44話
あたしは夢を見ていた。
中学生だった時の夢。
実家の二階にある圭介の部屋。
あたしはドキドキしながら、そっとドアを開けて、忍び込む。
そこにはいつも同じ姿勢でギターを弾いている圭介がいる。
あたしは後ろから彼の首に巻きつき、耳の後ろに唇を寄せ、息を吹きかける。
それが合図だ。
抱えていたギターを下ろし、彼の長い腕はあたしを捕まえる。
膝の上に抱かれたあたしは、彼の色素の薄いきれいな目を見上げる。
おねだりしようと顔を近づけるあたしを、彼は笑って受け止めてくれる。
そして、彼の唇の感触、濡れた舌、服の中に入ってくる大きな手。
彼の全てをあたしは全身で感じるのだ。
「玲さん、玲さん、起きて!」
あたしを呼ぶ声に、はっと目を開けた。
一瞬、夢を現実の区別がつかなくて、部屋を見回す。
そうだ、圭介のマンションを今日は掃除して・・・。
「あれ?悠樹?」
目の前に銀縁メガネを掛けた白い顔を更に白くさせた悠樹がいた。
「今、警察から電話が入りました。高田主任が高速道路で事故に巻き込まれたみたいです。H市市民病院に搬送されたらしい。すぐに行きましょう。浜松のご両親にも連絡したほうがいいかもしれない。」
寝耳に水とはこのことだ。
あたしはまだ働いていない脳を必死で回転させ、悠樹が言ったことを理解しようとした。
圭介が事故?
病院に搬送?
あたしは慌てて立ち上がろうとした。
思いとは裏腹に力が抜けて、ソファから立ち上がれない。
「悠樹、どうして?圭介大丈夫なの?」
「きっと大丈夫ですよ!それを確かめに行くんです。体調を考えたら連れて行きたくないけど・・・あなたは行くべきだ。」
悠樹はあたしを抱き起こしてソファから起こした。
でも、足が震えて上手く立てない。
「悠樹、どうしよう。圭介に何かあったら・・・」
「しっかりして!車まで何とか歩いて下さい。後はぼくが連れて行きます。」
悠樹の力強い腕に抱えられて、あたしはよろよろと歩き出した。
◇◇◇
H市市民病院。
悠樹の車のナビで検索するとここから50分くらいだ。
昨日まで元気でドイツにいた筈なのに、帰ってきた途端、こんなに近くで事故に遭うなんて。
高速道路だって言ってた。
だったら、空港から名古屋に戻って来る時に巻き込まれたんだ。
あたしは運転に集中する悠樹の横顔を見つめた。
一言もものを言わず、彼はハンドルをきる。
いつものポーカーフェイスも今日はさすがに蒼褪めていた。
圭介じゃありませんように。
早く圭介に会いたい。
そう願う自分と、このまま着かないで欲しいと願う自分がいる。
万が一の最悪な結果を受け止められる自信があたしにはなかった。
交通量が減った夜の街を、あたしたちは無言のまま車を走らせた。
やがて、病院の看板が見えてきた。
だだっ広い駐車場に車を止めて、あたしと悠樹は病棟に向った。
救急車が救急病棟の前に横付けになっていて、白い服を着た隊員がうろうろしている。
悠樹はあたしを抱くように支えて、救急病棟のレセプションにいる看護婦さんに声を掛ける。
「連絡もらいました、高速道路の事故でこちらに搬送されている高田の家族ですが。」
看護婦さんが悠樹に応えているのを、あたしはぼんやり見つめていた。
こんなにリアリティのない現実ってあるだろうか?
さっきの夢のほうが本当なんじゃないかな?
ほら、今も夢みたいだもの。
だって圭介がこんなとこにいるなんて。
あたしは薄暗い病棟の廊下を見てぞっとした。
「玲さん、高田主任らしい人が今いるところ分かりました。」
悠樹が怖い顔であたしに言った。
「集中治療室です。そこで、医師から話を聞くようにと・・・」
「そこって・・・危篤の人が入るんじゃないの?」
「まずは行きましょう。まず確かめなくちゃ。主任だったら、玲さんが来るのを待ってる筈です。」
ああ、そうだ。
圭介だったら、あたしのこと待ってるに違いない。
行かなくちゃ。
あたしは再び悠樹の腕に支えられて、薄暗い病棟の中を歩き始めた。
ナースステーションで、看護婦さんに声をかけたらすぐに先生らしい人が飛び出してきた。
早口な先生は業務的に今の状況を説明する。
玉突き事故に巻き込まれたのは11人。
トラックが無理な追い越しをしようと最初の車に接触し横転。
追い越しレーンを走っていた後続の車4台が次々衝突。
その中に圭介も入っていた。
彼は意識不明の重体。
臓器の損傷が激しく、今夜がヤマになるだろうとのこと。
ヤマを越えても、この先移植が必要になるかもしれない・・・。
「玲さん、大丈夫ですか?」
悠樹が硬直しているあたしを悠樹が揺さぶる。
今夜がヤマ?
どういうこと?
圭介が今日で死ぬかもしれないの?
あたしは乾いた唇を必死で動かした。
「・・・圭介に、兄に合わせて下さい。」
最後のお別れだと思ってるんだろうか。
先生は黙って頷いた。
あたし達は先生の後について、ICUの中に入った。
そこで圭介は眠っていた。
薄い布団がかかった彼の体には無数のチューブが差し込まれ、肌が見えないほどに包帯で巻かれている。
酸素マスクで覆われた顔に黒っぽい血液が、まだついている。
「高田圭介さんに間違いありませんか?」
先生が後ろで問いかけるのに、あたしは黙って頷いた。
あたしはベッドに近づき、跪くと彼の耳元に顔を寄せた。
「・・・圭介。あたしだよ。」
いつもみたいに息をかけてみる。
ピクリとも反応しない圭介の体をあたしはそっと触った。
温かい。
なのにどうして起きないんだろう。
顔だってきれいなのに。
でも、なんでかな?
涙が出ない。
今、ここに寝ているのが圭介だって信じられないのかな。
もう少ししたら起きるって思ってるのかも。
やがて看護婦さんが申し訳なさそうにあたし達の前に立った。
「今夜はここで様子を見ます。お気持ちは分かりますが、外の待合室でお待ち下さい。ご家族には・・・すぐにでも連絡を取った方がいいと先生が仰ってます。」
悠樹があたしを抱き寄せ、立ち上がらせる。
「玲さん、外で待ちましょう。待つしかないです。実家の電話番号教えてください。早くしないと親御さんに・・・玲さん!」
彼の大きな声にやっとあたしは我に返った。
「だって、悠樹。変なんだもん。こんなの・・・夢みたい。」
「分かってる!だからぼくが動きます!玲さんは主任を信じて部屋の外で待ってて下さい!」
目に涙を溜めて悠樹が怒鳴った。