三
黄昏が呼ぶ夜は、こんなにも静かなものだったろうか。
夜を迎え、湯を使って身体中すみずみまで磨き上げられた翠蘭は、椅子轎に乗せられ、天子の住まう沙和宮は朱明殿へと揺られていった。
真っ白な絹の夜着に同じく純白の衫を身にまとった翠蘭は、所在なげに榻にちょこんと腰を下ろす。
堂室にはひとりきりだった。侍女や女官が、夜伽のためだけにあるこの宮殿に入ることはないという。喬玉たちが付き従うことはできないのだ。
廻廊には宦官の気配、庭院は夜闇と静寂に沈んでいる。胸の奥で、心の臓がばくばくとうるさく跳ねていた。
どれくらい待っただろう。
戸口の向こうにひとの気配がし、ゆるりと扉が開かれた。
心の臓がひとつ大きく鼓動を打ち、喉から飛び出す勢いで暴れる。
(えと、えっと、最初にするのは)
翠蘭は頭が真っ白になりながらも習ったばかりの講義を懸命に思い起こす。跪礼で迎えるため、床に膝をついた。俯けた顔の前に重ねた両腕を持ってきて、袖で表情を隠す。たしか、これでよかったはず。
最初に入ってきたのはふたりの宦官だった。続いて、さわさわと衣ずれをたてて入ってきた人物があった。
黄金色の衫の裾が視界に入る。皇帝の許可が下りるまで顔を上げてはいけないと習ったが、恐ろしくて顔など上げられない。更にふたりの宦官が続き、翠蘭の前で彼らは足を止めた。
緊張に、全身は巌のように固まる。なのに肩は忙しない呼吸に上下してしまい、そこにじっと視線が注がれているのが判って、冷や汗が胸の間を流れていく。
(次に、ええと次は次にするのはなんだったっけ。―――あ、そうだ)
どんどんと現実となる状況に頭はいっぱいいっぱいで、なんとか思いだした三跪辞儀という礼を、ぎこちなく行う。これは皇帝に召された最初の夜に一度だけ行うもので、叩頭礼の一種である。両腕で顔を隠した状態のまま立ち上がり、一礼。そのまま跪いて、叩頭。これを三回繰り返す。その間、決して顔は上げてはならない。
翠蘭は叩頭をしたまま、暗記した文言を声へと押し出す。
「昭儀の御位を賜りました李鈴葉と申します。今宵は万歳爺のお召しを賜り、名誉の極みに存じまする」
腹の底から懸命に押し出した声は情けないほど震えていて、喉がこわばっているせいかひどく掠れていた。
目の前の人物が息を呑んだ気配があった。ふた呼吸ほどの間をあけて、皇帝は口を開く。
「そなたの働きが、この国の礎とならんことを」
「!」
思わず、翠蘭は顔を上げた。
不躾な行動に宦官たちが驚きを超えて苦々しい顔になるが、それどころではなかった。
(あ……)
真正面にいるのは翠蘭よりも十は年上だろう美丈夫。顔の彫は深く、目の色や肌の色も、乾の人間にしては薄い。背の高い彼は、龍の刺繍の入った衫を白い夜着の上に羽織っている。
皇帝は、翠蘭だけに判るよう小さく目で合図を送る。はっと我に返り、再び頭を下げる翠蘭。
皇帝が手を払う仕草に、宦官たちは拱手をしながら、しずしずと後ろ向きに房間から出ていった。
「顔を、お上げなさい」
ふたりきりとなり、静かな声がかけられた。
この声。聞き間違うはずがない。だが、ここで聞ける声であるはずがなかった。
許容範囲を超えてしまって頭の中は混乱もいいところだ。なにがなんだか、もうわけが判らない。
風騎の声、そのものだった。
別人だとしても、あまりにも似すぎている。こんなにも声が似ることがあるのだろうか。
じっと答えを探すように翠蘭を見つめていた皇帝が、すっと膝をついて身を近付けた。身体が、逃げそうになる。
「そなた、双子の弟はいるか?」
囁くように問われた。決定的な問いだった。
(うそ……)
間違えようもない。風騎だ。
頭を下げ続ける翠蘭の肩に震えが走る。
(どうして)
官吏だと言っていた。御史台で働いていると。なのに何故、皇帝の恰好で皇帝として目の前にいるのだ。
―――天子、だったのか?
官吏のことなど翠蘭はまったく判らない。判らないけれど、ああも頻繁に牆壁にやって来られるほど暇なのだろうかと疑問に思ったことは確かにあった。
あったけれど。
(嘘でしょ……)
いったい誰が、皇帝があんなところにふらりとやって来ると思う?
翠蘭の頭に真っ先に浮かんだのは、家族のことだった。
自分は皇帝に嘘をついて―――騙していた。李昭儀は貴族の姫であって、庶民の娘ではない。風騎が呼びだしたのは李昭儀。牆壁越しに言葉を交わした〝侍女の翠蘭〟ではない。これはどういうことかと詰問されたら、李昭儀はどこへ行ったのかと、本人を呼べと命じられたら、どう答えればいいのだろう。召した昭儀の正体が侍女だったなど、大問題である。叛意を疑われても、言い逃れはできない。
このことで李基静が問われたら、小芳の治療どころではなくなってしまう。李家の出世を邪魔したとして家族が路頭に迷うことになる。最悪―――いや、確実に罰を受けることになる。
牆壁越しに言葉を交わさなければ、ばれずに済んでいたのに。
「おゆ、お許しください……!」
「し。声はひそめてもらえるとありがたい。隣に控える者がある」
風騎の声は怒っているようには聞こえなかった。いつものように、穏やかに広がるものがある。顔を上げてもらいたいと再度請われる翠蘭。
そうは言われても、動くことができなかった。罪悪感に凍りついた気持ちが、ぼろぼろになって崩れていく。背の震えは全身に広がり、冷たい牢獄の床に手をついている思いだった。
顔を上げることが、できない。
そんな彼女の顎に優しくかかる手があった。なめらかな手に導かれ、翠蘭の面が上げられる。
混乱と動揺、そして恐懼に、目を合わせられない。視界の隅には、食い入るようにこちらを見つめる男の綺麗な顔。
翠蘭は、彼のまっすぐな視線に屈服する。引き寄せられるように、眼差しを彼へと移した。
薄い褐色の瞳が、そこにはあった。怯える翠蘭に、仄かに笑む皇帝。
牆壁越しに聞いていた声そのままに、意志の強さを芯に秘めながらも、どこかひとを安心させる深さを持った顔立ちだった。どこか懐かしい、異国風の整った顔立ち。彼の祖母も、胡慶のひとだと言っていた。
「翠蘭、だな?」
「愚かにもなにも存じ上げず、ずっと、嘘を申し上げておりました。ですけど家族は、家族だけはお見逃しくださいませ、どうか」
「もっと、声を落として」
彼は隣室との間にある小窓を示した。格子の入ったそれには薄い絹が張ってあるだけで、声は筒抜けである。
皇帝―――風騎は翠蘭を立たせると、臥室の牀へと誘う。奥の壁にしつらえられた牀には天蓋と帳があるため、ここで話すよりは隣室に声は届きにくい。牀に翠蘭を腰かけさせたその隣に、風騎も腰を下ろした。
「怯えることはない。安心おし。言ったろう? あれは、わたしたちだけの秘密だと」
「けれどそういうわけには」
牀から降り、床に平伏する翠蘭。
「やめてくれ翠蘭。そなたのそのような姿は見たくない」
「家族はなにも知らないのです。どうか責めはわたくしだけに。どうすれば、どうすれば……」
「―――本当のことを言おう」
うち震え、平伏をやめない翠蘭に風騎はためらいを見せ、口を開く。
「わたしはね、最初は李昭儀殿を召し出すつもりはなかった」
思いもしなかったその言葉に、恐れに凝り固まった翠蘭の肩がぴくりと跳ねる。
「こちらの勝手な事情で、どうしても李昭儀殿を召すわけにはいかなかった。だが、あのときそなたと出逢った。牆壁の内と外で隔てられてはいたが、そなたと確かに出逢った。はじめは、ただ言葉を交わせるだけで良かった。それが次第に、どうしても直接逢いたくなって―――、わたしには、その権限があった」
恐るおそる翠蘭の顔が上がる。その怯えた顔に微笑みかける風騎。
「そなたが翠蘭ではない李昭儀殿だとしたら、わたしはここで酷なことを尋ねるところだった。『翠蘭という侍女はおらぬか』と」
皇帝が女人の名を尋ねる。それは、夜伽の相手を指名することと同義だ。
事実、彼は太監に翠蘭の名を尋ねた。
だが、壺世宮の名簿に『翠蘭』の名はなかった。女官にもなければ奚奴にも見当たらない。困り果てた風騎は、最後の手段として李昭儀を召し出したのだ。召された夜伽の場で別の女人の名――しかも自分の侍女の名だ――を訊かれるのは、侮辱以外のなにものでもない。世にふたりといない天子だからこそ許されても、それでも相手を傷付けることに変わりはない。できればしたくはない。すべきではない。
それでも、せずにはいられなかった。
「わたしはそんな愚かな男だ。そなたに逢いたいがため、ひとりの昭儀を不幸にするところだった。―――偽名かとは思い至ったが、李昭儀に仕えていると言ったのは何故かを考えれば、こんなにも遠まわりをせずに済んだだろうに」
「探して……くださっていた……?」
「ああ」
「だって、天子さまだっただなんて……」
「あの場で言えるとでも?」
「……」
「昼に様子がおかしかったのは、もしかして、今夜のことがあったからか?」
「―――はい」
翠蘭の身体からようやく緊張と恐れが抜け、声の震えも落ち着いてきた。
「風騎さまを裏切ってしまう気がして、顔を合わせることもできないと。合わせるというか、話すというか……いいますか」
「おいで」
風騎は腕を差し伸べ、牀の隣を示した。今度は素直に聞く翠蘭。そっと、頬に風騎の手が流れる。
こちらをじっと見つめる眼差しは甘い。とろけそうなほど、胸が疼いた。
「どうして。どうして風騎さまが? 科挙に二度目で通ったとか官吏だとかって……本当に、でも、風騎さまのお声だし……いえ、ですし」
ふ、と笑む風騎。
「そなたが混乱するのも無理はないな。わたしは『風騎』であり、『風騎』ではない」
(別人!?)
翠蘭の身体がびくりとこわばり、隣の男との間に弾けるように距離を作る。その腕を、彼は優しく摑む。
「かつては、『風騎』と呼ばれていた。いまそう呼ぶのは、そなただけだ」
「かつて……?」
「いまは『志勾』という字がつけられている。そう呼ぶ者は、ほとんどおらぬがな」
言って、彼の眼差しは翠蘭ではないどこか遠くの光景を見つめていた。
「最初は、本当に、『郭風騎』として位を昇ることを考えていた一官吏でしかなかったんだ。小さな野望とそこそこの欲しか持っていない若造だった。それが万歳爺と呼ばれる場所にいるなぞ、わたし自身いまだに信じられぬ」
幾つかの呼吸のあと、風騎は翠蘭に視線を戻した。苦しみを抱えた痛々しい色が、瞳の底にあった。
「なにかが、あったのですか?」
牆壁越しに穏やかな言葉を返してくれた風騎。官吏だった彼が、何故皇帝に? どうして痛みを堪える表情をするのだろう。彼にいったい、なにがあったというのか。
「そうだな。そなたには知ってもらいたい。長い話になるが、聞いてくれるか?」
風騎と呼ばれていた青年の過去を。
翠蘭は腕を摑む手に手を重ね、静かに彼を見つめ返すと、ゆっくりと頷いた。




