31話
土曜日の朝、あたしは珍しく早起きしてシャワーを浴びようとバスルームに直行した。
仕事のトラブルで2週間ほど会わなかった岡崎君とデートする約束になってたからだ。
岡崎君に改めて告白されたあの日から3日後、シングルベッドが宅急便で届いた。
圭介は呆れながらも、サインをしてベッドを受け取った。
「これはオレに対する挑戦だな。」
二人で物置となっていた3LDKの一室を片付けてベッドを運び込みながら、圭介は舌打ちする。
「だって、天秤にかけていい方選べって言われたのよ。その間は圭介と一緒に寝てたらフェアじゃないでしょ?平等にジャッジしなくちゃ。」
「だったら浜松の実家に帰れよ。ここはオレの家だ。」
「やだ。お母さん、結婚しろって最近うるさいんだもん。圭介がしてくれならいいけど?」
「・・・それ言うのは反則だろ?平等にジャッジしろよ。」
「じゃ、ここにいるしかないじゃん。」
圭介はブツブツ言いながらも部屋を掃除してくれた。
それからあたし達は自然と別々に暮らすようになったのだ。
バスルームには先客がいた。
圭介がタオルを腰に巻きつけたまま歯を磨いている。
休みの日はダラダラ寝てることが多いのに珍しいことだ。
土曜日なのにどっか行くのかな?
あたしは小さな声でオハヨ~と言って、バスルームに入った。
彼がちらりと横目であたしを見たのは気が付いたけど、ここは敢えて無視。
どっかいくのか、なんて聞かれたら気まずくなるのは明白だ。
「どっか行くのか?」
バスルームから出てきた途端、脱衣所で待ち構えていた圭介がお約束どおりの尋問をする。
「圭介、お風呂を覗くのも反則だよ。エッチ!」
あたしはバスタオルを体に巻きつけてベーっと舌を出した。
「おまえね、今更・・・」
「とにかく、今はプラトニックでいなくちゃ、ね。」
あたしは脱衣所に彼を置き去りにして部屋に引っ込んだ。
髪を乾かし、お化粧して、デニムのロングワンピースを着てみる。
あとは革のブーツで決まりだ。
我ながら、30歳には見えまい。
八時半には岡崎君が車でここまで迎えに来てくれることになっている。
どこに連れて行ってくれるのか聞いてないけど、アウトドア派ではないあたしは遊園地や動物園に連れて行かれるのだけはゴメンだった。
できるなら、また彼のピアノを聴きたい。
あたしの願いはそれだけだ。
キッチンからコーヒーの香りがしてきて、空腹を覚えたあたしは部屋から出た。
ジーンズにTシャツ姿で、圭介はキッチンのテーブルに座っている。
圭介が入れたコーヒーがちょうど沸いたところだ。
あたしは自分のマグカップに熱いコーヒーを入れた。
「お兄様にも入れろ。もしくはそれ返せ。」
圭介の低い声が聴こえた。
「ごめん、時間がないの。もうでかけるから。」
「オレも出かけるんだけど。それが人のコーヒーを勝手に飲んでいい理由になると思ってんのか?」
「え、圭介も?どこ行くの?」
「おまえが言わないのに言うか、バーカ!」
「あ、バカって言った!」
「それがどうした。文句あるならコーヒー返せ。」
あたしたちはくだらないことで、くだらないケンカをよくするようになった。
ベッドが届いて部屋を分けてから、もとから生活リズムの違うあたしたちが顔を合わせることが減ってしまったのだ。
更に岡崎君との約束もあって、あたしは圭介と体の関係を持つことを断った。
すると不思議なことに、健康な兄妹の関係が構築されてきたのだ。
ケンカしながらも仲がいい普通の兄妹。
結局、あたしたちは家族なんだ。
お互い、誰と付き合い始めようとあたしたちの絆が切れることはない。
あたしは圭介と離れることに不安は感じていなかった。
その時ポケットに入っていたあたしの携帯の着信音が響いた。
着メロはショパン「幻想即興曲」。
圭介の顔に血が昇るのが分かった。
あたしは慌てて着信ボタンを押す。
電話の向こうから岡崎君のはきはきした声が聴こえた。
「玲さん、おはようございます。起きてました?」
「うん、大丈夫。今どこ?」
「もうマンションの下に車止めてますよ。降りて来れますか?」
「うん、今・・・」
最後まで話し終わらないうちに圭介の長い手が伸びて、あたしの手から携帯を奪い取った。
「あ、圭介!ダメ!」
「うるさい!おい、岡崎か?」
圭介はあたしの顔を片手で押しやって携帯に向って怒鳴った。
「あ、主任。おはようございます。」
「てめえ、上司の家の前まで来て挨拶なしで妹を連れてく気か?」
「あ、すいません。ではすぐ挨拶に伺います。」
「行き先と日程も提出しろ。」
「それは勘弁・・・」
3分も経たない内にピンポーンと玄関でチャイムが鳴った。
あたしは駆け寄ってドアを開ける。
神妙な顔をした岡崎君がそこに立っていた。
今日はアイボリーの長袖シャツにジーンズという彼にしてはラフなスタイルだ。
銀縁のメガネが逆に浮いている。
「おはようございます。主任に挨拶に伺いました。」
きょろきょろ部屋を見回して岡崎君は礼儀正しく言った。
「ごめんね。あたしがすぐに降りれば良かったかな。」
「いえ、挨拶はむしろするべきでした。あ、主任おはようございます。」
振り返ると圭介が腕を組んだ姿勢で壁にもたれて岡崎君を睨んでいる。
岡崎君は突然赤面して顔を下げた。
そういえば、この前のアレがどうやらトラウマになっているらしい、と圭介が言っていた。
会社でも圭介の顔を見て突然動揺したりしてるそうだ。
何を想像してるかは、想像に難くない。
純情な彼には刺激が強すぎたようだ。
「あの、すいません。玲さんをお借りします。」
岡崎君はペコリと頭を下げた。
圭介はやっと表情を緩めて、笑みを見せた。
「何でおまえが照れてんだよ。恥ずかしいとこ見られたのはオレなのに。」
「あ、いえ、そんなつもりは・・・」
「どこいくのか知らないけど気をつけてな。車で事故るなよ。」
「それは許可ですか?」
「そーだよ!早く行け。」
思いのほかあっさり、それだけ言うと圭介は中に引っ込んでしまった。
「許可もおりたし行こうか?」
あたしはショルダーバッグを掴んで、岡崎君の手を取った。
白い、指の長い手だ。
表情の乏しい整った顔が笑った。
「ぼくは主任も大好きですよ。多分、玲さんと同じくらいにね。」