをどうにかせんか」
そう言うと、松五郎は伝七を古着屋に走らせ、不寝番に湯を沸かすよう命じた。自身は手あぶりを小脇に抱え、平吉の前に立った。
「おい、平吉、目ぇつむれ」
松五郎は平吉の頭から灰をふりまいた。着ているものにもすべてだ。
それから平吉を柵の中に追い立て、裸になるよう言いつけた。
「全部脱ぐんだ。脱いだら体にも脱いだものにも灰をまぶせ。いいな」
松五郎は言いつけながら、戸口という戸口を全部開けて回った。
平吉の全身が灰まみれになった頃合いを見計らい、松五郎は柵の隙間から竹べらを差し入れた。
「ほれ。それで灰を落とせ」
平吉は体中の灰をそれでこそげ落とす。こびりついていた糞尿も灰にからめとられ、ぽろぽろと落ちた。湯で体を拭い、伝七が用意した着物に袖を通すと、平吉は土間の筵にぺたりと座り込んだ。
「平吉。まずはお前さん自身のこと、それからお前さんがどうしてあんなことをしてしまったのか……。話してはくれないかい?」
平吉はずずずと鼻を啜り、面を上げた。
「手前は竹細工屋をやっておりました。こさえた籠を持って、売り歩いとります。岡崎様のお名前を知ったのも、そんな折でした」
「私の名を?」
松五郎は首を傾げた。売り歩きの店から品を買ったことは一度もなかったのだ。ましてや竹細工など、普通の店先でさえも買ったことがなかった。
訝しむ松五郎を見て、平吉は困ったように笑った。
「奥様が……何度か籠を買ってくださいました。丈夫で良い品だったから、もう一つくださいな、と。ほんにお優しく、素敵な奥様で」
「そうか、志乃がそんなことを言っていたのか」
平吉は薄汚れた天井を見上げ、つ……と涙を流した。
「牢屋に入れられたとき、手前は心を失っておりました。ですが、正気に戻り、恐ろしくて堪らなくて……。そんな時、奥様のことを思い出しました。確か、岡崎様だったと覚えております。八丁堀のお役人様のお屋敷でしたので、きっと同心をされているのだろうと」
ふと短く息を漏らし、ゆっくりと平吉は告げた。
「どうせなら、そのお方に手前の罪を聞いていただきたい……と」
松五郎は少しの間をおいて、大きく一つ頷く。
日は真上に上ろうとしていた。
*****
手前は長屋で竹細工屋をしておりました。お袋と二人きり、細々と。
嫁も子もございません、そんなご身分じゃないんで。
歳とったお袋と二人が食うので精一杯、物乞いしないだけましっていうのが、せめてもの意地でございました。
手前が言うのはなんですが、お袋のこさえる竹籠は、そりゃあ見事なものでございます。使っても使っても壊れないって褒めていただいてます。
よくこんな冗談を言っておりました。
──いい品を作っちまうからいけないんだろうねぇ。新しい籠が売れないからいつまでたっても貧乏なんだ。次に作る籠は、少しばかり籤を弱くしておくか。すぐに穴があけば、また売れるだろう?
もちろん、お袋はそんなこたぁしはしませんよ。ええ、いっぺんだって手抜きなんぞしたことはございません。いつだって、江戸で一番だって自慢しておりました。
しかし、いくら籠造りの名人でも歳には勝てません。こればっかりはどうにも……。
お袋が籠を編む手捌きは、だんだんとおぼつか無くなって……ついにはとうとう編めなくなってしまいました。
後で気がついたのですがね、お袋のやつ、目が弱ってるのを手前に隠してたようでして。
その時は、歳のせいで指先が利かないんだよ、なんて言っておりました。
お医者に診てもらえば、頭ではわかっていても、銭のことを考えるとね、口さえ出せないありさまで。
いえ、手前ばかりが貧乏なんじゃありませんし、貧乏なら我慢するしかありません。……ええ、わかっております。
まさかそんな事になってるなんて露知らず、手前はただただ呆けるだけでした。
お袋が働けなくなったら、どうなるんだろう。
そればっかりが悩みの種。体が悪くなってるかもしれないなんぞ、天から思わなかったのです。
それから、昼も夜も働きました。
手が擦り切れて、ささくれて……それでも必死に籠を編みました。
籠だけじゃあ銭にならないと思って、他の竹細工に手ぇ出してもみましたが、おいそれとは……。
お袋の籠を買ってくださるお客ばかり。手前が編んだ籠はどうにも駄目なようで……。売れ残った籠が山積みになっていきました。
食っていくのがやっと、毎日満足に食えなくてねぇ、正直、もう限界でした。
一昨日のことでした。
お袋の様子がどうもおかしい。籠を編む傍でそわそわと……何やら言いたげな様子でした。
なんだい、妙に落ち着かないが、どうかしたのかぃ、そう声をかけると、やにだらけの目を三日月の形にして、お袋はこう言いました。
──平吉ぃ、明日は仕事を休みにしないかい。ずっと働きづめだ、体をこわしちゃいけないよ。そろそろ手持ちが少なくなったことだし、どうだい、竹を採りに行かんか?
妙だな、と首を傾げました。材料を採りに行くのは、手前の務めでしたからね。
良い竹ってのは、ずいぶん道から分け入らねばいけません。急な崖やら深い谷を越えた先でないと、籠に適した竹が生えておりません。とてもじゃないが、老いたお袋が行けるようなところではないのです。
お袋を止めましたよ、何度も、何度も。
ですがお袋ときたら、行ける、行くの一点張り、聞く耳なんぞありません。それどころか、早ぅ行こうと急かすばかり。とっと最後には、手前に縋りついて頼み込む始末でした。
手前の頭の中に恐ろしい了見が浮かんだのは、まさにその時でした。
お袋さえいなければ、手前の暮らしはもっと違ってたのじゃなかろうか。腹いっぱいお飯を食み、酒とやらも呑んでいたことでしょう。嫁は無理にしても、商売女くらいは……。悩みの種なんぞなくなっちまうんじゃなかろうか。
いっそのこと、お袋を山に……。
……そんな顔をなさらないでくださいまし。そう思うほどに切羽詰ってたんでございます。
まぁ、とにかく、手前はその時……お袋を連れて山へ行こうと決めたのでございます。
次の日、手前は背負子を肩に、山を登りました。
まさにいい日和でしてね。見晴らしの良い場所で、お袋が作った握り飯とたくあんを食ったらどんなにか旨いだろうと思うくらいで。しかし、恥ずかしいことに握り飯一つ分の米も家にはなかったもんですから、竹筒に水を入れて持っていくのが精いっぱいでした。
背負子にね、お袋が後ろ向きにちょんと座っていましてね、ばかみたいに軽いんでございますよ。こんなにも小さかったっけか、と何だか心の臓の辺りがきゅう、となりましてね……。やっぱり、お袋は家に置いていこうか、と思ったのですが。早ぅ、早ぅと急き立てるものですから、迷う暇すらありはしません。
たくさんの薮を抜けましてね、ようよう目当ての竹薮に着きました。
お袋と二人で、背負いきれないくらい竹を集めました。
そうしている内にお天道様がてっぺんを過ぎました。老いたお袋の足を考えたら、そろそろ戻らねばいけない頃合でした。
ぼちぼち帰ろうか。そう言おうとしましたら、お袋が明後日の方を向いて呟いたのですよ。
──平吉ぃ、竹を負ぅて先に帰りんさ。また……いつか迎えに来てくれたらええ。わしゃ、お前を恨んだりはせん。
はい、お袋は知ってたのでございます……。
手前がお袋を疎んでいたことも、山に捨て置こうとしたことも。
いいや、もしかしたら、最初からそうさせるつもりだったのかもしれません。
だって、お袋の顔は、菩薩のように穏やかでしたから。
もう……何も言えんかった。
竹なんぞ放っぽりだして、お袋を担いで山を下りるべきだった。泣いて縋って、お袋に謝るべきだった。
でもそうは……できなんだ。いや、しなかったぁ。
目先のことに目がくらんで、茶碗いっぱいの飯を思って……。そうだ、もうお袋の分の飯を取り分けんでもいい。たくあんも、魚も、全部全部全部……。
気づいたら、その場を駆け出しとった……。
背負子は、お袋を乗せた時より重ぅて重ぅて……。何度も躓きそうになりました。
転がり込むように家に帰ってからは、芯張り棒をしっかりかって、がたがたと震えっぱなしでおりました。
あっしはぴしりと足を平手打ちして、なんとか体を奮い立たせやした。
ふらつきながら、部屋に上がり、茣蓙の上に腰を下ろすと、何とも言えぬ気になりやした。
なのに、体ってのは正直なものでございます。悔いて、悔いて、悔いているのに、腹がぐうぐう鳴り出したのでございますよ。
そう言えば、少しばかりの朝餉を食ったきり、なぁんにも口にしておりませんでした。
お袋を見捨てたというのに、こ、殺したも同然なのに、手前は生きたいと……。なんだか情けなくて。
堪えても堪えても腹は減る。結局、あっしは飯を食おうと立ち上がりました。
青ざめた顔で飯を炊き、それから部屋の隅にある漬物壺に手を伸ばしたんで。
壺の中の糠に手を突っ込むと、野菜の端っこばかりの漬物が出てきやした。こんなところ、食えるのかい、と思う小さな野菜くずまで、丁寧に。
ああ……確かにあっしの家は貧しい。明日食うものさえないくらい貧しい。
ですがねぇ、壺を掻きまわしながら、『食べ物を粗末にせず、残さず食べなさい』と叱ってくれたお袋の声が聞こえました。いえ、本当に耳の先で聞えたのです。
それがきっかけでした。涙があふれてあふれて……止まらないのです。
糠床から大根の切れ端を……かりり、と噛みしめやした。お袋の漬物は、それはうまいもんで……。
竈の鍋には、大根の葉の汁。お袋が今朝炊いたもんでした。
なんということを……アタシはなんてことをしてしまったんだ。
ひもじかったけども、うまい飯が食えたのは、お袋が丹精込めて作ってくれたから。
籠を編めるようになったのは、お袋が教えてくれたから。
一人ぽっちでなかったのは、お袋が側で笑ってくれたから。
──ぅわあああぁぁぁぁっっ
堪らずに叫びました。ええ、そりゃ長屋中のやつが吃驚したに違いない。
気がついたら、素足のまま駆けとりました。お袋の名前を喚き散らしながら、大急ぎで山へ向かいました。
はたから見れば、さぞ滑稽に見えたでしょうよ。それでも、なりふり構っていられません。
駆けて、駆けて、ようやっと最後の坂を登りきりました。
もう、すっかり暗くなっておりました。藪の中でございますから、もうほとんど見通しか利かないくらいにね。近くが薄ぼんやり見えるだけで、竹の葉がザーザーと川のように音をたてるばかり。その時になって灯りを持ってこなかったことを後悔しましたが、なにせ、夢中でしたので。
慣れた山ですが、人里から遠く離れた深い藪。いくら慣れていても昼間のようにはいきません。
頼りになるのは、しぃんと弱々しいお月さんの明かりだけ。
お月さんの光って、こんなにも冷たかったのですかねぇ……。
そう思いながら、手探りで進みました。
こんな按配だと、きっと一歩も動けまい。早うお袋の側に行って、安心させてやらんと、そればっかり思っておりました。
そうこうしとるうちに、一際太い竹に手が当たりやした。
あっしとお袋が、目印によく使っとった竹……。
昼間、あっしがお袋を置き去りにした場所でした。
ああ、着いた。お袋を連れて、家へ帰ろう。
あっしはほうっと胸を撫で下ろし、お袋や、お袋や、迎えに来たで、と声をかけました。
ですがねぇ、ねっから返事がありません。
そんなばかな。足腰の弱ったお袋が返事をしないなんて、足でも挫いて倒れてるのではないか。さりとて、どんどん暗くなって辺りの様子なんて見えるわけありません。アタシは、這いつくばってお袋を探しました。
なんてことだ……。サーッと血の気が退きました。
もう、そこにゃあいなかったのです。
お袋ぉ……お袋やぁぃ……。
どこに行っちまったんだい?
あっしが、あっしがみぃんな悪かった。
だからよぅ……戻ってきておくれぇ……。
か細い声で叫びました。
聞こえるのは山びこと虫の音、あとは、葉擦ればかり。お袋はちぃとも返事をしてくれなかった。
夜が更け、暗さばかりが身に沁みる。刺さるように身に沁みる。
足を滑らしたのだろうか、蛇にでも咬まれたのだろうか、それとも熊や山犬、あるいは盗人に……。そんなことばっかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いておりました。
そのほうが良かった。今にして思えば、そうであってほしかった……。
あんなザマを見るくらいなら、盗人にでも山犬にでも……あっしのためにも、お袋のためにもよかったのかもしれません……。
どんくらいの間、歩き回ったでしょうか。いぃや、実際はそんなに歩いとらんかったかもしれません。
そうやって歩いてたら、ぽっかりと開いた穴に行き当たりました。
今まで何度もそのあたりを歩いておりましたが、洞穴があるなんてちっとも知りませんでした。そこだけがぼぅと明るいのです。
誰かがお袋を助けてくれたのかもしれません、もしかしたら、自分でもぐりこんだのかもしれません。
祈るような気持ちで穴の縁に手をかけ、思い切って中を覗いてみました。
ひぃ……ひぃ……ひぃ……
悲鳴のようで辛そうでない、笑い声や誘うような声も混じっていましたが、声が響いて何を言っているのかわかりません。ただ、意味の無い声のように思いました。
そろりと足を踏み入れたとたん、思わず鼻と口を押さえました。そうでもしなきゃ旦那、食ったものがこみあげてくるような酷さで。
どう言えば言いのでしょうね。糞小便だけじゃない、屍骸のような臭いも混じり、なんとも言いようのない臭いです。
くちゃくちゃ、ぴちゃぴちゃ、じゅるじゅる……
何かを噛むような、舐めるような、啜るような音。荒い息遣い、呻く気配。長い尾をひく悲鳴、すすり泣き……。思わず耳を塞ぎました。
う……思わず目を見開きました。
そこにあったのは、この世のものとは思えない地獄。どす黒い水溜り、青白い肌を食い破られて、ずるりとはみ出した臓物。赤黒い肉、散らばった髪の毛。
そのすぐ横で、いくつもの肉塊が絡み合っていました。
どこで手に入れたか、藁が敷き詰めてありました。その藁もどす黒く、じっとり濡れ光っていました。
十人ばかりの爺婆が、藁の上で蠢いていたのです。そ、それも、全部がぜんぶ素っ裸。どいつもこいつも、枯れ枝みたいなくせに、腰をふるわせていたのです。
あたしはすぐにぴんときましたよ。こいつらは、口減らしで捨てられた父母なんだ……って。
爺ぃが一人、泡吹いて崩れました。下で腰ふっていた婆ぁが、あ、あんまり爺ぃが動かないもんだからごろっと転がって上になったんですよ。それでも爺ぃは動かない。
婆ぁはゆらぁり、見下ろしていたのですが、爺ぃが白目を剥いていたからでしょうか……おもむろに咽笛に喰いついたのです。
ぐえっ、とも、ごぼっともつかない呻り声があがりました。すると、てんでに涎たらして腰振りしてたやつらが一斉に……倒れた爺ぃに群がり出したのです。
ぎゃああというのが断末魔。
咽を食い破られた爺ぃは、しばらくばたばた、ひくひくしているうちに動かなくなりました。そんときゃすでに腹も食い破られていました。
みんなして、爺ぃを食い物にしたのです。
目をぎらぎらと光らせ、口元をてらてらと血で濡らしながら、さながら餓鬼でございます。中でも比較的肉のついとる尻や腿は真っ先に胃の腑へ落ちていっちまった。隙だらけの歯で骨までしがむ奴がいりゃ、ちゅうちゅうと骨の髄を啜る奴。血肉の一片たりとも残すまいと、地面に這いつくばって、べろべろと血をなめとった。
腹がふくれた後は、もっと酷い地獄絵図でした。
残った臓物を持ってきてね、相手の身体に擦り付けるのです。顔から首から肩から乳から……。足の指にまで擦り付けてね、それを互いにぺろぺろ舐め始めたのですよ。
爺ぃは婆ぁの体を、婆ぁは爺ぃの体を、丹念に丹念に……。
何のつもりで始めたか知りませんが、すっかり血が舐めとられた後も、ずぅっと舐め続けているのです。最初は腹を満たす目的だったもんが、今度は体の欲を満たすためのもんになりだしました。
もう使いもんにならん体だというのに、互いに体を擦り合わせ、ひぃひぃと喘ぎだした! よがりだした! 嬌声まであげやがった!
どこまでいっても果ては来ん。それでも果てたいと、ひたすらまぐわう。果てぬのならば、相手を変え、姿勢を変え、延々と絡みあっとった。
腰が抜けていたのかもしれません。それほどに、目の前の地獄絵図が恐ろしかった!
子に捨てられるというのはどんな心持になるのでしょうね。すべての希望をなくした親は、本能のまま動く獣になりはててしまった。
……いいや、この言い方は獣に失礼だ。獣だって、子を成すためにしか交わらない。煩悩の虜なのは人だけだ。
獣でもなく、ましてや人でもなく、幽霊でも妖でもなく。
じゃあ、そこにいるのは何なのです?
どれくらい見続けていたのでしょうか、ふっと我にかえりました。
あっしのために山に残ったお袋。いったい、どこへいっちまったんだ?
もしもこの地獄に迷い込んでしまったなら、すぐに助け出してやらないと。
ごくりと生唾を飲み込み、かさかさになった唇を湿しました。そして、意を決して叫びました。
──お袋やぁい! 平吉だぁ、迎えに来たぞぅ!
その瞬間、餓鬼どもの動きが止まり、一斉に穢い貌を向けました。
ごま塩頭、窪んで黄ばんだ目、乱杭歯をむき出しにした口。ぬめった手をぞろぞろとアタシに伸ばしてきました。
それであっしは怯まなかったですよ。膝がガクガク震えていましたがね、やつらを睨んでやった!
恐ろしくないと言ったら嘘になります。けど、それ以上にお袋のことが心配でした。
頼むから無事でいてくれ、頼むから生きていてくれ……!
そればかり祈ってました。
洞穴の一番奥に肉のかたまりがありました。
三人の爺ぃが何かを囲んでいました。そのほそっこい手足の隙間から、何かの影が見えました。
ささくれた手、甲には小さなほくろ。
見間違うわけありません。あっしを、赤子の時から抱いてくれた手……。
その何かがのそりと爺ぃの体を除けて這いだしました。
お袋だった。
足元には爺ぃが跪き、お、お袋の足をひたひたと舐めていました。また別の爺ぃがかさついた唇を寄せて、生臭い吐息をふぅふぅ吹きかけていました。
お袋は、新参者なだけに肉付きも良い方です。そんなお袋を爺ぃどもが放っておくわけございません。下卑た嗤い声をあげてお袋に群がっておりました。
──ああああああああっ!!!!
何をどう叫んだかわかりませんが、あっしは泣き喚きました。怒鳴り散らしました。爺ぃどもを蹴散らし、殴り倒し、踏んづけました。
すまなかった、赦しておくれ。こんな地獄へ追い込んだあっしを赦しておくれ!
罰ならいくらでも受ける。どんな仕打ちだって受けるから!
だから……帰ろう、帰ろう。家に帰ろう、お袋ぅ……。
あっしはお袋の体に着物をかけて、肩をゆすったのです。
だけど、お袋は応えてくれなんだ。あっしの顔すら見なんだ。
掴んだ手を恐ろしい力で振り払うと、白く濁った目であっしを睨みつけ、忌々しそうに言い放ちました。
──あれ、平吉かい。ここは極楽……お浄土だよ。お前、いいところに連れてきてくれたくせに、邪魔するのかい? この、親不孝もの!
………………
…………
……
……もう、叫ぶことすらできなかった。
ふらふらと後ずさりました。
一歩退がると、様子を窺っていた爺ぃがお袋にのしかかりました。さらに退がると、穢い手を乳に這わせる奴が出てきました。
退がるたびに爺ぃと婆ぁの鼻息が荒くなり、とっとしまいには、喘ぎ声が念仏のように渦巻きました。
念仏だったのです。爺ぃと婆ぁの目合は念仏なのです。念仏を唱えるために、餓鬼にならなきゃいけない。煩悩のかたまりでなきゃいけない。そんな地獄にお袋を置き去りにしてしまったぁ……。
子を思うて身を捨てたとしても、子を思うて涙を堪えていたとしても……。
きっとあっしの一言を望んでいたに違ぇねぇ。
あの時、山へお袋を捨てたあの時。お袋を救うにはたった一言でよかったのに!
子を案ずる心と絶望が混ざり合い、自ら命を絶つこともできず……。
お袋は、人であることをやめちまったんですよ……。
*****
お日さんが顔を出し始めました。
あっしは褌一丁で山を下りました。
お袋の声がどこまでもどこまでも追っかけてくるような気がしました。
あそこはお袋にとって、極楽なのか? お浄土なのか?
……そうかも知れません。ただ生きる、そのために欲を満たす……なぁんも考えんでいい。この手足が動きさえすりゃいい。
もしあの場所が極楽浄土だというのなら、ここは一体どこなんだ?
こここそ、こここそが地獄なんじゃないだろうか。
働いて働いて、ようやく手にする銭は雀の涙もありゃしない。
朝が来る度に、また一日を生きなきゃならんと嘆くばかり。
どいつもこいつもそうだ。稼ぎのない男だからって、女共は見向きもせん。
もういやだ。身体が動かなくなるまでまだ何年我慢しなきゃいけないんだ。あっしだって楽がしたい。せめて腹いっぱいに飯を食いたい。酒も飲んでみたい。女の肌にだって触れてみたいし、できることなら子を残したい。
贅沢ですか? 我侭ですか? 身の丈に合わん望みですか?
もうたくさんだ! 必死に生きようとしたって、いつまでも苦しむだけじゃないか!
……あっしも極楽へ行きたい。こんな地獄から這い出したい……。
……お袋の側に行きたい、極楽へ行こう。そう思いました。
ふらふらと里へ戻ると、谷の水をゴクゴク飲みました。食べられる草の芽を生で食べました。
もう、なぁんも考えとらんかった。人として許されること、蔑まれること。
納屋から野良着を奪って山に逃げました。ですが、しょせん人なのです。どこ行くあてなく彷徨うつもりが、やはり人のいる場所へ行こうとしていたのですね。
ふと見ると、目の下に通りがありました。むこうから若い娘が歩いてきます。やりすごしたあっしは、通りに下りて後をつけました。
通りをはずれた小道の先に、娘の姿が見えています。小道の突き当たりは高い石段になっていました。
男と女、少しばかり遠くにいたって、すぐに追いついてしまいます。足が重くなることなどなくって、天辺までずいぶん残して追いついてしまいました。
ふと顔を上げると、なんともうまそうな肉が歩いていました。
形のいいふくらはぎ、プリプリと張り出した大ぉきな尻、真ぁっ白な襟足。
どこを噛んでも柔らかそうです。
ああ、お袋にも食わせてやりたいなぁ……。
筋だらけの肉なんかじゃない、握りつぶせば脂が絞れるような、生娘の肉です。
そうだ、抱いてやろう。そうすりゃ、娘も極楽浄土間違いなかろう。精が尽きるまで抱いてやろう。
目ん玉ひん剥くほどに果ててしまったなら、むしゃぶりついて、片っ端から腹につめこんでやろう。魂も食ってやる。せめてもの、それが供養というものだ。
そうしたら、きっとアタシも極楽へ行けらぁ……。
*****
「後は……御察しの通りでございます……。実際に娘を喰らい、体を弄びました……」
全てをぶち撒け、それでもぽつりぽつりと呟く平吉は、まるで抜け殻のようだった。
松五郎の背後で、伝七がぐっと顔を顰めている。娘の屍骸をみてしまっただけに、傷口の状況が話とぴったり符号するのである。
どんな形相で乳首を食いちぎったのだろう、喉笛かた血を啜ったのだろう。想像づることすらおぞましい。しかし、松五郎は柔和な表情で平吉の話に耳を傾けていた。
「正直、その時のことはよく覚えていません。気がついたら、捕らえられていました」
松五郎は静かに瞼を閉じ、一つ息を吐く。再び目を開け、平吉の目を見た。
「平吉、よう話してくれた。お前さんも辛かったろう」
松五郎は慈しみを込めて語りかけた。
が、平吉は松五郎に目を合わせた瞬間に顔面を凍りつかせた。
「ひぃい……!」
平吉は松五郎の真っ直ぐな視線を受け止めきれず、短く叫んだ。かたかたと歯を鳴らし、焦点の定まらない目を泳がせる。
「平吉……? どうかしたのかい?」
気遣わしげに松五郎が問うた。しかし、平吉はふるふると激しく首を横に振った。
「ち……違ぇ……あっしは……! お袋……あぁ……!」
平吉の股間に、黒い滲みがじんわり広がっている。
「おい! 平吉!」
松五郎には平吉を追い詰めてやろうなどという気はさらさらない。むしろ、逆なのだ。残忍な所業ではあるが、貧困による苦悩を思い、気の毒にさえ思っていたのだ。
だが、松五郎の実直な瞳の光が、慈しみが……平吉に母を思い起こさせてしまったのだ。
「あぁ! 声がする! お袋の……お袋の声が近づいて……!」
平吉は筵の上にごろりと転がり、手足をばたつかせた。
口から泡を吹きながら涙を流し、お袋お袋と連呼する。
「伝七、平吉を押さえろ! 水もってこい!」
松五郎が伝七にすぐさま指示を出す。早く正気に戻してやらねば。そればかりで頭がいっぱいだった。
「ウッ……」
くぐもったうめき声がして、茣蓙の上に赤黒いかたまりが落ちた。
「ウ────……」
平吉の喉が悲痛な音をたてた。
「……っ! 平吉……! 舌を噛み切ったのか! 伝七、医師連れて来い!」
「へ、へいっ!」
松五郎は平吉の下顎をあげ、口の中に手を突っ込んだ。舌の根が喉奥に落ち込まぬよう、指で摘もうとするが、溢れる血でぬるぬる滑って摘めない。ごぼごぼと血泡が音を立て、平吉の気道を塞いだ。
「くそっ、どうにもならん。おい、医師はまだか!」
掴みそこねてまごまごしている間に、平吉の顔色が青ざめてきた。
ひくひくと痙攣し始める平吉。松五郎は平吉の体を揺り動かし、必死で名を呼んだ。
「平吉! 平吉っ!」
「……ごぼ……岡……ざき……さま……」
「医師が来るまで堪えよ! しっかりせんか!」
慌てふためく周りの様子とは裏腹に、平吉の目には穏やかな光が宿っていた。
やっと終わりが来るのかと。
やっと解放されるのかと。
「……ぐ……ここは…………極楽……ですかぃ……」
平吉を抱えていた松五郎。それが深い息を吐いた。松五郎の両の手に重みがぐっとかかった。
「平吉……お前……」
声をかけるが、返事はない。刻々と青みをます平吉は、松五郎の腕の中で徐々に温もりを失っていった。
「平吉……」
もう一度平吉の名を呼ぶ。
ばたばたと医師が駆けつける足音を、松五郎はどこか遠くの出来事のように聞いていた。
*****
もうじき、日が落ちる。
家までと言った伝七の申し出を断り、松五郎は一人家路を辿っていた。
番屋の前で伝七と別れ、ゆらゆらと歩いているうちに、いつの間にやら家の前まで来てしまっていたようだ。
松五郎は、鉛のように重い体を引きずるように門をくぐった。
「お戻りなさいませ」
夫の帰宅を喜ぶ妻がいる。その柔和な笑みが、澱んだ気持ちを解してくれる。見たくない世の闇を見せられ、怨嗟の声を聞いても、勤めを続けられるのは、志乃の笑顔があるからこそだ。
長年申しつくるぞ──と言う与力からの一声を受け続けるのは、いつまでも志乃の笑顔に触れていたいからだ。でなければ、同心なんて勤めに未練などない。
「あぁ……」
やつれた松五郎を見ても、志乃は何も語らない。ただただ何時ものように松五郎を出迎えた。
「お疲れでしょう。すぐに夕餉に致しましょう」
志乃は羽織を受け取り、綺麗にそれをたたむと、夕餉の膳を取りに行った。
程なくして松五郎の前に湯気の立つ食事が運ばれてきた。白飯に味噌汁、蕗の煮付けが一皿に漬物。
後味の悪い事件の後は、きまって食欲などわかない。そんな松五郎のために、志乃は敢えて簡素なものを出すのだ。特に松五郎がこうして欲しい、と言ったわけではない。だが志乃は、すべて察していた。
箸をつける前に、松五郎は志乃を呼び止めた。
「なぁ、志乃」
「はい、どうされましたか?」
志乃は小首を傾げ、松五郎の側についと膝を寄せた。
「明日……見廻りが済んだら、お袋の墓参りに行こうと思うんだが」
なんとなく母親に会いたくなったのだとは、恥ずかしくて言えない。
母親に感謝の言葉を口にしたことなどなかったが、あの世にいる母親に届くのならば、今からでも遅くはないのかもしれぬ。松五郎は胸中で独り言ちた。
「そうですわね、そろそろお義母さまの月命日ですものね」
志乃がにっこりと頷く。なぜ、と追求することはなく、ただ受け止めてくれる志乃に、松五郎は胸の内で頭を垂れた。
松五郎は、汁椀に手を伸ばした。銀杏切りにした大根と、細かく刻んだ葉が浮いている。白い銀杏、緑の葉。褐色の汁に鮮やかである。
ほんのひと時湯気を吸い込み、味噌の香りに目を細めた松五郎は、ふぅふぅと息を吹きかけながら椀の縁に口をつけた。
ああ、と松五郎は思った。
岡崎家の味だ。母親が作った汁と寸分違わぬ味だ。
当然のように毎日食していたが、志乃がこの味を自分のものとするのにどれ程努力したのだろうか。目で得、舌で得、時には母親に尋ねたのかもしれない。
子に恵まれなかったが故に、随分と肩身の狭い思いをしたであろう。母親と志乃に確執がなかったか、と問われれば、必ずしもそうではなかっただろう。
しかし、志乃は母の味を守り続けてくれた。そのことが、松五郎には有難い。
もう一口、汁を啜り、松五郎は深く呟いた。
「ああ、うまい」
それを聞き、志乃は再び笑う。
体中に母と志乃の優しさが滲みわたる。松五郎にはそんな気がした。
*****
──平吉、竹を背負って先に家に帰りんさ。また……いつか迎えに来てくれたらいい。わたしは、お前を恨んだりはせん。
──なぁに馬鹿なことを言ってるんだい。さ、早うおぶされ。竹なんかいつでも取りに来れらぁ。
──二人で帰ろう、なっ、お袋。