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行き交うひとごみの間に、懐かしいひとを見た気がした。
そうして振り返ると、ともに歩いていた連れがふたり、雑踏のどこかへと消えていた。
「―――道にでも迷ったんですか?」
大陸の東部ほとんどを占める国、乾。その鎮のひとつ、楼源にある飯館の前に佇む老人に声がかかったのは、忙しい昼の時間を過ぎた頃だった。
老人は、七十を幾らかは過ぎているようだが背筋はぴんと伸び、声をかけた女老板に振り返る仕草はどこか洗練されている。凛とした雰囲気があった。異国の血が混じっているのだろう、肌はどこか白く、顔の彫りも深い。
「連れとはぐれてしまいましてね。おお、これはお店の邪魔をしてしまいましたかな」
「そういうわけじゃないんですよ。ただ、年長者を店の前でずっと立たせて平気でいられるほどできた性分じゃなくてね。どうです? なにか出しますんで、店内へおいでくださいな」
「いや」
やんわりと首を振る老人。
「銭包を持っているのは連れでしてね。無銭飲食になってしまうからやめておくよ」
「アタシの勝手でお招きするんです。老大爷をこのままにしていちゃ、寝覚めが悪い。道に面した席があるんで、お連れさんも気付きやすいと思いますよ。無銭飲食で逃げるにも、いい席かと」
後半部分をいたずらっぽく声をひそめた女老板に、ほ、と老人は声を出して笑んだ。
「それはありがたい。無銭飲食をするのは初めてでしてな。逃げやすい席を用意してくれるなら、心強い」
「ではこちらに」
そう言われて通されたのは、賑やかな通りに面した席だった。春はまだ浅く、木々の芽も芽吹きだしたばかり。流れる空気はいまだひやりとしているが、この店の窓は開け放たれている。
通りを行き交う人々の声は、活気に満ちている。春の到来を祝う祭りが近いため、普段よりも賑やかなのだと女老板は言う。
春の到来を祝う祭り。
老人の脳裏を、ひとつの光景が駆け抜ける。
春を迎える園林。胸にかき抱いた細い身体。涙と嗚咽。
その光景から老人の意識を引き戻したのは、店員に注文を頼む客の胴間声だった。
「あとよ、蘿蔔絲餅(餅の中に細切り大根を入れて焼いたもの)も頼む」
「―――女老板」
席を離れようとしていた女老板を、老人は呼びとめた。
「はい?」
「ここの店にも、蘿蔔絲餅があるのかね」
「ええ。お勧めだよ。老大爷もそれにしますか?」
「そうさな。食べる機会を失くして、もうずっとそのままだったか」
「他の店の蘿蔔絲餅を知ってるんですか?」
「龍黎に昔あった飯館のお勧めだったらしい」
「龍黎……都に行ったことがあるんですか?」
乾の都は龍黎という。楼源から東に六百里(約300km)ほどの場所にあり、おいそれと気軽に行ける距離ではない。
老人は懐かしそうな顔をした。
「昔、住んでいたことがある」
「だから老大爷、あか抜けてるのかしら?」
「はは。おだてても、無銭飲食ですぞ」
「あら、そうでしたね」
女老板は楽しげに笑んで厨房に注文を伝えに行くと、しばらくしてわけあり顔で戻ってきた。
「ねえ老大爷。そのさ、交換条件というわけじゃないんだけど、お代の代わりに龍黎の話を聞かせてくれないかい? 四十になっても楼源から出たことがなくてね」
「龍黎の話か……」
ふと、老人の眼差しが遠くなる。
「なにか、嫌な思い出でも?」
「―――いや。話せるほどのものは持っていないんだ。あそこに住んではいたが、なにも知らなくてね」
「じゃあさ、聞いたことがあるんだけど。若くて綺麗な娘は、みんな後宮に連れて行かれるってのは、本当なのかい?」
ふたりのやりとりを聞いていたらしい隣の席の青年が、ぶっと吹きだした。
「なにさ田草宋。文句でもあるのかい、せっかくの料理を吹きだすなんて」
「いやいや、だってよ」
一緒にいた男と笑いを堪えながら、田草宋と呼ばれた青年は身をよじらせている。
「女老板、後宮が気になるのかよ」
「知らなかったなァ、後宮目指してたのかァ」
「いい歳こいて恥ずかしくねェのか? なァ」
「失礼ね。これでも昔は道行く男たちが列なして追いかけてきたんだよ」
「そんな話、聞いたことねェぞ」
くつくつと笑う男たち。
「女老板くらいなら、後宮に上がっても不自由はしないだろう」
助け船を出したのは、老人だった。
意外なほど冷静なその声に、男たちは老人のほうへと身を乗りだす。
「なんだ老大爷、知っ……てるような口振りじゃないですか」
田草宋の口調が改まる。不思議なことに、この老人には犯し難い雰囲気があった。老人は、彼の問いには答えず続ける。
「だが、後宮へ上がれば不幸になるだけだ。万歳爺の寵愛を受けようものなら、決して幸せにはなれぬ」
「……」
痛みをはらむ声に、思わず顔を見合わせる女老板たち。万歳爺が皇帝のことであると、童歌でも歌われているくらい、庶民だって知っている。
老人が注文した品がやってきた。給仕の娘が、女老板たちの様子に怪訝な顔をする。
「どうされたんです?」
「ああ、うん……」
「おお、これが蘿蔔絲餅というものか。ありがたく頂戴いたしますぞ」
卓子に置かれた皿には、丸い餅がひとつ乗っている。手で割って一緒についてきた小皿の醤油をつけて食べるのだと給仕の娘が教えると、老人はひとつ頷き、言われるまま武骨な手で熱い熱いと割り開く。
熱い湯気が、立ちのぼる。目を輝かせ、ほくほくと美味しそうに老人はそれを頬張った。その表情が、蕩けそうになる。
「そうか……。こんなにも、こんなにも美味しいものだったんだな……」
口に広がる仄かな塩みと蘿蔔の触感。お勧めなんですと言った、かつての声が胸によみがえる。
胸にしまったなにかを噛みしめるように、愛おしそうに蘿蔔絲餅を食べる老人に、女老板は尋ねる。
「―――後宮に上がると、どうして不幸になるんですかい?」
「後宮? あら、都のお話をなさってるんですか? 不幸、って?」
女老板の問いかけに、戻ろうとした娘が足を止める。
老人は、ふと自分を取り囲む形となった彼らに顔を上げた。
「そうさな。では、その話でもしようか。万歳爺の寵愛を受けて不幸になった娘の話を」