50話
ドアを開けたぼくの目に飛び込んできたのは、床に転がって看護婦さん達に囲まれている彼女だった。
「・・・悠樹?」
ぼくの声に気が付いた彼女が、声を出した。
半分白目を向いていた彼女の顔が、正気を取り戻すのが分かる。
ぼくは駆け寄って、看護婦さん達の中に割って入った。
「お母さんから連絡入って、名古屋から新幹線で来ました。でも、やっぱり遅くなりましたね。・・・何してるんですか?」
どうして彼女が床に転がっていたのかよく分からず、ぼくは質問する。
「奥さん、パニックになって病院から逃げようとしてたんですよ。母親になるんだから腹をくくらないと。圭介さん、これから奥さんのサポートお願いしますね。」
うんざりしたように看護婦さんが質問に答えた。
なるほど、病院から逃げようとは彼女らしい。
ぼくは苦笑してから、ふと気付いた。
この人、今ぼくのこと何て呼んだ?
「・・・圭介さんって?」
ぼくは看護婦さんに聞き返す。
「奥さん、さっきから旦那さんの名前呼んでたんですよ。あなた圭介さんでしょ?」
何も知らない看護婦さんは、冷やかすようにニヤニヤ笑って言った。
ああ、そうか。
ぼくはぐったりしている彼女を見た。
一番苦しい時にあなたが呼んだのは、やっぱりぼくじゃなかったんですね。
もちろん、その事実は胸に突き刺さったが、今はそれどころではない。
ぼくは彼女を抱き上げ、ベッドに戻す。
ベッドに寝かされた彼女は弱弱しく、ぼくを見上げた。
いつもの鋭い視線が、まるで別人のように光を失っている。
「・・・悠樹、ごめんね。」
彼女は泣いていた。
ぽろぽろこぼれる涙をぼくは、そっと拭いてやる。
「なんで謝るんですか?」
「だって、だってあたし、やっぱり・・・」
言いかけたところで彼女が口を押さえて、体を丸めた。
顔を歪ませ、物凄い力でシーツを握り締めている。
ぼくはオロオロと立ち上がった。
「痛いの?玲さん?」
「痛い!助けて!あたしもう無理!」
悲鳴を上げて暴れる彼女をぼくは必死で押さえつけた。
「だめですよ。暴れたらベッドから落ちて大怪我します。看護婦さんの指示に従わないと・・・」
「だって痛いんだって!怖いの!助けて!圭介!」
こんな時、あなたなら何て言う?
彼女を腕を押さえながら、ぼくは必死で高田主任を思い出そうとしていた。
彼の低い声。
投げやりな仕草。
笑った時の顔。
横目で睨むクセ。
そうだよ、あなたはいつもカッコ良かった。
その上、死んじゃって、ぼくは一生あなたに追いつけない。
でも、ぼくはぼくだ。
あなたの身代わりになる気はない。
ショパンがガンズに負けるわけないですからね。
だけど、今だけ。
彼女が必要としてるのがぼくじゃないなら。
今だけ、あなたの力貸してください。
「おい、玲!しっかりしろよ!」
ぼくは暴れる彼女の手を握って怒鳴った。
ぼくを振り切ろうとしていた彼女の体がビクッとして硬直する。
「・・・悠樹?」
彼女は目を見開いてぼくの顔を見た。
「泣いててもしょうがないだろ?オレは代われないから、おまえが頑張るしかないからな。」
ぼくは高田主任みたいにウィンクしてみせる。
思えばこれも、キザな癖だ。
「どうしたの?悠樹・・・?」
「うるせえ!悠樹って言うな!オレは圭介だ。そう思って、オレの手握ってろ。」
一瞬、呆気に取られていた彼女の顔が綻び、笑みが洩れる。
「圭介だって思っていいの?」
「今だけ・・・オレはおまえのお兄ちゃんだからな。そう思って頑張れ!」
「・・・うん。」
やっと笑った彼女の顔が、再び苦痛で歪んだ。
ぼくの手を握っていた手に物凄い力が入る。
引きちぎるんじゃないかと思うくらい、全身全霊をかけて握ってくる。
今度は彼女は逃げなかった。
ぼくの手を握ったまま、規則的に呼吸を繰り返し、必死で痛みと闘っている。
時々うわ言のように圭介、とぼくを呼ぶ。
ぼくはその度に、なるべく高田主任に似た低い声で、頑張れと応えた。
それを聞いて彼女は安心した顔で笑みを見せる。
そして再び、産みの苦しみに耐えるのだ。
彼女が必要としているのがあなたなら、ぼくはあなたの名前で呼ばれたって構わない。
あなたのモノマネだってやってやる。
でも、これから先、彼女に必要なのは生きてるぼくですからね。
ぼくには時間がある。
いつかあなたを越えますよ。
それが、いつもぼくを助けてくれたあなたへの恩返しになると思うんです。
ぼくはあなたの妹と、あなたの子供を幸せにしますからね。
ぼくは苦しそうな彼女の額の汗を拭いてやりながら、主任に話しかけた。
◇◇◇
4時間が経った。
彼女は疲労困憊ですでにぐったりしている。
看護婦さんがやって来て素早く診察する。
「子宮口全開。分娩室に入ります。旦那さんは外でお待ち下さい。」
看護婦さんはそう言うと、彼女をベッドごと分娩室に運んでいく。
一人で大丈夫だろうか?
「玲!頑張れよ!」
ぼくは高田主任みたいな、なるべく低い声で叫んだ。
彼女はそれに応えるようにベッドから弱弱しく手を伸ばして、ひらひら振って見せた。
もう大丈夫だ。
ぼくはほっとして分娩室の前の椅子に腰掛けた。
女性ってすごい。
それに比べて、こんな時の男は何と無力なんだろう。
やがて分娩室から産声が響き渡った。
思わず立ち上がったぼくの目には涙が溢れ出ていた。