28話
康弘は怒りで赤黒くなった顔を歪ませた。
私の襟首を掴んで自分の前に引き寄せる。
この痩せた小さな男のどこから出てくるのか、すごい腕力だ。
私がいくら大柄でも、男の力には敵わない。
彼のアルコール臭い息がかかって、私は思わず顔を背けた。
「調子乗ってんじゃねえよ!このクソ女が、ああ?」
背けた私の顔に向って唾を吐きながら、康弘は怒鳴り散らす。
その時、私の中で何かがはじけた。
目の前の醜い顔を私は睨みつける。
調子に乗ってるのはどっちだ。
いつもの私なら黙って服従し、彼が欲望を満たすのをただ待っていただろう。
辛い時間ではあったが、終われば彼は帰ってゆくのだから。
だが、今日の私はこの男に言いようのない怒りを感じた。
血走った彼の目を、私は見返す。
「好きにすればいいわ。殺したければ殺せば?もうあなたに脅されて生きていくのはまっぴら。私は・・・」
言い終わらないうちに、彼の拳が私の左頬に命中した。
目の前に火花が散って、口の中に血の味が広がる。
「男ができたからって生意気言うようになったじゃねえか・・・」
完全にキレた康弘はそう言うと、襟首を掴んで引き寄せていた私の体を床に叩き付けた。
殴られたショックでまだ視界が定まっていなかった私は、今度は床で後頭部を強打し仰向けに倒れる。
その上に彼はまたがり、サマーセーターを乱暴に引っ剥がした。
このまま殺されるのか・・・。
私は半ば観念して目を瞑った。
その時、突然私の上で馬乗りになっていた康弘の体がフワッと浮き上がった。
薄目を開けた私の視界に、ジーンズを履いた長い二本の足が映る。
刹那、ガツッ!と鈍い音がして浮いていた康弘が吹き飛ばされた。
痩せた体は転がるように壁にぶつかった。
「おい、あんた!何やってんだ。いいかげんにしろよ!」
靴を履いたままの長い足は倒れている私の脇を通り、壁にぶつかったままの姿勢で蹲っている男に蹴りを入れる。
ひいい・・・と情けない声を発し、康弘は転がりながら逃げ惑った。
その男を圭介君は片手で胸倉を掴んで持ち上げた。
今まで私が知っている穏やかな圭介君とは別人だ。
色素の薄いきれいな瞳が、怒りと興奮で真っ赤に充血している。
端正な顔を歪ませて圭介君は低い声で唸った。
「女相手に自分が何やってんのか分かってんのか。ここで警察呼ぶのと、オレにボコられるのどっちがいい?」
胸倉を掴まれて持ち上げられた康弘は釣られた魚の様に口をパクパクさせた。
息ができず康弘の顔が紫色に変っていく。
私は必死で声を発した。
「やめて!もういい。もういいから・・・」
圭介君は横目でチラリと私を見た。
悔しそうに紫色になった男の顔を睨みつけてから、床に下ろす。
康弘は咳き込みながらその場にうずくまる。
さっきまで猛り狂っていた彼とは打って変わった弱弱しさだ。
その姿は老人のようでもあり、いじめられた小さな子供のようでもあった。
こんな男でも私のかつての夫であり、直弥の父親だったのだ。
「奈津美さんがそう言うなら・・・でも、警察呼ぼうか?」
まだ興奮して肩で息をしながら、圭介君はジーンズのポケットから携帯を取り出す。
私は首を振った。
「いいの。もういいのよ。この人は私の夫だった人なの。」
うずくまっているその男を横目で睨んで、彼は唇を噛んだ。
「・・・そんな気はしてた。でもだからって、こんなコト許せるの?」
「元はと言えば私のせいなの。私のせいでこの人は壊れてしまったんだから・・・」
半べそをかきながらまだうずくまっている康弘のズボンのベルトを掴んで、圭介君は玄関まで引きずっていった。
「おい、あんた、警察呼ばれたくなかったらこのまま帰れよ。」
低い声で圭介君が凄むと、康弘はよろよろと立ち上がり無言のまま出て行った。
外で車のエンジンがかかった後、ブロロ・・・と遠ざかる音がした。
私はやっとほっとして、その場にへたり込む。
ブラジャーだけの裸の上半身に、後ろからデニムのシャツがふわりと掛けられた。
私は急に恥ずかしさを覚え、慌ててシャツに包まった。
「血、出てるよ。病院行く?」
後ろから圭介君の低い声がする。
私は慌てて顔に手をやった。
口の中だけでなく、唇も切れている。
私は努めて明るく言った。
「大丈夫よ。でも、圭介君帰ったと思ってた。どうやって家に入ったの?」
彼は腕を組んで壁にもたれたまま、顎をしゃくってキッチンを指した。
さっき私達が並んで車を見ていた窓が、大きく開いている。
なるほど、あの窓から侵入したのか。
「あのまま帰れるわけないだろ。外まで殴った音が聞こえたよ。」
何が気に入らないのか、低い声で不機嫌そうに彼は言った。
私はヘヘ・・と作り笑いをして見せる。
「あ、そうだね。ごめん。圭介君を巻き込んじゃったな。でも、助けてくれてありが・・・」
「やめろよ!」
突然、圭介君が大声を出した。
私はビクっとして硬直する。
「無理して笑わなくていいよ。頼むから・・・」
彼の瞳が、今度は涙で潤んで真っ赤になっていた。