32話
あたしたちはマンション前の歩道にとめてあった岡崎君の車に乗り込んだ。
メタリックなワインレッドの軽自動車だ。
ドアを開けると芳香剤の香りがした。
開けるとタバコの匂いがして、座ると砂がお尻につく圭介のワンボックスとは大違いだ。
あたしが助手席に座ったのを確認して、岡崎君はドアを閉める。
完全にお姫様扱いであたしはいい気分だった。
自覚しているのだが、あたしは高飛車で横着だ。
尽くされるほどいい気になってしまう体質。
この彼と付き合いだしたら、輪をかけて何にもしない人間になってしまいそうだ。
岡崎君は運転席に乗ると、ナビで地図を検索し始めた。
「どこに行くの?」
「リクエストありますか?」
あたしたちは顔を見合わせた。
「決まってないの?」
「いえ、玲さんの意向を確認しようかと。」
なんだ、そりゃ。
あたしは考え込んだ。
「あたしのお願いは一つだけ。ピアノ弾いて欲しい。」
「ピアノですか。まだ朝だしBlueMOONはやってないですよ。それに他の客もいるから何でも弾くって訳にはいかないんです。」
「そっか・・・そうだよね。」
あたしはがっかりして肩を落とした。
しばし沈黙した後、岡崎君が口を開いた。
「いいところがあります。おいしいランチが食べれて、ピアノも弾き放題。ワインもコーヒーも輸入品を取り揃えてます。時間制限もないですよ。」
「ピアノも弾けるの?」
あたしは目を輝かせた。
「はい、そこなら手取り足取り教えてあげれます。」
「いいじゃん。どこなの、そこ?」
はしゃぐあたしを見て、岡崎君は顔を白い顔を赤らめて真剣に言った。
「ぼくの家です。今日はぼくの家にお招きするつもりで来ました。」
「あ、いいよ。あたし、出歩くのあんまり好きじゃないんだ。」
あっさりとあたしは了解した。
車は街中を通って、少し郊外まで来た。
彼は真剣な表情で前だけ見て運転に集中している。
男の人の部屋に入るのは初めてだ。
入ったということは、みだらな行為は承諾済みということになるのだろうか。
申し訳ないのだけど、今のところ彼から男性的なセクシャルなものを感じることができなかった。
フェロモンってあるんだとあたしは思う。
圭介はその方面においては天性の才能がある。
男の色気なるもの、どんな女でも身を委ねたいと思わせる何かを圭介は持っている。
一方、岡崎君は恵まれたルックスにも関わらず、女が気付かず素通りしていくタイプ。
彼とキス以上のことをすることがイメージできないのだ。
少なくとも、今の時点でのあたしの評価は低かった。
あたしがぼんやり分析している間に、車は5階建てくらいのマンションの駐車場にとまった。
圭介のマンションから30分もかからないご近所さんだ。
「玲さんのところから近いでしょう?会社を中心に通勤しやすいマンションを斡旋してもうらうから、結構この辺で会社の人間に会いますよ。」
あたしの疑問が顔に出ていたのか、岡崎君が説明した。
「岡崎君は一人暮らしなんだ。実家は?」
「岐阜です。」
「え、近いじゃん。」
「でも親元にはもう住めませんからね。社会人になってからはずっと一人暮らしですよ。」
お坊ちゃんかと思ってたのに、なかなか骨があるこというじゃない。
あたしは少し感心した。
5階の角部屋が彼の部屋だった。
どうぞどうぞと言いながら、彼はリビングに招き入れた。
リビングにはソファ、テレビ、そして電子ピアノが置いてある。
さっぱりとしながらも観葉植物が置いてあったり、ラックに入った雑誌が置いてあったり生活に潤いを感じる部屋だ。
殺伐としたあたしたちのマンションとの差は何なんだろう。
「実は今日は最初からそのつもりで念入りに掃除しておいたんです。」
岡崎君はあたしにスリッパを勧める。
あたしは置いてあった電子ピアノに近づき、そっと蓋を開けてみた。
鍵盤を指で押しても何の音もしなかった。
「電源入れないと音しないですよ。」
岡崎君は後ろから近づいて、電源を入れた。
そういうものか。
「お茶にしようと思いましたけど、先に弾きたいですか?」
あたしの背中のすぐ傍で彼の声が聴こえた。
「教えてくれるの?」
「いいですよ。座って。」
あたしは鍵盤の前に座った。
岡崎君はあたしの後ろから腕を回して鍵盤に触れる。
彼の息まで聞こえる至近距離だ。
あたしは少し胸の鼓動が速くなったのを感じた。
「ごめん、玲さん。教えるのはまた今度にしましょう。」
突然、あたしから離れて岡崎君は言った。
「えー!!何で?」
期待を裏切られて、あたしはぶーぶー文句を言う。
「今教えるのはぼくにとってマイナスになりますよ。」
「なんでよ?」
「だって、玲さんが自力で弾けるようになったら、ぼくなんか要らなくなっちゃうじゃないですか。ぼくは玲さんの専属ピアニストですからね。」
恥ずかしそうに彼は笑った。