47話
初めて来た浜松は、都会と宅地が隣接した落ち着いた街。
そんな印象を受けた。
海が近いせいか、風が強い。
気温は岐阜のほうが断然低いのだろうが、この冷たい強風が体感温度を下げている。
彼女が生まれ育った家は、宅地の方にあった。
よくある二階建ての住宅。
築30年といったところか。
エキセントリックな兄妹が愛を育んだ場所としては、あまりに平凡だった。
彼女の両親とともに、ぼくは彼女の生まれたこの家に足を踏み入れた。
「どうそ、おあがり下さい。」
お母さんが先に入ってスリッパを勧めてくれた。
小さいけれど掃除が行き届いた玄関。
下駄箱の上には小さな花瓶に花が挿してある。
少なくとも、あの二人がガサツに育ってしまったのは親に似たわけではないことが分かった。
ぼくは玲さんが立て篭もっているという二階の主任の部屋に案内された。
「玲さん?いますか?」
返事がないのは分かっていた。
が、一応ノックしてからドアをそっと開ける。
鍵はかかっていなかった。
部屋の中には勉強机にギターのアンプ。
弦の張ってない古いギター。
そしてタバコの匂い。
壁に貼られた、タバコの煙で変色した外人ヘビメタバンドの古いポスター。
スノーボードや、サーフボードが部屋の隅に立てかけてある。
ここは既に彼の物置として使用されていたようだ。
その部屋の真ん中に彼女はポツンと座っていた。
「玲さん、大丈夫ですか。」
彼女はぼくの声に何の反応も示さない。
ぼくは彼女の横に胡坐をかいて座った。
彼女はうつろな目をしたまま、宙を睨んでいる。
「玲さん。さっき、ご両親には挨拶しました。」
彼女は反応しない。
ぼくは構わず続けた。
「ぼくと一緒に名古屋に帰りましょう。」
彼女はゆっくりぼくを見た。
虚ろな目はぼくを見ているのに、通り越して遠くを見つめているみたいだ。
「あたしねえ、ここで圭介と愛し合ってたの。」
彼女は昔話をするように、彼女は微笑んで言った。
ぼくはぐっと言葉に詰まる。
想像はしてたけど。
もちろん、その言葉はぼくの胸にはイタかった。
「圭介は死んだんでしょ?あたし、病院で最期のお別れしたのよ。でも、ここに来たら圭介がいたの。今でもあたしの横にいるんだよ。」
何を言ってるんだ?
ぼくは楽しそうに話す彼女を見て愕然とした。
「そんなこと言わないで下さい。主任はもういませんよ。亡くなったんです。ぼくじゃダメですか?やっぱり、主任の代わりにはならない?ぼくと生きていくのは嫌ですか?」
ショックで錯乱状態なのか。
彼女の気持ちは分かった。
責めるつもりもなかった。
だけど、つい強い口調になってしまう。
だって、主任ずるいですよ。
死んじゃったら、勝ち逃げでしょう。
この先、ぼくは一生あなたを越えることができない。
彼女は一生、あなたの思い出を美化して生きていくんだ。
でも彼女に今必要なのは、死んだあなたではなく生きてるぼくだ。
ぼくは自分の無力さが情けなくて、歯軋りした。
心の中で主任に悪態をついてみる。
主任はなんて答える?
知らねーよ、そんなことって言って、タバコを咥えるだろうな。
彼女はうつろな目でぼくを見ていた。
その目から一筋、二筋、涙が零れ落ちる。
泣かせてしまった。
でも、ぼくは譲らなかった。
ここで、彼女が立ち上がってくれないと、このまま主任の所へ逝ってしまう。
そんな気がした。
ぼくは彼女の手を取って、もう一度言った。
「もう主任はいない。ぼくと帰ろう、玲さん。」
彼女は涙をこぼしながら、首を横に振った。
「ごめん、悠樹。あたし、行かない。ここで圭介と一緒にいる。圭介はここにいるんだよ。ほら、今だってあたしを抱いてくれてる・・・」
彼女は話し掛けるように、何もない宙を見つめる。
ぼくは苛立ちを抑えきれなくなった。
「主任がぼくの前でそんなことする筈ないでしょう。ぼくは幽霊とか信じませんからね。百歩譲っていたとしても、そんなの悪霊だ。主任が玲さんが前向きに生きていくのを邪魔する筈ありませんよ。」
ぼくはヤケっぱちになって、きつい口調で言い放った。
それを聞いて、初めて彼女の顔色が変った。
「悠樹にあたしたちの何が分かるの?圭介はここにいる。だからあたしも帰らない!もう出てってよ!」
涙をぽろぽろ零して、彼女は吐き出すように言うとそのまま蹲った。
これが彼女の答えか。
ぼくは立ち上がった。
悲しいけど、もはや彼女はぼくを見ていない。
死んだ主任の面影をこの部屋で必死で集めようとしている。
それが今の彼女の唯一つの生きる支えになっているのだ。
彼女がぼくを愛してくれたことは多分、嘘ではなかった。
ただ、それは主任がいつも近くにいるという条件下でのことだったんだ。
その主任がいない今、彼女は生きる基板を完全に失ってしまった。
最初からぼくでは駄目だったんだ。
「・・・分かりました。」
ぼくはそう言って彼女を残して部屋を出ると、ゆっくりドアを閉めた。