29話
「なんでさっき助けてくれって言わなかった?言ってくれたらオレ出て行かなかったし、奈津美さんが殴られる前にあんなヤツ追い出してた。オレ、奈津美さんのこと何にも知らなくて、勝手に優しくて強い人だって思い込んでて、呑気に朝ご飯もらいに来て・・・ばかみたいだ。奈津美さんが辛いことがあるなんて全然気付かなかった・・・!」
言いながら、彼の頬に涙が伝った。
私の為に泣いてくれてる。
「ゴメン。何にもできなくて、こんな目に遭わせちゃって。」
少年のように彼は腕でゴシゴシ顔をこすって涙を拭う。
そして床に座り込んだ私の腕を取って立ち上がらせた。
向かい合って立った目の前に、まだ赤い目のままの圭介君の顔がある。
彼の大きな手が私の切れた唇に触れた。
私はどぎまぎし、慌てて俯く。
「顔、腫れてきたよ。冷やした方がいい。他に痛いとこない?」
「・・・大丈夫。ありがとう。」
「女の人殴るってありえねえ。あんなヤツもっと殴ってやれば良かった。」
圭介君の顔が再び険しくなり、歯軋りの音がした。
私の為に泣いたり、怒ったりしてくれる人がいる。
それだけで私は嬉しかった。
「いいの、もう。圭介君がいてくれて本当に助かった。ありがとう。」
心からそう言って、私は微笑んだ。
「・・・泣いていいよ。」
「え?」
低い声で圭介君は言うと、いきなり私を胸に抱きしめた。
「だから、無理して笑わなくっていいったら!今までだって辛くて、怖かったんだろ?無理に笑わなくていいよ。」
彼の胸の鼓動が押し付けられた耳に響いてくる。
堅くて、温かい胸に抱きしめられて、私は本当に泣きたくなった。
こんな風に優しくされたのは何年ぶりだろう。
何年もの間、我慢していた涙がせきを切ったように私の目がらあふれ出した。
「・・・今だけ。泣いていい?」
「いいよ。今度はオレが助けなきゃね。」
圭介君の顔がやっと緩んだ。
私は彼の胸に顔を押し付け、子供のように泣き出した。
彼の大きな手が私の背中を優しくさすってくれるのを感じる。
今までの忘れていた涙が全部流れ出すまで、長い時間彼の胸で泣き続けた。
◇◇◇
涙も枯れて、私がやっと落ち着いた時、彼のTシャツは水に浸かったかのように濡れていた。
私の大きめのTシャツに着替えさせ、私は洗面所で涙で更に腫れ上がった顔を洗った。
鏡を見上げると、後ろで腕を組んで面白そうに見ている圭介君が映っている。
「ひどい顔ですね。」
「ひどいはないでしょ。圭介君が泣いてもいいって言ったから・・・」
私はタオルで顔を抑えて恨みがましく言った。
「ねえ、顔冷やすのに海行きません?本当は今日、この前のお礼に夕食でも誘うつもりだったんだ。でもその顔だと出かけるの辛いでしょ?」
「外食なんて無理!」
「じゃ、一緒に海見ましょうよ。」
彼は王子様のような大袈裟な仕草で私に手を差し出した。
私は気恥ずかしくなりながらも、その手を取った。
浜に出ると、もう夕焼けで空がオレンジ色に染まっている。
冷たい秋の潮風が熱を持った私の顔に当たり、心地よく冷やしてくれた。
この時間になると人もまばらだ。
夏の間、波間に浮いてひしめき合っていたサーファーの姿ももう見えない。
大きな波が次々押し寄せてくる様を、私達は砂浜に並んで座って眺めていた。
「あのね。」
「はい?」
私は膝を抱えて、横に座っている彼に呼びかけた。
彼に話したい、と突然思った。
「私ね、さっきの元旦那との間に子供がいたの。彼はまだ優しくて働き者で、私は結婚してから仕事も辞めて主婦してたのよ。裕福じゃなかったけど、いつも親子三人で私達幸せだったの。」
「そう・・・」
「でもね、息子の直弥が7歳の時、私のせいで死なせてしまったの。この海で、よ。」
少しぎょっとした表情で圭介君は私を見た。
「ここで?」
「そう、ここでよ。」
私は波を見つめながら続ける。
「子供には危険だったのに、私は海を見せてあげたくて連れてきたの。ちょっと目を放した隙に彼は波に足を取られて流されてしまった。遺体が上がったのは二日後だったわ。」
硬直した表情で圭介君は私の話しに聴き入っていた。
「その二日間、私と康弘さんはこの浜を狂ったみたいに走り回って直弥を探したのよ。遺体が発見された時、康弘さんはもう廃人みたいにやつれてた。そしてそのまま本当に狂ってしまったの。」
私は膝に顔を埋めた。
口にするとあの時の光景がまざまざと思い出される。
「康弘さんはお酒を飲むようになって、会社にも行かなくなって、私を責めるように暴力を振るうようになったの。でも、全部私のせいだから、私は受け入れるつもり。直弥のことと、自分の罪を忘れない為に直哉が逝ってしまったここに住み始めた。康弘さんがお金が必要ならできる範囲で援助してきたわ。それが私なりの二人への償いなのよ。」
圭介君は無言で私を凝視している。
私は彼を見て微笑んだ。
「この前ね、圭介君が海から這い上がってきた時、私なんだか直弥が海から帰ってきたのかと思ったのよ。でもその後、共鳴したのを感じて家に連れて帰ったの。」
「共鳴?」
彼は首を傾げる。
「そう、共鳴。私は死にたい願望のある人と共鳴するの。上手く言えないけど心の声が聴こえるのよ。だから圭介君は自殺しに来た人かと思い込んじゃった。」
ああ・・・、と彼は少し納得した顔で髪をかきあげた。
「あの時、オレも頭がグチャグチャだった。なんかこの先どうやって生きていったらいいのか分かんなくなっちゃって・・・。正気のままでいられるのか自信なかった。」
「何があったの?」
今度は私が彼の顔を覗き込む。
手で髪をグシャグシャかき混ぜながら彼は唸った。
「・・・言ったら軽蔑されるかも。」
「じゃ、泣く?泣いてもいいよ。」
私が悪戯っぽく肩を抱いてやると、琥珀色の目を細めて彼は少し笑った。
「聞いてから気持ち悪いって言うなよ。」
「何それ?言わないよ。」
しばし沈黙があった後、彼は低い声で言った。
「オレね、妹とずっと寝てたんだ。肉体関係アリで。」