夕陽に染まるピアノ
放課後、ピアノの音が鳴り響く音楽室。
天才ピアニスト三姉妹の三女・波代が一番得意な古典派の中からベートベンのピアノソナタ、『月光』を弾いている。
放課後には留理の怒りも治まって、それを見た篤史はホッとしていた。
その時、音楽担当の教師の中川先生が入ってきた。
「A組の小川と川口、D組の服部じゃないか。来てたのか?」
「はい、見学させてもらってます」
里奈が返事をする。
中川先生は育江に気付く。
「私のクラスに転入してきた坂本さんです」
「坂本です。よろしくお願いします」
育江は立って会釈をして自分の名前を告げる。
「君が坂本さんか。担任から聞いてるよ。僕は音楽担当の中川です。よろしく」
中川先生はニッコリ笑って会釈をする。
「先生…?」
ピアノを弾いていた波代が、途中で止めて中川先生を呼ぶ。
「どうした?」
「この部分が難しいんですけど…どう弾いたらいいですか?」
波代は楽譜に難しいと言った部分を指差して聞く。
「これはな…」
「遅くなってすいません」
そこに長女の広代と次女の雅代の二人が、音楽室に入ってきた。
「遅かったな。早く練習しろよ」
「わかりました」
広代が返事をすると、篤史達に気付いた。
「あら? 見学の方達?」
「そうだよ。二年生の子だ」
中川先生が答えると、そうなのというふうに篤史達を見た。
「波代、広代と変わってそっちのキーボートで練習してちょうだい」
「はい」
波代は返事をすると、別のキーボートに移る。
「もうすぐでコンクールがあるらしいで」
篤史は全員にそっと耳打ちした。
「なんでそんなこと知ってるの?」
「噂で聞いてん。広代さんが交響曲第五番‘新世界’。雅代さんが‘美しく青きドナウ’。そして、波代さんがさっき弾いてたピアノソナタ‘月光’や」
篤史は詳しく曲名を言う。
「やけに曲名まで詳しいじゃない? 小川君?」
全員の背後から雅代が話しかけてくる。
「雅代さん…」
留理はあっというふうに雅代の名前を呟く。
「はぁ…。一応、音楽を聴くのは好きなほうやから…」
「小川君は西洋音楽の中で誰が好きなの?」
「誰が好きっていうのはないんやけど、オレは歌劇の‘カルメン’が好きで…」
嬉しそうの答える篤史。
「そうなんや。今回のコンクールは、三人共が好きな音楽史から曲を選んだんや。広代は国民楽派、私はロマン派、波代は古典派。コンクール前は私達ライバルになってしまうねんで」
雅代は腕を組んで四人に言った。
「ライバルかぁ…。普段は仲が良いって聞いてるのに…」
里奈が独り言のように言う。
「それは外見だけ。中身なんて…」
雅代がそう言いかけると、広代は弾いていたピアノの鍵盤を叩いて、バンッと大きな音を立てた。
「雅代! そんなこと人様に言うべき事じゃないでしょ!?」
広代は怒りを露にして怒鳴る。
「本当の事を言っただけやないの!」
雅代も負けじと言い返す。
「お姉さん達やめて! せっかく見学者がいるというのに…」
二人の言い合いを波代がなだめる。
「波代も波代や! いつまでも良い子ぶってるつもりなん!? そんな良い子が出来るのは今のうちだけや!!」
広代は波代にもキツイ言葉を言い放つ。
広代の言葉に今にも泣き出してしまいそうな波代。
「広代だってそうやないの。人の事が言える立場やないじゃない」
雅代が不機嫌そうな声で広代に聞こえないように呟く。
「君達よさないか。雅代、小川達に自分達の事を不用意に話すんじゃない。それに、広代も言い過ぎだぞ」
中川先生は注意をする。
「私、今日はもう帰ります」
涙目の波代は楽譜をカバンに入れ、小走りで音楽室を出て行った。
「波代!」
「先生、放っておきなさいよ」
広代は波代を呼ぶ中川先生を横目に、腕を組んで言う。
「みんな、ゴメンな。気にしないでくれ」
中川先生はバツが悪そうにして謝る。
「いいですよ、先生。気にしないで下さい」
留理はこういうしかなかった。
(広代さんってキツイ性格なんやな)
広代をそっと見て思う篤史。
四人は見てはいけないものを見たような気がしていた。
「あの…広代さん?」
恐る恐る、育江は広代に近寄る。
「何?」
広代はキツイ目つきで育江のほうを見る。
「私もこの曲、弾かせてくれませんか?」
「あなた、ピアノ弾けるの?」
波代と話している口調とは全く違う。
切り替えが早いようだ。
「はい」
「じゃあ、弾いてくれる?」
育江は広代と変わると『新世界』を弾く。
弾き終えると、拍手が起こった。
「ピアノ、上手いんやね」
雅代は育江を褒める。
「四歳から中学卒業までピアノ習っていたんです」
育江の言葉に、広代は感心してしまう。
「いけない! 私そろそろ帰らなきゃ」
里奈が時計を見て声を挙げる。
「私はもう少し残るけど、留理達はどうするの?」
「私も帰ろうかな」
「オレも…」
三人はカバンを持つ。
「留理、今日はありがとう」
「いいえ。また明日ね!」
留理と里奈は育江に手を振ると、篤史と共に音楽室を出た。
三人は音楽室を出た瞬間、ホッとしたような表情を浮かべた。
翌日、反岡高校は騒がしい朝を迎えていた。
それもそのはずだ。
天才ピアニスト三姉妹の長女・広代が何者かによって、バラバラにして殺害されて公園に捨てられていたからだ。
公園には立ち入り禁止の黄色のテープが貼られていて、大阪府警の町田警部を通じて、篤史は担任に呼び出された。
「死亡推定時刻は昨日の午後六時頃。遺体を捨てたのは午後九時前後とみられているんや」
町田警部は手帳を見ながら、篤史の情報を教える。
「死亡推定時刻はともかくとして、バラバラにした遺体を午後九時前後に捨てたのは、なんでわかったんや?」
篤史はその疑問がわからないまま不思議の表情をする。
「午後六時から八時五十分頃まで公園で三年生で三人の女子生徒がベンチで喋っていたそうなんや」
「そういうことか…。あと、それぞれの遺体はどこに捨てられていたんや?」
続けて、篤史は町田警部に聞く。
「両足、頭部がゴミ箱の中。両腕がベンチの下。胴体は滑り台の上に、それぞれゴミ袋に入れて入っていたのを、稲の散歩中の男性が発見したんや」
篤史は町田警部からの情報を聞き終えると、大人しく黙ってしまう。
「犯人は睡眠薬を染み込ませた布で、広代さんを眠らせ、ノコギリでバラバラにしたと思われます」
そう言ったのは、町田警部の部下である水野刑事だ。
「犯行現場は音楽準備室や。さっき見てきたが、血痕の跡が点々と床についてたからな。それに小川君、昨日の放課後、音楽室に行ったそうじゃないか」
「え? なんで知ってんの?」
町田警部が昨日の放課後の自分の行動をなぜ知っているのか、町田警部はエスパーなのかと思ってしまうぐらいで、篤史は目を丸くしてしまう。
「あの二人に聞いたんや」
町田警部は指を指した先は、雅代と波代だった。
二人の姿を見つけた篤史はあっと声を漏らした。
二人の妹は、泣くとか泣き崩れるとかそういう行動は取っていない。
「あの二人に聞いたんやな。オレ、てっきりエスパーかと…」
篤史は苦笑いしながら言う。
「エスパーって…。もうすぐで留理ちゃん達も来るんや」
篤史の言った言葉に町田警部も苦笑いしながら話す。
篤史と町田警部が話していると、雅代と波代が近付いてきた。
「雅代さん達も呼ばれたんですね」
「そうや。当たり前でしょ。姉なんやから…」
雅代がぶっきらぼうに返事をする。
(自分の姉が殺害されたっていうのに悲しくないんか? 普通は泣くとかするのに…)
篤史は二人の何事もないような様子が不思議に感じていた。
「篤史っ!」
里奈が呼ぶ声に振り返る篤史。
「三人共、来たのか」
「昨日、広代さんと会った人たちを呼び出して、話を聞いてるらしくて…。次は私達の番ってわけやねん」
留理が説明する。
「小川君達には公園まで来てもらって悪いが、学校の会議室に行って欲しいんや。昨日の放課後の事で話が聞きたいんや」
六人は町田警部に言われるままに学校に舞い戻った。
「じょ、冗談やないわよ! そりゃあ、言い合いになったけど、なんで私が広代を殺さなきゃアカンのよ!?」
会議室で町田警部に広代を殺した犯人だと疑われた雅代は、ムキになって大声で反論する。
「雅代さんが広代さんを殺害した理由はないけど、波代さんにも同じ事が言えるで」
篤史は波代を見て言う。
「わ、私が…!?」
波代は急な展開に動揺してしまっている。
「そうや。昨日、広代さんに波代さんはキツイ事言われてたからな。多分、普段からも言われてたんと違うか?」
篤史は昨日だけじゃなく普段も広代からキツイ事を言われているんじゃないかと推測している。
「それはありますけど…。だからって私も広代姉さんを殺していない」
波代は動揺しつつもはっきりと犯行を否定する。
「口論の後はどうしたんですか?」
町田警部は篤史が言った‘昨日もキツイ事を言われていた’という言葉に反応して、波代にその後の行動を聞き出す。
「私は帰りました」
「その後にオレ達三人も帰ることになって、坂本が残ったんや」
波代の後に篤史が答える。
「そうなんですか? 坂本さん」
「はい。五時半近くまで残っていました」
水野刑事は育江が答えたことを手帳に書く。
「僕のその十分後に音楽室を出ました」
次に答えたのは中川先生だ。
「雅代さんは?」
「私は五時過ぎや」
「広代さんは何時頃まで音楽室におられたかわかりますか?」
水野刑事が中川先生に聞く。
「わかりませんが、いつも六時半頃まで練習している事があったので、多分、昨日もそれぐらいまで残るつもりだったと思います」
「中川先生は音楽室を出てからは職員室におられたんですよね?」
「はい、いました」
中川先生の答えを聞くと、町田警部は黙ってしまう。
それと同時に、篤史も事件の事を考え始める。
少しの間、会議室に沈黙が流れた後、
「物音とか何か聞きませんでしたか?」
町田警部は中川先生に聞く。
「聞いてないです。職員室と音楽室は離れていますし、大きい音ならともかく、小さい音はわからないです」
「そうですよね…」
町田警部は多少期待していたが、中川先生の答えにその期待は潰れた。
「雅代さんと波代さんは家に帰った後はどうされたいましたか?」
「ずっと家にいました。ねぇ、波代?」
「家にいました」
雅代の問いかけに、頷く波代。
「でも、家族の証言は入らないんですよね?」
「参考程度にですよ」
雅代が二人の警官に聞くと、水野刑事が優しく答える。
「坂本さんは?」
「昨日から塾に通い始めて…。時間は七時半から十時まででした。塾は家の近くの学習塾です」
「坂本さんのアリバイは完璧だな」
水野刑事の言葉に、育江は当たり前だという表情をした。
(坂本のアリバイは完璧やけど、雅代さんと波代さんのアリバイがあやふやや。それはオレらにも言える事やけど…)
「広代さんって学校に残ってコンクール前は熱心に練習するんですか?」
里奈は雅代と波代に聞く。
「コンクールの前はいつもそうや。私と波代も練習するけど、広代は異常なほど練習するで。それにオリジナル曲も作ってたし…」
「オリジナル曲…?」
広代がオリジナル曲を作っていた事は篤史達には初耳だった。
「オリジナル曲の応募があって、それに応募すると言っていました。締め切りは一ヶ月先なんですが、もう出来上がっていました。僕が持ってますけど聴きますか?」
中川先生は二人の警官にオリジナル曲の存在を教える。
「ぜひお願いします」
町田警部はお願いすると、中川先生は職員室に戻って、五分ほどで会議室に戻ってきた。
「これです」
中川先生は八枚の楽譜と曲が収録されたMDを渡した。
「‘光と月’という題ですか」
水野刑事は感心したように呟く。
「そうです。広代は卒業までにあともう一つ賞を取りたいと言っていましたから…」
「広代さんはいくつ賞を取っていたんですか?」
町田警部は楽譜を見ながら中川先生に質問する。
「中学の卒業前から曲を作っていたみたいで、二十作は作っていたんです。賞は最優秀賞や優秀賞などを入れると五作は賞を取っていました。‘光と月’が賞を取ると、六作目になる予定なんです」
中川先生は広代の曲の全てを話す。
「そうだったんですか。広代さんは本格的にピアニストを目指していたんですな」
町田警部も水野刑事同様、感心しながら中川先生に言う。
「えぇ…。高校卒業後は音大に行くと決めていて、ピアニストになれなくても音楽の教師を目指していたんです」
「明確な将来設計があったんですね。とりあえず、今日はこの辺にしておきます」
授業中だということもあり、町田警部は手短に話を聞き終えた。
「疲れた…」
里奈が歩きながら伸びをして言う。
教室に戻る最中、雅代と波代の二人とわかれ、四人は急ぐ事もなく歩いている。
今は三限目が三分の一が過ぎたところだ。
「そうやな。オレも事情聴取は初めてや」
「事情聴取って嫌やな。もうやりたくないくらい」
留理が本当に嫌そうに呟く。
「まぁ、そんなに嫌そうにするなや、留理。オレらは犯人と違うんやし…」
「そうよ。機能の関わり合いになった人を参考程度に聞いてるだけなんだし…」
育江は意外にも嫌そうにすることもなく言う。
「何よ? 育江ってば、ヤケに篤史の肩を持つやん?」
留理は頬を膨らませて育江に言った。
「育江、こんな奴の肩を持つ必要なんてないで。ロクな目に合わない」
「それは言えてるかも…」
「お、お前ら…」
留理と里奈を横目に何も言えなくなる篤史。
「留理、後で話があるんだけど…いいかな?」
育江は急に神妙な面持ちで留理に言う。
「いいよ」
留理はそう返事をしつつ、少し言い過ぎたかなと内心思っていた。
広代が殺害されて二日が経った。
育江は二日前に話があると言いつつ、まだ留理に話していない。
実はもういいのと言って何も話さなかったのだ。
留理にとっては、ぎこちない育江の態度が余計に気になってしまったのだが、本人はいいのと言ったためあまり追及しないことにした。
その日の放課後の音楽室。
立入禁止の張り紙が貼ってある中、篤史は音楽室の中に入り、事件の事を考えていた。
(午後六時頃が広代さんの死亡推定時刻。死体を捨てたと思われる時刻が午後九時前後。音楽準備室には血痕が点々と付いていたって警部が言ってたけど、血痕がそんな付き方するやろうか? 遺体をバラバラにしたんやったら血痕は点々とじゃなくてベットリと付くはずやけど…)
篤史は町田警部の報告が気になっていた。
「小川君…」
篤史が声をするほうに振り向くと波代が立っていた。
「波代さん…。どうしたんですか?」
「忘れ物してしまって…。小川君こそ何してるんですか?」
波代は音楽室に入りながら篤史に聞く。
「事件の事を考えてて…」
「どうなんですか? 事件のほうは…」
「全くわからないです」
篤史は首を横にして苦笑いする。
「広代姉さんを殺した犯人って誰なんやろう? こういうのって犯人がわからへんから怖い」
波代は身震いしながら言った。
「警察が犯人捜してくれるから大丈夫ですって…」
「そうですね。でも、なんで小川君は探偵なんかに…?」
波代はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「警察官である父の影響もあるけど、事件を解決したのがきっかけ。オレは探偵になるつもりは全くなくて、父がどうしてもって言われてからや」
篤史は父親に言われた事を思い出していた。
「そうだったんですね」
波代はやっとわかったというふうな表情をする。
「波代さん、事件があった日、雅代さんは何時頃家に帰って来たんですか?」
「確か、午後三十分過ぎに帰ってきた。その時に広代姉さんがもうすぐ帰るって言ってったって…」
「午後五時半に坂本が音楽室を出て、さらにその十分後に中川先生も音楽室を出た。そして、その三十分後に広代さんは殺害されたっていうわけか…」
篤史は手を顎に当てて独り言のように言う。
「それにしても、三時間という時間はなんやろう? わざわざ時間を空けずにすぐに別の場所に遺体を捨てても良かったのに…」
篤史はふと思ったことを口にした。
「言われてみれば…」
波代も同感する。
その時だった。
音楽室の扉が重々しく開いた。
二人が扉のほうに目をやる。
入ってきたのは、留理だった。
「留理、どうしたんや?」
「里奈から聞いてん。波代さんと二人でいたんやね」
留理は篤史と波代の二人を見て言う。
「波代さんは忘れ物をしたらしくて…」
篤史が少々焦るように言うと、波代が笑い出した。
「波代さん…?」
急に笑い出した波代にさらに焦る篤史。
「ごめんなさい。二人共、仲が良いんやなと思って…」
「言うとくけどオレらは付き合ってへんで。ただの幼馴染やから…」
篤史はきっぱりと留理との仲を幼馴染だと言い切る。
しかし、篤史が言ったその言葉に留理はほんの少し胸を痛めた。
「そうだったんですね。留理さん、今からお茶でもしませんか?」
波代は留理の気持ちを察してか、お茶に誘う。
「いいですよ。私、良い店知ってるんです」
「じゃあ、そこ行きましょう」
波代は留理にお茶をすることを承諾されて、パァッと明るい笑顔で答える。
(女子ってすぐ仲良くなるな)
二人を見ながら思う篤史。
「篤史、それじゃあ、私達行くね!」
留理は篤史に手を振り言う。
「オゥ!!」
篤史も二人に手を振る。
そして、再び一人になった篤史はすぐに事件の事を考え始めた。
(果たして、広代さんは音楽準備室で殺害されたんか? 遺体を捨てた三時間の空白はなんなのか? 公園に三年生の女子がいたせいか? いや、それにしても、場所を変えたらいいだけのことや)
篤史はピアノの下に一枚の楽譜が落ちているのに気が付いた。
その楽譜は、広代が作曲した『光と月』の一枚だった。
(あれ? この曲って広代さんが作ったオリジナル曲やったよな。なんでここに落ちてるんや? 二日前の事情聴取の時には時には確か…)
篤史は妙な違和感を憶えていた。