52話 -玲-
季節は初夏。
蒸し暑くなってきた部屋の窓を開くと、新緑の匂いがする。
さっきまで曇ってた空が少し雲が切れて明るくなってきた。
あたし達が出発するのに縁起のいい兆候、かな。
低体重で生まれてしまった赤ちゃんは1週間ほど入院を強いられた後、あたしと一緒に元気に退院した。
圭介が死ぬほど心配した先天的な問題は今のところ見られず、あたしと悠樹は一先ず胸を撫で下ろした。
その後、この浜松の実家に居座りながら、あたしは慣れない子育てに奮闘していた。
とにかく、眠れない。
赤ちゃんは3時間おきに乳を求めて泣き始め、満足するとまた眠ってしまう。
あたし以上のマイペースな我儘っぷりに、最初の一週間は翻弄され続けた。
こんなに小さいのに生きる為の本能はフル活用されている。
あたしは生への健康的な力に振り回され、圭介のことを忘れていたくらいだった。
これがきっと正しいんだよね、お兄ちゃん。
あたしは時々彼に話しかける。
壁に映ったあの幻影はもう現れなくなった。
連れてってなんて言ったから消えちゃったのか。
最初からあたしの妄想だったのか。
今となっては、どちらでも良かった。
あたしはこの新しい人間を、どうにか寝かしつけようと毎日全力で闘っていたのだから。
「子供の名前はぼくが決めます。」
いつもはあたしにお伺いを立てる悠樹が珍しく宣言した。
「えー、なんで?」
「だって、いくら主任が好きでも圭子だけは勘弁ですよ。」
本当に嫌そうな彼を見て、あたしは思わず吹き出す。
「今時、そんなレトロな名前付けるわけないじゃん。」
「悠子も勘弁ですからね。」
「だから、今時そんなのつけないって。」
圭介以上にセンスがなさそうな彼の発想にあたしは一抹の不安を覚えた。
きっと、彼もあたしのセンスを疑っていたんだろう。
実はずっと前から決めてあったんです、と彼はポケットから折りたたんだ和紙を取り出した。
彼のスーツのポケットからは色んなモノが出てくる。
そこには墨で書かれた達筆な文字。
『春香』
「はるか?」
「いいでしょう?ぼくが病院から出る時に桜の香りがしたんです。これしかないなって勝手に思いました。」
自慢げに彼は勝手に語り始める。
自我自賛している彼は放っておいて、あたしは、赤ちゃんに向ってはるか、と呼んでみた。
眠っていた筈の赤ちゃんがピクリと動き、薄く目を開いた。
圭介みたいな色素の薄いきれいな瞳が現れる。
気に入ったのかな?
岡崎春香ちゃん。
あなたを世界一幸せな赤ちゃんにしてあげる。
あたしは赤ちゃんの鼻先をそっとつついた。
今日からあたし達は実家を離れて悠樹の住むマンションに引っ越すことにした。
いわゆる里帰り出産の時期も過ぎ、そろそろ親子三人での生活を始める為だ。
お母さんは孫と離れるのが辛くて、一緒に名古屋に行きたがったがそうもいかない。
「困ったことがあったらすぐ連絡するのよ。」
涙目でそういうお母さんをあたしは抱きしめた。
「すぐに里帰りするから、大丈夫。」
お母さんにとっては初孫なんだ。
この子を産んだことで少しは親孝行できたのかな。
あたしの服に加えて、ベビーベッド、ベビーバス、オムツ、哺乳瓶セットと荷物は膨れ上がり、悠樹は2トントラックを レンタルするハメになった。
これだけの荷物がどうやったら彼のマンションに全部納まるのか、あたしには謎だ。
お父さんと悠樹がトラックに荷物を積んでいる間、あたしは春香を抱いて二階に上がった。
この家を出る前に、あたしにはすることがある。
いつもみたいに階段を上がったら細い廊下。
その突き当たりのドアが圭介の部屋だ。
あたしはそっとドアを開ける。
懐かしいタバコの匂い。
古いギター。
あたし達が迷宮に迷い込んじゃったのはこの部屋からだったね。
あたしはもう一度圭介の部屋を見渡した。
ねえ、圭介。
圭介は今度は別の家に生まれてくるって言ったけど、あたしは圭介がお兄ちゃんで良かったよ。
だって、妹じゃなかったらこんなに愛してくれなかったでしょ?
あたしは今度生まれ変わっても、また圭介に愛されたいもん。
でもね。
圭介のことは忘れないけど、あたしはまだ現世が忙しくなりそうだよ。
こんなあたしでもママになったんだからね。
あたしは圭介に語りかけた。
でも、もう圭介の幻影は現れない。
タバコの匂いのする部屋は時が止まったかのように静謐だった。
「さよなら、圭介。」
あたしは最後に小さな声で呟く。
二人が迷いこんだ迷宮を封印するかのように・・・あたしはそっと部屋を出てドアを閉めた。
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。
次回最終回です。




