49話
突然襲ってきた耐え難い痛みは5分程続くと、嘘のように引いた。
な、何?今の。
もう生まれちゃうの?
まだ何にも準備してないのに。
パニックになりながらも、あたしは床を這いずって何とか部屋の外に出る。
階段から顔を出し、出来る限りの大声を出した。
「お母さん!助けて!」
痛みの為にお腹に力が入らず、蚊の鳴くような声が階下に小さく響く。
その間にも太腿を伝って生暖かい液体が流れ出していく。
これってもしかして破水?
どうしよう。
どうしよう、圭介?
お母さんが階段の上で這いつくばっているあたしを見つけて、悲鳴を上げて駆け上がってきた。
「救急車・・・お願い。早く・・・」
再び襲ってくる鈍い痛みを感じながら、あたしはその場で再び蹲った。
救急車で病院に運ばれたあたしは、担架で病室まで運ばれた。
待ち構えていた看護婦さんたちが手際良く、服を着替えさせ、血圧を測る。
お腹だけ出してベッドに寝かされたあたしの前にメガネをかけた女医さんが座り、エコーで胎児の心音を計り始めた。
ドクン、ドクンという規則正しい心音が大音量で聞こえて、あたしは少しほっとした。
赤ちゃんは生きてる。
「今、何ヶ月?」
冷静な顔で女医さんはエコーで胎内を見ながら尋ねる。
「9ヶ月半です。」
「少し早かったけどもう破水してますからね。このまま出産するしかないでしょう。」
こんなことは日常茶飯事だと言わんばかりに、女医さんは表情も変えずに言った。
「もう生まれちゃうんですか?」
「あなた初産でしょ?多分今からが長いですよ。ご主人には連絡しました?」
「あ、主人・・・?」
あたしは口ごもった。
あたし達は結局、結婚もしてない。
悠樹には散々酷いことを言ってしまった。
もう愛想をつかされてもいい頃だ。
彼が結婚する気がなくなったなら、あたしとはもう何の関係もない人だ。
ここに来る理由すらない。
「悠樹君には携帯に連絡いれておいたわよ。出なかったから留守電だけど。」
黙り込んだあたしを見て、お母さんが助け船を出してくれた。
あたしは返事に困って唇を噛み締める。
悠樹が来るかどうか、あたしにも分からない。
何度も浜松まで来てくれた彼を、あたしは邪険に追い返していたのだから。
来てくれなくても、それが彼の答えならあたしは受け入れるしかなかった。
あたしはそれだけのことを言ったし、彼には選ぶ権利がある。
だって、彼の子供じゃないんだから。
そのうちにまたあの鈍い痛みが襲ってきた。
繰り返す波のように、痛みは引いてはぶり返し、しかもどんどん強くなっていく。
下半身が砕けそうな痛みにあたしは呻き声を上げた。
「まだ、陣痛の感覚が長いですね。これからもっと強い痛みが短い間隔でくるようになります。それまでこの部屋で待機してて下さい。水分は取ってもいいですよ。軽いものなら食べても大丈夫です。」
女医さんは表情も変えずにマニュアル通りに説明すると、部屋を出て行った。
これよりもっと痛くなるの?
今でももう耐えられないのに?
こんな時、圭介がいたら何て言うかな?
「オレは代われないからな。おまえが頑張るしかないだろ。」
突き放した言い方しながら、ずっと傍にいて見ててくれる。
そんな気がした。
でも、その圭介はもういない。
さっきまで見えてた幻影まで消えてしまった。
あたしは一人で頑張るしかないんだ。
この子を産む為に。
下半身からこみ上げてくるような痛みはどんどん強くなって、あたしは耐えられず悲鳴を上げた。
看護婦さんが慌てて飛び込んできて背中をさすってくれる。
「落ち着いて。痛くなったら大きく息を吸ってからゆっくり吐いて。パニックになると過呼吸になるわよ。」
あたしは言われたとおり息を大きく吸って吐く。
こんなのでは気休めにしかならなかった。
あたしは一人で頑張らなきゃいけないの?
この痛みにいつまで耐えなきゃいけないの?
「・・・圭介・・・圭介・・・。」
無意識に彼の名を呼びながら、あたしは痛みと心細さで泣き出した。
怖い。
一人じゃ怖い。
ここに来て、圭介。
「圭介さんって旦那さんの名前?早く来てくれるといいですね。」
看護婦さんはあたしの背中をゴシゴシさすりながら、優しく言った。
違います。
圭介は死んだ兄です。
もういません。
ここには誰も来ないんです。
あたしはそう返事しようとしたが、もう痛さで声にならなかった。
痛い!
圭介、助けて!
「あたしもうダメ!」
あたしはそう叫ぶと看護婦さんの手を振り払ってベッドから飛び降りた。
「ちょっと、あなた何言ってるの!もう頑張るしかないでしょ!」
看護婦さんは部屋から逃げようとするあたしに追いすがってくる。
「怖い・・・あたしには無理・・もうダメです。」
「あなた、母親になるのよ?バカなこと言ってちゃダメでしょ!」
子供のように泣き出したあたしに看護婦さんは厳しく言い放つ。
ああ、また痛みの波が来た。
あたしは立っていられず、床に蹲る。
苦しい・・。
息ができない・・・!
痛みで頭がおかしくなりそうだ。
目の前がだんだん暗くなって、意識が遠くなってくる。
「完全にパニックになってます。」
「高田さん、落ち着いて。大きく息を吐いて。」
看護婦さんと、さっきの女医さんの声が遠くに聞こえた。
「玲さん!大丈夫ですか?」
その時、聞きなれた大声が聞こえて、あたしは一瞬我に返った。
「・・・悠樹?」
瀕死のあたしの姿を前にして、蒼白になっている懐かしい顔。
スーツとネクタイ着用の悠樹が、あたしの視界に飛び込んできた。