永遠(2)
(2)
根岸夏実が天文部に入ったのは、三年の夏休み前だった。
その時期 は、そろそろ部活から受験勉強に移るころだ。
「今さらだけど、入部してもいい」
部室を訪れた根岸夏実の言葉に、僕も他の二人の部員も顔を見合わ せたが、断る理由はなかった。
「いいよ」
最初に言ったのは部長だった。
部員三人しかいない天文部 は、きっと僕たちが卒業したら廃部になるか、科学部に吸収される。 部長は、そのことを酷く気にしていたが、僕にとっては仕方ないこと の一つに過ぎない。
男三人の中に入ってきた根岸は、机の上に広げていた星座番を珍し そうにながめ「ねえ、てんびん座ってどこ?」と小声で尋ねた。
「これだよ」僕は星座番に持っていたシャープペンで丸くてんびん座 が並ぶ場所を薄く描いた。
それから毎日、根岸は放課後になると部室に来ては、星座番を見た り、副部長が撮った天体写真を眺めては、ときおり僕に話かけ、僕は 根岸の質問にひとつずつ答えた。
その間、部長と副部長は夏の流星群観察のことを、熱心に話し合っ ていた。 背の高い根岸と星座番を覗きこんでいると、頭がぶつかりそうにな る。
そして、髪の毛からは甘い匂いがして、そのたびに雪乃のことが 頭に浮かぶ。
雪乃の家に干してあった洗濯物からは、とても甘い香りがしてい た。
僕は記憶の中で一番思い出すのが難しいのは匂いだと思ってい る。 幼かった雪乃が赤いマフラーをしてアパートの前に立っていた風景も表情も思い出すことが出来るし、東京タワーの前で「また、来よう ね」と言った声も思い出そうと思えば、すぐに耳の奥から引き出せる。
なのに、洗濯したての雪乃の服の匂いは、突然にしか思い出せな い。
その匂いの記憶が蘇るたびに、僕は埋められない後悔が胸の奥を 突く。幼かった雪乃が今でも東京にいて、高校生だったとしても根岸のよ うなタイプにはなっていないと思う。 なのに、根岸といると十二歳の頃のことを、雪乃のことが好きだっ たあの頃のことを良く思い出す。
根岸は、ときおり思い出したように運命について話を始めた。 「宇宙から決まった運命ではさ、私と斉藤くんがここで天文の話をすることまで細かく決まっているの?」
「そうなるように決まっているらしい。どこで、誰といつ出会いどん な話をするかだけじゃなく、そのときに僕がどう感じるかまで決まっ ているんだ。 自分で考えたと思ってことさえ、それは宇宙で作られた運命の一部 なんだ」
知識の欠片を、僕は僕なりに想像し、そしてそう思っていた。それ が科学的に正しいのか間違っているのかは、これから何百年、何千年 先にはきっと解明されるのだろう。
「だったら、悩むことが無駄だってこと。例えば誰かを好きになっ て、なんで、この人が好きなんだろうって悩むのなんて無駄じゃな い」
根岸のいう疑問は、僕も感じていた。
「そういうことになるね。でも、僕も根岸も運命を知らないんだから、無駄でも悩むんだと思う」
僕たちは悩んでいた。僕も、根岸も、部長も、副部長も。 毎日、いろんなことに悩んでいた。それは、流星群の観察であった り、受験のことであったり、恋愛のこともある。
なんで、こんなに悩まなくちゃいけないんだろうって思うけど、悩 まずにはすまない。
「そうだよね。運命が決まっていても知らないんだから、自分で考えるしかないんだよね」
根岸は僕の肩を叩いて頷く。その仕草が可笑しくて、僕は吹き出し てしまった。
根岸は、そんな女子だ。
「運命を変えられるとしたら、いつ頃の運命を変えたいと思う」
僕は根岸に尋ねた。
「いつ頃かな。中学三年の頃かな。あの時に、言えなかったことを 言ってみたいかな。斉藤くんは?」 根岸の質問に僕は少し考えた。変えたい運命はどの年齢にもある気が する。
「小学校六年生の冬か、四年生の冬」
それは、やっぱり雪乃がいなくなったクリスマスの日と、雪乃と 行った東京タワーの日だった。
「冬なんだね」
夏美という名前の根岸が、ちょっとガッカリしたように言うのも面白かった。