After Story
戴冠式を終えてから、アメリアの日々は驚くほど忙しくなった。王妃として出席しなければならない会議。各地から届く陳情書。帝国との協定に関する確認。教会再編の報告。目を通さなければならない書類は、毎日机の上へ積み上がっていった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
以前の人生では、自分の意思とは関係なく、何もかもが奪われていった。立場も、居場所も、信頼も、未来も。
今は違う。
これは、自分で選んだ場所だった。
だからこそ、アメリアは少し頑張りすぎていた。
その夜も、執務室には遅くまで明かりが灯っていた。
最後の一枚に目を通したところで、アメリアはペンを置いた。
――少しだけ。
ほんの少し目を閉じるつもりだった。
けれど、次に意識が戻った時、肩に何かが掛けられていた。
「……アメリア」
低い声がする。
重たい瞼を開けると、机の向こう側にルシアンが立っていた。前髪の奥から、青い瞳が呆れたようにこちらを見ている。
「……ルシアン?」
「またこんな時間まで仕事をしていたのか」
アメリアはぼんやりと窓へ目を向けた。外はすっかり暗くなっている。
「あと少しだったの」
「昨日もそう言っていた」
「昨日は昨日よ」
ルシアンは小さく息を吐くと、アメリアの手元に残っていた書類を取り上げた。
「返してください」
「嫌だ」
「ルシアン」
「王命だ」
アメリアは眉を寄せた。
「私も王妃なのだけれど」
「知っている。だからこそ、王妃が執務室で倒れられては困る」
「倒れてないわ。少し眠っただけ」
「机に頬をつけたまま一時間眠ることを、君は休憩と呼ぶのか?」
「……一時間?」
「一時間だ」
さすがに言い返せなかった。
ルシアンは書類を机の端へ置くと、アメリアへ手を差し出した。
「行くぞ」
「どこへ?」
「外だ」
「今から?」
「ああ」
「もう夜ですよ?」
「だからいい」
意味がわからないまま手を取られ、アメリアは半ば強引に立ち上がらされた。
結局、簡素な外套を羽織らされ、最低限の護衛だけを連れて城の裏門から外へ出ることになった。
王都の夜は、アメリアが思っていたよりも明るかった。
通りにはまだ露店が並び、酒場からは笑い声が漏れている。仕事帰りの人々が行き交い、子供が母親の手を引きながら菓子屋の前で立ち止まっていた。
城の上から見下ろすのとは違う。
ここには、一人一人の生活があった。
「こんな時間でも賑やかなのね」
「君は城に籠もりすぎだ」
「誰のせいで忙しいと思っているの?」
「私のせいではない」
「半分くらいはあなたのせいよ」
「なら半分は君の責任だな」
「どうしてそうなるの」
言い返すと、ルシアンがわずかに笑った。
アメリアはその横顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
やがて二人は、小さな焼き菓子の店の前で足を止めた。
「食べるか?」
「今?」
「夕食もろくに食べていないだろう」
「……どうして知ってるの」
「クララから聞いた」
「クララ……」
あとで言っておかなければ、と心の中で決めながらも、甘い匂いには勝てなかった。
焼きたての菓子を一つ受け取り、アメリアは一口かじる。
「おいしい」
「そうか」
「あなたも食べる?」
差し出すと、ルシアンは少し驚いたような顔をした。それから、アメリアが手に持ったままの菓子をそのまま一口かじった。
「……ちょっと」
「なんだ?」
「普通、受け取るでしょう」
「面倒だった」
「もう」
呆れながらも、アメリアは笑った。
それから二人は、特に目的もなく街を歩いた。
誰かに名前を呼ばれることもない。
王妃として微笑む必要もない。
帝国の皇女として振る舞う必要もない。
ただのアメリアとして、ルシアンの隣を歩く。
それだけのことが、ひどく久しぶりに思えた。
やがて二人は、王都を流れる川に架かる石橋の上で足を止めた。水面に街灯の明かりが揺れている。
アメリアは欄干に手を置いた。
「ねえ、ルシアン」
「ん?」
「私、ずっと怖かったの」
ルシアンがアメリアを見る。
「何が?」
アメリアは水面を見つめたまま答えた。
「幸せになったら、また全部奪われるんじゃないかって」
声に出してしまえば、ひどく子供じみた不安に思えた。
けれど、それはずっと胸の奥にあった。
一度、すべてを失った。
だから、何かを手にするたびに怖くなった。
母の愛を知っても。
リリーと向き合えても。
自分の出生を知っても。
ルシアンと未来を誓っても。
幸福が大きくなるほど、失うことが恐ろしくなった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ルシアンが言った。
「なら、奪われてもまた作ればいい」
アメリアは顔を上げた。
「……簡単に言うのね」
「簡単ではない」
ルシアンはそう言って、アメリアの手を取った。
「だが、今度は一人ではない」
強く握られる。
「何度失っても、君となら何度でも作り直せる」
アメリアは何も言えなかった。
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになって、けれど泣くのは悔しくて、代わりに少し笑った。
「……それなら、ずっと忙しくなりそうね」
「ああ」
「責任取ってくださる?」
「最初からそのつもりだ」
迷いのない返事だった。
それが可笑しくて、今度こそアメリアは声を立てて笑った。
翌朝。
カーテンを開けると、窓いっぱいに朝日が差し込んだ。淡い光が部屋を照らし、アメリアは眩しさに目を細める。
以前の人生では、明日が来ることが怖かった。
次は何を奪われるのか。
次は誰に裏切られるのか。
何を失うのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は違う。
未来は、もう奪われるものではない。
私たちが、これから作っていくものだ。
「アメリア」
背後から声がした。
振り返ると、ルシアンが扉のところに立っている。
「朝食だ」
アメリアは微笑んだ。




