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ラビリンスで待ってて  作者: 南 晶
第3章 -悠樹-
32/63

22話

 彼女のマンションの前の歩道に車を乗り入れた。

 この嵐の中で歩道を歩く人も、駐禁を取り締まる警察もいないだろう。

 ドアを開けた途端、雨が顔を叩きつける。

 ぼくは車から飛び出してマンションのエントランスに飛び込んだ。

 たった5、6mの距離なのに、もうズブ濡れだ。

 眼鏡から水滴が滴ってくる。

 濡れた頭をかき乱しながら、携帯電話を取り出しコールした。

 彼女は今度はすぐに出てくれた。


「玲さん?岡崎ですが、今マンションにいます。何号室です?」

「本当に来てくれたの?」


 彼女は驚いた声を出す。


「ぼくのことで主任とモメたのなら、ぼくの責任です。来るのは当たり前です。」

「・・・ありがとう。でも圭介まだいないよ。」

「分かってます。せめて何があったのか教えて欲しいんです。外で話すなら車出しますから。」

「いいよ、入って。三階の305号」


 それだけ言うと、電話が切れた。

 ぼくはエレベーターの三階のボタンを押した。



「入って。何にもないけど。」


 ドアの前で玲さんは、ぼくがエレベーターを上がって来るのを待っていた。

 ふんわりしたチュニックに細い足によく似合うレースのついたレギンス。

 昨日の黒い切れ長の目が、泣いたせいで赤く腫れている。

 涙の似合う女性っているんだな。

 こんな時なのにぼくは冷静に別のことを考えてしまった。

 悪い癖だ。


「失礼します」


 玄関に入ると、ラベンダーの香りに混じってタバコの匂いがした。

 リビングの中はソファと小さな丸テーブル、そしてテレビがあるだけ。

 隅っこに、主任が先日の誕生日会で使ったエレキギターとアコースティックギターが並んで立ててあるのが見えた。

 きれいだけど、なんと言うか生活感のない部屋だ。

 ぼくは観察しながらソファに腰掛けた。


「濡れてるよ。」


 玲さんがタオルを手渡してくれた。

 ぼくは恐縮してそれを受け取り、まず眼鏡を拭く。


「眼鏡取った方が若く見えるね。」


 彼女はぼくの顔をまじまじと見つめながら言った。


「よく言われますが、ないと全く見えませんので。」


 全く見えなかったが、彼女の視線を痛いほど感じてぼくは赤面した。


「来てくれてありがとう。心配かけてごめんね。でも、大したことじゃないの。」


 彼女は続けて言った。


「圭介は岡崎君のこと信頼してるし、お付き合いには賛成してるよ。でも、あたしやっぱりダメなの。岡崎君と付き合うことはできません。ごめんね。」


 ぼくは眼鏡を掛けなおして彼女の顔を見た。

 少し微笑みを浮かべて彼女は優しく、そしてきっぱりと言った。


「理由を聞いてもいいですか?」


 内心は当然、失望で心が折れそうだったが、ぼくも努めて冷静な声を出す。


「あたしずっと好きな人がいるの。その人とは絶対結ばれることはないけど、やっぱり好きなの。だから他の人を好きになれない。」

「どうして、結ばれることができないのですか?まさか相手は既婚者?」


 深刻な顔で聞いたぼくを見て彼女は笑った。


「よく言われるけど、不倫じゃないよ。でも、事情があって一緒にはなれないの。」

「一緒になれない人を想っていても幸せになれないと思いますけど。想ってるだけで幸せなんですか?」


 多分、ぼくはまた余計なことを言ってしまった。

 彼女はぼくのその一言を聞くと、両手で顔を覆った。

 細い肩が震えている。

 ああ、もう・・・!

 だからぼくは会社で嫌われるんだ。

 いつも言ってから気が付く。


「玲さん、すいません。ぼくまたくだらないことを・・・」

「いいの!だって本当だもん。」


 彼女はしゃくり上げながらぼくを見上げた。


「本当は幸せじゃない。一緒にいても虚しくなるときがあるの。このままどんどん年取って、そのうち子供もできなくなるわ。あたしだって女の子だから一度くらいウェディングドレス着たいし、婚姻届け出したい。」

「だったらやっぱり、僕にしておいた方がいいですよ。子供意外と好きですから。」


 玲さんは涙を流したままキョトンとしてぼくを見た。

 僕ははまた変な事を言ってしまった?

 しばし硬直した後、彼女は吹き出した。

 声を上げて笑い転げる。

 何がおかしかったのか分からず、冷静に思い返していた。


「岡崎君、いつも本気で言っちゃうんだね。」

「はい、本気です。僕はいつ子供できてもいいですよ。」


 そこで初めて自分が言った事に気が付き、ぼくは赤面した。

 まだ交際も始まってないのに。

 気が早すぎるぞ、悠樹!


「岡崎君となら楽しい家庭になりそうなのにね。残念。」


 彼女はそう言って立ち上がった。


「笑ったらお腹減った。ピザでもとろうよ。あたし今日何にも食べてないんだ。」

「あ、僕、作ります。料理得意なんですよ。」


 ぼくも慌てて立ち上がった。

 ピアノ以外にも特典があることをアピールしておきたいところだ。


「ありがたいけど、何にもないよ。ビールとパスタくらいしか・・・」

「パスタあれば大丈夫です。台所借りますよ。」


 リビングとつながったアイランド式のキッチンに立った。

 冷凍のコーンとサラミ、乾燥パスタ、ツナ缶。

 本当に何にも入ってない冷蔵庫を見て唖然とした。

 この二人何食べて生きてるんだろう。

 ツナ缶を使った和風パスタにコーンバターとサラミのコンソメスープ。

 その周りを彼女は子猫のようにウロウロしながら観察していた。

 背の高い僕の後ろから爪先立ちで鍋を覗き込む。

 そんな姿が子供みたいでかわいらしい。


 やがてダイニングテーブルに僕の作ったパスタ定食が並んだ。

 外はもう真っ暗になっている。

 台風は勢いを増し、窓の外で木がゴウゴウ音を立てて揺さぶられていた。


「もう夕ご飯だね。」

「少し早いけど。お腹が減ったらまた夜食作ります。」


 そう言いながら、僕は彼女の反対側の席に着いた。

 きっとここは高田主任の席なんだろうな。

 彼女はパスタをおいしそうに食べ始めた。

 そのおいしい顔を見ているだけで僕は満腹になった。


 僕の作った料理を彼女が笑顔で食べる。

 こんな日常が実現したら、どんなに素晴らしいだろう。


「岡崎くんとこんな風にいられたら楽しいだろうな。」


 彼女は顔を上げると、突然言った。


「はい、ぼくもそう想ってました。」

「ごめんね。嬉しいけど、でもダメなの。」

「やっぱりぼくに替えるわけにはいきませんか?」


 僕はすがるように彼女に問いかけた。

 玲さんは思いつめた顔で黙り込んだ。

 しばし沈黙が続いた後、彼女は意を決したような顔でぼくをまっすぐ見つめた。


「岡崎君には話すね。あたし、圭介のことがずっと好きなの」




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