その17 いつか、二人で
梅雨。
開け放たれた窓から湿った匂いが部屋の中へ舞い込んでくる。
外の音がモロ聞こえだからあんまり盛大に開けておきたくはないのだが、そうしないとこのボロアパートの一室は蒸し風呂を通り越してサウナ状態になりかねない。
明日は月曜日。週明け早々数学のテストがある。
せっかくの休日だというのに、勉強を余儀なくされるとはこれいかに。
最初はどうでもよかったのだが、エクスカリバーが親切にノートをコピーし、わかりやすいよう赤で要点まで書き入れて渡してくれたから放置するワケにいかない。
一度軽く目を通すくらいにしておこうと思っていたら、これが案外わかりやすい。
エクスカリバーのヤツ、すごい才能だな。
教科書とか参考書を出版する会社に入れば出世とかできるかも知れない。
それはともかく、次々わかっていくものだから、気が付けば本格的に勉強を始めてしまっていた。
珍しく(これが雨の原因かも)カリカリやっている俺の傍で、暑さにうだったキャナがゴロゴロ。
まとわりつくような不快さがやりきれないようで、メイちゃんに再生転換してもらった服なんかそっちのけの下着姿。
彼女のそういうあられもない格好、もう慣れちまったけど。
「……ねぇ、こーちゃん」
彼女はしとしとと降り続く雨粒をぼーっと眺めていたが、つと口を開き
「人間の世界って、暑いのねぇ。あたしがこっちにきた頃は、ちょうど良かったのに」
そんなコトを言った。
俺はエクスカリバーノートに目を落としたまま
「人間の世界全部が暑いワケじゃねェよ。地球ってのは上半分と下半分で気候が真逆なんだ。だから、今この瞬間に凍えてる国もあるってこった。季節が進むと、それが逆転するんだ。半年経てば今度は寒くなる。そんな格好じゃとても過ごせないぜ?」
「へぇ。こーちゃんって、物知りなのねぇ。こうやってずっと一緒に暮らしていたら、あたしもアタマ良くなるかしら? うふふ」
何言ってやがる。
魔界人が誰も触りたがらないくらい難解な古代魔術の法則すらさらっと解析してしまうほどの頭脳の持ち主だろうに。
他愛もないハナシだから大して相手にならず、数学の問題を解くことに集中していた。
が、そこでふと湧いてきた疑問がある。
「魔界ってのは、四季の変化とかないのか?」
訊いてみると、キャナは身体全体で「ころん」と転がって俺の方を向き
「暑くなったり寒くなったりすることはないわね。雨が降ったり、風が吹いたりはするケド。それから、空もあるし海もある。でも、こっちの世界みたいに青くはないの。どよーんって、ヘンな色。だから、こっちのキレイな青色の空を見た時はすごく驚いたわぁ。――あ、でも」
俺のTシャツの裾を両手でくいくいと子供みたいに引っ張った。
「……まだ、海を見てない」
ホント、無邪気。
最初はツンツン、あるいはおどろおどろしいオーラ全開のコワいおねーさまだったのに、少しづつトゲがとれてきて、今じゃ大体こんなカンジ。
メイちゃんを飲み込もうとした魔神を追い払って以来魔界からの追っ手も来ないから、マジモードのキャナなんか久しく見ていない。
人間の年齢に合わせてみても間違いなく俺より年上なんだろうけど、とにかく甘えてくる彼女。
学校から帰ってくると
「おなか減ったー!」
とか言いながらテーブルの前でメシが出来上がるのを待ってるし、朝は朝でいつも遅起きのクセに俺が学校へ行こうとすると
「早く帰ってきてよぉ。キャナ、一人でさびしいんだからぁ」
ってじゃれついてくる。
そういうところは、なんか子犬とか子猫みたい。
ただ――カワイイよな、やっぱり。
俺、今までずっと「自分自分」でやってきたから、誰かに甘えられたコトなんてなかったし。
かと思えば、時々
「ねぇねぇこーちゃん。男のコが生まれたら、なんて名前にする?」
とか、こっちがちょっとビビるような事を平気で口走ったりするけれども。
俺はまだ法律上結婚できる歳じゃないんだけどね。
おじさんとかおばさんにも紹介してないし。二人は俺がこんなおねーさまと一つ屋根の下で暮らしているなんて、夢にも思っちゃいないだろう。知ったら、どういうリアクションをとるんだろうか。
それ以前に、魔女と結婚って……できるのか?
キャナの本籍(?)は魔界だろうし、国籍(という概念自体ないだろう)だって不明。婚姻届なんか書きようもないよな。彼女がこっちの世界で暮らそうと思ったら、一生内縁状態しかないということか。
まあ、それは今考えなくてもいい。
だけど。
もし、このまま何事もなく平穏無事に暮らしていけるとして、二年経てばそういうことにもなるかも知れないんだよな。今のところ、その可能性はきわめて高いのだが。
平穏無事に済まない要因があるとすれば、それは――魔神。
魔界に消えたあいつがどういうことになっているのかは知る由もないが、仮に魔界からこっちの世界へ転移してくるようなことでもあれば、人間世界はタダじゃ済まない。
下手すりゃ滅亡だ。
まあ、そこはキャナがコツコツ魔封陣の研究とかしてくれてるし、何とかなりそうな気がしなくもないんだけど。
願わくは、俺達の前に姿を現さないでいただきたい。
あとは魔界衆。
魔神の邪気によって精神を狂わされたメイアがある程度メチャクチャにしてしまったと聞いたが、しかし潰滅には至っていないらしい。トップにいた魔界府八術師は彼女の手によって討たれたものの、難を逃れた魔界府所属の連中が虎視眈々とキャナとメイアと狙っていることも想定される。
そうであるとすれば、戦いはまだ終わっていないということになる。
魔界の未来を左右するといわれている古代魔術、魔封陣、そして犠魂陣。
キャナやメイア、それに仲間である魔族達がこれらを上手くマスターして魔界府の暴走を抑えてくれればそれでよし、さもなくば、これからも延々と混乱が続いていく。当然、キャナに安息の時や安住の地はないという話になってきてしまう。
うーん。
まだまだ、気の休まるタイミングではないようだ。
「――こーちゃん! こーちゃんってば!」
「……あ? 何?」
いつの間にやら考え事の方に意識を持っていかれていて、勉強に身が入っていなかった。
キャナが呼ぶ声ではっと我に返った俺。
彼女はひょいと起き上がり
「雨、やっと上がったみたいよ。でも、また降るのかしら?」
窓から首を出して空を見上げるようにした。
なるほど、雨でけぶっていた遠くの景色がくっきりしている。
空一面を埋め尽くしている厚い雲のあちこちにヒビが入るようにして薄くなりかけているのが見える。
この分だと、夜までに晴れていきそうだ。
時計に目をやれば五時を少し過ぎている。
そろそろ、晩メシの支度をしなければ。テストの勉強もひと段落したことだし。エクスカリバーのおかげで、明日はそこそこいけそうな気がする。
俺はよっこらしょ、と立ち上がって冷蔵庫を開けてみた。
……見事に何もない。
これは買い物に出かける必要があるな。
「キャナ、買い物に行って来る。そんなにかからないで帰ると思うけど」
そう告げると、彼女はパッと顔を明るくして
「あ! あたしも行くぅ! たまには外を歩いてみたいの」
「ああ。じゃ、一緒に行くか」
「うん」
うさぎのようにぴょんと跳ね起きて俺の傍へ寄って来た。
「じゃ、いこいこ!」
「ちょっと待て。……出かける前に、ちゃんと服を着ろ」
ボロアパートを出てぶらぶら歩いていく俺達。
雨雲は消えていきつつある。
雲間からところどころ日が差し始め、まるでスポットライトのよう。
暗く重く湿っていた街がにわかに明るくなっていくようだ。
「魔法で空飛んでばっかだったケド、歩くのもいいわね。見えてくる景色が全然違うみたい」
雨上がりの空気を目一杯吸い込みながら、気分良さそうに言ったキャナ。
薄手の白いノースリーブにショートパンツ姿。
こうして見れば、優しそうでキレイなおねえさん。
見るものがみんな新鮮なようで、あっちへ足を向けたりこっちへ寄って行ってみたりしている。軽くはしゃいでいるみたいにも見える。
俺は彼女のペースに合わせて歩いていたが
「そこから車の通りが多くなるからな。うっかり飛び出したらひかれるぞ」
「だーいじょうぶ! 魔法でぶっ飛ばすから問題ないない!」
それはヤメましょうね。
警察のご厄介になってしまいますから。
少し行けば車道とぶつかる。
大きな川に沿ってひかれた道路。
それを横切って川べりへ降りれば、長い遊歩道がある。この前、キャナを追ってきた刺客とかちあった場所がその近くだ。
せっかくだから、そこを歩いて行くことにした。排ガスくさい歩道よりよほどいい。
今日はまさか、魔界衆の連中が現れたりすることはないだろう。
目指す商店街は西の方角。
右手に川の流れを眺めながら遊歩道を歩いて行くと、ちょうど夕陽が西の空を赤く染め上げていた。
その光が川面に降り注いでキラキラと反射し、見事に美しい。
「わあ、とってもキレイね、こーちゃん! こんな景色、魔界じゃ見られないわぁ!」
心を惹かれたらしく、キャナがぱたぱたと川の傍まで駆けて行った。
彼女のすらりとした影が、のっぺりしたアスファルトに長く伸びている。
俺はのんびりとその後を追いつつ
「……魔界にゃ、夕陽はないのか?」
「ない。気がつけば夜だし、気がつけば朝だもの。ホント、殺伐とした世界よ、あそこは。だから、いつまでも悲惨な殺し合いが続いている」
ちょっと区切って、こう続けた。
「……できることならもう、帰りたくないわ。ここでずっと、暮らしていたい」
キャナの斜め後ろに立った俺。
夕陽を浴びた彼女の横顔は、ぞっとするほど美しかった。
どこか、さびしげな陰が感じられなくもない。
そんなキャナの姿をじっと見つめながら俺は、胸の奥が唐突に切なくなった。
そう。
今の彼女はまるで――このまま消え入ってしまいそうなほどか細かったから。
本当に、本当に、いつまでも一緒にいることはできるのだろうか。
残念ながら、何の保証もない。
すごく心細い。
そう思ったら、無性に悲しい気持ちになってしまう。
せっかく二人で、こんなにも綺麗な景色を眺めているというのに。
今この瞬間だけ切り取ったようにして、時間が停まってしまえばいい。
とりとめもないことを考えながらぼんやりとキャナに見とれていると、急に彼女が振り向き
「ねぇねぇ、こーちゃん。この川って、どこまで流れているの?」
いきなりそんな質問をぶつけてきた。
「は? この川?」
「うん」
「この川は確か……下流で他の川と合流して、最終的には海に流れ着いているハズだな」
淡々と記憶の中にある事実だけを答えたつもりだったが、キャナは
「じゃあじゃあ、この川に沿ってずっと行けば、海を見ることができるのね?」
嬉しそうに言った。
まあ、そういうことになるかな。
――あ、そうか。
俺はやっと、彼女の質問の意図を知った。
「ああ、だな。キャナさっき、海を見たいって、言ってたもんな」
「そうそう! この世界の、広くて大きくて青い青い海を、ちゃんとこの目で見たいの! こーちゃんと二人で! ――見れるよね?」
「……」
なぜか、泣きそうになった。
百年間、生きることだけに必死だったキャナ。
そんな彼女のささやかな願いというのは、俺と一緒に海を見ること。
何て表現したらいいんだろう。
想像を絶するような苦労の代償が、それでいいのか?
もっともっと、誰よりも大きな幸福を得る権利があるかも知れないのに。
でも、彼女はハナからそんなものを望んじゃいない。
本当に苦難を味わってきたからこそ、ささやかなことを大きな幸福だって、感じることができる。
それを真の幸福っていうんじゃないだろうか。
キャナにとっての真の幸福が、必ず訪れますように。
――違うな。
俺が、何とかしてやらなくちゃ。
でないと、キャナは何のために生きているのかわからないじゃないか。
彼女に幸せをもたらすのが、俺の役割。
そう信じたい。
心の底から。
「……見ようぜ、キャナ。二人で、でっかくて青い海を、さ」
大きく頷いてやった。
するとキャナ、ぴったりと傍に寄り添ってきて俺の腕をしっかりと抱いた。
「キャナはぁ、こーちゃんと、ずーっと一緒に生きていくの。だから、たーくさん、何度も何度も、海見れるよ。絶対に!」
「そうだな。飽きてしまって、もう見たくないってくらい、見ようぜ」
「うん!」
それからしばらくの間、俺達は沈みゆく夕陽を眺めていた。
彼女の言う通りだ。
一緒にいようって、強く強く願うこと。
そうすればきっと、彼女を幸せにしてあげられるはず。
魂だけじゃなくて――幸せも分かち合おう。
しかし。
俺もキャナも予想だにしなかった早さで、突然そいつはやってきた。
二人にとって、最凶最悪の刺客。