二
「お恥ずかしい話ですが、うちは、翠蘭の稼ぎがないとやってけいないのです」
肩を小さくすぼめた翠蘭の父親が、上座の若者にそう答えた。
二十代後半だろう若者の名は李弦尚。彩秋飯館で翠蘭に後宮話を持ってきた男士―――李基静の四男だという。
後宮に上がるということは、畏れ多くも天子さまの夜伽を仰せつかるのかと血の気が引いた翠蘭だったが、なんのことはない、李基静の娘の後宮入りが決まり、その侍女として仕えて欲しいということだった。
そうはいっても、翠蘭側にも事情がある。丁重にこの話を断ったのだが、李基静は頑として譲らない。とうとう翠蘭の家に息子を遣わしてきた。
当の本人を除いた客厅で、両親と祖母、李弦尚の四人が話し合う。
「我が李家としましても、このたびの話は一族に関わるもの。是非とも翠蘭に侍女として舎妹とともに後宮に上がってもらいたいのです。翠蘭からは家族の事情を聞いております。微力ながら、李家は援助をするつもりであります」
「え、援助、ですか……」
思いもかけない李弦尚の発言に、父親は言葉を失って隣の妻や母親と視線を交わす。
李家は貴族とはいっても下級なのだと李基静も李弦尚も言ったが、上級だろうが下級だろうが貴族からの申し出は、平民にとっては命令に等しい。後宮に上がる話自体はありがたいことこの上ないのだが、経済上、どうにかして断らなければならない。
翠蘭は七人家族だった。両親と異国の胡慶人である祖母、双子の弟と病弱の妹。両親の稼ぎは貧しさにあえぐほどではないが多くはない。妹の薬代がばかにならなず、ほとんどがそれに消えてしまう。だから、翠蘭が働かなければ一家はやっていけない。
有無を言わさず翠蘭を後宮へ連れて行かれてしまうのでは。そう不安を抱いたところに「援助」の言葉である。
「令妹の薬代は李家が負担します。令弟たちの進学にかかる費用もこちらで持つ。将来科挙を目指すつもりであれば、後見もしよう」
「失礼かもしれませぬが、あまりにもこちらに都合のよすぎる内容ではございませぬか?」
黙り込んでいた祖母が、やんわりとした口調ながらもまっすぐに切り込む。承知していたのか、頷きながら李弦尚は答える。
「そうしても余りあるくらい、翠蘭は適任なのだ。翠蘭は物腰が滑らかであり、適度に緩やかな人柄と聞く。その翠蘭が侍女となれば、舎妹も安心できよう」
現在、乾の皇帝には皇子がいない。それはつまり、下級貴族であっても、一族の娘が男嬰を―――太子を産めば、栄耀栄華が約束されるということ。そしてその状況の中、李家は後宮に娘を入宮させる機会を得たのだ。
後宮はきらびやかな世界ではあるが、陰湿な戦いの場でもある。李家の侍女候補たちはみな堅苦しい性格の者ばかりで、妹の気持ちを安らげる存在にはなりえないと青年は言う。
反論する言葉を失い、困惑に押し黙ってしまうばかりの両親と祖母に、李弦尚はだめ押しとばかりに譲歩案を示した。
「では、二年ではどうです? 二年もあれば、舎妹もあちらでの生活に多少は慣れよう。翠蘭も宮廷の作法が身に付き、嫁の貰い手に不自由することはなくなろう」
「そこまでしてもらうほどアイツができた娘だとは思えねェんだけどなぁ……」
ついぽろりと父親がこぼす。本人が聞いたら憤慨するだろうが、ここは大人同士の話し合いの場。十七歳の翠蘭は自室に追いやられているのでいない。
李弦尚の顔がほころび、笑みが浮かんだ。
「身内だからこそ判らない面もあるものですよ」
李弦尚が辞してしばらくして、翠蘭は客厅に呼ばれた。
思いつめた顔の祖母と両親に、知らず身が引き締まる。孫の顔をまじまじと眺めていた祖母が、翠蘭に座るよう促した。椅子についたのを見、おもむろに父親が口を開く。
「二日後に、お迎えがある。その方とともに李さまのお邸第に上がりなさい」
「え」
母親に目をやると、首肯が返ってきた。それを受け継ぐように、父親は続ける。
「こんなありがたい話はない。是非ともお姫さまの侍女となり、しっかりとお勤めを果たすように」
「え? て、どういうことなの? 断るんじゃなかったの?」
両親の表情を見ると、どうやらごり押しされたわけでもなさそうだ。こちらから素直に折れたとも思えない。
「だって小芳のことは? わたしがいないと」
「薬代を援助してくださるそうだ。遥遥と勇勇も庠序に行かせてもらえる。今後の進学にかかる費用も面倒を見てくださると」
「―――騙されてるんじゃないの? そんなおいしい話、あるわけないでしょう」
「それだけあちらさまも出世に必死なんだろう。お前の物腰とやらがいたく気に入ったんだと」
まるで他人事のように父親は言う。眉をひそめざるをえない翠蘭。
「そんなまさか。自分で言うのは不本意だけど、よく注意されるもの。わけの判らない歌を歌うなとか、ヘンな踊りを踊りだすなとか」
「それでもお前が必要なんだそうだ。自分でちゃんと判ってるのなら、控えればいいだけだろう?」
「う」
やぶへびだった。
「翠蘭」
頭から疑ってかかる翠蘭の名を、祖母が呼ぶ。
「だからこそ、とも言えるよ。あちらさまもおっしゃっておった。お前はそりゃあ多少は世間の常識からずれた言動もあるが、後宮に上がり侍女として二年間お勤めを果たせば、いい花嫁修行にもなる。少しくらいずれた娘だろうと、後宮にいたってだけで、目もつぶってもらえよう」
奶奶、それって全然褒めてない。
という言葉はぐっと呑み込む翠蘭。胡慶で貴族の姫君の侍女をしていたという祖母が面倒を見てくれたからこそ、翠蘭は一年中頭の中を花畑にせずに済んだと周囲の皆からしみじみ言われている。
「二年って、期限つきなの?」
「二年くらいなら、お前の頓狂な言動も誤魔化せるだろう」
「誤魔化すことを覚えるのではなく、宮廷の洗練された仕草を身につけてくるのです」
父親の暴言を母親が修正するが、どっちもどっちである。
踏ん切りをつけるように、ひとつ吐息を落とす翠蘭。
「小芳の薬代、出してくれるっておっしゃってたんだよね。遥遥と勇勇も庠序にちゃんと通えると」
七歳になる双子の弟たちは、庠序には行っていない。そもそも翠蘭たち一般庶民は、経済的な事情もあるが基本的に教育機関に通うことはない。近所の道院で道士に簡単な読み書きを教わる程度だ。だが、目指す先が官吏ではないにしても、やはり庠序へ通うことができれば将来の道は広がる。教育が末端まで行き届いている胡慶出身の祖母からすれば、願ってもない話だった。
ましてや後宮で孫娘のひとりは磨かれ、もうひとりも健康になれるかもしれない。
翠蘭がこの話を拒絶する理由は、どこにも見当たらなかった。拒絶をしても、実際のところ貴族さまの命令には従うしかないのだけれど。
「判ったわ。明日、お店に話して仕事を辞めさせてもらう」
「ありがとうねえ、翠蘭」
張り詰めていたものが切れたのか、顔をしわくちゃにさせて、母が両手を握り締めてきた。
「あの子を健康に産んでやれなかったせいで、お前に苦労をかけて」
「貴族さまに認められたんだと思えば、どうってことないよ。二年奉公するだけだもの」
「ん……そうだね」
「子供の前で泣くんじゃないよ、みっともない」
突き放すような祖母の声。だがその祖母自身、なにかを堪えているようだ。
「ねえ奶奶」
晩飯の用意に席を立った母の背を見送った後、翠蘭は訊く。
「奶奶も、こんなふうにして侍女になったの?」
「まさか。父親が家令をしてた関係でね。こんな乱暴な話じゃない」
突然降って湧いた翠蘭の侍女話。家にとっては悪くない話でも、気持ちは簡単に納得できない。祖母はやるせなく翠蘭を見た。
「いいかい、よぉくお聞き。お姫さんには、心をこめて仕えるんだよ。恋をするように、お姫さんのことだけを考えるんだ。なにがお姫さんにとって良いのか、幸せなのか、どうすべきなのか。それが結局、お前の為になる」
「―――はい」
「後宮から帰ってきたら、きっと見違えるほど素晴らしい娘になってるんだろうね」
「二年間しっかり猫を被って、実入りのいい官吏を捕まえてくるんだぞ」
「……阿爺」
父親はどこか勘違いしている。思わず呆れた声になってしまった翠蘭だった。