無の怪人
アブラゼミがけたたましく鳴き、無機質なオフィスビルが建ち並ぶ。
その間に走る一本の道路に、蜃気楼が立つ暑い夏の日。
道路の向こうから、ひときわ異彩を放つ人物がこちらへ歩いてきた。
ーー浮浪者だ。
茶褐色に変色したボロボロの布団を頭から被り、端の部分はずるずると引き摺っている。
シラミがわいているであろうバサバサの長い髪。
布団を被っているため、その表情は見えない。
とてつもない異臭を放ち、
「この世の存在……」
「無……」
などとブツブツと訳のわからない独り言を呟いていた。
女子高生はキャーと喚き、ベビーカーを押している母親たちは眉をひそめて足早に通り過ぎる。
しかし、実は誰もその浮浪者の顔を見たことがない。
例え覗きこんだとて、俯いた顔は布団で覆われており、深淵のように暗く、とても見えそうにない。
ただ、噂話によると、その者の顔を一度でも見た者は気が狂うと言われていた。
ある青年が、浮浪者とは反対側から歩いてきた。
眉はキリッと精悍で、鍛えぬかれたであろう筋肉が、水色のスーツの下で波打っている。
青年は生命力でみなぎっていた。
――俺は会社のエースだ!!
歩幅は広く、足どりもバネのように軽い。
この暑さにも関わらず、綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出し、汗を拭うさまも爽やかだ。
やがて、青年は浮浪者とすれ違うところまで来た。
すれ違いざま、その臭いに眉をひそめ、浮浪者の姿を一瞥したあと青年は
「ふん」
鼻で笑った。
ふと、人々がする噂話のことを思い出した。
――こいつのことか?この薄汚い野郎の?
魔がさした。
軽やかなターンで引き返し、青年は浮浪者のもとへ……。
左手で鼻をつまみながら、その顔を覆っている布団の端を右手の人さし指と親指でつかみ、パッとめくった。
青年の表情は驚きで固まった。
――――あっ!!!!!!
※※※※※※※
…………
気づいたら青年は、一面、真っ白な世界にぽつんと立っていた。
―――え?!!
動揺しながら、あたりを見渡す。
周りのオフィスビルどころか、すべてが無い。
人が消え失せている。
誰もいない。
何も無い。
床も無いはずなのだが、なぜか青年はそこに立っていた。
そして
―――無音―――
アブラゼミの鳴き声、人々の話し声、
車の音………すべて消えている。
ひたすら真っ白な上に、無音。
正確には、「白にみえる」ような透明といったところか。
――なんだ!!なんなんだ、これは!!!!
あまりの圧迫した状況に、青年はパニックになった。
過呼吸気味になった。
―――精神がやられる。まずい!!!!
悪い夢を見ているのだと、無理矢理思うことにした。
しかし、これは夢なんかではない!!
―――やめろやめろやめろやめろ!!
怖くて一歩も踏み出せなかった。
助けてくれ―――と叫ぼうとしたその時、
青年のものでは無い男性のような低い声が、脳内に響いた。
聞こえてくるのではない。
脳内に響いていることが感覚で分かった。
《 これが 》
―――なんだ?人の声?誰の?
《 この世の 真実の姿 》
―――この世の真実?
この世の真実と言ったのか?
《 形あるものは すべて幻 》
青年は、その声が先ほどの薄汚い浮浪者のものだと、なぜか思った。
大声を出して助けを求めようとしたが、
ハッと我に返った。
……いや……この声はひょっとしたら神かもしれぬ(傍点)
―――聞け聞け聞け聞け!!
一言一句漏らさずに聞け!!
先ほどの汗とは違う汗が青年の頬を伝う。
青年は、全神経を集中して聞いた。
《 この場所は 現在 》
《 誰にも認識されていない状態 》
《 いま居る者からも 》
―――いま居る者って俺か?
《 影響を受けない場所 》
しばらくの沈黙があった。
《 この世の真実を知ってしまった者は 》
《 ここにとどまり続けることも出来るし 》
《 元々、その者が居た世界に戻ることも出来る 》
《 ただし 》
《 それには条件がある 》
―――条件?条件とはなんだ?
《 元の世界に戻ると強く念ずること 》
《 しかし 》
声は続けた。
《 再構成される者は 》
《 従来の姿に戻ることは出来ないであろう 》
―――は?!!いま、なんと言った?
今までどおりの姿に戻ることは出来ないだと?!!
体がガタガタガタガタ震えた。
―――なんということだ!!!!
自信に満ち溢れた今までの俺の姿。
その姿に戻ることが出来ないだと?!!
どんな姿なんだ!!!!
どんな姿になるのだ、俺は!!!!
だが、あれこれ考える暇もなく、この空間が、物凄い勢いで精神を圧迫してきた。
「うわぁぁーー!!うわぁぁぁぁぁーー!!
発狂するーー!!」
目を瞑り、ただひたすら
「元の世界に戻してくれーー!!」
と叫んだ。
※※※※※※※
眩しい光が瞼を刺した。
耐えきれなくなり、目を開けた。
青い空と鳥のさえずり。
そして、子ども達のはしゃぐ声。
背中に鈍い痛みと、ひんやりとした硬さを感じた。
起き上がってみると、どうやら此処は公園で、木製ベンチの上に横たわっていたようだ。
「わーー!!!!臭い!!」
転がってきたボールを取りにきた子どもが、慌てて踵を返した。
後ろから付いてきた子ども達も、
キャーーー!!!!
蜘蛛の子を散らしたように散り散りになる。
自分の手を見た。
もはや今までのものではなかった。
枯れた枝のように茶色い皺々の掌、腕。
なんの感情も湧かなかった。
ベンチからずり落ちている薄汚い布団をたぐり寄せた。
それを頭から被ると、布団にすっぽりと覆われた顔は一瞬で真っ暗となり見えなくなった。
そして、布団の端の部分をずるずると引き摺り、ぶつぶつ何かを唱えながら、ひとりの浮浪者が歩き始めた。




