飼育員たちの憂鬱
「全部駄目だった」
記録端末から視線を上げずに放たれた言葉には、長い徒労の重さがにじんでいた。
「エサの配合は変えた。寝床の素材も三度換えた。群れの規模も、ペアの組み合わせも、照明の周期も」
別の声が応える。
「ああ。俺たちは失敗したってことだ」
控えの飼育員室に並んで座る二人。
透明な仕切りの向こうには、広大な展示区画が広がっていた。
温度、湿度、紫外線量、すべてが精密に管理された空間。
青々とした植生。
清潔な水場。
一日三度、決まった時刻に供給される、栄養バランスを計算し尽くされた食物。
およそ理想的で非の打ちどころがないはずの完璧な飼育環境。
そのはずだった。
放たれている十数頭は相変わらず、活発な動きは見せない。
思い思いの場所に散らばり、互いにさほど干渉もせず、ただそこに在るだけのように。
「今期も繁殖ゼロ……10年連続だぞ?」
「園長には?」
「もう報告できない。次の評価でこの区画は閉鎖される」
しばらく沈黙が続いた。
対象個体の大きさを考慮すれば、広大というに相応しい飼育場。
その中の一頭が水場の縁に蹲り、水面を見つめる瞳もどこか虚ろに見えた。
少し離れた場所で別の一頭が横になり、脱力しきった様子で天井へと頭を向けている。
群れとしての緊張感がどこにもない。
同じ空間に十数頭いながら、それぞれが奇妙なほど完結していた。
「……なあ」
「うん?」
「アレを試してみるしかないんじゃないか?」
「っ」
思いつめた響きの声、そこに含まれた意味を理解し、問われた側に緊張が走った。
『アレ』。
およそこの業界で生きるものにとっては最大のタブー。
飼育動物の繁殖に関する、とある仮説。
「まさか……っ、お前っ!」
「ああ」
詰問めいた己の問いかけにも、応じたのは酷くあっさりとした、倦怠感に塗れた相棒の姿だった。
「飼育環境を充実させるのではなく、悪化させるなどっ。とても容認できる考えじゃない!」
「そう過敏に考えなくてもいいんじゃないか? 要するに……適度なストレスを与えろってだけの話だと思えばいい」
「それで何かが変わるという保証は? 再現性が確認されたことだってないんだろう」
「ない。何せ実験も碌に認められんような内容だからな。法的にもアウトだろう。……だが、他に残っている手があるか?」
「……」
押し黙った側の葛藤と苦悶はしばらく続いた。
およそ動物の飼育員としての職業倫理、さらには本能的な拒否感が激しく抵抗し続けた。
だが、それも座しているだけではもはや最悪の事態が避けられないという事実。
もしかしたら生活の糧を失うかもしれないという、即物的な危機感が徐々に押し流していく。
そしてこちらの顔色を窺っていた、パートナーの一言。
「なに、もちろん決定的に問題にならんように加減はするし、一切証拠を残さなきゃいい」
返事はしなかった。
だけど、否定も拒絶もやはりしない。
消極的な同意をした瞬間だった。
………
段階的に、しかし確実に新たな繁殖へのアプローチは開始され、淡々と実施されていった。
食事の供給量を削減し、時刻を不規則にした。
寝床を意図的に減らし、全頭が快適に休める数を下回らせた。
水場の一つを封鎖した。
個体たちに摩擦が生まれ、不満が増えたように見えた。
それまでみられなかった、自傷めいた行為がでてきて、時には縄張り争いめいた様子すら。
だが、それでも肝心の何かにはまだ火がつかなかった。
次に、天敵だったという生物の臭いを、換気系統を通じて断続的に流し込んだ。
もちろん、直接接触はさせない。
ただ、臭いだけを。
かつては総毛立って即座に反応したのであろうはずの。
数体が鼻をひくつかせ、立ち上がり、あたりを見回す。
どこか落ち着きがなくなったように。
しかしそれだけだった。
「怖いという感覚そのものが、すでに希薄なのかもな」
透明な仕切り越しの光景から目を離さずに放たれた言葉。
予定していた試行はもうそれですべてだった。
「ここまでにしよう」
どこかほっとしたような、敗北感めいた徒労に包まれながら、終結を宣言する。
やはりだめだったと。
これからの事を考えてこみ上げる陰鬱と、もうこれ以上無体なことをしなくていいという安堵。
だが相棒から帰ってきたのは、こちらの虚無をまるで意にかえしていないような響きの言葉だった。
「まだ手がある」
「おまえっ」
まさかと思った。
しかし、短くない時間を共にした相手の考えていることを、否応なく察してしまった。
「直接的に刺激を与えるつもりかっ!? それは……もう飼育じゃないっ」
「じゃあ何だ?」
「知るかっ! とにかく俺は認めんぞっ!」
その怒声を最後に、しばしの沈黙が落ちた。
ふぅふぅという片一方の息遣いだけが流れる。
二人の視線の向こうで、相変わらず活力を感じさせない動きでゆるゆると一頭が立ち上がり、また座った。
「十年……」
なんの前触れもなく、ぽつりと零れ落ちたような響きの声。
「ありとあらゆることをやってきた。正しい方法で、記録に残る形で、誰にも後ろ指を指されないやり方で。その結果がこれか?」
応じる言葉はない。
虚無へと吸い込まれていくような一方的な言葉の放出。
「ただ思い出させるだけだ。本来の生存とは何だったのか、生きるというのはどんなことであったのかを」
「……」
「むしろ、俺たちがこれまでやってきたことの方が。有り余るほどの餌に外敵の脅威が一切ない完璧な環境、それこそが。……本当は非道で不自然なことだったのかもしれんと、そう思わないか?」
返事はなかった。
ただ、やはり否定も拒絶もまた、そこにはなかった。
そして三週間後。
「見ろ」
ガラスの向こうにはこれまでとは全く違う光景が展開していた。
雑多な生物集団の確かな熱。
数頭が互いを気にかけ、近づき、触れ、離れ、駆け回る。
気遣うように寄り添い合ったかと思えば、別の場所では威嚇し、つかみ合い、争い始める。
その中の一組が、明らかな意志を持った動作で、互いに向き合っていた。
一方が、低く笑い始めた。
こらえようとして、できなくなったみたいなくぐもった響きだった。
「おっぱじめやがった!」
「ああ、どうやら成功したらしい」
「あんだけ恵まれた環境で平和に生かしてやってたのに。ちょっと痛めつけて虐めてやった途端、すぐに始めるとはな」
二人の視線の先では、当人たちとしては大まじめで切実なのだろう生存行為が、いよいよ本格的にはじまりつつあった。
その酷く滑稽で無様としか感じられない、特徴的な動きと反応に抑えきれないものが湧き上がり続ける。
雄も雌も必死でがんばっているらしい。
「見ろよ、あのヘコヘコした動き。なんとも言えない愛くるしさがあるじゃねえか」
「動物ってのはやはりいいもんだなぁ」
絶滅危惧種の新たな繁殖行動を確認した二人の飼育員は、多分に自己都合的な安堵も含んだ満足感に包まれた。
飼育場に大々的に設置されたプレート、かつてその生物が自らを呼んでいた名称が鈍色に光を反射していた。




