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乾宮――昔がたり  作者: トグサマリ
【第三章】
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 いつもより早い時間だからだろうか、牆壁(かべ)には青い小鳥は留まっていなかった。それとも、今日は仕事で来られないのかもしれない。

 今日に限って。こんなときに限って。

 伸びた下草を踏みしめ、翠蘭(すいらん)はただじっと、牆壁を見上げ続けた。

 やがて牆壁の向こうから、さくさくと石畳を歩く足音が聞こえて来、すぐそこで止まった。じっと翠蘭が食い入るように見つめる先に、ややして現れた青い小鳥。

 張り詰めていた気持ちが溶けだしていくのが判った。

「どこから来た青い鳥なの?」

 声が、震えそうだ。

「逃げてしまわないよう、足には糸が()わえてある」

 いつの間にかそうなっていた合い言葉を口にすると、牆壁の向こうの声も答えを返してくれた。

風騎(ふうき)さま……!」

「もしかして、待たせてしまったか?」

「いいえ、そんなことはございません」

 気遣わしげな声すらも愛おしい。胸の底を疼かせる甘い声。この声に、風騎にすがりつきたかった。

 この数尺の牆壁の厚み。なんと呪わしい。

「済まなかったな、忙しいだろうに待たせてしまって」

「いいえ。いつもお待ちいただいているのは、わたくしのほうですし」

 どうして、彼と出逢ってしまったのだろう。出逢わなければ、なにも知らないまま夜伽への覚悟がついたのに。

「不安なことでもあるのか? 声が、乱れているが」

「!」

 心の臓を摑まれたかと思った。

(どうして……!)

 風騎は、いつもこうやって翠蘭の気持ちを見透かしてしまう。普段だったら「そんなことありません」とかわせるのだが、さすがに今日は無理だった。すがりたい気持ちが、唇を素直にさせた。

「不安、ばかりです」

「どうした? 家族になにかあったのか? ……もしや、()昭儀(しょうぎ)さまが無理難題をおっしゃったとか?」

 風騎の声色が変わる。

「なにがあった? 話してくれないか? 話せば、それだけでも気持ちは軽くなるぞ」

 翠蘭は首を振る。

 話せるわけがない。夜伽のことを口にすれば、きっと風騎は離れていってしまう。

 身分を偽っていた翠蘭を軽蔑するかもしれない。もしくは真実の身分に距離を置き―――去っていく。二度とここにはやって来ない。翠蘭を置いていってしまう。御史台(ぎょしだい)に勤める彼は、自分を律して他人行儀になるどころか、妃嬪と言葉を交わしたという罪に自らを厳しく罰するだろう。

 彼に話せるものが、だからなにひとつとしてない。

「いいえ。なにも」

 だが声はどうしようもなく震えてしまって、風騎には言葉どおりには伝わらなかった。

「!」

 翠蘭の耳に、遠く背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。重たい現実へと引きずり戻され、ぞっとなる。昭儀(しょうぎ)さまと呼ぶかすかなその声は、いまはまだ牆壁の向こうの風騎には聞こえていないだろう。

「もう……行かなければ」

「翠蘭」

 身じろぎする彼女に、心配する声がかかる。

「無理は、無茶はするな。泣き言があれば聞いてやる。些細なことでも、愚痴や恨みごと、悪口も聞こう。詳しく話さなくたっていい、辛い思いは全部わたしが聞いてあげるから。だから、負けるな。―――いや、負けてもいい。負けてもいいから、思いつめないでくれ」

 とん、と、牆壁(かべ)を叩く気配があった。風騎が叩いたそのあたりに、翠蘭はそっと手を重ねた。

 ならば、一緒に逃げてくださいますか?

 それだけの言葉なのに、喉を震わせることができない。言ったところで、拒絶されるに決まっているから。

「李昭儀さまもきっと判ってくださる。そなたの良さを。そのときまでともに()えよう。な? 翠蘭?」

 壺世宮(こせいきゅう)の住人に優しい言葉をかけて得られるものは、政治への影響力しかない。風騎の目的は出世だろうか。だから翠蘭に期待させるような言葉をかけるのか。

 そう勘ぐってしまう自分が、嫌になる。

 そう勘ぐらないと、自分の想いに決着がつけられない。

「明日も逢おう。この時刻に。―――頼むから、(はい)と言ってくれ。わたしを安心させてくれ」

「心配をかけるつもりではなかったんです。ただ、風騎さまのお声を聞きたくて」

「わたしとて、そなたの声を聞きたくてここに通っている。そなたの奔放な歌や裏表のないお喋りが、どれだけわたしを和ませてくれたか」

 被さるように風騎の声が降ってきた。

(本当に?)

 嘘偽りを感じさせない透明な声だった。

 風騎は、心のほんの一部分だとしても、自分を大切に思ってくれている。僅かではあっても、気持ちは通じ合っている。そう思わせる言葉だった。

 そうして、すとんと、なにかを抜けたのを感じた。

(あぁ、そうよ)

 たとえこれから自分の身になにが起ころうとも、風騎を慕う気持ちは変わらないだろう。風騎が自分を気にかけてくれている―――政治的な思惑がなんだろうと、自分の歌やお喋りを楽しみにしてくれていたことは、事実に相違ない。

 それで、いいではないか。想いは叶わなくとも、気持ちは充たされるではないか。

 この思い出を宝物にしていけばいい。

 皇帝に召されたあとも、彼が自分を気にかけてくれたそのことを、拠り所として自分自身を支えていけばいい。

 彼に寄り添う代わりに、翠蘭は牆壁に身を寄せた。

「わたくしは幸せ者だわ」

「不安にさせるようなことは言わないでくれ、翠蘭。お願いだから」

 切々と訴える声に、翠蘭を呼ぶ声が細く重なる。あれは、柑華(かんか)の声だ。

「大丈夫です。風騎さまのお声を聞けたので、少し力が湧いてきました。ちょっと、いろいろ考え込んでしまって、弱気になっていただけで」

「それを信じていいんだな? そなたになにかあれば、わたしは一生己を悔やむことになる」

「責任重大ですね」

「ああ、そうだ。そなたは、わたしの一生を背負っているのだぞ」

「既に家族六人を肩に乗せているんですよ。そのわたくしに更に風騎さまを背負えと?」

「あとひとりくらい増えても、たいして変わらないよ」

「風騎さま、二百(きん)(約120kg)あるなどおっしゃりませんよね?」

 軽く笑う声が聞こえた。

「二百斤あっても背負ってもらうよ、力持ちさん。―――大丈夫なようだね」

「ええ。風騎さまのおかげです。ありがとうございます」

 孤独を思ったときに出逢った風騎。牆壁(かべ)越しの彼が、こんなにも大きな存在になるとは思ってもみなかった。

 柑華(かんか)の声は、もうすぐそこにまで届いている。

 風騎がいてくれる。たとえ彼を裏切る結果となったとしても、この思い出に、どんな困難にだって立ち向かえる気すらした。

「本当に、もう行かなければ」

「明日、逢えるか?」

「……お逢いしたいです」

 この気持ちのままでいられるかは不安だったけれど。

 それではと言い残し、翠蘭は急いで桂池(けいち)へと小径(こみち)を戻った。

 桂池のほとりでは柑華が所在なげに翠蘭を探していた。ひょっこりと木々の間から現れた女主人に、柑華は文字どおり胸を撫で下ろした。が、ほっとした表情の彼女の口から出たのは、「ぼんやり散策などしていらっしゃる時間はございませんのよ!」という叱咤だった。

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