四-2
突然、話し辛そうに、志勾は眼差しを泳がせる。
あるとき、唐清樹は拱手したまま、内廷を歩く志勾に近付き囁いた。
「姫君が見つかりました。本日、壺世宮は燕景殿に無事到着いたしました」
ぞくっと、翠蘭の背筋が冷えた。
「愛する者が儚くならないよう取り計らうとは、そのような者を入宮させることだったのだと知ったのは、情けないことにそのときだった」
「わたし……が……」
「そなたは、あまりにも似ていたんだ。ナラーツェグや路恵に。唐清樹は、わたしがどのような娘を好むのかをリュバーニャ時代から調べ上げたのだろう。そうしてそなたを、見つけた」
ようやく、繋がった。
「李基静さまは、丞相さまの命で動いていたんですね。だから彩秋飯館で声をかけてきて……」
「李基静が? いや、彼は、七十を超えた御老体だ。彩秋飯館のある香江坊を訪れるほど、身体は丈夫ではない」
静かな志勾の声に、翠蘭は思わず耳を疑う。
「そんなはず、だって、あのひと、『李基静』と、ちゃんと名乗られました」
「どのような男だった?」
「えと、五十代くらいの方です。背は、志勾さまより少し低いくらいで、面長な顔で目が細くて。眉毛は濃くて声には張りがあって」
「―――そなたが会ったのは、おそらく唐清樹だ」
「な」
乾を掌握する丞相が、直接その足で訪れたなど。彩秋飯館はどう良く見ても、大貴族さまが足を運ぶような店ではない。
「自身の目で、わたしの好みに合うかどうかを確認したかったのだろうな」
「そんな」
「李家は唐家の傍流に当たる。李基静は賭け事に興じすぎて唐家に多額の借金をしていると聞く。それをかたに、脅されでもして名を貸したのだろう」
(そんな)
いや。おかしいとは思っていた。
下級貴族である李家の娘が、何故昭儀という高い身分を得ているのか。
背後の存在に気付くべきだった。丞相肝煎りの娘が、低い身分で入宮するわけがない。
愕然とした。
二年という提示された期間。あれは、やはり唐清樹の娘が決められた年齢になるまでの時間だったのだ。
李基静と名乗った丞相の高笑いが聞こえてきそうだった。
志勾の好みそのものであった翠蘭。丞相は、ついに翠蘭を見つけたのだ。己の欲望を満たす存在を。
子が授からなければ失うものはない。喪失の恐れなど、ない。
まさに、〝愛されても儚くなることのない妃〟だ。
欲望のおもむくまま、ただまっすぐに愛することができる妃。そのためだけに用意された自分。
志勾が頑なに拒んでいた壺世宮に通うようになれば、抵抗感もなくなり、いずれはあてがった他の妃嬪との間に公主が生まれることもありうるだろう。男嬰堕胎のため体調を崩す妃が現れようとも、少なくとも誰よりもなによりも愛する存在がどうなるわけではない。非情と責められるだろうが、翠蘭は生き続け、儚くなることは、ない。
自分は後宮への呼び水でもあり、必要以上他の妃嬪にのめり込むことのないよう配された安全牌でもあったのだ。
「そういうこと……だったんですね」
疑惑が片付いていくと同時、胸には落胆と悲しみが降り積もっていく。
時間稼ぎの駒として、後宮に入れられた翠蘭。
「本当に身代わりだったんだ……」
打ちのめされた翠蘭の声に、志勾は腰を浮かせる。
「鈴葉さまではなく、蘇昭媛さまやナラーツェグさまの身代わりだったんだ。どれだけ愛されても子を宿す心配のない、都合のいい人形で」
「違う!」
「なにが違うの。触らないでくださいませ」
正面に膝をついて触れようと伸ばされた志勾の手を、翠蘭ははねつけた。
「まんまと騙されて、浮かれてたなんて。志勾さまも内心、嗤ってたんでしょう? 自分の本当の意味も知らず、愚かな娘だと」
「そなたは誰の身代わりでもない」
彼女を愚かだなど、思うわけがない。
唐清樹から『李昭儀』が入宮したと聞いたとき、なんと不憫な娘かと思った。禍根を残す貴族の娘を唐清樹が使うはずがないから、どこかから探し出してきたに違いない。なにも知らないまま壺世宮に放り込まれたのだろう。己に待ち構える運命も知らず。
だから、志勾は李昭儀を召そうとは思わなかった。
自分の好みそのものの娘なのだろう。興味がないと言えば嘘になる。だが、自分の行動ひとつで、彼女の人生を崩壊させてしまう。―――既に、破滅の道を辿らせている。
ひとの気持ちを利用する唐清樹の言いなりになるのは不愉快で、腹立たしかった。
翠蘭が入宮してもなかなか夜伽に召されなかったのは、そのためだった。
「覚えているか。わたしはそなたを初めて召したとき、李昭儀には翠蘭の名を問うだけのつもりだったと言ったことを」
牆壁越しに語らった風騎が皇帝であると知っておののく翠蘭に、彼は確かに言った。李昭儀を召し出すつもりはなかったと。それでも李昭儀を夜伽の相手に選んだのは、ただひとえに牆壁越しの侍女、翠蘭のことを尋ねるためだ、と。
「逢ったこともないそなたに惹かれていたからだ。そなた自身を。誰の身代わりでもなく」
「いいえ。牆壁越しとはいえ、志勾さまはわたしにナラーツェグさまや蘇昭媛さまを重ねておいでだったんです。おふたりを想うがため、わたくしに興味を持っただけですわ」
「!」
これには、言葉を失うしかなかった。
そうなのか?
思わず自分に問うてしまう。その一瞬の沈黙が、ぼろぼろになった翠蘭を更に追い詰める。
「子が宿らないのも当然……。そのための存在なんだもの」
「違う」
志勾は強引に翠蘭の両肩を摑んでこちらを向かせた。
「そなたを愛する想いに偽りはない。いいか。きっかけは似ていたから、路恵やナラーツェグを思わせたからかもしれぬ。でもそれだけだ。ただのきっかけにすぎぬ。わたしが愛しているのは、路恵でもナラーツェグでもない。翠蘭、そなただけだ」
どれだけ志勾が訴えても、翠蘭には薄っぺらな言い訳にしか聞こえなかった。
なにも知らなかったのは自分だけ。本人に知らせられるような内容ではないとは判るけれど、手酷い裏切りだった。
壺世宮で暮らす限り、あの薬湯を飲み続けなければならないのだ。志勾を愛する限り。彼に愛される限り。
欲望のためだけの存在だから。
愛する志勾の子を身に宿すことは、許されないから。
「―――もう、おいでにならないでください」
「翠蘭、なにを」
「正妃さまが皇子さまをお産みあそばせば、志勾さまのお気持ちは変わってしまわれるでしょう。嬰児さまをお抱きになる正妃さまに、愛おしいというお気持ちも生まれましょう。繋ぎでしかないわたくしは用済み。忘れられてしまうに違いありません。忘れられて志勾さまの訪いを永遠に待ち続けるくらいなら、どうかここで、わたくしをお見限りくださいませ」
「やめてくれ。決めつけないでくれ。劉賢妃に公主が生まれても、そなたへの気持ちは、揺れもしなかった」
李昭儀に手がつけられた時点で入宮が許された劉賢妃。彼女の産んだ公主は、公式に生存が許された初めての子だ。思い入れがないわけがない。
「産まれたのが男嬰であれば、いやでも気持ちは深まりましょう」
「安心はするだろう。だがそれ以上の意味はない」
「わたくしを忘れる理由にはなります」
「なるわけないだろう? そなたを忘れて平気でいられるはずがない」
「頭ではそう考えられる。でも実際は、そうはいきません」
鋭い反論だった。
李昭儀を召すべきではないと頭では判っていた。けれど現実は、彼女を召してしまった。翠蘭の飲んでいる薬湯に関してもだ。悪い副作用があるのではと危惧しながらも、彼女のもとに通わずにはいられないから止めさせることができない。薬湯を止めさせるには、決して通わぬと宣言すればいいだけなのに、いまでもそれができないでいる。
頭では判っていても。
そうだ。
翠蘭の言は、確かに正しい。
「正妃さまが志勾さまに想いを寄せるようになったら? わたくしは庶民の娘でしかありません。子もいなければ、実家に力があるわけもない。邪魔者、邪魔者として……」
正妃の父は丞相だ。正妃の想いをくんだ唐家の手によって抹殺される可能性もある。恐ろしさにそれを口にすることはできなかったが、志勾には通じた。
志勾は眼差しをいっそう深くさせ、強い意志とともに翠蘭を切なく見つめた。
「守るよ。そなたを守る。どんな権力からも、どこの誰からも。たった独りになったとしても、そなたを守る」
肩を摑んでいた手をそっと下ろし、彼女の細い指を握り締める志勾。
「愛する者を、もう失いたくない」
心に届けとばかり、まっすぐに見つめ込む。
「そなたがいなければわたしは生きてはゆけぬ。わたしの心のすべては、そなたのためだけにある」
翠蘭の目から涙がこぼれ落ちた。弱々しく首を振る。
「出自の卑しい妃嬪ごときにおっしゃる言葉ではございません。わたくしは、用済みになるのですから……」
夢を見ていただけなのだ。
愛する者に愛されるという夢の中にいた。それを現実と、錯覚していただけ。
「翠蘭」
「お許しください。わたくしには、せめていまは、抱えきれません……!」
彼女は再び志勾の手を振りほどき、榻に泣き崩れた。
この日、翠蘭は夜伽を務めるようになって初めて、彼を拒絶した。
そうして、志勾と気持ちがすれ違ったまま二ヵ月が過ぎた。
錚々たる一行が壺世宮、鵬緒殿にやってくる。唐清樹の娘、華涼がその主である。
唐正妃。すぐに皇后の位を賜った彼女が、この静かな壺世宮に君臨することになる。




